2015年1月26日月曜日
大丈夫はいかにしてノーサンキューへと移ろいゆくか
古書店が古本の買取をして、査定金額を提示したらお客さんに「あ、じゃ大丈夫です」と言われて戸惑った、というのです。そんな返し方されたら僕もちょっと戸惑うだろうとおもう。何しろ提案に対して承諾するのか拒否するのかが判然としないし、僕が店員だったら「何がだこのすっとこどっこい」と率直な印象が口をついて出てもおかしくありません。
「で、どっちだったとおもう?」
「承諾か拒否かってこと?」
「そう」
「うーん……7:3で承諾」
「そうおもう?」
「うん」
「ところが拒否だったんだ」
辞書を引けば「大丈夫」の項には、「しっかりしているさま、たしかであること」とあります。厳密に言えば本来は「人が肉体的、心理的に揺るぎない状態を保っていること」を意味していたのですね。
現在の僕らはこれをざっくり「OK」もしくは「問題ない」という意味に捉えて、もうすこしゆるやかに適用しています。
「先帰っちゃうけど、いい?」
「大丈夫です」
という具合です。おそらくここまでは誰にとっても違和感はありますまい。しかし「問題ない」という受け止め方は一見すると本来の意味と大差ないように見受けられますが、実際にはそれよりもはるかに高い汎用性を持っています。何となれば「問題がないかどうかの確認」にも適用されてしまうからです。わかりづらいとおもうので一例を挙げましょう。たとえば美容院のシャンプー台でこう訊かれたとします。
「お湯加減はいかがですか?」
「大丈夫です」
ここではもちろん、「問題ない」という意味で「大丈夫」と答えています。このやりとりにも不自然な印象はありません。ところがこれが普通になってくると、今度は逆に「問題がないこと」を確認するケースが出てきます。すなわち……
「お湯加減は大丈夫ですか?」
元の意味からだいぶ離れてきましたね。言葉の用法に敏感な人や年配の方が違和感を覚えるとしたらおそらくここです。しかしこれくらいで怯んでいてはいけません。転がり始めた言葉の意味はさらにコロコロと加速していくのです。
「問題ない」という受け止め方はまた、時として「気遣いは無用である」というそこはかとない謝意を含むことがあります。たとえばこう。
「一人で平気?」
「大丈夫です」
ところが両方の意味を兼ねている場合はまだよいのですが、水の低きに就くが如しというか、当然予想される自然のなりゆきとして、単純に「気遣い無用」のみへと転じるケースが生じます。
「手伝ってあげるよ」
「大丈夫です」
また、「気遣い無用」は謝意と遠慮がオブラートの役割を果たしていますが、遠慮である以上それは同時に辞意でもあり、したがって実際には「その必要はない」というストレートな否定を含んでいます。ここがまた大きな分岐点です。
その行き着く先が「結構です」や「ノーサンキュー」であることはもちろん、言うまでもありません。「問題ない」から始まったことを考えると、ずいぶん遠くまできたようにおもわれます。そして冒頭のやりとりは、ここにふくまれる「辞意」をアクロバティックに適用した結果であると言ってよいでしょう。アクロバティックというのはこれが「好意に対する辞退」ではなく「自らの要求に対する辞退」だからです。
「大丈夫」の変遷を1行にまとめるとこうなります。
「問題ない」→「気遣い無用」→「必要ない」→「ノーサンキュー」
ひとつのシチュエーションですべて再現してみましょう。えーとそうですね、じゃあダイゴくんが交差点で車にドカンとはねられたと想像してみてください。雑巾のように投げ出されたダイゴくんに誰かが駆け寄って声をかけます。
「ケガはない?」
「大丈夫です」→訳:問題ありません
「救急車呼ぼうか?」
「大丈夫です」→訳:体には問題ないのでお気遣いは無用です
「記念写真撮っとく?」
「大丈夫です」→訳:必要ありません
「じゃ気がまぎれる歌でも歌おうか?」
「大丈夫です」→訳:ノーサンキュー
僕が言いたいのは、言葉の移り変わりとはことほどさようにナチュラルなものである、ということです。乱用だとは全然おもわない。そう言って嘆く人もいるし、慣れない使い方に戸惑うきもちもわからないではないけれど、そうなるにはそうなるだけの理由があります。すくなくとも脈絡のない用法が広まることはありません。
変わりゆく言葉への戸惑いはいつの時代にも見られます。100年前の新聞の投書欄にもそんな相談が載っているくらいです。
しかしどう転んでもおかしくない高い柔軟性と可塑性を、そもそもの初めから言葉自体が備えています。言葉とはそういうものです。心がけや考え方が言葉の意味を曲げるのではありません。檻に鍵をかけて閉じこめておけるような類のものではない以上、なぜ逃がしたと騒ぎ立てるのはとんだ筋違いであると、やはり言わねばなりますまい。
では冒頭のやりとりに戻って僕がお店の立場だったらどう対応するかと言えば、やっぱり「何がだこのすっとこどっこい」とどやしつけることになるとおもいます。言葉が常にアップデートされるのはわかるけど、頭のOSがみんな最新だとおもったら大間違いだ。おとといきやがれ!
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3 件のコメント:
古本屋の出来事だとすると、私は、古本屋で本を売るときに査定額が自分の評価額よりも低いときに何とも言えないショックを受けたことがあります。そのショックのなかで現実と折り合いをつけるための「大丈夫です」の言葉のようにも聞こえてきます。本文とは関係ありませんが、低い査定にビックリしてうろたえてしまった自分を思い出してしまいました。
大丈夫って大→丈→夫みたいに「大」から「夫」に変身する一連の流れみたいですよね
> minbuさん
なるほど、気を確かに持つための
「大丈夫」というわけですね。
それならむしろぴったりです。
しかしまあ、古書にかぎらず
何かを買取に出すとしたら
皮算用をしないのがいちばんですよ。
> ソノトーリさん
ホントだ!
ずっと見てたら仮面ライダーのポーズに見えてきました。
とくに「丈」が。
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