3016年2月2日金曜日
2026年7月24日金曜日
アグロー案内 VOL.11解説「惑星/searching for Irene」②
アグロー案内を始めてから薄々感じていたことではあるのだけれど、去年あたりからはっきりと、大袈裟でもなんでもなく、声には魔力があると確信しつつあるのです。
単に力というのではちょっと足りません。ある種の強制性が伴うという意味で、魔力です。
魅力的な声、というのともちょっと違います。どんな声であれ、ある局面、ある状況、ある環境において100%の本領を発揮した上で言葉を発するとき、そこには何らかの特異な場が生じる、みたいなことです。耳を奪われるというのは、文字どおり奪われているんだとおもう。
言霊ってたぶんそういうことなんだろうけど、もっとこう俗っぽく置き換えると、たとえばお巡りさんが逃げる泥棒に「動くな」と叫ぶとき、蚊に刺されたくらいにしか効かない場合と、本当に硬直して動けなくなってしまう場合があるんじゃないのか、という気さえします。
そしてふと思うのです。僕は本当に相手の自由を奪うほどの「動くな」を放てるだろうか?
もちろんできません。できないけれども、ただこれは本質的には、声をきちんと使えているだろうか?という問いにもつながっています。これまでも無自覚に発動していた可能性はかなりあるにせよ、意識的に用いてはいなかった、というのがその答えです。どの状態の声が100%なのか、ほとんど何もわかっていなかった、と項垂れるほかありません。
僕のリーディングは通常の朗読と比べて必要以上に面倒なブレスコントロールを要するアクロバティックなところがあるので、うっかりすると声それ自体にピントが合わせづらくなりがちです。
声にピントを合わせるなら、なるべく余計な技巧を織りこまず、ストレートな朗読に近い形が望ましい。とにかくまずは何かを書いてみよう、と思っていたら書く前に送られてきたのが、このビートです。まるで先の意図を踏まえたかのようにこれ以上ないほどうってつけで、びっくりしたことを覚えています。これがいかにリーディングとぴったり噛み合っているか、ここで強調するまでもないでしょう。
こうなるとタイミング的には今しかありません。書くだけ書き、最低限のリズムをキープしつつひたすら声に集中して読み、録るだけ録ってカズタケさんに託し、最終的な構成もお任せしています。僕としては新鮮な野菜にあまり手を加えず、そのまま生で味わってもらうようなイメージです。そして実際、そのとおりになっているとおもう。カズタケさんにはここに書いたようなことを、何ひとつ伝えていません。だからこそ感慨深いのです。ミックスにしても、「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」とはぜんっぜんちがいますからね。
前回書いたように、テキストはテキストで思いのほか味があると喧伝はしましたけれども、2周目以降は深く考えずにただただ身を委ねるような、たとえば就寝前に聴きながら自然と寝入ってしまうような、魔力とは言わないにしても、ただただ耳に心地よい作品になっていたらいいな、とおもいます。
どうかなー……!!
2026年7月17日金曜日
アグロー案内 VOL.11解説「惑星/searching for Irene」①
さて、「惑星」です。
制作に至る経緯もあるので2回に分けて、まずは内容にふれておきましょう。
大きなギミックがポンと置かれているので、どうしたってそこにピントが合ってしまうと思いますが、僕自身が手応えを感じている、つくってよかったと感じるおもしろさは、むしろその奥にあります。
最大のポイントは、書いた僕自身でさえ思い描いた情景が強制的にキャンセルされてしまう点です。
シンプルに考えれば、そこには僕らと同じ日常が投影されている、という受け止め方になるでしょう。そしてそれは実際に正しい。問題はそうではない可能性があまりにも多すぎることにあります。
語り手が最初に思い浮かべた「空」は、僕らの知る空と同じだろうか?掬い上げる「砂」は僕らが思い浮かべる砂だろうか?彼の言う「チョコレート」はカカオから作られた茶色くて甘いあの菓子なんだろうか?要はそこに並ぶありふれた言葉すべてが、実はぜんぜん別の何かを指しているかもしれない、ということです。そういう厳然たる可能性がここにはあります。
そう指摘されてもなお、思い浮かべるイメージは全面的に切り替わったりはしないはずです。やっぱり馴染みのある情景を思い浮かべるとおもう。僕もそうです。でもそれは考えうる可能性のうち、一番手前にあって最もつかみやすい世界のひとつにすぎません。
100歩譲って、僕らとほぼ同じ日常が投影されている前提で映像化したとしましょう。それでもいちばん目立つギミック自体は支障なく機能します(←ここが重要)。一方でそれは、ある点で瞬時に増殖した無数の可能性を、たったひとつに確定してしまうことになります。解釈以前に、まず前提が曖昧すぎるわけですね。
ひょっとしたらそうはならないアプローチもあるのかもしれないけど、現時点ではぜんぜんわからないし、わからないことに意義がある。言ってみればこれは、想像するしかないからこそ成り立つ物語でもあるのです。そもそも語り手がヒトどころか生物ですらない可能性すら、めちゃめちゃありますからね。
書き終えてから気づいたことではあるけれど、確定しえない情景(ある状態とそうではない状態が重なり合っている)というシュレーディンガーの猫みたいな問い、そうとわかっていてもなお最初に思い浮かべた情景を拭うことができないパラドックスやその強制性にたぶん、この一編の骨頂があります。
テキスト自体に読ませるだけの力がある、とは僕自身あまり思っていません。読んでみようかな、とおもわせるほどのフックはどこにもないし、むしろいつにも増して軽く聴き流せるよう努めたところもあるくらいです。イヤでも身を委ねてしまうタケウチカズタケの美しいビート、特に変わったことは何も言っていないように感じられる僕のリーディング、何よりテキストと異なり自動で進行する「楽曲」というフォーマット、それらすべてがある種の罠であり、であるからこそ最大の効果を発揮する、とぶじにリリースを終えてひと息ついた僕はおもいます。
何かをつくるとき、どうあれ僕はこのスタイルでしかできないことを強く意識するところがあるけれど、前回の「九番目の王子と怪力の姫君」と同様に、これもまたそんな作品のひとつです。
2026年7月10日金曜日
アグロー案内 VOL.11解説「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」
とまあそんなわけで、アグロー案内 Vol.11 がぶじ配信と相成りました。
いつもならまず新作についてあれこれ語り散らすところです。しかし今回にかぎってはやはり「手漕ぎボート」のリメイクから触れなくてはなりますまい。
お聴きいただければおわかりのように、今回のリメイクにはオリジナルになかった女性がフィーチャーされています。曲タイトルには付記されていませんが、アグロー案内としても初めての、なんなら最初で最後かもしれない、たいへん貴重なゲストです。
古くからお付き合いいただいている向きには一聴してお気づきかもしれません。
「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」に力添えいただいたのは、ポエトリーと音楽、という組み合わせでは今も昔も比肩できる人が大袈裟でもなんでもなくまじでひとりもいない、唯一無二の声とスキルを併せ持つ文字どおり空前絶後のアーティスト、totoさん(@totonote)です。
そういえばつい先日の投稿でもすこし触れましたけれども、改めてご紹介しておきましょう。
詠むことを音楽にするという意味で、僕とtotoさんはその昔、完全に同じタイミングで始めた盟友です。僕は単独で、totoさんはタケウチカズタケをリーダーとするバンド(!)で、という違いはあるものの、交流は今に至るまでずっと、途切れることなく続いています。
音源で交わったのはたぶん僕の1枚目のアルバム「1/8,000,000」に収録された「砂金/gold dust」と「おとづれ/a letter to him」が最初です。どっちが先だったかはすっかり忘れてしまったけれど、とりわけ「おとづれ/a letter to him」は僕の組んだビートにtotoさんがリーディングを乗せた(=じぶんのアルバムなのに僕はビートだけでリーディングしていない)一編で、考えてみたらそんな作品はいまだにこれしかありません。
その次がたぶん、totoさんのソロアルバム「◯と◯」に収録された「雲の上のお話」という作品で、これは僕が珍しく(ほんとに珍しい)ゲストとして参加しています。これが2011年です。なのでちょいちょい会ってはごはんを一緒に食べたりなどしてはいるものの、音源での共演はかれこれ15年ぶり、ということになります。
totoさんは現在、Cut SUIKAというユニットで僕なんかよりもはるかに精力的に活動しているので、この声に胸を射抜かれたみなさまはぜひチェックしてみてください。実際、今回のリメイクでは、最後の最後にぜんぶもってかれるくらいの威力があります。
totoさん、ほんとにありがとう!!!
