3016年2月2日金曜日
2026年5月1日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その480
101回目のマヨネーズさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 文章でも料理でもなんでも、昨日作ったものが魅力的に感じられません。どうしても一気のエネルギーで作り上げるかさもなければ不出来なシチューにあれこれと手を加えてひどいことにするかのどちらかになってしまいがちです。せっかく自分で作った昨日(やそれ以前)のものを気持ちよく今日に迎え入れ一緒に生きる気持ちの持ち方を教えてください。
そうですね、つくるといっても文章と料理ではずいぶん隔たりがあるように感じられるので、なぜ同じように感じてしまうのかをしばらく考えてみたのだけれど、「一気に作り上げる」と「後から手を加える」という向き合い方を踏まえると、これはひょっとすると「かけるコストに対して求める見返りのほうが大きい」のかもしれません。
たとえば料理は、レシピに100%従って丁寧に再現すれば、不出来になることはまずありません。どれだけ正確にやっても不出来になるとすれば、それはレシピの書き方が悪いか、もしくはそもそもその料理自体がイマイチであるかのどちらかです。
念のため付言しておくと、きちんと計量せずに目分量でやったり材料を代用しているケースは含まれません。レシピ通りでは全然ないからです。そして実際、後から手を加えたくなる時点でレシピ通りではない可能性が高い。
だとすればそれは、本来必要な時間と労力を無意識に圧縮しようとしている、ということです。
コストの圧縮自体は別に何の問題もありません。むしろコストをかけた場合と同じ結果を求めることが問題になります。なんとなれば、思った結果にならなかったという失敗経験のほうが明らかに多く積み重なっていくことになるからです。昨日を引きずるのも無理はありません。
「おいしい料理」と「料理」では、かかるコストが異なります。料理をするだけなら材料も手順も厳密ではないわけだから、時間と労力もだいぶ違いますよね。「料理」のコストで「おいしい料理」を求めれば、そこには当然齟齬が生まれやすくなります。それは文章も同じです。
取りうる選択肢は2つあります。「おいしい料理」と「いい文章」に見合う時間と労力をかけるか、もしくは「料理ができた」「文章が書けた」というシンプルな成功に比重を移すか、そのどちらかです。いちばんいいのは、後者でちいさな成功体験を積み重ねつつ、ときどき普段よりも時間と労力を費やしてみることかもしれません。
どれだけ些細であっても成功は成功であって、積もれば当然、山になります。良いものとか魅力的なものというのは、その山のてっぺんに気づいたら咲いてる花みたいなもんですよ。
A. 求める見返りをちいさくしてみましょう。
ちなみに思いどおりに花を咲かせることができた人は、僕が知るかぎりコール・ポーターだけですね。
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その481につづく!
2026年4月24日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その479
リサイクルチョップさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 好きの反対は本当に無関心でしょうか?よく言われるこの言葉は果たして本当にそうなのでしょうか。何となくそんなもんかと思いつつ、何かが奥歯に詰まったような、準備万端で出かけたはずが何か忘れたモノがあるのではないかと心のどこかに少し不安が残るような、イマイチ腹落ちしないというのが正直なところです。ムール貝博士はどう思いますか?
たしかにこれは、よく言われることのひとつですね。実際その論理でいくと、じゃあ嫌いはどこに位置してその対義語はなんなんだ、という話になるわけだから、釈然としないのもムリはありません。わかるような気はするけれど、どうも飛躍があるようで据わりがわるい。
なぜそんなことになるかといえば、「好き/嫌い」「関心/無関心」という本来異なる比較のレイヤーをそのまま強引に統合しているからです。レイヤーを跨いでいるわけだから、当然そこには飛躍が生じるわけですね。
これを避けるために、たとえば「心に刻まれる/刻まれない」という別のレイヤーを新たに用意してみましょう。このレイヤーにおいては「好き」「嫌い」「関心」が前者、「無関心」だけが後者に置かれることになります。
好きと関心はともかく、嫌いが「心に刻まれる」側に入るのは直感に反するかもしれませんが、ネガティブな印象が消えないのなら、刻まれていないとは言えません。いうまでもなく、心に刻まれるのはいいことばかりではない。ですよね?
