うるめいわしのサブリナさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 脳みその代わりに入れるとしたら、何を頭の中に入れたいですか?ちなみに私は硬めのプリンを入れたいです。
プリンはよいですね。夢があります。頭を冷やせと言われたら、プリンを冷やせばいいわけですからね。冷蔵庫に冷えたプリンがあることほど夢のあることはないし、プリンが生温いのなら冷やせと言われるのも当たり前であると申せましょう。
しかしそもそも、と僕はおもうのです。僕らのこの頭蓋骨のなかに、本当にプリンは入っていないんだろうか?
一般的には、そして常識的にはプリンではなく脳みそが入っていることになっています。味噌なら味噌でそれは別にいいと基本的には僕もおもっていますが、問題は誰かの頭に脳みそが入っているからと言って、僕の頭にも脳みそが入っているとはかぎらない、という点です。
たとえば僕らは地球を丸いと信じているし、ありとあらゆる状況証拠は地球が丸いことを示しているけれども、科学的に立証されていると僕らが認識するところのものはあくまで「信頼できる人がそう言っている」という意味にすぎない現実を思い出さなくてはなりません。
アメリカでは今も国民の約4割が進化論ではなく創造論(神がこの世界を作ったという考え方)を支持しているそうですが、裏を返せばそこに科学の限界とジレンマがあると言えましょう。どれだけデータを積み重ねても、そうじゃないかもしれないという可能性を完全に排除することはできません。なんとなれば、知識を共有する時点でそれは「伝聞」になるからです。僕らはある知識について、「そう聞いた」と言うことなく断言できるだろうか?創造論どころか陰謀論ですら根絶やしにできないのも、おそらくこのあたりに決定的な理由があります。
脳みその話に戻ると、たぶん僕の頭にも脳みそが入っているだろうな、と僕もおもいます。おもいますが、僕だけ何か別のものが入っている可能性とその疑念を、100%拭うことはできません。プリンなんか入ってねえよと誰もが口を揃える当然の主張は、僕のではない別のデータから導き出されたものだからです。
空っぽだとはおもいません。明らかに頭は重たいし、何かが詰まっていることは確かです。その実感もあります。しかしこの目で確かめたことがない以上、小粒のじゃがいもがたくさん詰まっているわけではないと言い切ることもできないのです。(念のため付け加えておくと、脳が別のどこかにあるという考え方ではなく、じゃがいもが脳の代わりに考えているという考え方です)
脳みその存在を前提とするならば、代わりにぬか床を詰めてキュウリの1本でも漬けたいところですが、いざパカッと頭蓋を開いてそこにじゃがいもが詰まっていたら、その哀しみはちょっと計り知れません。じゃがいもの代わりにぬか床を入れる意味がいったいどこにあるというのだろう?その哀しみを押してぬか床と入れ替えたところで、取り出されたじゃがいもはどこに行けばよいのだろう?甘辛く煮っころがしてしまっていいものだろうか?かつて僕という男の人格を成していたこの煮っころがしを夕飯の一皿として平らげたのち、僕はどこにいることになるんだろう?
今や僕は頭から取り出したキュウリをぽりぽりかじりながら、脳みそが恋しいと言わざるを得ません。こんなことならせめてじゃがいものまま、それを知らずにいたかったと切におもいます。そのじゃがいもですら、今は甘辛く煮っころがされて胃の腑に納まっているのです。
もしじゃがいもでなく脳みそだったら、こんなことにはなっていなかったんじゃないだろうか?
今となってはそれも詮無いことです。かつての自分だったじゃがいもはもうないことを受け入れ、代わりのぬか床を頭蓋に詰めて生きていくほかありません。
そしてある晩ふと、星空を見上げながら、思わないでもないのです。詰まっていたのがじゃがいもでなくプリンだったら、また違う人生になっていたかもしれないと。
A. じゃがいもの代わりに脳みそを入れたいです。
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その332につづく!
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