*
「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」について、改めて付け加えることは何もありません。ただ御大タケウチカズタケ曰くミックスがめちゃムズだったそうなので、オリジナルとは比較にならない超絶技巧が施された一編に仕上がっていることだけは確かです。僕はリーディングに集中すればいいだけだったので、そのせいか初めて、おれ良い曲つくってたんだなとしみじみ思いました。もしシェアしてくれることがあるなら、オリジナルよりも圧倒的に完成度が高いこちらをチョイスしてください。ひらにひらに。
2026年7月3日金曜日
リリースを目前に控えてふと思い出すよしなしごと
アグロー案内シリーズの新作をいよいよ来週に迎える金曜ですが(発表が先週だったのでいよいよというほどでもない)、リリースとなると今でもふと、2枚目のアルバムである「詩人の刻印」リリースライブのことを思い出すことがあるのです。
1枚目から3年くらい経ってのアルバムで、別にメジャーでもなんでもないから、当時は本当にひっそりとしたリリースです。もちろんレーベルとしては考えうるかぎりの告知をしてくれていたけれど、今とちがってSNSもありません。リリースされること自体の情報としてはともかく、考えうるかぎり最小限の規模で行われるささやかなリリースライブの情報をどうすれば取得できたのかさっぱりわからない。仮にタイミングよく情報を手に入れたとして、行くかとなったらそれはまた別の話です。だいたい、詩人の刻印リリースに先がけてこのブログを開設したはずなのに、さっき20年ぶりくらいに確認したらどこにもリリースライブの告知がない。いったい何のために開設したんだとわれながら驚かずにはいられません。
総じて、来てくれる人は本当にいるんだろうか…と何もしてないくせに身勝手な不安を抱いていたことを今でもよく覚えています。百歩譲ってめちゃめちゃ行きたいと思ってくれる人がいたとしても、その情報に触れる確率がSNSやこのブログの存在がちょっぴり認知されていなくもない今よりも圧倒的に低かったのです。
案に相違して、リリースライブは思いのほかたくさんの人が来てくれました。といっても40人くらいの規模だけれど、そもそも着席できるのが30人以下のスペースなので、むしろ限度ギリギリだったわけですね。
もちろん、近しい人が友人を誘ってくれたりもしていたはずだし、なにぶん古い話なので僕自身の記憶が都合よく改ざんされている可能性もあります。でもそうとばかりも言えない印象は、たしかにありました。今もつづく毎年恒例の年賀状キャンペーンは、この夜の感謝から始まったくらいです。
最終的にこの「詩人の刻印」は最も多くプレスを重ねたアルバムになりました。プレスのたびにデザインを全面的に改訂しまくったので、パッケージも5種類くらいあることになります。レーベルにも、僕の手元にも、たぶん全種類はないとおもう。
いうまでもなく、あのころとは何もかもちがいます。最初から低すぎた活動頻度にしたって、さらに比べものにならないほど低い。でも活動しないと決めたことはないし、今も新たに出会ってくれる人がいて、リリースとなれば限られたごく少数でも、楽しみにしてくれる人がいる。そう確信できているのは、あの夜があったからこそです。
アグロー案内に、かつてのもどかしさは1ミリもありません。10年後に聴いて、できればこうしたかったと悔やむこともないでしょう。御大、と僕からしたらそう呼ぶほかないタケウチカズタケのおかげで、現時点で到達できる最高水準が更新され続けています。
Vol.11を最後にうっかり落命しても、悔いは何ひとつありません。楽しんでもらえますように!
2026年6月26日金曜日
アグロー案内 VOL.11 リリースのお知らせ
さて、アグロー案内にまた、甘い果実が生りました。VOL.11です。
リリースは2週間後、7月10日(金)0:00になります。
いつもであればどうにかして情報を小出しにしながらリリースまでの間を持たせようと不毛な苦心を重ねるところですが、実際のところその甲斐があるかといったら別にないことをさすがにもう学んだ気もするので、出し惜しみせずにトラックリストも公開しておきましょう。そもそもリストといったって3曲しかないのです。
恒例のリメイクは「手漕ぎボート」です。僕自身、夢にも思わなかった、カズタケさんのアイデアによるちょっとしたサプライズがあり、たいへんリッチな仕上がりになっております。リーディングにしても当時はいっぱいいっぱいで気に留める余裕もなかった細部に気を配れて感無量です。
恒例の山本和男シリーズは、原作者であるタケウチカズタケのホットな原稿を、僕が大胆にアレンジしています。あ、おれこんな声出るんだ……とじぶんで感心しながらレコーディングした声も含まれているので、それも合わせて楽しんでもらえたらうれしいです。
聴く分にはほとんど感じないことかもしれないけれど、今作の個人的なテーマは声です。去年あたりから声について考える機会がたまたま重なったこともあって、改めて、というかたぶん初めて、意識的に声と向き合っています。アプローチではなく、むしろ基礎となる土台の部分ですね。
詩の内容やリーディングのステップ(ラップで言うフロウ)とは別に、声の味わいとその比重を高めてみたいな、とぼんやり考えていたら、新作のビートがまさにうってつけだったので、ここぞとばかりに取り組んでいます。
奇をてらったことは特にしていない、でも気づいたらまた再生してしまう、そういう声の磁力とか魔力があるならせめてその一端を見てみたいと試みた、その最初が今回の新作です。
その意図が功を奏しているかどうかはさておき、結果として詩の内容とビートの相性が過去イチと言えるマッチングになっているのはまちがいありません。僕らもお互いに自画自賛しまくりです。
そしてこれは言うまでもないことですが、アグロー案内は日々研鑽を重ねてとどまるところを知らないタケウチカズタケの進化を曲単位で定点観測できる稀有なプロジェクトでもあります。これまでの作品と併せて聴けば聴くほど味わいが変わると言っても過言ではありません。今回も自信を持ってお届けする、糖度高めのジューシーな果実です。どうぞご賞味あそばせ!
