ハッピーバス停さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 北陸のサービスエリアのトイレの手洗い場には「冬期はお湯がでます」と書いてあることがあります。これを見る度に、私が夏目漱石だったら「I love you」を「冬期はお湯がでます」と訳しただろうなと思います。ムール貝博士にも、自分が夏目漱石だったら「I love you」をこう訳すというものはありますか?
これはいい話です。夏目漱石になる必要は全然ないと思いますが、「I love you」を「冬期はお湯がでます」と訳すセンスはかなりシビれるものがあります。たしかに冬期のお湯には、それまで好きでもなんでもなかった人に不意打ちでトクン…とときめいてしまうようなよろこびがあるし、言い得て妙です。
そもそも「愛する」が訳語として作られた日本語だから当たり前と言えば当たり前なんだけど、普段つかわないから気恥ずかしいとか以前に、食べると言わずに食すると言うような違和感があります。間違ってはいないにしても、親しみが薄いというか、あまり言わない。お互いの立場と距離がかなり限定されたフレーズという点では「さようなら」にも近いかもしれません。
もちろん、「さようなら」は響きも美しい最高の日本語のひとつです。ただこれも実際のところ日常では言うほど使いません。使うのはむしろ「じゃあね」「それでは」「バイバイ」といった原型を留めないバリエーションのほうが圧倒的に多い。親しければなおさらです。
だとすれば「I love you」も「愛してる」だけに限らず、さようならに対するじゃあねと同じくらい原型を留めない多くのバリエーションが必要なのではないだろうか。
そういう意味では「月が綺麗ですね」にも一定の理があります。原型、留めてないですからね。
しかるに「冬期はお湯がでます」は原型を1ミリも留めていないばかりか、愛とは何かを改めて考えさせられるほどの奥行きがあります。なんとなれば「月が綺麗ですね」が相手の察してくれることを前提とした身勝手な一言であるのに対し、こちらは相手がどうあれ変わらず温もりを注いでくれる無償の印象があるからです。
そしてこの視点に立った途端、世の中のありとあらゆるフレーズがそれまで気づかなかった愛情を示しているような気がしてきます。
たとえば僕の手元には今たまたま乾燥剤の小袋があって「たべられません」と書いてあるのだけれど、じっと見つめているうちにこれもまた「あなたにたべてほしくない…なぜってそれは…」と移ろって、扇情的かつ官能的な「I love you」の訳に思われてくるのです。なんという詩情だろう!思わぬ愛の直撃にノックアウト必至です。
見渡せば他にもいろいろあるのは疑いないけれど、こうなると僕はもう乾燥剤以外のことは考えられないので、これにします。たまたま手元に乾燥剤があってよかったです。
A. 「たべられません」
ちなみにムール貝博士は「木っ端微塵さ」とか「草も生えない」とかになるとおもいます。すべてを灼き尽くして焦土と化すほど燃え上がるとかたぶん、そういうことでしょうね。
*
質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その397につづく!
0 件のコメント:
コメントを投稿