2026年10月9日金曜日

「アグローと夜」に向けたちかごろのわたくし雑感


さて、年に一度の「アグローと夜」まで1ヶ月をきりました。日取りを決めたのはもうかれこれずいぶんと前のことで、まだ半年ある、まだ3ヶ月ある、と他人事のようにぼんやりしつつ、アグロー通信の収録時における打ち合わせという名の雑談で「あれをやりましょう」「ええやん。ところであれもやらん?」「やりましょう」などと楽しげなアイデア交換でキャッキャしているうちに気づいたら1ヶ月ありません。

今さら言うまでもないけれど、タケウチカズタケは多忙な男です。年々忙しくなっていると言っても過言ではない。早い段階で日取りが決まっていたのも、うっかりするとその他の予定がどんどん埋まってしまうためであり、そんなあれやこれやの合間をすばやく縫いながら、いつもフルスロットルでアグロー案内に取り組んでくれています。本当に頭が上がりません。

問題は僕です。今さら言うまでもないけれど、僕は昔も今もそんなに多忙な男ではありません。少なくとも半年後の予定を聞かれて「えーと、ちょっと待ってね」とか言いながらスケジュールを確認する必要がまずありません。そんな先の話ならいつでも余裕で空いています。

裏を返せばそれは、半年後なら半年後に向けて、この頃までにこれくらいのことをやっておく、といったロードマップを、かなり余裕を持って描くことができるはずである、ということでもあります。明日明後日の話ではないのだから、他の予定が埋まっていっても前倒しや後ろ倒しといった調整が十分に可能なはずです。

しかしそうはなりません。現実にはただ後ろ倒しにされていくだけであり、ハッと我に返ったときには残り1ヶ月を切っていたりするのです。

カズタケさんは違います。アイデアからそれを形にするまでが本当に早い。というか、捌けるものはすぐに捌いておかないと身動きが取れなくなってしまうからだとおもいますが、それをキャッチする当の僕は、熱々の焼き芋を両手でアチチチとかやるみたいにオロオロしてるうちに芋が冷めてしまい、身動きが取れなくなることもしょっちゅうです。

そして2週間前はまさにそんな感じだったと申せましょう。カズタケさんから渡されたいくつかのボールは、ぜんぶ僕の元にありました。というか今もあります。そんなときに限って日々が急激に慌ただしくなったりするのだから、手に負えません。それでなくともカズタケさんが自由に費やせる時間はめちゃめちゃ限られています。

しかしここにきて急激に視界がクリアになってまいりました。それもこれも100%カズタケさんのおかげなわけですが、うまくいけば「アグローと夜」の前にひとつお知らせができるかもしれません。2週間前にはぜんぜん予定になかった展開です。

また前述したように今年の「アグローと夜」ではちょっとした驚きというか、言われてみればなぜそこに思いが至らなかったのか不思議なくらいの提案もあり、今もひとえに僕次第という厳しい条件付きではあるものの、例年にまして足をはこぶ甲斐がある、と断言してもせいぜいちょっと言い過ぎなくらいでしょう。たぶん来年のアグロー案内に収録されるんじゃないだろうか?

配信された楽曲をライブで披露する、だけの夜ではぜんぜんありません。僕なんかはこの夜にこそアグロー案内の真髄がある、と感じているくらいです。

この機会にぜひ、おいでませ。

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2026年10月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その495


とおくのほそ道さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは子供のころ、縄跳びは得意でしたか?今、二重跳びってできますか?(私自身が得意だったはずなのに一度もできなくなっており、ショックのあまりいろいろな人に聞いて回っています……)


得意不得意で考えたことなかったけど、そうですね、よほど高等な技でないかぎりは二重跳びも含めてできてたとおもいます。どちらかといえば得意寄り、というかんじです。

ただ、記憶としては冬の朝に校庭で縄跳びをして足にピシッと当たるときの、あの鞭のような痛みのほうがはるかに鮮烈です。いま思い出してもヒエッとなります。文字どおりの縄ならいざ知らず、ポリ塩化ビニルの細いロープなど、実質的に鞭です。鞭に当たらないように避けて跳ぶとすればそれはもうロシアンルーレットと大差ないし、運動という名の刑罰にほかなりません。しかしまあ、昭和というのはうさぎ跳びとか竹刀でぶっ叩くとかが愛の鞭と都合よく解釈される最後の時代でもあったので、仮に本物の鞭であっても「教育熱心な先生ねえ」で済んでいた気もします。

今できるかどうかで言うと、ギリできる程度ですね。二重跳びは跳び方というより、むしろ手首のスナップだった気がするけど、昔とちがってとにかく手首がぜんぜんしなやかではないし、数十回数百回のジャンプに耐える体づくりをしてきたわけでもないので、もうむりかもしれません。最後に確認したのは数年前です。