2026年6月19日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その486
チャン原トリ夫さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 今年の1月に、ハンブレッダーズが『着陸』というポエトリーリーディング調の楽曲を発表しました。この曲はバンドサウンドを基調としていますが、大吾さんやtotoさんのように、ヒップホップやサンプリングをルーツに持つアーティストとは、リズムの取り方や歌詞の配置にどのような違いがあるのでしょうか。
これはすこし説明しなくてはなりますまい。totoさんというのは僕とほぼ同時期にポエトリーリーディングを始めたレーベルメイトで、もちろん今もバリバリと活動している、僕なんかよりもはるかに吟遊詩人と呼べるし実際にそういう生き方をしている、文字通り無二のアーティストです。
そしてもうひとつ大事なことを補足すると、totoさんはヒップホップやサンプリングをルーツに持つ人では全然ありません。全然というのはほぼとかそういうレベルではなくて、完全にゼロです。言葉のありようとしての日本語ラップには敬意や憧れ、愛情を山ほど抱いているはずだけれど、ヒップホップであるかどうかは今も昔もあまり気にしていないんじゃないかとおもう。実際のところ、当時たまたま足を踏み入れたフィールドにラッパーがたくさんいたことから、自然とこう、ヒップホップ濃度が高く見えるようになっていったわけですね。下戸だったのに飲み会に付き合ってたら前よりちょっとだけ呑めるようになった、みたいなことだとおもいます。ほんとに。
なので逆に、totoさんとリズムの関係性はめちゃめちゃ興味深いものがあります。というのも、昔は体の外にあったリズムが、今は彼女の内にもある印象だからです。彼女が音楽に寄り添うこともできるし、音楽が彼女に寄り添うこともできる、その双方向性がすごい。これはもう、巡り合わせによる特殊な環境が育んだ結果でもあるので、真似したくてもできません。このあたりは僕もいちどゆっくり話を聞いてみたいですね。
ハンブレッダーズの「着陸」は僕からすると、音楽とスポークンワーズの正統な系譜に置かれる楽曲です。ポエトリーリーディングにしても昔はこのタイプのほうがずっと多かったとおもう。
というのも、言葉にとって音楽はまず情感のアンプ(増幅器)としての意味合いが大きいからです。言葉を朗読やシャウト、スポークンワーズの形で音楽に乗せようとすれば当然、情感が優先されます。リズムはその後です。すくなくとも朗読が先にあってそれを音楽に乗せる場合、リズムやBPMは絶対条件ではない。
だから違いがあるとすればたぶん、リズムの取り方や詞の配置以前に、BPMを前提としているかどうかですね。そしておそらく、音楽とリーディングという組み合わせにおいて「つんのめるギリギリまでガマンしたい」とか情感とはぜんぜん別のことを考えてるのは、僕以外にあんまりいないとおもいます。
A. アプローチというより、前提に最大の違いがありそうです。
*
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その487につづく!
2026年6月12日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その485
ピーチジョン万次郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 私も随分、長く生きてるなぁと感じた事があったら教えてください!
「年をとった」ではなく「長く生きてる」というのがいいですね。同じっちゃ同じだけど、前者は心身の衰えとか世代間ギャップみたいなことが主体になるのに対して、後者では積み重ねた年月をしみじみ実感していて、印象がずいぶん違います。昔話でキャッキャできるのはほんと、中年以降だけですからね。
そういう視点で考えると真っ先に思い浮かぶのは、今や両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らしている年月のほうが断然長いことです。気づいたときにはとっくに追い越していて、びっくりした記憶があります。もっと言うと、ビートに乗せてリーディングをする活動期間のほうがすでに長い。何しろ1枚目のアルバムをリリースしたのが22年前です。長いな。
生まれてから実家を出るまでの日々が18年くらいで、仮にそれをひとつのサイクルとすると、今は3周目の半ばです。とりわけ最初の18年は吐き気がするほど長かった印象がつよいので、それを2周も3周も繰り返しているとなると、いいかげんうんざりしてくるレベルの長さになります。もう一度誕生からやり直すのは本当にご免こうむりたい。あの体感時間はいったいなんだったんだろうとつくづく思います。人生の後半を下り坂と表現したりするけれど、長い年月をかけてひたすら登ってきたとんでもなく長い坂をこれからはチャリで漕がずに下れるなら、むしろ爽快で最高じゃないですか?
(風を全身で浴びながら颯爽と駆け下りるイメージ)
月日の重みは、いやでも年々軽くなっていきます。今日も気づいたら夜です。そして今のこの日々は、100%庇護下にあったかつての甘やかな時期と違って、ぜんぜん当たり前ではありません。山中とか廃屋とかでのたれ死んで白骨化してもなお気づかれない結末を迎える可能性はいつでも、そして歴然とあります。そういう懸念を昔から抱き続けているので、なんならその覚悟もちょっとできているくらいです。
だからこそこの先は1日1日をじっくりと味わうように噛み締めていかないといかんなあ、といただいた質問で思いを新たにすること自体、そこそこ長く生きてる証なのかもしれないですね。
A. 気づいたら両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らす年月のほうがぜんぜん長くてびっくりしました。
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その486につづく!
