3016年2月2日金曜日
2026年5月8日金曜日
ペガサス、もしくは野生の富豪についてときどき考える話
日々の合間を見つけつつ、アグロー案内の新作をちまちま書き進めています。
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表題のままっちゃそのままなんだけど、どうにかこうにか生き延びてだいぶいい年になってくると、そういうことをふと、考えたりするのです。
字義どおりの富豪では、もちろん全然ありません。際立つのはむしろ真逆に稼ぎを心配されるくらいのケースでしょう。要は人が好きで、人に愛されている人のことです。
顔が広いってことでしょ、とおもうかもしれませんが、ちょっとちがいます。というかそれを言ったら富豪になればなるほど顔は広くなります。何しろありとあらゆる局面で、できることが人よりも明らかに多い立場だからです。したがって資産の多寡が関係に影響しないことが条件である、とも言えましょう。
多かれ少なかれ、顔の広さにはメリットが付随します。特定の好ましい人とつながる可能性があるなら、媒介となる人と面識があることはそれ自体がすでにメリットです。社会における人間関係とはその一言に尽きるとさえおもう。
ただ世の中には、つながることで得られるメリットがあるかどうかを問わず、好かれているというだけで結果としてめちゃめちゃ顔の広い人が存在します。それが野生の富豪です。
それをなぜ富豪と呼べるかといえば、やはり同じようにありとあらゆる局面で、やろうと思えばできることが人よりも明らかに多いからです。すくなくとも、困窮極まったときに誰を頼っていいかわからない事態に陥ることはありません。助けて!と必要ならいつでも率直に言えるし、力になりたいと考える人々がいつでも待ち構えています。富豪と同じことができるのならそれはもうまちがいなく豊かだし、それでいて裸一貫みたいなものだとすればこれを野生と言わずに何と言おう。
言うまでもなく当人がそうありたいと望んでいるわけではなくて、ただただ、結果としてそうなっているのがポイントです。柔和であるとか、活力があるとか、隙があるとか、裏表がないとか、欲がないとか、声とか表情とか、要素を一つひとつ挙げることはできるんだけれど、どう考えてもそれだけではないし、何ならそのどれも当てはまらないケースもあります。そうなるともう、磁場とか引力とかフェロモンに近い。
物理的な資産の獲得による富豪とちがって、野生の富豪は望んでなれるものではありません。その自覚がないことこそ大前提、と言ってもいいでしょう。意図して得られる好感もあるだろうけど、そのためには死ぬまで意図を維持しつづけることが求められるからです。
人生を再現なくやり直せば富豪になる未来なんかも余裕であるでしょう。一方で野生の富豪はそうなりたいと望む時点でまず無理です。そういう意味で本当に得難い希少な、馬に翼が生えたような存在だと、感嘆せずにはいられません。
まじで実在するペガサスみたいな人を遠目に眺めながら、せめて今あるささやかな縁を大切にしよう、と胸に刻む今日このごろです。
2026年5月1日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その480
101回目のマヨネーズさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 文章でも料理でもなんでも、昨日作ったものが魅力的に感じられません。どうしても一気のエネルギーで作り上げるかさもなければ不出来なシチューにあれこれと手を加えてひどいことにするかのどちらかになってしまいがちです。せっかく自分で作った昨日(やそれ以前)のものを気持ちよく今日に迎え入れ一緒に生きる気持ちの持ち方を教えてください。
そうですね、つくるといっても文章と料理ではずいぶん隔たりがあるように感じられるので、なぜ同じように感じてしまうのかをしばらく考えてみたのだけれど、「一気に作り上げる」と「後から手を加える」という向き合い方を踏まえると、これはひょっとすると「かけるコストに対して求める見返りのほうが大きい」のかもしれません。
