2011年12月21日水曜日

塗りたてのペンキに対するノブレス・オブリージュ




昔から貼り紙に「ペンキ塗りたて」と書いてあるものには、必ずさわることにしているのです。おぼつかなくも日々をこなして、気がついたらだいたいそういうことになっている。「炊きたてのご飯」とか「揚げたての天ぷら」と同じで、「どれ、それじゃひとついただいていくか」という気にさせられるんだとおもう。僕にとってはこれもだいじなキープレフトのひとつです。そういうことにキープレフトを使うなと言われても、その応用範囲は果てしなく広いのだからしかたがない。

すっかり乾いたあとだったらそれはやっぱり残念なきもちがするし(天ぷらが冷めているのと同じ道理です)、指にペンキがついたらついたでさわらなきゃ良かったと悔やむに決まっているから、どのみちあまりいいことはありません。かといってせっかく「塗りたてだよ!」とアピールしてくれているのに、むざむざと通りすぎる法もない。どちらかというと「お兄さんちょっと遊んでかない?」と声をかけられるのに近いかもしれないけれど、何にしてもそれをプイと袖にするのは心意気に欠けるようにも思われるし、男がすたります。ノブレス・オブリージュ(貴族の義務)とまでは言わないまでも、限りなくそれにちかい心持ちはありましょう。紳士たるもの、然るべきときに然るべき振る舞いが求められるのはごくごく当然のことです。塗りたてとあるのだから、襟を正してペタリとやりたい。

ひょっとしたらさわっちゃいけないのかもしれないけど、それは貼り紙に書いていないのでどうかわからない。叱られるのは本意でないから、そうだとするとすこし困ります。でもそれなら初めからキッパリ「さわるべからず」と書いたらいいのです。禁じられてなお強行する一休さんの専売を横取りしようとはおもわないし、ピンポンダッシュ的な冒険はそこらの稚児にまかせておけばよろしい。

そう開き直ってさわってみたらやっぱりペンキが指について、眉間にしわをよせることになるのです。貴族の義務も楽じゃないとおもう。些事から大事まで何ごともきちんと向き合おうとすれば、塩梅というかさじ加減というか、きもちの舵取りがいろいろむずかしい。


それはそうと先日は本屋でお菓子のレシピ本を物色する女子高生3人組の後ろ姿を見かけて何だかキュンとさせられました。かつては隣り合わせだったはずのあの甘やかな秘密の花園から、かくも遠ざかってしまったことをおもうとひどくかなしい。

Joni Mitchell の "Big Yellow Taxi" を口ずさみながらトボトボと家路をゆく年の瀬です。

Don't it always seem to go
That you don't know what you've got ‘til its gone
They paved paradise and put up a parking lot...


2011年12月14日水曜日

重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなものを好きだとおもわれていることについて



スペインの土産だといって、半月状の何だかよくわからないものをもらったのです。重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、しかしどうやら食料の一種ではあるらしい。まさか鈍器を土産に買ってくることはないだろうし、乾燥した無花果を押し固めたもののように見えるので、たぶん乾燥した無花果を固めたものだとおもう。でもどうして固めてあるのかよくわからない。元々は丸かったものをどうして半分に割ったのかもわからない。はじめから小さいのをつくればいいのにとおもう。

 「これ何?」と訊くと、「さァ…」と首をかしげながら「アンタこういうの好きだとおもって」と言うのです。重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなものを好きだとおもわれていることについては異議を唱えたいような気もするけれど、好意は好意だし無碍にもできません。

 ためつすがめつしていると、半分に割った断面の中心部にアーモンドらしきものがぎっしり詰まっているのが目に入ったので、「アーモンドはさまってるね」と言ったら「そうそう、だからアンタ好きそうだとおもって」としたり顔で同じことを言うのです。ふむ…たしかにアーモンドは好物のひとつです。その指摘は正しい。でも重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなものの中にアーモンドが入っているからといってどうしてそれが僕の好きなものということになるのかはよくわからない。そんならアーモンド買ってくりゃいいじゃないかとおもう。

いえ、それを言うならドライフルーツだってわりと好きなもののひとつです。一部苦手なものもあるとはいえ、全体としては好きカテゴリに入れていいとおもう。はっきりそう伝えた記憶はないけれど、彼女はたぶんそのことを知っている。アーモンドだし、ドライフルーツだし、最高じゃないですか!(@高野政所)ということなのかもしれません。その理屈でいったらまったくそのとおりです。グウの音も出ない。