え、待って待って、それだと嫌いの反対も無関心にならない?と疑義を呈するきもちもわかります。ただ実際、このレイヤーにおいてはまったくもってそのとおりです。塩と砂糖がどちらも白い結晶というレイヤーでは完全に同類であることを思い浮かべてください。
それこそ芸能人なんかは「嫌い/無関心」という対比が成り立ちます。わざわざ嫌いであることを表明されるほど多くの認知を獲得しているということでもあるからです。認知(=心に刻まれること)そのものがポジティブな結果をもたらす可能性がある場合、どうあれ知られていないことよりも、知られているほうが望ましい。このレイヤーにおいて好き嫌いは問題ではありません。悪名は無名に勝るとか、炎上商法が成り立つのもそのためです。
そして嫌いにはまちがいなく、好きよりもはるかに明確な理由があります。ここが最大のポイントです。裏を返せば、嫌悪はその理由さえ解消されたら好感に転じる可能性があります。一度でも心に刻まれた以上、少なくとも無関心までリセットされることはありません。加えて嫌悪から転じた好感は、無関心から転じるよりも圧倒的に印象が強いはずです。そういう意味では、好きとの距離が遠いのは嫌いよりもむしろ無関心ということになるでしょう。こちらが好意を寄せている場合はなおさらです。
言い換えるなら、件の対比が成立するのは相手の好意が問題になる場合のみ、ということになります。たとえば相手が納豆だったら、僕らも納豆側の好意まではさすがに考えたりしないので、この場合はただ好きと嫌いがあって、その間にどちらでもないが挟まるでしょう。そしてもし納豆が僕らに食べてほしいと熱烈に望んでいる場合、ハードルが高いのは嫌いよりもむしろ無関心だとおもうので、愛されたい納豆にとって好きの対義はやっぱり無関心になります。
A. それは相手の特別な好意を望んでいるときだけの話です。
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その480につづく!
2026年4月17日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その478
暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 『さいとう』『ふくだ』等など、苗字の店名が付いてる食堂は、なぜか、想像通りの良い感じの食堂が多いとおもいません?
ふむふむ、たしかにそんな印象ありますね。たとえば「スサノオ」とか「wabi-sabi」とか「魯山人」とかと並んで「さいとう」という食堂があったら僕も「さいとう」を選びます。仮に4店とも食べ比べてどれも美味しかったとしても、気楽に再訪するのは「さいとう」なんじゃないかという気さえする。ふしぎですね。
それでまあ、つらつら考えてみたんだけど、これはひょっとすると一見素朴におもえて、なかなか奥の深い視点かもしれません。
まず、食堂であることが重要です。そもそも大衆食堂は、ジャンルを問わずいろんなメニューが雑多に混在するイメージがあります。焼き魚の定食もあれば、カレーとかラーメンとかカツ丼があったりもするでしょう。実際にはそのどれもないかもしれないけれど、少なくとも「作れそうなもんは作る」くらいの大らかさがある。つまり食堂である時点で、とにかく腹を満たしたい勢にはすでに感じがよいのです。
そして店名が姓だとすれば、それが考えうるかぎり最もシンプルな名付けである以上、食事処として何も含むところがないことを端的に示しています。「たけし」とか「ともこ」といった下の名よりもさらにアノニマスである点に注意してください。姓ほど、ただ必要だからつけただけであってそれ以上の意味がないことを示す愚直な店名はありません。
業態が大らかで店名が愚直なら、店の雰囲気も自然とそうなるだろうし、料理もそうでしょう。感じのよい確率は総じて高くなります。
大らかと愚直のどちらが欠けてもいけません。「魯山人食堂」だったら水にもこだわりがありそうだし、「和食さいとう」ならたぶん旬の野菜を使った繊細な料理が出てきます。どっちもまちがいなく美味しそうではあるけれど、大多数の僕らは毎度の食事に明確な目的意識を持っているわけではないので、「ご賞味あれ」よりは「食ってけ」くらいのカジュアルな態様のほうが、実際のところ圧倒的に助かるのです。あとたぶん、というか絶対、リーズナブルですよね。
そしてつい忘れてしまいがちですが、僕らは日々の食事に求めているのはボルテージではなくむしろある種の癒しと安らぎです。それを自然と満たすひとつの目安として、「苗字の店名が付いてる食堂」は確実に有効だと僕もおもいます。
A. そこにはたぶん、人の良さが意図せずにじみ出ているのです。
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その479につづく!