たとえば料理は、レシピに100%従って丁寧に再現すれば、不出来になることはまずありません。どれだけ正確にやっても不出来になるとすれば、それはレシピの書き方が悪いか、もしくはそもそもその料理自体がイマイチであるかのどちらかです。
念のため付言しておくと、きちんと計量せずに目分量でやったり材料を代用しているケースは含まれません。レシピ通りでは全然ないからです。そして実際、後から手を加えたくなる時点でレシピ通りではない可能性が高い。
だとすればそれは、本来必要な時間と労力を無意識に圧縮しようとしている、ということです。
コストの圧縮自体は別に何の問題もありません。むしろコストをかけた場合と同じ結果を求めることが問題になります。なんとなれば、思った結果にならなかったという失敗経験のほうが明らかに多く積み重なっていくことになるからです。昨日を引きずるのも無理はありません。
「おいしい料理」と「料理」では、かかるコストが異なります。料理をするだけなら材料も手順も厳密ではないわけだから、時間と労力もだいぶ違いますよね。「料理」のコストで「おいしい料理」を求めれば、そこには当然齟齬が生まれやすくなります。それは文章も同じです。
取りうる選択肢は2つあります。「おいしい料理」と「いい文章」に見合う時間と労力をかけるか、もしくは「料理ができた」「文章が書けた」というシンプルな成功に比重を移すか、そのどちらかです。いちばんいいのは、後者でちいさな成功体験を積み重ねつつ、ときどき普段よりも時間と労力を費やしてみることかもしれません。
どれだけ些細であっても成功は成功であって、積もれば当然、山になります。良いものとか魅力的なものというのは、その山のてっぺんに気づいたら咲いてる花みたいなもんですよ。
A. 求める見返りをちいさくしてみましょう。
ちなみに思いどおりに花を咲かせることができた人は、僕が知るかぎりコール・ポーターだけですね。
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その481につづく!
2026年4月24日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その479
リサイクルチョップさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 好きの反対は本当に無関心でしょうか?よく言われるこの言葉は果たして本当にそうなのでしょうか。何となくそんなもんかと思いつつ、何かが奥歯に詰まったような、準備万端で出かけたはずが何か忘れたモノがあるのではないかと心のどこかに少し不安が残るような、イマイチ腹落ちしないというのが正直なところです。ムール貝博士はどう思いますか?
たしかにこれは、よく言われることのひとつですね。実際その論理でいくと、じゃあ嫌いはどこに位置してその対義語はなんなんだ、という話になるわけだから、釈然としないのもムリはありません。わかるような気はするけれど、どうも飛躍があるようで据わりがわるい。
なぜそんなことになるかといえば、「好き/嫌い」「関心/無関心」という本来異なる比較のレイヤーをそのまま強引に統合しているからです。レイヤーを跨いでいるわけだから、当然そこには飛躍が生じるわけですね。
これを避けるために、たとえば「心に刻まれる/刻まれない」という別のレイヤーを新たに用意してみましょう。このレイヤーにおいては「好き」「嫌い」「関心」が前者、「無関心」だけが後者に置かれることになります。
好きと関心はともかく、嫌いが「心に刻まれる」側に入るのは直感に反するかもしれませんが、ネガティブな印象が消えないのなら、刻まれていないとは言えません。いうまでもなく、心に刻まれるのはいいことばかりではない。ですよね?
