2025年1月31日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その439


トリケラ山トプ造さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は美容師です。美容室ではシャンプーするとき2回洗うお店が多いのですが、洗い終わったあと「あれ?これ1回目だっけ?いや2回目か?」と何回目か忘れてしまう事が多々あります。わからないからもう1回洗ってしまえとも思うのですが、繰り返しているうちに3回も4回も洗ってしまう事になりそうで困っています。なにかいい方法はないでしょうか?


人間、数十年も生きていると、毎日欠かさず繰り返すような動作については意識せずとも自然と体が動くようになります。意識せずとも自然と体が動くということは、ぜんぜん別のことを考えていても自動的にタスクが完了するということであり、それゆえに実際、手を動かしながらも頭ではぜんぜん別のことを考えていたりするのです。裏を返せば、だからこそ複数の作業を並行して行うマルチタスクが可能なわけですね。

かくいう僕も、毎日欠かさず朝食の用意をするついでにうちの人の昼食(おむすび)をこしらえているので、おむすびが不要な日であるにもかかわらず、ぜんぜん別のことを考えていたために気づいたら海苔とおむすびの具を用意してしまうことがちょいちょいあります。

これは日々における消費エネルギーを最小にするよう努める生物としての本能的な特性であって、たとえ時代の先端をゆく超絶クールな美容師だろうと、その例外ではありません。シャンプーの回数を忘れてしまうのも、無理からぬことです。気にする必要はありません。

とはいえ、自身のみで完結する入浴時ならともかく、客商売である以上、生物としての本能を理由に毎回シャンプーを忘れてしまうわけにもいかない、という事情もよくわかります。

一番良いのは、「1回目」とか「2回目」という紙を客の後頭部に貼っておくことです。何しろ後頭部なので、客には絶対わかりません。

別の客が帰り際にその貼り紙を目にするリスクを気にするなら、「1回目」の文字を紙の表ではなく裏に書いておけばよろしい。いくらなんでも「あれ?この紙なんだっけ?」となるほど完全に忘却することはないと思うけど、仮に完全に忘却してもめくればそこに「1回目」と書いてあります。文字以前になぜ客の頭に紙が貼ってあるのかと首を傾げる思慮深い客もいるとは思いますが、生きていればいろんなことがあります。後頭部に紙が貼ってあることもあるでしょう。流れによっては「ダジャレです」「あっ髪と紙で」「ハハハハ」「ハハハハ」といったスモールトークで場が和むこともあります。

ただし、これもまた日々における消費エネルギーを最小にするよう努める生物としての本能ですが、客の後頭部に紙が貼ってあることが当たり前になると、やがて紙が貼ってあることを意識しなくなります。常に貼ってあるのにわざわざ意識を向けることもまた、脳にとってはエネルギーの消費にあたるからです。気をつけてください。

とはいえ、人がもつさまざまな本能のうち、忘却は最も美しいもののひとつです。忘却なくして人生に花は咲きません。積極的に忘れていきましょう。客の後頭部に貼られた紙なんて、大したことじゃないですよ。


A. 客の後頭部にメモを貼り付けておきましょう。




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その440につづく!

2025年1月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その438


UFOピッチャーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 何か決める時に迷った時は、何を基準に「こっち!」って決めますか?


これはシンプルでいて、なかなか奥の深い質問です。というのも、検討を重ねた上で迷うわけだから選択肢は等価のはずですが、ある基準によってどちらかが優先されるならそれは等価でないことになるからです。哲学的ですね。

「女か虎か?」という、140年くらい前に書かれた有名な話があります。

ある国の王女と恋に落ちた身分の低い若者が、国王の逆鱗に触れて処刑を言い渡されます。ただし単なる処刑ではありません。国王は若者に2つの扉を選ばせます。ひとつの扉には虎がいて、これを選んだ場合はもちろん襲われて死亡確定です。もうひとつの扉には美女がいて、死を免れるばかりかこの美女との結婚が認められます。この美女は王女とはぜんぜん別の人です。国王の命令なので結婚しないという選択肢はありませんが、寛恕であることは確かでしょう。愛する若者の命を守るべく、王女はどちらの扉に虎がいるかをこっそり若者に伝えようとしますが、その直前にふと、ためらってしまいます。若者が美女の扉を選べばもちろん命は助かりますが、それは別の美しい女に愛する男を奪われるということでもあるからです。それならいっそ、虎を選ばせて自分も死ぬほうが愛に殉ずることになるのでは…?