でもだからといって、重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなものの中にアーモンドが入っている何かを僕が好むかどうかは別の問題です。誰の話だったか、メロンとおむすびが大好物の少年が「すごいイイことおもいついた!」と目を輝かせて、炊きたてのゴハンにメロンをのせたのをひとくち頬張ったら泣き出してしまった、というたいへん痛ましいエピソードを聞いたことがあるけれど、そういうことだってあるのです。もちろん、無花果とアーモンドの相性がわるいとは言いません。むしろお似合いのカップルです。でもそれにしてはくっつけ方にいささかムードが不足しているように見受けられるし、僕ならこんな結婚はごめんこうむります。どうせ合体するならもうすこしロマンチックにお願いしたい。

だいたい、重くて固い上に表面もゴツゴツしている岩みたいな外見からして途方に暮れます。素人目にみてもハードルが高くて攻略しづらい。目の前にドスンと置いて腕組みをしながら考えれば考えるほど、「さて、誰を殴ろう」と鈍器的な印象がつよまるばかりです。何だって乾燥した無花果とアーモンドをこんなにまでがっちり押し固めなくちゃいけないのか?徹底した省スペース設計ではあるけれど、だからどうという話でもあんまりない。どのタイミングでどうやって食えばいいんだこれは?使う道具は包丁なのか?それともノコギリなのか?


そういうわけでそれは今もテーブルの上にドスンと鎮座しているのです。


世界にはいろんな食べ物があるものだとおもう。

2011年12月8日木曜日

巨大なトロール網でごっそり浚う電気的な財宝


ほとぼりが冷めたというか、気づけば以前と同じ日々が戻ってきていたので思い出したように書くけれど、11月のある日、何の前ぶれもなくPCが黙り込んでしまったのです。なだめようが賺そうが、ウンともスンともプーとも言わない。もうすこし正確に言うと、何度揺さぶっても布団の中で「うーん」と唸りながらいつまでもグズグズしていっこうに起きないかんじです。「起きないんなら朝ゴハン先に食べちゃうからね!」と捨て台詞を吐きつつ去り際にちらりと横目で様子をうかがっても、まだ布団のなかでもぞもぞしてやっぱり「うーん」と唸っている。 しかたがないから2日くらい放っておいて、頃合いを見計らいながらあらためて起こしにいくと、相変わらずぐずぐずしていて、ちっとも快方に向かう気配がありません。要は電源を入れてもぜんぜん起動してくれないのです。(←Twitterならこの一文で話が終わります)

 窮地を脱した今となってはまた、遠い思い出をゆっくりと辿るようにして、こう振り返ることもできましょう。わたしのちいさなアトランティスは、突如として無口なる大海の底にぶくぶく沈んでしまったのだと。「ギャー!この島、沈みかけてる!」と火急を要する事態になすすべなく狂乱した一幕については、あえてここに記すまでもありますまい。

 沈んだ島を嘆いたところでせいぜいプラトンみたいに思い出を書きのこすことくらいしかできないし詮無いことですが、もんだいはそこにあった財宝(と言えなくもないもろもろの何か)です。バックアップはどうしたと至極もっともな、そしてひどく耳の痛い指摘をなさる御仁もおられましょう。しかしそもそもそんな要領の良いことなら、僕だってこんな明日の行方も定かでないような侘しい暮らしに身を置いたりなんかしていないのです。電気のお通じがわるくなっただけで無に帰すような果敢ないものを、後生大事に生きていかなくてはならないなんて、ナイーブな時代だとおもう。

 ともあれ、1/8,000,000のデータを丸ごと失った200X年の大難につづき、こつこつとたくわえた電気的な財宝(と言えなくもないもろもろの何か)はまたもやすべて、海の藻くずと消えました。日々におけるこうした危機感の致命的な欠如を、ここでは「大陸的」と長所にすり替えておきたい。

 とはいえ、海に沈んだのなら、見当たらないというだけで依然海中にあることは疑いありません。元寇の船が700年以上たった今になって海底からみつかったりするのだから、数日前に沈んだものならまだそのへんでプカプカ浮いていてもおかしくはないし、釣り糸を垂らせばかつてサーフィン中に拾い上げたエロ画像の1枚や2枚、釣り上げたってふしぎはないのです。