2026年4月10日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その477
勝手口にシンドバッドさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. どうしても目が行ってしまう機械(マシーン)を教えて下さい。年甲斐のない話なのですが、私は回転するドリルに目がありません。
僕もドリルは大好きです。回転する棒を押し付けても穴は空かないのに、螺旋状の刃がついただけでかくもエレガントに穴が空くものかと見惚れずにはいられません。フィギュアスケートの回転みたいな美しさがあるし、むしろ逆になぜフィギュアの選手は足に刃がついているのに氷に吸いこまれていかないのかと首を傾げるくらいです。
というかそう考えると基本、機械全般大好きですね。ある目的のためにせっせと動いている機械はそれだけで目を奪われます。ミシンなんか針の連打でなぜ縫えるのかいまだによくわからないのでつい見入ってしまう。
ロボットが好きかというと、そうでもありません。あくまで「決まった動作を繰り返す機械」が好きです。お祭りの屋台後方に置いてあるキャベツの業務用スライサーとかはもう、お好み焼きより断然気になります。道路の白線とか文字を描く機械も思いのほか原始的でとてもよろしい。
そしてもちろん、そうしたシンプルな動作を組み合わせた結果ゴツくなった機械も大好物です。とりわけ餃子の全自動成形機なんかは、人類の叡智と言っても過言ではありません。
最高ですね。家にあったら休日は稼働する様子をずっと眺めていたい。ひょっとするとスチームパンクの世界に違和感なく溶けこむ機械が好きなのかもしれません。とにかくこう、それしかできない愚直さが大事です。
それよりも僕が気になるのはご質問にあった「年甲斐もなく」というエクスキューズです。年齢に応じて嗜好が変化するのはわかりますが、そうあるのが普通は単なる圧力であって、従う必然性は何ひとつありません。好きなものは好きというただそれだけのことに異議を唱える連中はつまり上の世代の圧力に屈しただけでしかないこと、それに寄り添うこともまた次世代への圧力に加担していること、マンガやアニメだって40年くらい前はそれこそ年甲斐のないものとして扱われていたことを思い出してください。
もうちょっとしたら指先だけドリルに改造できる日がくるかもしれません。僕は正直、若造より爺さんの方が、指ドリルは似合うと思いますね。
A. 全自動餃子成形機です。
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その478につづく!
2026年4月3日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その476
チョコモナカチャンピオンさんから、8年前の質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 自分の作品の中での、パンチラインオブパンチライン…一番のパンチラインを教えてください。
パンチラインかどうかはともかく、気に入っているラインはいろいろあります。いちばん最近ので言うと「九番目の王子と怪力の姫君」にある「耳を貸せと言っては勝手に借りていく連中」なんかかなり好きです。好きとかそういう話ではないのかもしれないですけども。
一方、書いてから20年近くたった今でも、しみじみ思い返してみて、結局これに尽きる気がするよな、と思わずにいられないのは、「手漕ぎボート」での神さまとの対話です。
「もうちょっとましな舵の取り方はないの?」
「あんたが用意した船にはついてなかったよ舵なんか」
という部分ですね。20年前には想像もしてなかった日々を送っていて、かついまだに順風満帆でも別に前途洋々でもなさそうなあたり、やっぱりここに立ち戻るみたいなところがあります。いずれ順風満帆になるなんてかつて一度も考えたことないけど、昔のじぶんの肩をポンと叩いて、あのひと言、まじで真理っぽいぜとか言ってあげたいです。実際、長い年月を経ないと実感できないこともありますからね。それでいいのかどうかはさておき、個人的にはエバーグリーンなラインです。ほんとずっとこんな感じなんだな、どうなってんだ一体、という気もする。
そんなことをつらつら考えていたら、これはもうこれだけで独立した格言としてアリかもしれんな、とすら思えてきたので、いい機会だしデザインに移し替えておきました。
いい機会というのはたまたま今日からTRINCHのセールが始まったこと、そしてここだけの話、アグロー案内新作の予告みたいなことでもあるからです。
TRINCHは気づいたらこう、つくれるアイテムがびっくりするほど増えているので、もしこのデザインでこれがほしいみたいなリクエストがあればお応えできるとおもいますので、いつでもお寄せくださいませ。
A. 「手漕ぎボート」における神さまとの対話です。
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その477につづく!