最終的に王女がどちらの扉を選択したのか、その結末は描かれていません。

今の一般的な感覚で言うと、愛する人を虎に襲わせるのはムリすぎる気がするけど、重要なのは王女にとってはどちらも身を引き裂かれるほど究極の選択だった、という点です。それでなくとも熱烈に恋する人の判断は現代だって予測不能なのだから、どちらを選ぶこともあり得ます。この話が書かれた当時も読者によって侃侃諤諤の議論が交わされ、王女がどちらを選んだのか教えてほしいという要望が作者に殺到したそうです。

どちらの扉も正解と言えば言えるし、正解は存在しないとも言えるとき、少なくとも誰もが納得する完全に合理的な選択は存在しません。ここでいう完全に合理的とは、片方を選ぶだけの合理性によってもう片方の合理性が明確に否定される、という意味です。つまり、究極の選択には常にある種の不合理が包含されている、とも言えるでしょう。ここがポイントです。

究極の選択に必ず不合理が含まれているのなら、そもそも合理性などくそくらえであり、相手にする必要はありません。「女か虎か?」で言うと、僕が考える王女の最適解は「虎の扉を選ばせた上で、その虎を王女が殴り殺す」です。なんか文句あるか、と言うほかありません。

したがって何かに迷った場合は、「虎を殴り殺す王女の精神」が基準になります。彼女ならどうするだろう、ということですね。ちなみに僕の心の中にいるこの王女には、アンジェリカという名前がついています。


A. 虎を殴り殺す王女の精神が基準です。




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その439につづく!

2025年1月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その437


急がばハーレーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 最新作の言葉選びが「すでによく知っている小林大吾」を強く感じるものでした。生成AIに小林大吾的なワードセンスを盛り込んで作らせたものを起点に創作するみたいな実験でもしているのだろうかと。そこで質問です。AI小林大吾とリアル小林大吾の決定的な相違点を教えてください。


肉体ですね。(キッパリ)

しかしまあ、この場合はたぶん脳みそとの比較だとおもうので、 その前提で考えてみましょう。

現在の生成AIは天文学的な量のデータを駆使する「模倣」が主です。言ってみれば、この状況ではこう対応するという、それこそミクロからマクロまでありとあらゆる事例の学習と試行錯誤を日々とんでもないスピードで繰り返しているわけですね。今では扱えるデータ量が実質的に無尽蔵なこともあって、将来的には自我を持つようになるんじゃないかと感じてしまうほどの精度に達しつつあります。

ただ、90年代からAIを専門としてきた知り合い曰く(なんかデマの拡散時みたいな書き方だな)、AIがいずれ自意識を獲得しないとは言い切れないけれども、そのためにはまだ別のアプローチによるさらなるブレークスルーが必要なんだそうです。猫がどれだけ経験を積んでもライオンにはならないのと同じような認識なのかもしれません。

模倣の繰り返しだけでは意識には到達し得ない。

他愛のないよもやま話の一環だったので、ここまでの話の科学的な妥当性についてはひとまず置いておきましょう。とりあえず彼がシンプルにまとめてくれた話から僕個人がそう認識した、というだけです。

僕がここで言いたいのは、上記の話からふと浮かんだ、「人間の意識や精神活動が模倣に基づくものではないとなぜ言い切れるのか?」という疑問です。この疑問を実際にぶつけてみたんだけど、ウムムムと2人で唸っている間に時間切れとなってしまったため、今のところ結論は出ていません。