事態は火急を要します。沈んだ財宝をひとつひとつ釣り上げていたら100ギガに到達するまで何年かかるかわかったものではないし、やるとなったら乱獲上等で盛大に、かつ一息にやらねばなりません。そう考えて環境破壊まっしぐらの巨大なトロール網を使い、海底という海底を徹底的に浚ったところ、思いのほかごっそり掬い上げることに成功し、最終的にはほぼすべての財宝(と言えなくもないもろもろの何か)をこの手に取り戻すことができました。いやまったく、文明の利器とはこれを言うのだと、つくづく感じ入ったことです。

ハードディスク自体はもはや手の打ちようがありません。モノリスのように諦観の態ですっかり沈黙しています。となれば換装です。またそこまで済ませてしまえば、心理的に折り合いのつくところまでは以前の日々を取り戻せたことにもなりましょう。ディスプレイと一体型なものだからひどく重たいのをえっちらおっちら担ぎながら、秋葉原という名のエルサレムに向かいます。そのへんをぶらぶらしているメイドをよけたり(よく考えたらメイドなのになぜ外をぶらぶらしているのか?)、ついでにAKBカフェの様子を遠目からうかがったりしつつ、年季の入った雑居ビルのエレベーターから目的のお店によたよたとたどり着き、1日入院させることでようやくことなきをえました。

それでおもいだしたけど、 入院手続きを終える前に店員さんが「ハードディスクを交換するとファンが回りっぱなしになるかもしれませんが、よろしいですか?」と聞くのです。

「ファンというのは…」
「冷却ファンです」
「なるほど。回りっぱなしというのは?」
「HDに同期したファンは、回転数を自動的に調整するんです」
「使ってないときはそよそよ回り、使うときはブンブン回る?」
「そうです」
「はー、だからふだんは静かなんですね」
「そうなんです。でも交換でその連動を解除してしまうと…」
「回りっぱなしになる?」
「そういうことです」
「それはえーと、直すべき状態なんですか?」
「そういうわけではないですね」
「ふむふむ、じゃ使用自体に問題はない?」
「ないです、ただ…」
「ただ?」
「うるさいかもしれません」
「ふむ、そりゃ回りっぱなしですものね」
「でもそれが気にならなければ別段…」
「不具合ではない?」
「そうですね、むしろよく冷えるというか…

うちはそもそも振り子時計で年がら年中カチコチ鳴っているばかりか、1時間おきにキンコンキンコン響くような住まいだから物音にはそう頓着しません。「うるさいけどむしろよく冷える」というスサノオ並みの粗っぽさも考えようによっては好ましくおもわれます。そうおもって懇ろにお願いし、翌日ぶじに退院してきたんだけれど、いざ起動してみたらこれがまたあなた、

思わず笑ってしまうくらいブオーンと意気軒昂な音を立てるのです。元気いっぱいというか、実際うるさい。


2011年12月3日土曜日

カモノハシの体にもふれるとマズい部分がある


野暮用のためにある場所へおもむいたら、居合わせた青年が開口一番「ダイゴさんはミュージシャンなんですか?」とたずねるのです。とつぜんそんな、饅頭を口にねじこむようなことを言われては困ります。のどに詰まって言葉になりません。うなずけば鬼が笑うし、かぶりをふるのも後生がわるい。それはカモノハシに「あなたは鳥ですか?」と迫るようなものです。のびのびと天駈けるあの龍にすら、ふれるとマズい鱗が1枚あるじゃないか?

 どうせのどに詰まると決まっているのだから、こういうときのためにあらかじめゴクンと流しこめるお茶をそなえておけばいいとおもうけど、人体にとって都合の良くないものというのは、のど元をすぎれば自然と忘れるようにできているらしい。日頃から何かとおぼつかない身にはたいへんありがたい仕組みであって、だからえーと、どうにもならない。

 いずれにしても、そう問われるうちが華ではありましょう。憚る目があったわけでもないし、せっかくだから「まあね」と涼しい顔でうそぶいておけばよかったとおもう。





前作のリリースと同時に続編の告知をしておきたいという彼らのいささか前のめりな希望によって半年前にはすでにアートワークが出来上がっていた、SMRYTRPSのクラフトシリーズ第2弾「パープルギガント」がぶじ発売の運びと相成りました。今回もせっせと(また必要以上に)裏工作に励んでいます。


