2024年3月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その418


アンハッピーターンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 読みたいな。と思って買った本なのに、どうしてか本棚にしまって読まずじまいのうちに次の本を買ってしまいます。全部の本を読み切るにはどうしたらいいでしょう。


いわゆる積読というやつですね。僕も家にあって読んでない本、結構あります。それでなくとも買うときは読み終わっても売らずに蔵書にしたいかどうかを基準にしているのでかなり厳選しているはずですが、それでもやっぱり積まれます。因果なことですね。

とはいえ原因はわりとはっきりしています。本を買うときは、誰であれ読む時間のことなど考えていないからです。

まだ配信というシステムがなかったころ、僕は月に30枚前後のCDを買っていましたが(よく考えたら1日1枚のペースです)、聴かずに積み上げた記憶はまったくありません。その日のうちにというか帰宅したら即再生していたし、それこそ繰り返し聴いていました。

一方で、これは僕のことではないけれど、プラモデルなんかも本と同じように積まれていくと聞いたことがあります。老後の愉しみにしている人も、まだ多くいるんではなかろうか。

音楽はCDであれレコードであれ、アルバムを聴き終えるのに1時間あればおおむね事足りたし、たとえば料理をしながらとか、散歩しながらとか、武器の手入れをしながらとか、何なら残しておくとまずい証拠を隠滅しながらでも楽しむことができます。

しかし書物やプラモデルはそうもいきません。時間はそのためだけに費やされるし、内容が充実していればしているほど、それに比例して費やされる時間も増えていきます。べつに一度に消化する必要は全然ないのだけれど、どうしてもゴールまでの所要時間を想定して向き合ってしまうわけですね。音楽としてのアルバムが数時間単位だったら、ながら聴きできるとしてもやっぱり本と同じように積まれていたとおもう。

僕が店番を務める古書店にときどき来られるお客さんで、常に数冊の本を持ち歩いている人がいます。聞けば出勤前に必ず勤め先近くの喫茶店で読書の時間を設けているそうですが、それは通勤中の電車で読む本とは別(!)なのだそうです。

これと同じくらい、というのは例えば就寝前のストレッチと同じくらい、読書が日々のルーチンに組み込まれていれば、読める本の数は飛躍的に増えるでしょう。ただそれでもやはり、本は積まれていきます。なんとなればそのぶん書店に通う回数も増えるわけだし、それでいて「買うのは誰でもいつでも一瞬」だからです。

本を買うのに費やす時間と、本を読むのに費やす時間がイコールでないかぎり、積まれた本が減ることはありません。仮にどんな本でも30分で読み切れるスキルを身につけたとしても、購入する冊数が増えるだけでやっぱり積まれていくでしょう。当たり前といえば当たり前という気もするのに、なぜか僕らはいつも首を傾げています。へんですね。

未読の本を読み終えるまで書店に行かなければいいじゃないか、とじつに尤もな、これ以上ない正論をおっしゃる御仁もあるでしょう。しかしそれは本をあまり読まないから言えることである、と僕らは断言できます。本が好きな人はそれを読むのと同じくらい、書店に行くことが好きだからです。書店に行かないということはつまり本を読まないことと同義であり、行かないことが読まないことと同じなら行かないかぎり読まないことになるので、やっぱり本は積まれたままになります。へんですね。

したがって、部屋に積まれた本を読み切ることは未来永劫ありません。

しかしそれは裏を返せば本が部屋に積んであるかぎり書店には通いつづけるということであり、書店に通いつづけるかぎり書物に対する愛情もまた変わらずにあり続けるということでもあります。

突き詰めると何のための何なのかわからなくなってくる気もするけれど、でもそれでいいじゃないですか?よくない理由が果たしてあるだろうか?

なのでもう、あまり深く考えずにどんどん積んでいきましょう。積めば積むほど、というか何ならそれゆえにこそ、書物への愛は深まると僕はおもいます。そしてどうあれ最後まで守り抜くべきものが愛であることに、誰も異論はないはずです。


A. むしろ読みきれない状態を維持することこそが愛です。




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その419につづく!