2026年6月5日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その484
おっちょこチョリソーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 言葉の魂の重さは、全て約21gですか?ダンカン・マクドゥーガルは、魂の重さは約21gと提唱しました。「言葉には魂が宿る」という言葉があるので、私は、言葉の魂の重さは約21gだと思いました。
言葉に魂が宿るというのはたぶん、いわゆる言霊のことですね。いい発想です。
「魂=21g」は僕もその昔、知ったときはかなり胸アツだった記憶があります。とりわけ「(実体がない)魂の重さを測ろう」というむちゃな発想が白眉です。実験が失敗だったとしても魂の存在が否定されないのもいいし、対象そのものを観測するのではなく別の現象から推定するという科学的なアプローチには今でも妙な説得力を感じます。暗黒物質(ダークマター)とかブラックホールなんかもそうですからね。
ただ実験から120年後を生きる今の僕としては、21gはいくらなんでもちょっと重すぎるな、という印象です。何しろ21gといったら大さじ1と1/3であり、小皿に垂らす刺身醤油とか餃子のタレくらいの量があります。じぶんの魂で餃子がひと皿おいしく食べられるなら人生もそんなに悪いもんじゃないと思いますが、ロマンチストとリアリストが常に同居してときどき取っ組み合いの喧嘩を繰り広げるアンビバレントな僕の結論としては、もう少し軽くなりそうです。その重さについてはまたあとでふれましょう。
そして肝心の言霊です。言葉は使用者が意図するよりもはるかに大きな力を持つ、というのは僕もつねづね実感しています。言葉はそれ自体がある種の呪力を纏っていると言ってもいいし、その呪力の核を魂と呼べるかもしれません。
その上で、言霊という漢字を見てみてください。同じたまだし、同じ強力な精神性を帯びた非実体だけれども、「魂」ではなく「霊」です。大雑把に分けると、内包する個体に影響を及ぼすのが魂、不特定多数に影響を及ぼすのが霊、ということになります。閉鎖と開放の違いでしかないとも言えるので、漢字が入ってくるよりもずっと昔、和語としての「たま」では区別されていなかったのかもしれません。
先の例で言えば、対象に届いた時点で発動する呪力が「霊」、その呪力の源となる核が「魂」です。霊魂という言葉があるくらい、どちらも根っこは同じですが、その重さが問題になるとすれば後者になるわけですね。なぜ言魂ではなく言霊なのか、その理由もここらへんにあると僕は考えます。
では、なんとなく曖昧だった部分をスッキリ区別できたところで、その重さを考えてみましょう。
小皿に注いだ餃子のタレほど重いはずがないとはいえ、魂が単に生物としての実体がないだけであることを踏まえると、長年にわたる思考と経験のすべてが保存された情報量は相当なものです。裏を返せば、その膨大な情報をどこまで圧縮できるのか、ということでもあります。
そこで参考になりそうなのが、染色体です。染色体1セット(30億塩基対)には生物を形づくる上で必要な基本情報の大部分が詰めこまれています。そればかりかデジタルデータに換算すると多くとも3GBくらいしかないそうなので、その密度と効率性といったらまさに圧倒的です。なので魂の情報量もだいたいそれくらいであると考えたとしても、あながちむちゃな比較でもない、という印象があります。
染色体1セットの重量は、およそ3.1ピコグラム(3.1gの1兆分の1)です。だとすれば魂の重さもまた、3.1ピコグラムくらいである、と個人的には考えます。
一方、言葉に魂があるとすれば、その情報量はヒトの一生ほどではありません。また「首都圏連続強盗殺人事件広域重要指定事件合同捜査本部」と「バナナ」という言葉の魂が同じ重さと言われてもいまいちピンとこないので、染色体よりもむしろ分子の重さのほうが類例としてしっくりきます。分子もいろいろありますからね。なのでここでは最小の分子である水素を参考に、0.00000000000335ピコグラムとしておきましょう。染色体の重さの9260億分の1です。言葉におけるいちばん小さな魂の重さとしてはこれくらいでいいんじゃないかとおもう。
ちなみにざっくりした視点で考えると、車のタイヤなんかも単一分子です。世界最大のタイヤは直径4メートル、重さが5トン以上あります。作ったのは日本を代表するばかりか世界トップクラスのタイヤメーカー、ブリヂストンです。すごいぜ。
言葉の魂の重さが場合によっては5トンを超えるというのはさすがに逸脱しすぎな気もしますが、しかし夢があります。そしてどうあれ僕はいつでも夢があるほうを選びます。5トンの言葉、味わってみたいですね。
A. 言葉の魂の重さは同一ではなく、その最小は0.00000000000335ピコグラムである、というのが僕の見解です。
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その485につづく!
2026年5月29日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その483
ルイ・アームストロングゼロさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 「生命科学的思考」という本を少し前に読みました。その中で生物の死について書かれており、端的に言うと、死は環境に適応した新バージョンに入れ替わる為とのことです。そこで質問です。今の我々はバージョンいくつくらいで、前の個体からどんな機能が追加されていると思いますか?
死を個体のアップデートとして考える、という視点はユニークですね。これはひょっとすると、「世代交代による適応」を大胆かつカジュアルに言い換えた、ということなのかもしれません。
世代交代による適応とは、その時々の環境に対応できる個体の集まりが結果として残る(自然選択)、という考え方のことです。
進化というとその言葉から何か新たな機能を獲得したような印象を受けますが、必ずしもそうとは言えません。
たとえば特定の害虫Aを寄せつけない穀物を開発したとしましょう。今まで食べられていた穀物が食べられなくなるので、一見するとこの害虫Aは食いっぱぐれてそのまま絶滅の一途を辿りそうですが、実際にはそう簡単にいきません。というのも、「気にせずおいしく食べてしまう個体」が存在する可能性が常にあるからです。そしてこの場合、当然の帰結として気にせずおいしく食べられる個体の子孫が増えていくことになります。食べられない個体はみんないなくなりますからね。何度も何度も世代交代を繰り返したその先は、害虫Aにおけるすべての個体が気にせずおいしく食べることになるでしょう。害虫対策は振り出しに戻ります。いたちごっこと言われる所以です。
ここで注意したいのは、適応のきっかけとみなせる先の個体が、「生き延びるために新たな能力や特性を獲得したわけではない」という点です。むしろたまたまその特性を持っていたにすぎません。遺伝子は個体ごとに常に変異(エラー)と修復を繰り返しているので、知らないうちにある個体だけがなんだかよくわからない特性を獲得していたりする可能性があります。そしてそのなんだかよくわからない特性がたまたま環境の急激な変化に対応可能だったとき、初めてその威力を発揮することになるわけですね。
遺伝子の些細な変異も数打ちゃ当たります。そして当たればそれが適応とみなされるのです。ランダムかつ日常的な遺伝子のエラーそれ自体が、じつは生物としての高度な生存戦略のひとつなんじゃないかとおもう。
個体の変異ばかりか、交配によるシャッフルも加わったとき、遺伝子にどれだけ多様なパターンが生じるか、想像してみてください。数えきれないパターンがあれば何が起きてもさすがにどれかは生き残るだろうと思いませんか?
以上を踏まえると、適応かどうか現時点では誰にもわからないけれども、結果的にのちのち有効となりうる新たな機能が知らずに追加されている可能性はたしかにあります。
バージョンは、そうですね、うーん、1.0が二足歩行だとすると、火の獲得、言語の獲得、分解能力が他の生物と比べて著しく高い特異な点からしてアルコールの獲得、産業革命(労力の圧倒的なアウトソーシング)、デジタルで6、たぶんシンギュラリティで7になりそうだから、現時点のAI(思考のアウトソーシング)で6.5くらいかなあ…。1万年くらい前からはもう、言うほど変わっていない気もするんですよね。むしろ削られた機能のほうが多そうな印象あります。
直近のマイナーアップデートで改善された機能としては、冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでの所作ですね。以前に比べて、より滑らかでエレガントになっているとおもいます。
A. バージョンは6.5、追加された機能は冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでのエレガントな所作です。
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その484につづく!
2026年5月22日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その482
途中まで塗って力尽きたらしい
このマリリン紋所が目に入らぬかさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 私はユニコーンは実在すると思っていたりいなかったりしますが、”実在する”と自分が思う「現実」とChatGPTがいう「現実」ってちがうのかなと感じることがあります。だとすると『現実』ってなんでしょう。
ふむふむ。そうですね、現実に対する認識がじぶんとAIとで異なるとすれば、それはシンプルに主観と客観の違いです。客観的な現実というのは言ってみれば多数決で決まるような話なので、他者の同意が希少なものごとについてはまず現実とみなされません。かつては地動説もそうだったことを思い出してください。したがって一般的には、現時点で他者が事実と認定できるものごとの総称、ということになります。
ただしここで重要なのはそれが、主観的な事実を否定するものではまったくない、という点です。100億人に否定されたらそれは「ない」ことになるのかといったら、なりません。それはあくまで客観的に認定できないというだけの話です。
たとえば僕は10代のころ、実家にひとりでいるときに、タタタタッと階段を駆けあがる幼児(3歳くらい)の足音をはっきりと聞いたことがあります。当時のわが家には3歳児どころか12歳児すら存在しなかったので、あんまりびっくりして父親のゴルフクラブを持って確認しにいったくらいです。そしてまあ、そりゃそうかという気もするけど、おそるおそる2階に上がっても誰もいないし、何もありませんでした。
これを客観的な現実の俎上に乗せたら、現実ではなく勘違いと判断されるでしょう。そりゃそうだよな、と僕もおもう。でも僕にとっては今でもよく覚えている、100%現実の話です。それを客観的に認定してもらう必要がいったいどこにあるだろう?
