腐乱したラジオさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 出来事を鵜呑みにしないで立ち止まるために、どんな考え方をしてますか?
よい質問です。立ち止まることを意識している時点でまず問題はなさそうですが、いかに立ち止まるかというのは人生の、とりわけ後半においてはより大きな意味を持ってくることのひとつだと僕もおもいます。
かく言う僕も今に至るまでありとあらゆる事柄に対して、たぶんこれは本当だろうな、というフワッとした認識のまま歩み続けています。と言ってもすべてを疑ってかかっているわけではもちろんなくて、例えばいま僕は多くの人と同じように「地球は丸い」と認識しているけれども、仮に実は皿みたいに平らだったという新事実が目の前で叩きつけられたとしても、そこに説得力があればそれを受け入れられるくらいの心持ちでいたい、ということですね。
僕は昔から科学に対して好感を持ち、常に一定の信頼を置いています。と同時にそれはいつでも説得力の問題でしかない、という認識も抱いています。
ひとつ具体的な例を挙げるなら、既視感(デジャヴ)は実際に予知しているのではなく、数多の経験が脳内で無意識に組み合わさってたまたまそう感じるだけということになっていますが、実際にそうであることを誰かが証明したわけではありません。予知など不可能なはずだから、おそらくそういうことだろうと科学的な観点で解釈しているだけです。他に説明がつかないからと言って、実際に予知であった可能性がゼロになるわけではまったくない。ですよね?
科学的である、というのは少なくとも現時点でほぼほぼ説明がつくということにすぎません。実際、どうしても説明がつかない事象もまだ現実世界には山ほどあります。
何もかもすべてが明らかになってほしいとは微塵もおもっていないし、何なら不可知や不思議はそのままそっとしておいてほしいし、不思議だ!といつでも驚き続けたい僕にとって、それは大きな希望のひとつです。個人的には「それはこういうことで、不思議なことなんて何もないさ」とあしらわれることほど忌々しいことはありません。たかだか数十年生きたくらいでこの広い宇宙をわかった気になってんじゃねえよといつもおもう。
多くの人に現時点で事実と認定されている科学的な結論においてさえ、そうではないかもしれないと留保の余地を残している以上、日々報道されるニュースなんかは当然、はるかに浮動的です。これもまた一部の人々のようにマスコミなんか信用に値しないと単純に断じたいわけではなく、どれだけ客観的であろうと努めても、そこには視点が確実に存在すると受け止めています。ドキュメンタリーが100%客観的ではあり得ないこととも通じてきますね。
自戒を込めて言いますが、人はそうあってほしいことを現実として易々と受け入れがちです。多くの人が当然と受け止めるような状況にこそ、あるいはそうではないかもしれないという視点を忘れないように、僕自身は心がけています。マスゲームのようにみんなが揃って同じ方向を向くことを、是とはできれば言いたくない。その姿勢を天邪鬼と謗る人もいるでしょうが、絶対的に正しいものがあると考えるその姿勢だけ抜き出すなら陰謀論に染まる人々と何ら違いはありません。ではその差はどこにあるかと言ったら説得力の質と量くらいしかないのです。
したがって僕の結論としては、どれだけ確かにおもえる話であっても、認識としては7割くらいでとどめておく、ということになります。常にそうではない余地を残しておくというか、何なら幽霊とか、未知の怪物とか、予言とかテレポーテーションとか、現時点では非現実的と退けられてしまうあれこれのための余地を3割残しておく、ということです。
A. そうではないことのための余地を常に3割くらい残しています。
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その365につづく!
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