僕らはもちろん、日常的に自ら考え、自ら判断し、自ら行動しています。しかし生まれた瞬間から「今日はどの靴を履こうかな」とか「推しが結婚とか超ショックなんだけど」とか「高裁の判決には事実誤認があるのではないか」みたいなことを考えたりはしません。これらの思考はすべて、できたてほやほやの脳が肉体の成長と共に多様な学習を重ねた結果です。

しかしここで言う生物にとっての学習は結局のところAIの学習と本質的にはそう大差ないのではないか、という印象を、今の僕は抱いています。なんとなれば精神活動もまた、膨大な数の神経細胞同士の結びつきと電気的な信号のやりとりの集合であり、別の個体を模倣するのは明確な判断基準がある点で合理的な生存戦略でもあるからです。

そう考えると、レベルとか段階の違いはあっても決定的な不変の相違点はないようにも思えてきます。というか、仮にAIとの相違点があっても区別がつかないなら、それはないのと同じです。

と打ち遣るのも何なので、しいてひとつ挙げるとすれば新しい要素を取り込む可能性が常にあることかもしれません。たとえばエロとかグロとか、卒業をテーマにした「桜」というタイトルの詩を書くとか、原則として一人称を使わないという長年のマイルールを変更するとかです。マイルールなんだから僕にとっては任意ですが、模倣するAIにとっては規則になります。それを放棄できるのはオリジナルである僕だけです。

ただし、ほどなくしてAIも一人称を使うようになったりエロいことばっかり言うようになるのでやっぱり区別がつかなくなるし、それでなくとも「実在したんですね…」って言われたことが今までに3回くらいあることを考えると、もうAIでいいじゃないともおもいますけど。

今これを書いてるのだって、AIかもしれないですよ。


A. 本人の気が変わる可能性が常にあります。




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その438につづく!


2025年1月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その436


ほやガチャさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)200円を入れてハンドルを回すとホヤが1個出てくるガチャです。


Q. 自分の名前から漢字一文字を寄付するとしたらどの文字にしますか?


これはなかなかユニークな質問です。寄付というのがいいですね。不要な漢字では寄付ではなく処分になってしまうので、むしろ有用と思われる漢字を選ぶ必要があります。たとえば「草野」だったら、食える草をとるか走り回れる野をとるか、人によって有用の意味合いがだいぶ変わってくるはずだし、できれば一人で考えるよりみんなでワイワイ語り合いたいトピックです。

しかし残念ながら小林大吾という4文字ではあまり語れそうな余地というか楽しみがほとんどがありません。なので今回は愉快な回答というより話題の共有が主旨になりますが、せっかくなので僕の持つ漢字をバラバラに分解してみましょう。

まず真っ先に除外されるのはおそらく「吾」です。これはもう、アイデンティティみたいなことでしかないので、生まれたときからみんな例外なく持ってるものを今さら寄付したところで誰も喜ばないことは目に見えています。自分探しが流行った一昔前なら引く手数多だったかもしれませんが、もうそんな時代でもないしね。

次に除外されそうなのは「小」です。ごはんの盛り方とか機械とか顔とか、あとは舌切り雀とか、場合によっては尊ばれることもありつつ、有用度としてはかなり限定的で文字どおり小ぢんまりとした印象があります。小さいというだけで否定されるものではないにしても、何しろ僕には「大」がありますからね。大と小ではさすがにちょっと分が悪い。寄付するものならなおさらです。

そうなると残るのは「林」「大」ですが、これはどちらもまちがいなく有用です。林は立派な資源だし、大事に育てれば森にもなります。いざとなれば売ることもできることを考えれば、ひと財産と言っていいでしょう。それ自体が単独で苗字になるのもポイント高いし、パピコみたいにパキッと半分に割って、木を1本ずつシェアするのもいいですね。