アートワークからもろもろのこまかいデザイン、キャッチコピーといったパッケージングはすべて前回同様一身に請け負っていますけれども、今回はそれだけではありません。

1曲目の「偉大な詩人による慎重なイントロダクション」と12曲目の「暮らしの情報バラエティー番組『たそがれロンリー』」には何食わぬ顔で僕が出演しています。というかそこに出演しているのは僕だけです。もっと言うと1曲目はウチでつくられています。12曲目の口上はそのついでに何となく録音しておいたものです。どちらもその場で思いついたタイトルを便宜上つけておいただけなんだけど、そのまま採用されてました。「パープルギガント」全体を通して曲タイトルが長いような気がするのは、ひょっとすると僕のせいかもしれません。

しかし詩人・小林大吾の正しい使い方としてこれ以上のものはない、と当の本人が力を込めてここに断言しておきましょう。これほど僕に似合うふるまいが他にあるだろうか?詩人の本領発揮というか、面目躍如というか、古川Pをして「イイ仕事してるなー」と言わしめたその無駄骨ぶりをぜひともご堪能いただきたい。われながらじつに活き活きしているとおもう。べつに詩は読んでないですけど。


(ひさしぶりのセルフボーストにたいへん満足しています)


あ、そういえばこないだコーヒーの本にちょこっと載せてもらったのでした。いま思い出した。


ここでごくごく稀にポツンと記載するアドレスからコンタクトをとってくださったということは、よほど前から注意深くご覧いただいているということです。船山さんどうもありがとう!


ごくごく稀にポツンと記載されるアドレス↓
dr.moulegmail.com(*を@に換えてね)




おまけ:「たそがれロンリー」をYouTubeで検索してみよう!


2011年11月28日月曜日

「ゆるせない」という心のありようのこと



その関係が直接的であれ間接的であれ、明らかに罪だとおもわれることが目の前にあり、しかも自分の力ではそれ以上どうにもしようがないというようなとき、「ゆるせない」と人は言うのです。

僕が年をとったから目につくだけなのか、あるいは実際にそういう例が増えているのか、それはわからないけれど、わりとしょっちゅうその一言を目にしたり耳にすることが増えました。

腹に据えかねて地団駄を踏むことは、日々においていくらでもあります。相対する罪(と思われるもの)が大きければ大きいほど、内なる感情が激しさを増すのは当然です。かく言う僕もどちらかといえば些細なことにもいちいちブーブー心のクラクションを鳴らすほうなので、不条理や理不尽に対して抗うことそのものに異論はありません。黙れば自動的にそれらを受け入れることにもなるし、健全な社会と心の平穏を保つためにも毅然たる意志表明や発散は必要です。気に食わない上役を「ハゲ」と罵って何の不都合がありましょう。本人のいないところで大いに気勢を上げたらよろしい。そういうことなら僕も拡声器で参加して盛大にブーブー合唱したい。

僕が気になっているのは、これ以上どうにもならないと思われるところで結論として導きだされる「ゆるせない」という心のありようです。ゆるすこと能わず(=不可能)と明言しているのだから、これくらい突き放した激烈な感情表現はちょっと他にない。ですよね?おまけにすべてがそこでパタンと完結しています。だからどうという連結ではなく、むしろきっぱりとした訣別表明です。天岩戸が閉じるのに似ている。

具体的な例を挙げることは憚るけれど、僕だってある種の被害を被ったら素直にゆるせる自信はありません。こんなふうに訥々と話していながら、じっさいには復讐の鬼と化す可能性も十分に…というかすごくある。しかしだからこそそんな未来のじぶんにブレーキをかけるためにも、ここできちんと考えておきたいのです。「ゆるせない」から何なのか?