え、待って待って、それだと嫌いの反対も無関心にならない?と疑義を呈するきもちもわかります。ただ実際、このレイヤーにおいてはまったくもってそのとおりです。塩と砂糖がどちらも白い結晶というレイヤーでは完全に同類であることを思い浮かべてください。
それこそ芸能人なんかは「嫌い/無関心」という対比が成り立ちます。わざわざ嫌いであることを表明されるほど多くの認知を獲得しているということでもあるからです。認知(=心に刻まれること)そのものがポジティブな結果をもたらす可能性がある場合、どうあれ知られていないことよりも、知られているほうが望ましい。このレイヤーにおいて好き嫌いは問題ではありません。悪名は無名に勝るとか、炎上商法が成り立つのもそのためです。
そして嫌いにはまちがいなく、好きよりもはるかに明確な理由があります。ここが最大のポイントです。裏を返せば、嫌悪はその理由さえ解消されたら好感に転じる可能性があります。一度でも心に刻まれた以上、少なくとも無関心までリセットされることはありません。加えて嫌悪から転じた好感は、無関心から転じるよりも圧倒的に印象が強いはずです。そういう意味では、好きとの距離が遠いのは嫌いよりもむしろ無関心ということになるでしょう。こちらが好意を寄せている場合はなおさらです。
言い換えるなら、件の対比が成立するのは相手の好意が問題になる場合のみ、ということになります。たとえば相手が納豆だったら、僕らも納豆側の好意まではさすがに考えたりしないので、この場合はただ好きと嫌いがあって、その間にどちらでもないが挟まるでしょう。そしてもし納豆が僕らに食べてほしいと熱烈に望んでいる場合、ハードルが高いのは嫌いよりもむしろ無関心だとおもうので、愛されたい納豆にとって好きの対義はやっぱり無関心になります。
A. それは相手の特別な好意を望んでいるときだけの話です。
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その480につづく!
2026年4月17日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その478
暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 『さいとう』『ふくだ』等など、苗字の店名が付いてる食堂は、なぜか、想像通りの良い感じの食堂が多いとおもいません?
ふむふむ、たしかにそんな印象ありますね。たとえば「スサノオ」とか「wabi-sabi」とか「魯山人」とかと並んで「さいとう」という食堂があったら僕も「さいとう」を選びます。仮に4店とも食べ比べてどれも美味しかったとしても、気楽に再訪するのは「さいとう」なんじゃないかという気さえする。ふしぎですね。
それでまあ、つらつら考えてみたんだけど、これはひょっとすると一見素朴におもえて、なかなか奥の深い視点かもしれません。
まず、食堂であることが重要です。そもそも大衆食堂は、ジャンルを問わずいろんなメニューが雑多に混在するイメージがあります。焼き魚の定食もあれば、カレーとかラーメンとかカツ丼があったりもするでしょう。実際にはそのどれもないかもしれないけれど、少なくとも「作れそうなもんは作る」くらいの大らかさがある。つまり食堂である時点で、とにかく腹を満たしたい勢にはすでに感じがよいのです。
そして店名が姓だとすれば、それが考えうるかぎり最もシンプルな名付けである以上、食事処として何も含むところがないことを端的に示しています。「たけし」とか「ともこ」といった下の名よりもさらにアノニマスである点に注意してください。姓ほど、ただ必要だからつけただけであってそれ以上の意味がないことを示す愚直な店名はありません。
業態が大らかで店名が愚直なら、店の雰囲気も自然とそうなるだろうし、料理もそうでしょう。感じのよい確率は総じて高くなります。
大らかと愚直のどちらが欠けてもいけません。「魯山人食堂」だったら水にもこだわりがありそうだし、「和食さいとう」ならたぶん旬の野菜を使った繊細な料理が出てきます。どっちもまちがいなく美味しそうではあるけれど、大多数の僕らは毎度の食事に明確な目的意識を持っているわけではないので、「ご賞味あれ」よりは「食ってけ」くらいのカジュアルな態様のほうが、実際のところ圧倒的に助かるのです。あとたぶん、というか絶対、リーズナブルですよね。
そしてつい忘れてしまいがちですが、僕らは日々の食事に求めているのはボルテージではなくむしろある種の癒しと安らぎです。それを自然と満たすひとつの目安として、「苗字の店名が付いてる食堂」は確実に有効だと僕もおもいます。
A. そこにはたぶん、人の良さが意図せずにじみ出ているのです。
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その479につづく!