しかし何と言っても「大」の圧倒的な汎用性にはかないません。具象から抽象までとにかくありとあらゆるものに付与できるし、デカいというだけで森羅万象を凌駕するものがあります。考えようによっては最強どころかチート級の漢字のひとつとして使用を禁じられてもおかしくないくらいです。

書いている僕もだんだん寄付するのが惜しくなってきました。たったの3画で書けるド級のシンプルさといい、手にしたときの握りやすさといい、武器としても殺傷力がかなり高そうな形状といい、「大」が寄付されたときの、血みどろの争奪戦が目に浮かびます。何なら死人が出るんじゃないだろうか…?

寄付する僕としても死傷者が出るような事態は本意ではありません。過ぎたるは及ばざるが如しとはまさにこのことです。したがってここは「林」にしておくべきでしょう。何と言っても平和がいちばんです。大いに活用していただきたい。


A. 「林」を寄付します。




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その437につづく!

2025年1月5日日曜日

初詣に聖地を巡礼した話


2025年です。

今年の初詣は、いろいろ考え合わせるとタイミング的には今しかないということで、聖地巡礼を兼ねて、ひざつき製菓に参詣してきたのです。


ここから聖地へとてくてく歩いてまいります。

栃木駅からも同じくらいの距離なのに数キロの新栃木駅を起点としたのは、宇都宮にある小さな山のてっぺんでジャンプするといったいくつかの野暮用があったからです。登山道に「閉山」とあったので尋ねたら「あ、登っていいですよ。きのう雪が降ったんで念のため閉めただけです。気をつけてね」と許可をいただいたのでバリケードを乗り越えて登りました。当然誰も登ってこないから貸切です。贅沢〜!


それはそれとして宇都宮駅では他所でお目にかからなかったレアアイテムを巡礼に先駆けて入手できたので、たいへん幸先のよい行程となりました。





突き刺すような冷え込みのなか、黙々と歩くうちに色濃く染まっていく美しい夕暮れを眺めながら聖地へと向かいます。周囲には誰も見当たりません。吐く息は白く、胸には自然と敬虔な気持ちが湧き出ずるようです。これを信仰と呼ばずに何と呼びましょう。


これが参道です。

ここからひたすらまっすぐ進むと本殿というかひざつき製菓なので、個人的にはこのあたりに大きな鳥居があっても良いとおもいます。


そして宿願の聖地と本殿に到着です。

そうは言ってもふつうに会社であり工場なので、神社の本殿と同じく、ここから先に立ち入ることは罷りなりません。心からの敬意を抱いて、控えめに柏手を打ち、懇ろに拝みます。どうかもっと東京に、具体的には生活範囲内の小売店に「雷光(旨塩味)」が入荷しますように!


また、工場という名の本殿に隣接して、直売店という名の社殿があります。惜しみないお賽銭はここで投じましょう。




小売店で売られている「雷光(旨塩味)」とは名前も装いも異なりますが、これは実質的に100%雷光(旨塩味)であり、実際に確認もできたので、もしどこかで見かけたら迷わず買ってください。


思い残すことはありません。年明け数日にして早くもいい1年だったと総括せざるを得ない勢いです。


工場に輝くタンクが霊験あらたかな御神体のようでした。今年もよろしくお願いします。



2024年12月31日火曜日

ジェダイが暗黒面に堕ちることの意味がよくわかったこと


さて、雷光です。雷光と言ったらもちろんスーパーウルトラエキサイティングでオーセンティックかつドラスティックなフォーリンラブ煎餅、ひざつき製菓「雷光(旨塩味)」以外にありません。


ことの発端は、見たことのない煎餅をたまたまスーパーで見かけたうちの人が買って食ったことにあります。「閃光の如く旨味が走る」というマッチョでドスの効いた惹句の通り、ひと口で閃光に舌と脳髄を貫かれてしまい、それからずっと飢えた獣のように血眼でいるのです。