つい最近のニュースだけれど、ものすごく興味深い話があります。
3週間にわたって昏睡状態だった19歳の女性が目を覚ましたとき、彼女は「三つ子を妊娠・出産して7年育てた26歳」という認識だったそうです。その7年間をあまりにも鮮明に記憶していたので、今もじぶんがまだ19歳のままであることを受け入れられずにいると言います。
これを客観的・医学的な現実としてみた場合、せん妄ということになります。それ以外に合理的な解釈ができないからです。実際、家族からしたら病院のベッドに3週間眠りつづけていたのを毎日見ていたわけですからね。彼女の記憶は現実ではない、と断じるほかありません。
でも、本当にそうだろうか?彼女が意識を失っていたのは、その意識がべつの世界にシフトしてべつの人生を歩んでいたから、という可能性はないのか?
常識的な人なら、明確にないと断言するでしょう。当然と言えば当然だし、僕もそれは心の底から理解できる。
ところがここに、ちょっとした落とし穴があります。というのも、科学者であれ誰であれ、彼女の意識が昏睡中べつの世界にシフトしなかったと立証することは絶対にできない(=悪魔の証明になる)からです。少なくともその可能性をゼロと結論づけることは誰にもできない。そしてこれは科学的思考を常とする人ですら忘れがちですが、どんな可能性であれゼロと断じるならそれは科学的思考ではない。
少なくとも彼女にとって、三つ子を産んで7年過ごしたことは現実です。それでいて科学的に100%否定できるわけではない以上、客観的な事実である可能性すらあります。もちろん、そうに違いない、と結論づけたいわけではありません。ある種のバグとして処理するほうが誰だって受け止めやすい。一方で、彼女が実際にべつの世界で7年過ごしていたとして、僕らがそれを素直に受け止めてはいけない理由があるのかと言ったら、全然ないのです。僕が次に目覚めたとき、「君が音楽的な活動をしていたことは一度もないし、結婚もしていない」と家族とか医者に言われたら、やっぱり受け入れられないとおもう。そうならない保証がいったいどこにあるだろう?
主観的な現実と、客観的な現実の境目がすこしずつ、曖昧になってきましたね。それはまあそれとして、ユニコーンの不在を証明することはできないという事実は、それだけでちょっと心強いと思いませんか。
A. 心の底から実感しているなら、どうあれそれは現実です。
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その483につづく!
2026年5月15日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その481
レッド・ホット・チリ・ペッパー警部さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 子どものイヤイヤ期ってなんなんでしょうか?
「ボタンを押したい」とか「荷物を持ちたい」とか「ウランを90%まで濃縮したい」などと要求し、受け入れられない場合は爆発的な癇癪を起こして容赦なく暴れ回り、手も足も出ない親の心を草1本残らない焼け野原にするという、あの悪名高い反抗期のことですね。
高度な反抗になると、本当にAで良いのかと何度も確認して了承を得たにもかかわらず「そんなことは言っていない」「わたしは最初からBだと言っていた」「フェイクニュースだ」と泣きわめくケースもあるようです。世の親たちが大挙して「いいかげんにしろ」とシュプレヒコールをあげながらデモ行進をしたくなるのもむりはありません。
専門家でもなんでもない僕が幼児をヒトの一個体として考えるに、これはたぶん「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」の本能的な発現です。わたしはわたしであってあなたではない、と自他を区別するその始まりと言い換えてもよいでしょう。本能的、というのは幼児であるその個体が自身の言動とその意味を自覚しているわけではおそらく全然ないからです。どちらかというと条件反射に近いのではないかと僕なんかは思います。猫の目の前に動くものがあったら手を出さずにはいられないようなものです。
幼児にかぎらずですが、自分が自分であって他の誰でもないことがはっきりするのは、他者との間に線を引くとき、つまり拒否を表明するときです。同意(YES)も意思表示ではあるけれど、追従の側面がある以上、拒否(NO)には及びません。
なにぶんそこそこ言葉が通じてしまうので、どうしても幼児の「こうしたい」という要求に意識が向いてしまいますが、もしイヤイヤ期がヒトの健やかな成長において不可欠な過程だとするならば(どう考えても必要であると僕は確信していますが)、重要なのはじつは要求が満たされることではないと考えられます。というのも、要求だけなら乳児も本能的にしているからです。生存にかかわりますからね。
また要求を満たすことが重要なのであれば、100%満たしているにもかかわらず真逆のことを言い出してちゃぶ台をひっくり返すような事態にはまず陥らないはずです。しかし実際には、ふつうにちゃぶ台はひっくり返されます。「話がちがうじゃないか」とデモ行進でシュプレヒコールをあげたくなる所以です。
したがって、イヤイヤ期の幼児にとって重要なのはむしろ拒否することです。実際には是(YES)であっても、とにかく非(NO)が意味を持ちます。要求に対する親の拒否を受け入れない(ダメに対してダメじゃないと抗う)ことも同様です。わたしがわたしであると表明する機会を常に待ち構えている状態、と言えるかもしれません。
つまりイヤイヤ期とは、ヒトの成長過程において芽生えた自己同一性の土台を固める段階である、と申せましょう。これを哲学っぽく言い換えるなら「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」ということになります。
理不尽に思える幼児のギャン泣きはほぼすべて「我イヤ!ゆえに我あり!」に翻訳できるとここで無責任に断言しておきましょう。誰であれ僕らはみな、かつてはデカルトに匹敵する偉大な哲学者だったのです。
A. 「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」の一言に尽きます。
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その482につづく!