できなくなるのは当然です。大人になれば子どものころのように全身を動かす機会が目に見えて減ります。体格も体重もちがうし、維持しようと務めないかぎり筋肉も衰えます。大人になっても問題なく二重跳びができるとすれば、それは日々の営みに運動が含まれているからです。実際のところ二重跳びができるかどうかというよりも、あのころと同じように体を動かし続けているか、という話なわけですね。

たとえば僕は3歳から10代まで水泳をつづけて、それこそ竹刀を愛用するようなコーチにみっちり叩きこまれたので、フォーム自体は今も体にしみついているけれど、昔のように水に乗るにはたぶん数週間かかります。水に乗る(=体力の消費を最小限に抑えていつまでも泳ぎつづける)ためには全身のあらゆる部分が同期する必要があるからです。そしてそれは、スキルとかテクニックの問題ではない。

裏を返すとそれは、いま二重跳びができないとしても、肉体の配線をつなぎ直す必要があるだけで、かつて身につけたスキルを失ったわけではない、ということです。ショックを受けることはありません。

ちなみに義母は僕が知る最もパワフルな人のひとりなので、70代の半ばでもエレガントにやすやすと縄跳びができます。目の当たりにしたときはさすがに度肝を抜かれました。たぶんだけど、二重跳びもできるんじゃないだろうか…?


A. どちらかといえば得意だったほうで、今もギリできます。


見栄を張ってたらすみません。


*


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その496につづく!

 

2026年9月25日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その494



ダンス・ウィズ・カルピスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 死ぬまでにやりたくないことをひとつあげてください


一般的な指向の裏をかく、いいアプローチです。人生においてはまず十中八九、やりたいことのほうに焦点が当たりますからね。どんな手を使ってでも逃げ切る強い意志が求められる点では、絶対にやりたくないこともまた前向きな気がしてきます。

それでいうと僕の場合はバンジージャンプですね。何しろ物心ついたときからずっと高所恐怖症を患っています。4階くらいの高さまでなら平常でいられるんだけれど、それ以上になると途端に怖くなるのです。

ただ、どこで恐怖が発動するのか、その線引きはいまだに判然としないところがあります。たとえば、高層ビルは問答無用でダメなのに、どういうわけか飛行機は平気です。ロープウェイとかリフトは昔から大好きなので斜面ならいけるかと思いきや、富士山くらいになると8合目あたりから急にめちゃめちゃ怖くなります。またちょっと意外なところでは、水深が5m以上あるプールも怖いです。そんなプールがどこにあるんだとお思いでしょうが、かつての代々木オリンピックプールがそうでした。浮いてるし、泳ぎも何なら人より得意なのに、なぜでしょうね?

言うまでもなく、絶叫マシンもダメです。少なくとも楽しいと感じたことはかつて一度もありません。僕にとってはその極北がバンジージャンプということになります。大金を積まれてもやりません。もし飛ぶことがあるとすれば、それを上回る恐怖と天秤にかけたときだけです。たとえば無慈悲な強盗に人質をとられて「飛ばないとこいつの頭をピストルで吹っ飛ばすぞ!」みたいな状況だったら、迷わず飛ぶとおもいます。どう考えても、大切な人の頭が吹っ飛ばされること、その後を生きることのほうが圧倒的に怖いからです。逆に言うと、それくらいの状況に追いこまれないかぎり、まずやらないとおもう。

そんなこともあって、いわゆるタワマンの高層階には1ミリも魅力を感じたことがありません。10階だって勇気がいるのに、30階とか本当に意味がわからない。百歩譲って所有することはできても、住むのはムリです。実家がそんなところに引っ越したら金輪際近寄らなくなるのはまちがいありません。森美術館だってすごくいい美術館なのに、53階にあるという理由で敬遠してるくらいなんだから。(なぜいい美術館であることを知っているのかといえば、一度だけ行って、あっやっぱむりだこれ、となったからです)

それでなくとも僕は裸足で土をふむ感覚が大好きなので、天空よりもむしろ地に足のついた暮らしでありたいものだと、つくづく思います(物理的な意味で)。ラピュタなんか住んでられんわ。


A. バンジージャンプです。


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その495につづく!