2026年3月27日金曜日
「ジャクソンマイケル」について考える話
僕らは自覚以上に多くを常識のように刷り込まれている、といい年ぶっこいた大人になってもなお、しみじみ思わされることがいろいろとあるのです。
じぶんにとっての常識が他者にとってそうではないと気づいた最初期の例で言うと、僕は子どものころトマトに砂糖を振りかけて食べるのが好きだったのだけれど、それがぜんぜん当たり前の食べ方ではないことにショックを受け、恥ずかしく感じたことをよくおぼえています。
もちろん今ではわりと多くの人が愛好することを知っているので、恥ずかしいどころかそういう食べ方、愛され方もあるし、なんなら美味しいというだけのことでしかありません。「ふつうはやらない」のまま固定される人もいるでしょう。いずれにしても大多数の人は成長の過程でそうやって少しずつ常識の範囲を、探り探りアップデートしていくわけですね。
ただそれは裏を返すと、機会がなければある認知が常識として疑問を抱くことなくずっと維持されるということでもあります。僕らは自身の認知すべてを自身の意志で心から納得して取捨選択してきたわけではない。そしてそれゆえにおそらく死ぬまで、ふとした折に「あれ?」と気づいて立ち止まることがある。
僕にとってはそのひとつが、姓名の英語表記です。
たとえば山田太郎という姓名を英語表記にしたら、圧倒的大多数の人が「Taro Yamada」とするでしょう。アルファベットに置き換えるのはともかく、姓と名が日本語とは逆になっています。言うまでもなくこれは、英語圏では名が先にくるからです。
ではMichael Jacksonを日本語表記にしてみましょう。圧倒的大多数の人はこれを「マイケル・ジャクソン」とするとおもいますが、その土地の文化に従うという上記のルールに当てはめるとこれは本来「ジャクソンマイケル」になります。なんとなれば日本では姓が先にくるからです。
あれ?と思いませんか?
もし山田太郎が「Taro Yamada」であるべしというなら、Michael Jacksonは「ジャクソンマイケル」になります。
もしMichael Jacksonが「マイケル・ジャクソン」であるべしというなら、山田太郎は「Yamada Taro」になります。
そして今の僕の立場は、明確に後者です。その土地の文化を尊重できるならそれがいちばんいいな、と心からおもう。
最近になってそう思い始めたわけではありません。今から8年前の2018年にリリースされた、椎名純平、タケウチカズタケ、小林大吾によるアルバム「the 3」のジャケット画像を見てみてください。
アルファベット表記ですが、姓→名の順になっています。これはつまり、そういう理由からだったのです。
「ONE PIECE」は現代日本を代表するマンガのひとつですが、その主人公は「モンキー・D・ルフィ」と言って、明らかに英語圏寄りの名前です。しかし今や世界中に多くいる熱烈なファンたちは「ルフィ」を姓ではなく名であると認識しています。他のキャラクターにしても同様で、その表記が「Monkey D Luffy」であっても、作品世界においてはLuffyが姓ではなく名であることを明確に認識しているのです。先に置かれたMonkeyのほうが名であるべきとは言いません。
この例ひとつとってみても、僕が「小林大吾」を「Daigo Kobayashi」と姓名を逆に表記する必要性など、じつは全然なかったと言わざるを得ません。どうしてもそうあるべきというのであれば、Michael Jacksonもまた日本ではジャクソンマイケルと表記しなければならないということになるでしょう。
正しくはこうあるべきとか、是非を問いたいわけではありません。別に必要ならそれでいいとおもう。ただなんというかこう、日ごろから「ふつうなんてない」と思っているはずの自分のポケットから今もぽろぽろとふつうが転がり出てくることに今も驚くし、呆れてしまうのです。やんなっちゃうよな。
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