それは解きほぐせば「仮にゆるしたいというきもちがあったとしても、ムリ」ということです。もう一歩踏みこんで意訳するなら「わたしの溜飲が下がらないかぎり、あなたを永劫お怨み申し上げます」という物言いに近いものがあります。言うなればネガティブな結果に対してネガティブな見解で応酬しているのです。でも、そんな不毛なやりとりってあるだろうか?控えめにみても健全とはちょっと言いがたいし、こどもたちに胸を張れるような態度でもない。仮に正義感から出た言葉だとしても、明らかに用いかたをとりちがえている。プラスに作用しないものなら、正義に何の意味がありましょう。

目には目を、歯には歯を、ネガティブにはネガティブを、憎しみには憎しみを…ぜんぶいっしょじゃないか、そりゃ平和なんか望むべくもないよな、とこどもが肩をすくめたら、僕らはダブルスタンダードを用いることなく誠実に話すことができるだろうか?

ポジティブであれ、と言いたいわけではありません。また、ネガティブなきもちを持つなということでもありません。先にも書いたように、僕だってある種の状況下にあれば自制できる自信はない。気の済むまで罵りたいし、毒づきたいし、怨むことになってもしかたないよなとおもう。ただそれを外に向かって、さも健全なことででもあるかのように発信する意味がどれほどあるのかということを問いたいのです。

そもそもゆるすゆるさないという感情的天秤に問題を乗せた時点で、焦点を罪(客観)から怨み(主観)に移し替えてしまっているとなぜ気づかないのか?もちろん、いろいろな状況からシンプルに罪を罰することができない(=どうにもならない)からこういう話になるんだけど、だからといって「じゃあ怨みつらみに焦点を切り替えましょう」というのはどう考えてもお門違いです。それはどこまでもその人の問題であって、わざわざ対外的に表明するようなことではまったくない。

決して美しいとは言いがたい感情を持ちつづけますと宣言した人に、僕らはどう向き合ったらよいのだろう?できればそういうきもちは水に流してほしいとおもうけど、流せないと言われたらそれまでだし、一方で流せないきもちもすごくよくわかるし、だとするとみんなが負のスパイラルに陥ってかなしいおもいをいつまでも抱えこむことになるだけです。いったい誰がそれを望んだのか?いつの間にこんなことになってしまったんだ?

信念をもって怒れる人は「そんなつもりはない」と言うかもしれません。そうでしょうとも、と僕もおもう。だからこそ、他にもっと言いようがありそうなものなのに、そのへんのことを考えることなく、わりと安易に「ゆるせない」と公言する大人の多さに辟易しているのです。少なくとも大真面目な顔をして言うことじゃないとおもうし、それに対して「そうですよね」とわかったような顔で頷く人には何をか言わんやです。

大きな争いのちいさなはじまりは、いつだってこういう目立たないところにさりげなく芽吹いている…とはおもわないんだろうか?スケールがあまりにも日常的で、誰も?

2011年11月22日火曜日

竪穴式住居とヴィクトリア女王の間にあるもの



ある日の午後、晴れ渡る青空の下で築100年と言われても頷ける朽ち果てた木造のボロアパートから、ものすごい美女が出てきたときの衝撃といったらないのです。

 うっかり寄りかかったらガシャガシャペタンと崩れて薪の山になりかねない老朽ぶりとはいえ、今なお現役の住宅なのだからどんな人が住んでたってよさそうなものではあるけれど、でもたとえばですよ、豪奢な衣装に身を包んだ若きヴィクトリア女王が野趣あふれる竪穴式住居からいそいそと外出するところを目撃したと想像してごらんなさい。気取りのなさを通り越した得も言われぬギャップには、ヒョウタンから馬が飛び出すよりもはるかに深く大きな感動があります。忘れることはできません。小さくなりゆく後ろ姿を眺めながら、立ちすくんで去りがたい。何だかいいものを見たような気がするし、見てはいけないものをみてしまったようなバツのわるい心地もする。こうしてゆくりなく胸に突き刺さった恋の矢が、いったい誰に引き抜けましょう?いいえ、断じて能わざることであると宣言せずにはいられません。ことによるとガラスの靴が落ちてるような気さえして、ひとしきり辺りを見渡すありさまです。このシンデレラめ!