2024年2月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その417


パーリーピーポくんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは宇宙旅行したいですか?私はいつか宇宙へいきっぱなしの旅行をしたいのですが、現代の技術では行けるところが限られています。世界一周もいいけれど、私はこの星より掴めないものや届かないものを知りたいです。


不世出の天才、手塚治虫のライフワークの一つに「火の鳥」があります。僕はこれを小学生の時に月刊マンガ少年の別冊で読んでいて(「ブッダ」もたしか同じ時期に別冊少年ワールドで読んでる)、いいおっさんになってしまった今でも折にふれては思い出すシーンがいくつもあるくらいには脳みそに刻みこまれているのだけれど、「ヤマト編」「鳳凰編」とテーマごとに分かれたシリーズのうち「宇宙編」はもう、とにかく冒頭から結末まで圧倒的に怖くていまだに忘れられません。

とりわけ脳裏に刻みこまれているのは、宇宙船が航行不能になり、数人の乗組員がそれぞれ一人用の脱出ポッドで宇宙を漂流する場面です。

このポッドには人が一人寝そべるだけのスペースしかありません。また航行機能はついていないので、本当にただ漂流するだけです。通信によって他の乗組員たちと会話することはできますが、ポッド同士がお互いに遠ざかるとこれも不可能になります。ポッド内における生命の維持は1年くらいが限度です。つまりこの状況から助かるためには、ポッドの生命維持が機能している間に、居住可能な惑星に辿り着くか、別の誰かに救出してもらうしかありません。そして物語中では、一つ、また一つとポッドが離れていき、それまで交わされていた会話ができなくなっていくのです。

怖すぎる。

四方に島影のない大海原のど真ん中を漂うのだってめちゃめちゃ怖いのに、宇宙ですよ!

おかげで僕は身動きの取れない閉鎖空間がめちゃめちゃ苦手になりました。まだやったことないけど、MRIとかパニックにならずにいられる自信がありません。


宇宙に対する憧れはもちろんあります。ただその憧れは、宇宙の無慈悲に対する恐怖と比べたらささやかなものです。この恐怖を克服するためには、いつでも楽に死ねるという安楽死的選択肢を常に身につけていなくてはなりません。

また、僕らの多くは地球で学んだ知識や物理法則が宇宙でもある程度までは普通に通じると思っているところがありますが、僕自身は地球における何から何までが宇宙においてはむしろ例外中の例外だと考えています。

生命という僕らにとって根源的な概念はもちろん、知能や五感、意識や感情といった感覚も全部ひっくるめて地球用にカスタマイズされているはずだし、そう考えるほうが自然です。宇宙は地球の延長では絶対にない。

さらに宇宙全体に対する地球のサイズ感は、おそらく知識や想像力にも当てはまります

試しにじぶんの身長を100万分の1に縮小してみましょう。これでもまだめちゃめちゃ大きすぎますが、想像する分にはこれくらいでよろしい。その小さな自分を、部屋の真ん中にぽちっと置いてみます。100万分の1なので、10cmが現実世界の100kmに当たります。たとえワンルームであっても、100万分の1の世界では何もない荒野が果てしなく広がるわけですね。そして現実世界の僕らにとっては屁でもない極小サイズのものすべてが脅威です。

宇宙ステーションから眺める地球は写真で見ても美しいですが、これは地上から400km上空の景色なので、これを100万分の1の世界に置き換えると40cmになります。40cmですよ!僕の身長だと膝にも届かない。ちなみに6畳一間のワンルームを横断するとしたら、少なくとも3000km以上は移動することになります。

さて、地球の直径に置き換えても1/4に満たないこのワンルーム宇宙で僕らが得られる驚異と感動は、果たして脅威と退屈の総量を上回るだろうか?

僕個人はむしろ地球のほうがはるかに脅威が少なく、それでいて無数の驚異に今も満ち満ちている気がします。宇宙は僕らが思うよりもずっと広大で、どう考えても虚無のほうが多いと言わざるを得ません。それでなくとも僕らは自分が実際に知る以上に、知っていると思いこみすぎなのです。

核シェルターとしても機能する(!)と言われる古代カッパドキアの不可解すぎる地下都市がいったい何のために作られたのか(礼拝のためと言われているけれど、実際のところ必要性とぜんぜん連動していない)、その全貌もいまだ定かではないというのに宇宙だなんて片腹痛いし、足元のアスファルトに咲く小さな花の名を知るほうがよほど甲斐がある、と僕はおもいます。ほんとに。


A. 500年くらい寿命があったら気晴らしにちょっと行ってみたいですね。




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その418につづく!