もちろん、また買えばいいんだからふつうは血眼になる必要はありません。ではなぜこんなことになっているかといえば、あちこち探し回ってもなかなか見つからないからです。

最初に見かけたスーパーにいそいそと買い足しに出かけて、「広告商品だったのでもうありません」と言われたときの、奈落に突き落とされたようなうちの人の絶望を想像してみてください。あわてて思いつくかぎりのスーパーを十数店駆け巡るものの、これがまたどこにも置いていないのだから、進退極まるとはこのことです。血眼から真っ赤な涙が流れるのも無理はないし、ジェダイが暗黒面に堕ちるとしたらまさにこんなときだろうと痛感せずにはいられません。

ネットでいいじゃんとお思いでしょうが、直営のオンラインショップやその他のサイトで売られているのは1セット16袋であり、気軽に買うには多すぎます。何しろひと抱えもある段ボールでドンと届くのです。煎餅くらい、もうちょっと気楽に買いたい。

というようなことをお店でお客さんに話していたら、そばにいたうちの人がバツの悪そうな顔をして言うのです。「もう注文してしまいました…」

背に腹は代えられません。ほどなくしてうちに16袋入りの段ボールが届きます。すぐに食べ切れる量でもないので、布教のためにせっせと知人にお裾分けしていきました。アグロー案内の片割れであるタケウチカズタケもその一人です。

そして僕が先月の「アグローと夜」でこの話をし、みんなでふむふむ、そんなら一度買ってみよ、と思ったらまじで生活圏のどこにも売ってない、というわけでひと月以上が経過した今もまだドタバタと探索劇が繰り広げられているのです。

おそらく、すぐに手に入るものならとうにほとぼりも冷めていたでしょう。そしてまったく売られていないならあきらめもつくのに、じつはそうとも言い切れず、あるところにはあるらしいから困るのです。そして運よく雷光を射止めた人々はやはりもれなく閃光に貫かれていることがまた、この状況と焦燥に拍車をかけています。煎餅リテラシーのほとんどない僕ですら、あれは美味しいと本当におもうし、うちの人が煎餅ソムリエと崇める古書店仲間もびっくりして太鼓判を押すくらいなので、見かけたら即買いでまず間違いありません

僕も相当の範囲であちこち駆け巡っているつもりですが、最初に見かけたとき以来、今も実店舗では巡り会えていません。ひざつき製菓の煎餅にはちょいちょい出会うようにはなりましたが、雷光はない。ついでに言うと「城壁」もない。

ちなみに栃木のメーカーなので、栃木近郊ではわりと難なく手に入るそうです。まだそこまで広く浸透しているわけではないとも言えるけど、むしろ一部のメーカーがちょっと幅を利かせすぎなんじゃないのかとおもう。

こうしてSNSや知人、うちの人の古書店ネットワークから寄せられるわずかな手がかりを元に、一縷の望みをかけてあちこち出向いては空振りを繰り返し、あと一歩で出会えそうな、パチンコで言うとあと5000円ぶっこめば出るみたいな根拠のない期待感だけが募るまま、雷光を再び手にすることなく2024年が暮れようとしています。うちにあるのはあと2袋です。とてもじゃないけど、開封できる気がしない。

したがって、今年もいろいろあった気がするけれど、一年をひと言で表せと言われたら雷光の2文字に尽きるでしょう。いったいなぜこんな報われない恋みたいなことになっているのか、つくづく無念と言うほかありません。もう以前と同じ日々には戻れない、そんな気にさえさせられます。今の僕らにできるのはただ、ひざつき製菓の公式キャラクターのはずでありながらLINEスタンプ以外ではまったく見かけない「ひざつきボーイ」のスタンプを日々連打することだけです。おちおち年も越せません。