2026年5月8日金曜日
ペガサス、もしくは野生の富豪についてときどき考える話
日々の合間を見つけつつ、アグロー案内の新作をちまちま書き進めています。
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表題のままっちゃそのままなんだけど、どうにかこうにか生き延びてだいぶいい年になってくると、そういうことをふと、考えたりするのです。
字義どおりの富豪では、もちろん全然ありません。際立つのはむしろ真逆に稼ぎを心配されるくらいのケースでしょう。要は人が好きで、人に愛されている人のことです。
顔が広いってことでしょ、とおもうかもしれませんが、ちょっとちがいます。というかそれを言ったら富豪になればなるほど顔は広くなります。何しろありとあらゆる局面で、できることが人よりも明らかに多い立場だからです。したがって資産の多寡が関係に影響しないことが条件である、とも言えましょう。
多かれ少なかれ、顔の広さにはメリットが付随します。特定の好ましい人とつながる可能性があるなら、媒介となる人と面識があることはそれ自体がすでにメリットです。社会における人間関係とはその一言に尽きるとさえおもう。
ただ世の中には、つながることで得られるメリットがあるかどうかを問わず、好かれているというだけで結果としてめちゃめちゃ顔の広い人が存在します。それが野生の富豪です。
それをなぜ富豪と呼べるかといえば、やはり同じようにありとあらゆる局面で、やろうと思えばできることが人よりも明らかに多いからです。すくなくとも、困窮極まったときに誰を頼っていいかわからない事態に陥ることはありません。助けて!と必要ならいつでも率直に言えるし、力になりたいと考える人々がいつでも待ち構えています。富豪と同じことができるのならそれはもうまちがいなく豊かだし、それでいて裸一貫みたいなものだとすればこれを野生と言わずに何と言おう。
言うまでもなく当人がそうありたいと望んでいるわけではなくて、ただただ、結果としてそうなっているのがポイントです。柔和であるとか、活力があるとか、隙があるとか、裏表がないとか、欲がないとか、声とか表情とか、要素を一つひとつ挙げることはできるんだけれど、どう考えてもそれだけではないし、何ならそのどれも当てはまらないケースもあります。そうなるともう、磁場とか引力とかフェロモンに近い。
物理的な資産の獲得による富豪とちがって、野生の富豪は望んでなれるものではありません。その自覚がないことこそ大前提、と言ってもいいでしょう。意図して得られる好感もあるだろうけど、そのためには死ぬまで意図を維持しつづけることが求められるからです。
人生を再現なくやり直せば富豪になる未来なんかも余裕であるでしょう。一方で野生の富豪はそうなりたいと望む時点でまず無理です。そういう意味で本当に得難い希少な、馬に翼が生えたような存在だと、感嘆せずにはいられません。
まじで実在するペガサスみたいな人を遠目に眺めながら、せめて今あるささやかな縁を大切にしよう、と胸に刻む今日このごろです。
2026年5月1日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その480
101回目のマヨネーズさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 文章でも料理でもなんでも、昨日作ったものが魅力的に感じられません。どうしても一気のエネルギーで作り上げるかさもなければ不出来なシチューにあれこれと手を加えてひどいことにするかのどちらかになってしまいがちです。せっかく自分で作った昨日(やそれ以前)のものを気持ちよく今日に迎え入れ一緒に生きる気持ちの持ち方を教えてください。
そうですね、つくるといっても文章と料理ではずいぶん隔たりがあるように感じられるので、なぜ同じように感じてしまうのかをしばらく考えてみたのだけれど、「一気に作り上げる」と「後から手を加える」という向き合い方を踏まえると、これはひょっとすると「かけるコストに対して求める見返りのほうが大きい」のかもしれません。
たとえば料理は、レシピに100%従って丁寧に再現すれば、不出来になることはまずありません。どれだけ正確にやっても不出来になるとすれば、それはレシピの書き方が悪いか、もしくはそもそもその料理自体がイマイチであるかのどちらかです。
念のため付言しておくと、きちんと計量せずに目分量でやったり材料を代用しているケースは含まれません。レシピ通りでは全然ないからです。そして実際、後から手を加えたくなる時点でレシピ通りではない可能性が高い。
だとすればそれは、本来必要な時間と労力を無意識に圧縮しようとしている、ということです。
コストの圧縮自体は別に何の問題もありません。むしろコストをかけた場合と同じ結果を求めることが問題になります。なんとなれば、思った結果にならなかったという失敗経験のほうが明らかに多く積み重なっていくことになるからです。昨日を引きずるのも無理はありません。
「おいしい料理」と「料理」では、かかるコストが異なります。料理をするだけなら材料も手順も厳密ではないわけだから、時間と労力もだいぶ違いますよね。「料理」のコストで「おいしい料理」を求めれば、そこには当然齟齬が生まれやすくなります。それは文章も同じです。
取りうる選択肢は2つあります。「おいしい料理」と「いい文章」に見合う時間と労力をかけるか、もしくは「料理ができた」「文章が書けた」というシンプルな成功に比重を移すか、そのどちらかです。いちばんいいのは、後者でちいさな成功体験を積み重ねつつ、ときどき普段よりも時間と労力を費やしてみることかもしれません。
どれだけ些細であっても成功は成功であって、積もれば当然、山になります。良いものとか魅力的なものというのは、その山のてっぺんに気づいたら咲いてる花みたいなもんですよ。
A. 求める見返りをちいさくしてみましょう。
ちなみに思いどおりに花を咲かせることができた人は、僕が知るかぎりコール・ポーターだけですね。
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その481につづく!
2026年4月24日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その479
リサイクルチョップさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 好きの反対は本当に無関心でしょうか?よく言われるこの言葉は果たして本当にそうなのでしょうか。何となくそんなもんかと思いつつ、何かが奥歯に詰まったような、準備万端で出かけたはずが何か忘れたモノがあるのではないかと心のどこかに少し不安が残るような、イマイチ腹落ちしないというのが正直なところです。ムール貝博士はどう思いますか?
たしかにこれは、よく言われることのひとつですね。実際その論理でいくと、じゃあ嫌いはどこに位置してその対義語はなんなんだ、という話になるわけだから、釈然としないのもムリはありません。わかるような気はするけれど、どうも飛躍があるようで据わりがわるい。
なぜそんなことになるかといえば、「好き/嫌い」「関心/無関心」という本来異なる比較のレイヤーをそのまま強引に統合しているからです。レイヤーを跨いでいるわけだから、当然そこには飛躍が生じるわけですね。
これを避けるために、たとえば「心に刻まれる/刻まれない」という別のレイヤーを新たに用意してみましょう。このレイヤーにおいては「好き」「嫌い」「関心」が前者、「無関心」だけが後者に置かれることになります。
好きと関心はともかく、嫌いが「心に刻まれる」側に入るのは直感に反するかもしれませんが、ネガティブな印象が消えないのなら、刻まれていないとは言えません。いうまでもなく、心に刻まれるのはいいことばかりではない。ですよね?
え、待って待って、それだと嫌いの反対も無関心にならない?と疑義を呈するきもちもわかります。ただ実際、このレイヤーにおいてはまったくもってそのとおりです。塩と砂糖がどちらも白い結晶というレイヤーでは完全に同類であることを思い浮かべてください。
それこそ芸能人なんかは「嫌い/無関心」という対比が成り立ちます。わざわざ嫌いであることを表明されるほど多くの認知を獲得しているということでもあるからです。認知(=心に刻まれること)そのものがポジティブな結果をもたらす可能性がある場合、どうあれ知られていないことよりも、知られているほうが望ましい。このレイヤーにおいて好き嫌いは問題ではありません。悪名は無名に勝るとか、炎上商法が成り立つのもそのためです。
そして嫌いにはまちがいなく、好きよりもはるかに明確な理由があります。ここが最大のポイントです。裏を返せば、嫌悪はその理由さえ解消されたら好感に転じる可能性があります。一度でも心に刻まれた以上、少なくとも無関心までリセットされることはありません。加えて嫌悪から転じた好感は、無関心から転じるよりも圧倒的に印象が強いはずです。そういう意味では、好きとの距離が遠いのは嫌いよりもむしろ無関心ということになるでしょう。こちらが好意を寄せている場合はなおさらです。
言い換えるなら、件の対比が成立するのは相手の好意が問題になる場合のみ、ということになります。たとえば相手が納豆だったら、僕らも納豆側の好意まではさすがに考えたりしないので、この場合はただ好きと嫌いがあって、その間にどちらでもないが挟まるでしょう。そしてもし納豆が僕らに食べてほしいと熱烈に望んでいる場合、ハードルが高いのは嫌いよりもむしろ無関心だとおもうので、愛されたい納豆にとって好きの対義はやっぱり無関心になります。
A. それは相手の特別な好意を望んでいるときだけの話です。
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その480につづく!