2024年2月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その416


てぶくろを解任さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. めんどうな用事はもちろんのこと楽しいであろう用事さえも行くまでが憂鬱で億劫なことが多いです。人間はなぜそのようにできているのでしょうか?


これはですね、まずヒトがいかに特殊で不遜な生物であるかということから始めなくてはなりません。

僕ら人間をのぞいて、およそすべての生物は常に死と隣合わせの日々を送ります。なんとなれば自身を食料とする上位の生物がいるからです。ライオンくらい上位になると捕食される危険性はあまりないですが、その代わりに食料調達のハードルがやたらと高く、ふつうに餓死と隣り合わせです。したがって、生物が生きるためにかかるコストは例外なく死を遠ざけるために費やされます。

このヒリついた環境では、いつもと違うちょっとした行動が命取りになりかねません。ヒトにとっては美点ともされる好奇心も、多くの生物にとってはハイリスクかつ場合によってはリターンどころか即死です。好奇心がないとは言わないし、ものすごく低い確率で莫大なリターンを得ることもあるんだけど、いずれにしてもギャンブルに近い衝動であることは間違いありません。生存に不可欠でない行為はしないに越したことはない、が生物としての不文律であると断言してもよいでしょう。今まさに死に瀕していないかぎり、生物においては事なかれ主義こそが生き延びる上で最上の戦略です。

ではこの視点から「楽しいお出かけ」について考えてみましょう。ヒト以外の生物が予定を組むことはまずないのでこれだけでも十分に異常きわまりないわけですが、これをダンゴムシにもわかる共通の意味に置き換えると「不可欠ではないイレギュラーな行動」になります。先にも述べたように生存戦略的には当然ハイリスクであって、全生物から総スカンを食らう愚行ということになるでしょう。この死にたがりめ!と罵られること請け合いです。

もちろん楽しいお出かけくらいでヒトが死の危険に晒されることはありません。ダンゴムシからどれだけブーイングを浴びようと、楽しく遊んでハッピーに帰ることが高確率で保証されています。それでなくとも本来なら全生物でシェアするはずの資源も浪費し放題だし、特権階級ここに極まれりと言うほかない。

とはいえ何から何まで異端尽くしでわがまますぎる存在であるヒトもまた、元を辿れば原材料はダンゴムシと同じです。ごはんは食べるし、うんこもするし、生殖もします。であれば今もその辺をころころ転がる多くのダンゴムシたちと同じように、先に挙げた生物としての不文律を本能的に保っていても不思議ではありません。生存に直結しない行動に躊躇いを感じるのは至極まっとうなことであると申せましょう。

極論すれば億劫とは、ヒトにかぎらずすべての生物において生存戦略的にきわめて妥当な感覚でもあるのです。だって別に、それをしないからと言って死にはしないんだもの。

七面倒くさい回り道をしながらごちゃごちゃと申してきましたが、ここではっきりと明確に結論づけておきましょう。

億劫とはひとつの真実であり、またある種の正義でもあると。

なので僕も貴重なエネルギーを温存するためにもうすこし寝ます。


A. 生存に不可欠な用事ではないからです。




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その417につづく!

2024年2月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その415


瓢箪からトマホークさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一人暮らしなのに、つい勢いであまりにも巨大な三浦大根を買ってしまったので、その使い方を教えてください。


何しろ一人暮らしでは誰も止めてくれないので、勢いで巨大な三浦大根を買ってしまうことがよくあります。どうせなら巨大な三浦大知がよかったと枕を濡らす夜もしばしばです。しかしいつまでもめそめそと大知くんを想っていても仕方がないので、ここはやはり目の前にある大根と向き合うことに集中しましょう。

圧倒的かつ順当な用途としては、やはり食べることです。生でもいいし、漬けてもいいし、蒸しても煮ても焼いても美味しくいただけます。食べ切るには大きすぎてちょっと多い場合は、大根を削って箸にしたり、くり抜いて茶碗にするのもよいでしょう。彫刻ができるのも、ほうれん草のような軟弱な連中には真似のできない、大根の大きな強みのひとつです。

大根は半分に切ると、スマートスピーカーによく似ています。テーブルに置いて、ときどき話しかけてみましょう。もちろん大根なので反応はしないはずですが、そうとも言い切れないのが人生のおもしろいところです。当たり前のように話しかけていると、そのうち大根も答えるのが当たり前のような気になるかもしれないし、ならなかったら食べてください。