本来であれば今年はタケウチカズタケとのアグロー案内やその実演版である「アグローと夜」を筆頭に、ドームツアー、海外進出、チャンネル登録者数100万人突破、紅白出場、M-1連覇、テイラースウィフトから直々のオファーが来たりと、そんな夢を見て目が覚めたら朝だった話の数々を、感謝とともにあることないこと振り返っていたはずですが、今となってはそれも儚い、泡沫のようにも思われます。初めからぜんぶ泡沫でなかったとも言い切れませんが、この際それは問題ではありません。


ともあれ今年もここでこうして、また来年があることを前提に(←重要)ご挨拶ができるのも、ときどき思い出しては訪れてくれるみなさまのおかげです。アグロー案内を聴いてくれてありがとう。初日と最終日を兼ねたライブに足を運んでくれてありがとう。

何より、10年もの間アウトテイクのまま留まっていた「コード四〇四/cannot be found」のこれ以上ないほど完璧な正規リリースや、当人たちですらまったく想定していなかった「紙芝居を安全に楽しむために」のライブにおける発展形は御大タケウチカズタケの存在なくして語ることができません。とりわけ「紙芝居…」はライブでなんかできるわけないと思っていたのが、今やライブでないと意味がないくらいの域に到達しつつあります。難があるとすればそれほど需要がないことですが、考えてみたら元から需要の多い立ち位置でもないので、今さら気にすることもないでしょう。「コード四〇四」だってここまで一分の隙もなく鮮やかに披露できる日が来るとは夢にも思っていなかった。

僕にまだ少しでも追う価値があるとするなら、それはひとえに彼のおかげです。去年感じたよりもまだもうちょい先がありそうだと心から思える、それだけでもまちがいなくこの1年の甲斐はあったと断言せずにはいられません。

僕が取り返しのつかない何かをやらかさないかぎり、この道はまだ続きます。どうか引き続きもう少し、よろしくお付き合いくださいませ。

今年もありがとう!そしてよいお年を!

あとうちの人を暗黒面から連れ戻すための情報もお待ちしています。

2024年12月27日金曜日

思うところあって、書き留めておきたいこと


いろいろあって、裁判の原告側にいるのです。

ややこしい話ではありません。むしろ裁判になるのが不思議なくらい、一般的にはシンプルな話です。もちろんいきなりそんな展開になったわけではなく、最初の交渉を破棄され、次に代理人を通じて通知書(これは法的な効力を有すると同時に、交渉の意志があることを伝えるための文書です)を送付し、それもスルーされてしまったので、やむなくここに至ったという次第です。

せっかくなのでいちおう書いておくと、もし法律事務所や弁護士から通知書が内容証明郵便で送られてきたら、それは相手も本気ということなので、絶対にスルーしてはいけません。ふつうに堂々と、反論したらよろしい。個人としてはもちろん、会社の場合は社会的な信用にも関わります。今回は小さな会社が相手なので、会社としてやらかしてはいかんことをここでも重ねてしまっているわけですね。

とはいえ、ことの顛末とか是非をここで問いたいわけでは全然ありません。この件を通じてあれこれと考えさせられることがあった、という話です。差し障りがあってもいけないので具体的には書きませんが、別の例に置き換えてみましょう。

クマちゃんの粗忽な振る舞いで、ウサギくんの大事なものを壊したとします。ウサギくんはせめてクマちゃんに謝ってほしかったものの、結果としてクマちゃんは責任を認めず、謝りもしませんでした。

実際の状況とはまるっきり違うんだけど、これくらいシンプルな話である、という意味では同じです。誰がどう見たってクマちゃんが100%悪い。ウサギくんにとって大事なものならなおさらです。

ではウサギくんが裁判所に駆け込んで、「クマちゃんに大事なものを壊されたんです!」と訴えたとき、裁判官は「おお、それはひどい。クマちゃん、謝りなさい」となるだろうか?