2026年4月17日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その478
暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 『さいとう』『ふくだ』等など、苗字の店名が付いてる食堂は、なぜか、想像通りの良い感じの食堂が多いとおもいません?
ふむふむ、たしかにそんな印象ありますね。たとえば「スサノオ」とか「wabi-sabi」とか「魯山人」とかと並んで「さいとう」という食堂があったら僕も「さいとう」を選びます。仮に4店とも食べ比べてどれも美味しかったとしても、気楽に再訪するのは「さいとう」なんじゃないかという気さえする。ふしぎですね。
それでまあ、つらつら考えてみたんだけど、これはひょっとすると一見素朴におもえて、なかなか奥の深い視点かもしれません。
まず、食堂であることが重要です。そもそも大衆食堂は、ジャンルを問わずいろんなメニューが雑多に混在するイメージがあります。焼き魚の定食もあれば、カレーとかラーメンとかカツ丼があったりもするでしょう。実際にはそのどれもないかもしれないけれど、少なくとも「作れそうなもんは作る」くらいの大らかさがある。つまり食堂である時点で、とにかく腹を満たしたい勢にはすでに感じがよいのです。
そして店名が姓だとすれば、それが考えうるかぎり最もシンプルな名付けである以上、食事処として何も含むところがないことを端的に示しています。「たけし」とか「ともこ」といった下の名よりもさらにアノニマスである点に注意してください。姓ほど、ただ必要だからつけただけであってそれ以上の意味がないことを示す愚直な店名はありません。
業態が大らかで店名が愚直なら、店の雰囲気も自然とそうなるだろうし、料理もそうでしょう。感じのよい確率は総じて高くなります。
大らかと愚直のどちらが欠けてもいけません。「魯山人食堂」だったら水にもこだわりがありそうだし、「和食さいとう」ならたぶん旬の野菜を使った繊細な料理が出てきます。どっちもまちがいなく美味しそうではあるけれど、大多数の僕らは毎度の食事に明確な目的意識を持っているわけではないので、「ご賞味あれ」よりは「食ってけ」くらいのカジュアルな態様のほうが、実際のところ圧倒的に助かるのです。あとたぶん、というか絶対、リーズナブルですよね。
そしてつい忘れてしまいがちですが、僕らは日々の食事に求めているのはボルテージではなくむしろある種の癒しと安らぎです。それを自然と満たすひとつの目安として、「苗字の店名が付いてる食堂」は確実に有効だと僕もおもいます。
A. そこにはたぶん、人の良さが意図せずにじみ出ているのです。
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その479につづく!
2026年4月10日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その477
勝手口にシンドバッドさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. どうしても目が行ってしまう機械(マシーン)を教えて下さい。年甲斐のない話なのですが、私は回転するドリルに目がありません。
僕もドリルは大好きです。回転する棒を押し付けても穴は空かないのに、螺旋状の刃がついただけでかくもエレガントに穴が空くものかと見惚れずにはいられません。フィギュアスケートの回転みたいな美しさがあるし、むしろ逆になぜフィギュアの選手は足に刃がついているのに氷に吸いこまれていかないのかと首を傾げるくらいです。
というかそう考えると基本、機械全般大好きですね。ある目的のためにせっせと動いている機械はそれだけで目を奪われます。ミシンなんか針の連打でなぜ縫えるのかいまだによくわからないのでつい見入ってしまう。
ロボットが好きかというと、そうでもありません。あくまで「決まった動作を繰り返す機械」が好きです。お祭りの屋台後方に置いてあるキャベツの業務用スライサーとかはもう、お好み焼きより断然気になります。道路の白線とか文字を描く機械も思いのほか原始的でとてもよろしい。
そしてもちろん、そうしたシンプルな動作を組み合わせた結果ゴツくなった機械も大好物です。とりわけ餃子の全自動成形機なんかは、人類の叡智と言っても過言ではありません。
最高ですね。家にあったら休日は稼働する様子をずっと眺めていたい。ひょっとするとスチームパンクの世界に違和感なく溶けこむ機械が好きなのかもしれません。とにかくこう、それしかできない愚直さが大事です。
それよりも僕が気になるのはご質問にあった「年甲斐もなく」というエクスキューズです。年齢に応じて嗜好が変化するのはわかりますが、そうあるのが普通は単なる圧力であって、従う必然性は何ひとつありません。好きなものは好きというただそれだけのことに異議を唱える連中はつまり上の世代の圧力に屈しただけでしかないこと、それに寄り添うこともまた次世代への圧力に加担していること、マンガやアニメだって40年くらい前はそれこそ年甲斐のないものとして扱われていたことを思い出してください。
もうちょっとしたら指先だけドリルに改造できる日がくるかもしれません。僕は正直、若造より爺さんの方が、指ドリルは似合うと思いますね。
A. 全自動餃子成形機です。
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その478につづく!
2026年4月3日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その476
チョコモナカチャンピオンさんから、8年前の質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 自分の作品の中での、パンチラインオブパンチライン…一番のパンチラインを教えてください。
パンチラインかどうかはともかく、気に入っているラインはいろいろあります。いちばん最近ので言うと「九番目の王子と怪力の姫君」にある「耳を貸せと言っては勝手に借りていく連中」なんかかなり好きです。好きとかそういう話ではないのかもしれないですけども。
一方、書いてから20年近くたった今でも、しみじみ思い返してみて、結局これに尽きる気がするよな、と思わずにいられないのは、「手漕ぎボート」での神さまとの対話です。
「もうちょっとましな舵の取り方はないの?」
「あんたが用意した船にはついてなかったよ舵なんか」
という部分ですね。20年前には想像もしてなかった日々を送っていて、かついまだに順風満帆でも別に前途洋々でもなさそうなあたり、やっぱりここに立ち戻るみたいなところがあります。いずれ順風満帆になるなんてかつて一度も考えたことないけど、昔のじぶんの肩をポンと叩いて、あのひと言、まじで真理っぽいぜとか言ってあげたいです。実際、長い年月を経ないと実感できないこともありますからね。それでいいのかどうかはさておき、個人的にはエバーグリーンなラインです。ほんとずっとこんな感じなんだな、どうなってんだ一体、という気もする。
そんなことをつらつら考えていたら、これはもうこれだけで独立した格言としてアリかもしれんな、とすら思えてきたので、いい機会だしデザインに移し替えておきました。
いい機会というのはたまたま今日からTRINCHのセールが始まったこと、そしてここだけの話、アグロー案内新作の予告みたいなことでもあるからです。
TRINCHは気づいたらこう、つくれるアイテムがびっくりするほど増えているので、もしこのデザインでこれがほしいみたいなリクエストがあればお応えできるとおもいますので、いつでもお寄せくださいませ。
A. 「手漕ぎボート」における神さまとの対話です。
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その477につづく!