大根には桂むきという切り方があります。くるくると回転させながら切れないように1本の帯をつくる手法ですが、これを道路の白線として使用するのも一興です。2車線を4車線にしたり、何もないところに停止線を引いたりして遊びましょう。自分が渡りたいときにだけ使うマイ横断歩道なんかも夢があっていいですね。

積もる雪にさわりたいけどちょっと冷たいしな、という時は大根をすりおろすとその代用になります。もちろん雪だるまも作れるし、温めても融けません。これは雪にない最大の長所であり、代用でありながらむしろ雪を凌駕している点でもあります。大量にすりおろせば、ゲレンデとして真夏にスキーやスノーボードを楽しむことも夢ではありません。

もちろん鈍器としても有効です。いけすかないやつの脳天めがけて垂直に振り下ろしましょう。大根が勝つか脳天が勝つか、目にもの見せてやりたいところです。

身長と同じくらいのサイズなら、身代わりの術にも使えます。ここぞというときに素早く入れ替わりましょう。問題があるとすればどうやって持ち歩くかですが、それは持ち歩く人間の問題であって大根の問題ではありません。

もちろん、危機に直面して瞬時に身代わりの術を繰り出せるほど忍術に長けていない人もいます。僕もその一人です。その場合には、夜のお供として抱き枕に転用しましょう。食べてしまいたいという口説き文句がぴったりの素敵なパートナーです。いい夢が見られるのは間違いありません。

大根は水に浮きます。難破時の救命ブイとして使うこともできるでしょう。この場合、大きければ大きいほど功を奏します。あるいはぜんぜん役に立たないかもしれませんが、それはつかまる人間の問題であって、大根の問題ではありません。

この中で一つ選ぶとなったら、僕は鈍器にします。首尾よくぶちのめした後は美味しく食べることもできるし、栄養にもなるし、なおかつ証拠が隠滅できて一石四鳥です。言うことありません。


A. 鈍器として使えます。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その416につづく!

2024年2月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その414


アラビアンな伊藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.「日本料理」と「和食」の違いはなんでしょうか?


これはなかなか奥の深い質問です。僕も、というには視点が違うのでアレだけれども、このふたつの言葉には昔から関心を寄せています。というのも、そもそも海外視点でないかぎり自国の料理を客観的に表現する必要はないはずだからです。たぶん、もはやそれが基本というより選択肢のひとつにすぎないからだとおもうんだけど、そういう国って他にもあるんだろうか?

本題に戻りましょう。

最大の違いは文字です。漢字にしてもひらがなにしても、見た目と数がぜんぜん違います。読みで言ったらかろうじて「ょ」だけが共通していますが、だからどうしたというほかありません。こと文字に関してはまるっきり違うと断言してよいでしょう。書かれていないひらがなを引き合いに出して「ょ」はどうしたと野暮を宣う御仁もあるでしょうが、折しも明日は節分だし、欲しけりゃくれてやると豆もろとも投げつけてやればよろしい。何しろ小さいので、散らばった豆に紛れたら見分けがつきません。ことによると豆を拾ったつもりでぽりぽり食べてしまう可能性もあります。

そうなればしめたものです。再度「ょ」を問題にするには排泄を待たなくてはなりません。仮にうまいことぷりっと排泄できたとしてもそれを俎上に載せるのはさすがにもうむりでしょう。俎上の俎ってまな板のことですからね。

腸を旅する「ょ」の話はさておき、原則として日本でしかお目にかかれない料理であればそれらはすべからく日本料理で和食です。というか、そうでないと否定することは誰にもできません。その上で、個人的な解釈にすぎないことを踏まえつつあえて区別してみるなら、外国人主体が日本料理、日本人主体が和食です。わりと明快ですね。

これを前提にすると、若干の違いも見えてきます。たとえば海外由来とはいえ独自の発展を遂げたラーメンは今や明確に日本料理と認識されている印象がありますが、和食と認識されることはあまりありません。同じようにカレーライスは最も愛されている国民食のひとつでありながら、日本料理と和食のどちらにも与しない印象があります。海外由来であることが問題になるなら、イタリア料理におけるトマトなんかはそもそも南米由来で、おまけに食用になったのも19世紀以降(!)です。ソースなしには成り立たないたこ焼きや焼きそばはどうだろう?