答えはNOです。

裁判官が当事者でない以上、それが事実であることを示す証拠がないかぎり、客観的な判断ができません。この時点で提示できる明確な物的証拠は「壊れた大事なもの」だけなので、これだけで「クマちゃんひどい」とは言えないのです。したがって、クマちゃんの言い分も聞く必要があります。

クマちゃんの代理人弁護士の言い分はこうです。「粗忽な振る舞いは認めます。ウサギくんの大事なものが壊れたことも認めます。ただし、粗忽な振る舞いによって大事なものが壊れた、という点は否認します。なぜなら、大事なものが壊れたのは粗忽な振る舞いが直接の原因であると立証されていないからです」

おいおいおい、ふざけんなよ、まじでふざけんなよ!!!とウサギくんは激昂するでしょう。僕だって頭にきます。

しかし裁判ではそうはなりません。なんとなれば裁判官はお互いの言い分と証拠でしか客観的な判断が下せないからです。したがってこう言うでしょう。「なるほど、確かに一理ある。ウサギくん、クマちゃんの粗忽な振る舞いが壊れた直接の原因であると主張するなら、その根拠を示してください


めちゃめちゃシンプルな話だったはずなのに、気づいたらクソめんどくさい話になっている。ですよね?しかし実際のところ、当事者ではない第三者が客観的に判断するというのはこういうことなのだ、と今の僕は心の底から痛感しています。そしてこれこそがこの話の主旨です。

ウサギくんは裁判官の指摘に対して根拠を示すことができるかもしれないし、できないかもしれません。しかしできなかった場合、クマちゃんの主張には一定の合理性が認められることになります。要するにクマちゃんが勝訴する可能性があるわけですね。

もしこれが世間の注目を浴びるようなニュースなら、「大事なものを壊されたとしてウサギくんがクマちゃんを提訴」みたいなことになるでしょう。なぜ提訴に至ったか、その詳細も記事になっているはずです。一般市民である僕らの印象としては「ひどい!クマちゃん謝るべき!」となります。

そしてクマちゃんの勝訴です。

一般市民の僕らとしては、到底納得のいく結論ではない。

ここで注意したいのは、ウサギくん敗訴=クマちゃんが正しい、という意味ではないことです。クマちゃんに明確な責任があると断定できないことと、クマちゃんが正しいことはイコールではない。でも一般市民かつ第三者である僕らとしては、この状況でウサギくん敗訴とかあり得ない、裁判官まじ頭おかしい、弾劾しろ!という気持ちになってもおかしくありません。ここにはすべての精査と法的な観点がないかぎり埋められない、めちゃめちゃ大きなギャップがある。

僕は正直、人生観がちょっと揺さぶられました。少なくとも、新聞、テレビ、SNSで伝えられる裁判の経緯と結果をそのまま鵜呑みにはできないと考えるようになっています。第三者が客観的に判断することは一般市民である僕らが思うほど単純な話ではないと言い換えてもいい。

もちろん裁判官も同じ人間なんだからやらかすことも絶対にあるはずだし実際にときどき取り返しのつかないことをやらかしてると思うけど、少なくとも僕らが目にしているのは常に海面よりも上の氷山だけだということを、改めて肝に銘じておきたいのです。伝わってるだろうか…?


ちなみに、以上のようなたいへんニュートラルな視点を踏まえた上で、いま直面している裁判の相手(被告)は、唖然とするほど人としてあり得ないタイプです。そしてもし僕が相手方の弁護士なら、明らかに不要かつ絶対にやめてほしい、自ら不利になるようなことをガンガンやらかしています。提訴後ですらやらかしていて、向こうがガッツポーズを決める可能性はゼロです。まじで何がしたいんだろう…と常識的な人なら誰でも首を傾げるレベルなので、これについてはまあ、ふつうに忘れてください。

世の中には金を払ってでも絶対に謝らない人がいる、と代理人弁護士に言われて驚いたんだけど、それを今じわじわと実感しつつあります。

要は「客観的に正しくあってほしい」「主観的な印象に沿っていてほしい」を当たり前みたいに混同してはいけないよ、という話です。みんなも気をつけてね。