2026年4月10日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その477
勝手口にシンドバッドさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. どうしても目が行ってしまう機械(マシーン)を教えて下さい。年甲斐のない話なのですが、私は回転するドリルに目がありません。
僕もドリルは大好きです。回転する棒を押し付けても穴は空かないのに、螺旋状の刃がついただけでかくもエレガントに穴が空くものかと見惚れずにはいられません。フィギュアスケートの回転みたいな美しさがあるし、むしろ逆になぜフィギュアの選手は足に刃がついているのに氷に吸いこまれていかないのかと首を傾げるくらいです。
というかそう考えると基本、機械全般大好きですね。ある目的のためにせっせと動いている機械はそれだけで目を奪われます。ミシンなんか針の連打でなぜ縫えるのかいまだによくわからないのでつい見入ってしまう。
ロボットが好きかというと、そうでもありません。あくまで「決まった動作を繰り返す機械」が好きです。お祭りの屋台後方に置いてあるキャベツの業務用スライサーとかはもう、お好み焼きより断然気になります。道路の白線とか文字を描く機械も思いのほか原始的でとてもよろしい。
そしてもちろん、そうしたシンプルな動作を組み合わせた結果ゴツくなった機械も大好物です。とりわけ餃子の全自動成形機なんかは、人類の叡智と言っても過言ではありません。
最高ですね。家にあったら休日は稼働する様子をずっと眺めていたい。ひょっとするとスチームパンクの世界に違和感なく溶けこむ機械が好きなのかもしれません。とにかくこう、それしかできない愚直さが大事です。
それよりも僕が気になるのはご質問にあった「年甲斐もなく」というエクスキューズです。年齢に応じて嗜好が変化するのはわかりますが、そうあるのが普通は単なる圧力であって、従う必然性は何ひとつありません。好きなものは好きというただそれだけのことに異議を唱える連中はつまり上の世代の圧力に屈しただけでしかないこと、それに寄り添うこともまた次世代への圧力に加担していること、マンガやアニメだって40年くらい前はそれこそ年甲斐のないものとして扱われていたことを思い出してください。
もうちょっとしたら指先だけドリルに改造できる日がくるかもしれません。僕は正直、若造より爺さんの方が、指ドリルは似合うと思いますね。
A. 全自動餃子成形機です。
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その478につづく!
2026年4月3日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その476
チョコモナカチャンピオンさんから、8年前の質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 自分の作品の中での、パンチラインオブパンチライン…一番のパンチラインを教えてください。
パンチラインかどうかはともかく、気に入っているラインはいろいろあります。いちばん最近ので言うと「九番目の王子と怪力の姫君」にある「耳を貸せと言っては勝手に借りていく連中」なんかかなり好きです。好きとかそういう話ではないのかもしれないですけども。
一方、書いてから20年近くたった今でも、しみじみ思い返してみて、結局これに尽きる気がするよな、と思わずにいられないのは、「手漕ぎボート」での神さまとの対話です。
「もうちょっとましな舵の取り方はないの?」
「あんたが用意した船にはついてなかったよ舵なんか」
という部分ですね。20年前には想像もしてなかった日々を送っていて、かついまだに順風満帆でも別に前途洋々でもなさそうなあたり、やっぱりここに立ち戻るみたいなところがあります。いずれ順風満帆になるなんてかつて一度も考えたことないけど、昔のじぶんの肩をポンと叩いて、あのひと言、まじで真理っぽいぜとか言ってあげたいです。実際、長い年月を経ないと実感できないこともありますからね。それでいいのかどうかはさておき、個人的にはエバーグリーンなラインです。ほんとずっとこんな感じなんだな、どうなってんだ一体、という気もする。
そんなことをつらつら考えていたら、これはもうこれだけで独立した格言としてアリかもしれんな、とすら思えてきたので、いい機会だしデザインに移し替えておきました。
いい機会というのはたまたま今日からTRINCHのセールが始まったこと、そしてここだけの話、アグロー案内新作の予告みたいなことでもあるからです。
TRINCHは気づいたらこう、つくれるアイテムがびっくりするほど増えているので、もしこのデザインでこれがほしいみたいなリクエストがあればお応えできるとおもいますので、いつでもお寄せくださいませ。
A. 「手漕ぎボート」における神さまとの対話です。
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