とは言うものの、じっさいのところ僕も思春期を通過してだいぶたつそれなりの年ごろなので、ソワソワした心の始末に困ることもなく、今みた光景の一部始終をいつからか貯め始めた眼福コレクションにポイと仕舞ってスマートに片をつける祝日前夜です。明日の法事に今から気が重たい。


ちなみにミス・スパンコールが手に入れた最新の眼福コレクションは

日付が変わろうとしている夜の地下道に3人の若者(男2、女1)がいて、そのうちのひとり(男)が「ごめん、じつはオレ終電がもうすぐなんだ!」と申し訳なさそうに駆け出したとおもったら、残りのふたりも「なんだよ、早く言えよ!」と言いつついっしょになって駆け出した。

というものです。ふむ…どこにでも転がっていそうな話ですね?じっさいありふれていると言ってもよろしい。でももしこういう細かなところに眼福を見いだすことができたら、それだけで日々はちょっとだけカラフルになると僕はいつもおもうのです。


この話の要点を書き出してみましょう。

1)先に駆け出した彼はどうやらひとりだけ電車がちがうらしい
2)とつぜん駆け出したということは、それまで言い出せずにいたようだ
3)言い出せなかったというだけで何となく彼の温かい人柄がうかがえる
4)電車がちがうということは、のこりのふたりは走らなくてもいいはず
5)にもかかわらずいっしょになって駆け出している
6)何のために?
7)もちろん友情のために。
8)3人の関係性が甘酸っぱくてかわいい


ね。ちょっとだけカラフルになった気がしてくるでしょ。ニュースになるようなただひとつの例外ではなく、むしろどこにでもあって誰にでもおぼえのありそうなごくごくありふれた話だとおもえばこそです。見すごさないようにしたいとおもう。

一方ではそのために「だから何?」と日々言われつづけてるんだけど。

伝わりづらい…?


2011年11月16日水曜日

それは雨と降り山と積もる枯れ葉のように



何の変哲もない接着剤の注意書き。






値段の高いものは化学的にくっつかないらしい。





掃いても掃いても翌朝にはまた山と降り積もる秋の落ち葉のようなお色気スパムなんかに、いちいちかまってられるかとはもちろんおもいます。じぶんの庭にだけならともかく、電脳世界に郵便受けを設置すればどのみちもれなくセットでついてくるのだし、受けとる人の貴賤を区別しないその分け隔てなさといったらまるで聖母のごとしです。平等にもほどがある。

奇妙な差出人やあざとい件名の揚げ足をとっていたらそれこそキリがありません。相手にするほどヒマじゃないと言い切るほど忙しくもないけれど、どいつもこいつも同じ目に遭っていることをおもえば、ギャースカ騒ぎ立てるのも詮無いことです。口にすればその時点で杯を受けたことにもなる。知らんぷりがよろしい。誰だってそうしています。その木がいかに立派に見えようと、また「エロミク申請」ということばの甘い語感に灰色の脳細胞(@ポアロ)を刺激されようと、落ち葉はただ黙ってもくもくと掃きつづける他ないのです。

にもかかわらず、中にはもうかれこれずいぶん長いこと同じ名前で、未だに毎日必ず1通は届くものがあったりするから、こういうのはだんだん健気に思えてきて困ります。情が移るというか、「おっ今日も来たな。コイツめ」という感じで何となく憎めないようなきもちになってくる。届いたメールを開きさえしなければそうそう害もなかろうし、そうなると却って無碍にもしづらい。1週間くらい間が空いた日には、「アラやだ経子ちゃんたらご無沙汰もいいとこじゃないの!」という具合にうっかり歓迎して座敷へ招き入れかねない勢いです。バカバカしいと心得つつも払い除けきれないのだから、そんな心の弱さには申し開きもままなりません。不甲斐ないとおもう。

いったい彼女はどこからやって来て、どこへ去り行くのか?10年後には世界から完全に姿を消しているだろうか?あるいはだだっ広い電脳世界のどこかでいつまでもぷかぷかと漂いつづけるんだろうか?またなぜ差出人にその名が選ばれたのか?(偽りに満ちたスパムのこういう恣意的な部分にこそ、偽りなき心理の一片がポロリと紛れこんでいたりするのです)


あっ


(「キリがない」とじぶんで釘を刺しておきながら、その釘をみずからスポンと抜いてしまったことに顔を赤らめています)


お色気スパムのキョウコさんは軽い世間話のつもりで本題はもっと別のところにあったのに、もうバカバカバカ!


という見慣れた反省ポーズも今やちょっとした一芸の域に達しつつある今日このごろです。そばで万事OK(という名の閑古鳥)が翼でお腹を抱えるようにして笑い転げています。ええい、口おしい。