2007年9月28日金曜日
エレガントにサボろう
こう言っては何だけれど、僕はきれいなウソをつくことに日頃からけっこうな労力を注いでいます。これは仕事とか、しちめんどくさいあれこれをいかにエレガントにサボるか、という積年の研究と密接に結びついており、そのくせいまだ大したメソッドも得られない永遠のテーマのひとつです。
だって働きたくないのだ。
でもそう声を大にして言ってしまうと、一応社会的には大人扱いされているので(しかもわりといい年だ)誰も口をきいてくれなくなったり、ゴハンが食べられなくなったりといろいろ厄介な波紋を広げてしまいかねない。世知辛いですね。
きれいなウソというのは、劇的ではなく、かつ周囲の同情をひき、それでいてじぶんが考えてたのしいものであることが必須条件です。劇的ではない、というのは「自然に」とはちがって、多少の事件性を帯びていなければいけません。仮病はいざ実際に病気になったとき、オオカミ少年みたくかなしい結末を迎えることが容易に想像できるので、なるべく避けたい。具体的な例をあげると、たとえば「トイレがあふれた」とかそういうことです。ありうる。それから周囲の同情をひく、というのは、「この件に関してはあまりふれてほしくないのだ」という雰囲気をさりげなく漂わせておくことで、わりとすぐに過去の出来事にしてもらえる効果があります。あと、じぶんが考えてたのしくないと、うしろめたさが精神的な負担としてのしかかってくるのです。ガッデム。せっかくすっぽかすのなら、きもちよくすっぽかさなければ意味なんてない。
だいたいウソはいつだってディテールがたのしい。トイレがあふれて業者を呼ぶ、という設定なら業者のひどい対応とか、あふれた水はどうなってしまったのかとか、アパートの他の階の状況だとか、202号室は空室のはずなのにときどき声が聞こえるとか、あの部屋だけ何年も空室になってるのはなぜかとか、管理人が急激に小太りになっちゃってアラどうしたんですかとか芋づる式に出来上がるストーリーがたのしくなくて何が人生だ!
そうして必要以上に積み重ねられた設定が緻密であればあるほど、のちのち不意にポロッとボールを投げられてもカキンときれいに打ち返すことができるのです。きれいというのは、そういうこと。
ぜんぶバレてる?それもありうる。でもしかたないな。
だって働きたくないのだ。
他にどうしたらいいっていうんだ?
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