2026年3月27日金曜日
「ジャクソンマイケル」について考える話
僕らは自覚以上に多くを常識のように刷り込まれている、といい年ぶっこいた大人になってもなお、しみじみ思わされることがいろいろとあるのです。
じぶんにとっての常識が他者にとってそうではないと気づいた最初期の例で言うと、僕は子どものころトマトに砂糖を振りかけて食べるのが好きだったのだけれど、それがぜんぜん当たり前の食べ方ではないことにショックを受け、恥ずかしく感じたことをよくおぼえています。
もちろん今ではわりと多くの人が愛好することを知っているので、恥ずかしいどころかそういう食べ方、愛され方もあるし、なんなら美味しいというだけのことでしかありません。「ふつうはやらない」のまま固定される人もいるでしょう。いずれにしても大多数の人は成長の過程でそうやって少しずつ常識の範囲を、探り探りアップデートしていくわけですね。
ただそれは裏を返すと、機会がなければある認知が常識として疑問を抱くことなくずっと維持されるということでもあります。僕らは自身の認知すべてを自身の意志で心から納得して取捨選択してきたわけではない。そしてそれゆえにおそらく死ぬまで、ふとした折に「あれ?」と気づいて立ち止まることがある。
僕にとってはそのひとつが、姓名の英語表記です。
たとえば山田太郎という姓名を英語表記にしたら、圧倒的大多数の人が「Taro Yamada」とするでしょう。アルファベットに置き換えるのはともかく、姓と名が日本語とは逆になっています。言うまでもなくこれは、英語圏では名が先にくるからです。
ではMichael Jacksonを日本語表記にしてみましょう。圧倒的大多数の人はこれを「マイケル・ジャクソン」とするとおもいますが、その土地の文化に従うという上記のルールに当てはめるとこれは本来「ジャクソンマイケル」になります。なんとなれば日本では姓が先にくるからです。
あれ?と思いませんか?
もし山田太郎が「Taro Yamada」であるべしというなら、Michael Jacksonは「ジャクソンマイケル」になります。
もしMichael Jacksonが「マイケル・ジャクソン」であるべしというなら、山田太郎は「Yamada Taro」になります。
そして今の僕の立場は、明確に後者です。その土地の文化を尊重できるならそれがいちばんいいな、と心からおもう。
最近になってそう思い始めたわけではありません。今から8年前の2018年にリリースされた、椎名純平、タケウチカズタケ、小林大吾によるアルバム「the 3」のジャケット画像を見てみてください。
アルファベット表記ですが、姓→名の順になっています。これはつまり、そういう理由からだったのです。
「ONE PIECE」は現代日本を代表するマンガのひとつですが、その主人公は「モンキー・D・ルフィ」と言って、明らかに英語圏寄りの名前です。しかし今や世界中に多くいる熱烈なファンたちは「ルフィ」を姓ではなく名であると認識しています。他のキャラクターにしても同様で、その表記が「Monkey D Luffy」であっても、作品世界においてはLuffyが姓ではなく名であることを明確に認識しているのです。先に置かれたMonkeyのほうが名であるべきとは言いません。
この例ひとつとってみても、僕が「小林大吾」を「Daigo Kobayashi」と姓名を逆に表記する必要性など、じつは全然なかったと言わざるを得ません。どうしてもそうあるべきというのであれば、Michael Jacksonもまた日本ではジャクソンマイケルと表記しなければならないということになるでしょう。
正しくはこうあるべきとか、是非を問いたいわけではありません。別に必要ならそれでいいとおもう。ただなんというかこう、日ごろから「ふつうなんてない」と思っているはずの自分のポケットから今もぽろぽろとふつうが転がり出てくることに今も驚くし、呆れてしまうのです。やんなっちゃうよな。
2026年3月20日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その475
背負い投げキッスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. もっとふてぶてしくなりたいので、コツがあればおしえてください!
僕はせいぜいふてぶて幼稚園をギリ卒園できたくらいのレベルなので、どれくらいお役に立てるかわかりませんが、それでもよければ伝授しましょう。もしもっと高度なふてぶてスキルを身につけたい場合は、ふてぶて大学を首席で卒業したエリート中のエリートである某国大統領の言動をニュースで具に追ってみてください。
またふてぶてしさには解釈によって異なる宗派のようなものがあり、図々しさや無神経まで教義に含むケースも見受けられますが、ここではあくまで原理主義に従います。それによれば、ふてぶてしさとはむしろ「火中の栗をおいしく食べる」ようなことです。
実際、火中の栗ほど危険なものはありません。さるかに合戦を読んでもわかるように、それは歴史が証明しています。
なんとなれば高温で熱せられた栗は大爆発を引き起こし、周囲に深刻な被害をもたらすからです。さるかに合戦においてサルが尻や顔の火傷で済んだのはほとんど奇跡であると言ってよいでしょう。
しかしもし、最大出力で爆ぜた敵意の栗を片手でキャッチし、目にも止まらぬ速さでポイと口に放り込んでおいしくいただいたあげく、もうひとつ別の栗を同じ目的で火中に投じることができるなら、それはかなり純度の高いふてぶてしさです。まずはこのレベルを目指しましょう。
そのためのステップ1は、反復横跳びです。
ふてぶて幼稚園では毎朝、園児全員で反復横跳びに励みます。これはもちろん、火中から高速で飛んでくる栗を躱すためです。躱さないほうがふてぶてしいのでは、と思うかもしれませんが、健全なふてぶてしさには適度な運動による健康の維持が欠かせません。
ステップ2で、実際に火中から弾丸のように放たれる熱々の栗を躱します。躱せるということは栗の軌道を捕捉できているということです。鍛えられた動体視力は当然、スムーズな栗キャッチにつながります。
紙一重で躱せるようになったらステップ3で栗のキャッチに進みましょう。すでに栗の軌道は見切っているので、両手を用いる必要はありません。片手で十分です。ただ熱々なので分厚い手袋を着用し、徐々にその厚さを薄くしていきます。気づけば素手でも熱さを感じなくなっているはずです。
ステップ4で口にポイと放りこみます。素早く皮を剥いてもいいですが、剥かずにそのままバリバリいくほうがよりエレガントです。死ぬほど熱くても何事もなかったかのように咀嚼してごくりと飲み下し、次のひと粒に備えましょう。ふて道ではこれを残心と言います。
敵意を持って弾丸のように向かってくる熱々の栗を軽くあしらい、あまつさえおいしいとまで感じる域に達するのはもちろん、簡単なことではありません。しかし鍛錬を重ねるうちに、自然とおいしくいただけるようになり、自然と次のひと粒に手が伸びます。ふてぶてしさにおいては無自覚こそが基本であり、かつ極意でもあるのです。がんばってください。
A. 火中の栗をおいしくいただくことから始めましょう。
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その476につづく!
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