「じゃあ待ちます」
「待つって?何を?」
「あなたがいなくなるのを」
「いなくなるまでって、たとえばどのくらいの時間?」
「さあ……5分とか」
「短すぎる」
「じゃあ10分」
「時計はもってるの?」
「ないです」
「ケータイは?」
「それもここには……」
「どうやって計るの」
「べつに」と青年は肩をすくめて言った。「数でもかぞえますよ」
「それもいいけど」と真菰は言った。「1分後に気が変わったらどうするの」
「べつに変えないですよ」
「そうかもね。でも」と言って真菰はしばらく間を置いた。そしてやにわにこうつづけた。「ねえ、男は浮気する生き物だって知ってた?」
青年は答えなかった。一本道を走っているとおもったらいきなり麦畑にハンドルを切って「こっちでいい?」と訊かれたようなものだ。答えられるはずがなかった。
「ほんとだよ。モデルプレスで読んだもの。それこそ鳥が飛ぶのと同じくらい、自然で仕方のないことだって」
そこへ新しい客が何の連絡もなくやってきて、真菰の目の前を行き過ぎた。気品あふれる白い何かがするするとすべるように、青年の背後を横切っていく。どう見たって鳥なのに、ああ鳥だとおもうまでにしばらく時間がかかった。ふたたび置かれた間の理由を示すように、真菰は空の客を指さした。
青年は何も言わなかった。言わなかったが、真菰の指さす方向には顔を向けた。ふたりが立つよりもすこし高い空を、コサギが紙飛行機のように飛んでいる。まっすぐに伸びた2本の脚は黒檀のようで、先だけが黄色い。真菰は遠ざかるその鮮やかなコントラストを目で追いながらつづけた。「何それってかんじだけど、これ見方によっては、ていうか男からしたらちょっとちがって聞こえるんじゃない?ちがう?」
青年は答えなかった。まったく関連のないふたつの事柄を同時に考えるのは誰だってむずかしい。彼もまた風にのるうつくしい鷺から、目を離さずにいた。
「だって鳥が飛ぶみたいに男が浮気をするんだとしたら、同時に2人か、なんならそれ以上と関係する機会がすくなくとも一生に一度は巡ってくるってことでしょ。もう巡ってきた?」
青年は答えなかった。
「もしまだなら」と真菰は言った。「死ぬには早いって気がしない?」
青年は吹き出した。頬をゆるませ、それから声を上げて笑い出した。
虚を衝くような反応に、真菰はすこしむっとした。不格好な着地をしたとはおもったが、腹の皮がよじれるような話をしたおぼえはない。そもそも本当にこんなことを言いたかったのかどうか、ただ張りつめた糸がいいかげん鬱陶しくて、いっそはさみでチョキンとやるべきかやらざるべきか、迷いながら気がついたらなんとなく口をついていた。
青年は申し訳程度の高さがある屋上の縁から下りてそこに尻をつき、椅子に座るような格好で裸足のまま靴の片方を手に取った。「何なんだ、いったい」
「こっちが聞きたいよ、そんなの」
「あ、さっきの」
「何?鳥?どこ?」真菰はあたりを見回した。
「後ろです。アンテナの上。扉の上の」
振り向くとコサギはいつの間にか旋回して塔屋のアンテナにすらりと降り立ち、黒く長い嘴を背中のあたりに埋めていた。「同じ靴履いてる」と真菰が言い、「さっきの話」と青年が言った。真菰はもういちど振り返って、青年を見た。
「ごめん、何?」
「1人目になってくれるんですか」
「ひとりめ?1人目って……ああ」そうきたか、と真菰はおもった。「それはむり」
「なんだ」と青年は言った。「せっかく履く気になったのに」
「履きなよ、もう。可愛いのにもったいないよ」
「靴が?」
「もちろん靴が」
「鳥とおそろいだし」
「履かないんならくれてもいいよ」
「そうですね」と言って青年は靴を手にしたまま、ぷらぷらともてあそんだ。
「冗談だってば。いいでしょ、もう。あ、待って待って。わかった。じゃあこうしよう」
「なんですか」
「2人目ならどう?」
「ふたりめ?」
「彼女ができるとか、結婚するとか、ま、どっちでもいいけど、そのとき」
「予約だ」と青年は笑った。「それ、浮気になるかな」
「わかんないけど。問題なくない?」
「全然」
「じゃあ交渉成立。靴、履いて」
言われたとおり、青年は掴んでいたスニーカーを下ろし、てきぱきと履いた。靴ひもを手際よくしばり、立ち上がって具合をたしかめた。細身のデニムにしっくりとなじんで、よく似合っていた。
「どっちが先に降りますか」
「そっちに決まってるでしょ。わたしまだひとりになってないし」
「そうでした。じゃあ、お先に」
「またここでね」
「またここで」青年はそう言ってすたすたと振り向くことなく、後ろ手に扉を閉めて去っていった。
二度とくるか、と真菰はおもった。先客の可能性があるとわかっているのに来る理由なんかどこにもない。そして考えてみた。彼はまたここにくるだろうか?去り際の様子を思い返せば、彼も二度とこない気がする。あるいはしばらくそのつもりがなくても、1人目ができたらのこのことやってくるかもしれない。万事に都合よく受け止めて行動する奴はどこにでもいるものだ。
知ったことか、と真菰はおもった。もう金輪際、関係ない。それにそのとき1人目がいるなら、反故にしたところでどのみち飛び下りる理由は失せているだろう。
コサギはまだアンテナの上にいたが、やがて何か思い立ったように翼をばたつかせ、ふたたび青く澄んだ大空に飛びこんでその身をゆだねた。フィンみたいな脚の黄色が、日差しの加減で目に濃く映る。飛ぶというよりは浮くようにして、浮くというよりは泳ぐようにして、呼ばれざるオブザーバーは水なき水中を運ばれていった。そうして白く可憐なシルエットが点になるまで見送ると、真菰も踵を返して扉に向かい、ぱたんとやさしく後ろ手に閉めた。
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