とまあ、一品一品を検証し出すとキリがないので、このへんにしておきましょう。こうなると和食とは何かということについてアンケートをとってみたくなりますね。何なら伝統とは何かという剣呑な論点にまで足を踏み入れることになってしまいそうです。


A. 外国人主体が日本料理、日本人主体が和食です。




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その415につづく!


2024年1月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その413


ポンコツ脱退さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)換骨奪胎をもじったつもりなんだけど、変に生々しくて気づいてもらえる気がしないですね…。


Q. 「これはちょっとラッキーだったな」と思ったことはなんですか?


「ちょっとラッキー」というサイズ感がいいですね。人生にはその有無で未来が変わるような得難いラッキーもあるけれど、それは「ちょっと」ではないし、突き詰めると運の強弱みたいなことになりかねないので、話がそれだけで完結してしまいます。できれば河原で拾った変な石くらい他人にとってどうでもいいほうが、語りがいもあるというものです。そういう縛りでみんなとちまちまシェアしながら「最高のちょっとラッキー」を決めたりしたい。

それでいうと、何だろうなあ…

真夜中に職務質問をされた挙句、パトカーでアパートまで送ってもらったことがあります。

当時の僕は風貌のせいかちょいちょい職務質問をされていたのでそれ自体はわりと日常というかどうということもないんだけれど、ふつうは何らかの事件に関わりがないかぎりパトカーなんかに乗ることはないと思うので、何ひとつ事件性がないにも関わらずパトカーに乗ったという点ではちょっとラッキーだったと思います。それをラッキーと呼ぶかどうかは人による気もしますけど、少なくとも僕にとってはいい思い出です。

ただし、警官の善意ではありません。というのも僕はこのとき、カッターナイフを持っていたからです。もちろんそこには明確な理由があるんだけれど、それはあくまで僕にとって明確というだけで、赤の他人、とりわけ警官にとっては不審なことこの上ありません。というか、僕だって客観的に考えたらそんなやつを野放しにするなとおもう。

真夜中にカッターナイフを所持する男があてどなくうろうろしているように見える極めて剣呑な状況をどう釈明してどう乗り切ったのかは覚えていないけれども、「とにかく用がないなら帰りなさい、家はどこなの、送ってあげるから」みたいな流れだったような気がします。僕としては、えっうそ乗せてくれるの、やった!というかんじだったのでいそいそと乗りこんだ次第です。警官にとっては念のために住所を特定しておこうという思惑だったのかもしれません。

僕がそのときそこで何をしていたのかはまた別の話だし、長くなるので割愛しますが、ここで言いたいのは「パトカーでアパートまで送ってもらったことがある」ということです。めちゃめちゃ不審というだけで悪いことをしたわけではないし、する予定も当然なかったことだけは明記しておきましょう。

それで思い出したけど、そのアパートから引っ越すことになって荷物を運び出すためにうちの人がレンタカーで2tトラックを借りてぶいぶい迎えに来てくれたときの話があります。ハンドルがデカくて、ギアもサイドブレーキも普通車とは違う位置にあって、車高が高い、いかにもトラックという感じのトラックです。たぶん普通免許で運転できるいちばん大きな車だったとおもう。

何から何まで勝手が違うのにぶじ荷物を運び終えてすげーなと感心していたら、渋谷の駅前で坂道発進に失敗して後続車にガションと接触してしまいました。軽微とはいえ、はっきりと事故です。

相手の方はたいそうお怒りで、というかそりゃそうなんだけど、レンタカーでよそ様の愛車を傷つけてしまうなんてこれはえらいことになったとハラハラしていたら、ここでちょっとした奇跡が起こります。

というのは、接触した相手の車もまたレンタカーだったのです。

それは一体どれくらいの確率なんだ…。

もちろん相手にとってどう考えても不要な時間を強いてしまったことは確かだしレンタカー会社にも本当に申し訳ないかぎりなんだけれども、事故処理としてはびっくりするほどあっさり済みました。

厳密には僕個人のラッキーではないので忘れていましたが、僕の人生におけるベストオブちょっとラッキーという意味ではたぶんこれになると思います。


A. パトカーでアパートまで送ってもらったことがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その414につづく!