2026年9月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その493


イリオモテ山中湖さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. おせち料理に新メンバーを加えたいのですが、オススメは有りますか


むむむ、そうですね、ひと昔前なら語呂合わせで縁起の良さそうなものを選ぶ方向で考えていたでしょうが、現在ではどちらかというと元旦に食べる豪勢な料理の詰め合わせで、何ならフレンチとか中華もあって、おまけに「本日中にお召し上がりください」だったりと、気づいたら敬虔な願いそっちのけの陽キャ祭りみたいな様相になっているので、よほどのインパクトでないと新メンバーとして認められない不安があります。

何しろ重箱に伊勢海老とかシャトーブリアンが葉巻を吹かしながら伝統文化みたいな顔で鎮座していたりするのです。伊達巻きや数の子はそこにいません。人間界で言ったらドナルド・トランプくらいのトリックスターでないととても太刀打ちできるものではない。

また仮にトランプ級の一品を加えることができたとしても、今度は果たしてそれをおせちと呼べるのか、それを言ったらそもそもフォアグラのテリーヌが入ってたりするのはどうなんだという話だけれど、場合によってはおせち派(MOGA: Make Osechi Great Again)と反おせち派にぱっきりと分断され、やがて内戦になり、円が急落し、国が国としての体をなさなくなるばかりか、今こそ変革の時であると方々から意気軒昂な鬨の声が上がり、そこへ本来のおせちとその地位を取り戻すべく原理主義を唱える一派が現れ、埒が開かないことに苛立った一部の強硬派が歴史的な正当性を盾に武装勢力と化し、東京湾にあるちっこい猿島を占拠したあげく一方的に独立を宣言、ますます混乱に拍車がかかり、ここにきて反目しあっていたMOGA、反MOGA、原理主義穏健派がやむなくおせち連合として一時団結、猿島の鎮圧を試みるも、数日かけて丁寧にコトコト煮た黒豆や、おせちくらいしか出番のないチョロギによる思いのほか切ない必死の抵抗で難航、最終的に猿島くらいなら沈めてもいいという苦渋の決断に至り、地図から島がひとつ消える未来も、つらつら考えると全然ないとは言えますまい。多くの犠牲を出してまで守りたかったおせちとは一体何だったのか、各方面がそれぞれ自省に向かえばいいですが、そうはならないのが人類です。ことによると他国を巻きこんだ大戦に発展しかねません。

その上で一品、加えるとしたら僕は餅を選びます。餅かよ!とお思いでしょうが、そもそも餅はおせち外の存在であり、裏を返せばどのおせち宗派も認めざるを得ない正月の象徴です。落とし所を失った彼らをもう一度結び合わせる食べ物があるとすれば、餅以外にありません。

遠からぬ未来、子どもたちが「ねー、なんでお雑煮があるのにおせちにもお餅が入ってるの?」と無邪気に尋ねる様子が目に浮かびます。

僕らの子孫である親たちはこう答えるでしょう。「それには長い長いお話があってね……」


A. 餅です。


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その494につづく!

2026年9月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その492


ろくでなしフルーツさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. イヌの前足の肉球についてです。地面につく肉球はいいんですけれども、少し足首よりにある地面に付かないタイプの小さめの肉球は何の役に立っているのでしょうか?


前脚にある、いわゆる手根球というやつですね。たしかに一見すると何のためにあるのかわからないふしぎな肉球です。

しかしそれを言ったら僕のすね毛なんか本当に、1ミリも、まったく何の役にも立っていません。とくに僕は気づいたらいつもすねに擦り傷があるちょっと不可解な体質なので、すね毛が皮膚を守るでもなくただぼーっと生えているだけであることに憤慨しています。ふさふさ生えているわけでもなく、小人がつかんで登るにはちょっと足りないくらいなので、なおさらです。そんなことなら最初っからすべすべでいいし、だいたい多くの頭頂部で毛髪不足が問題になっているのだから、組織としての管理体制は一体どうなっているのかと批判せずにはいられません。責任者不在をいいことに、すねでそよそよしている場合ではない。

ただ僕らがまだ気づいていないだけで、なんらかの重要な意味がある、もしくは不可欠である可能性もあります。仮にすね毛が頭髪とダイレクトにつながっていたら、不要だからといって抜くわけにはいきません。頭髪も1本なくなるからです。世の中にはそれ自体に意味はないけれど、それがないと他の部分で支障をきたすものもたくさんあります。半角スペースなんかそれ単独では文字どおり虚無ですからね。

あるいは電気グルーヴにおけるピエール瀧です。電気グルーヴを電気グルーヴたらしめているのはまさしくピエール瀧である、と断言してもいいとおもいますが、楽曲の制作において彼が中心的な役割を担っているわけではありません。じっさい、楽曲だけなら石野卓球ひとりでも事足ります。しかしそれで出来上がるのは石野卓球の曲であって、電気グルーヴの曲ではありません。少なくともピエール瀧は歌が上手いとか演奏が上手いというような、ミュージシャンに求められる音楽的スキルの巧拙によってそこにいるわけではない。アイデアやパフォーマンスといった、今となっては大きく寄与するところはあるにせよ、彼に求められているのは最初から、そしてただただ、ピエール瀧であることです。

イヌ(やネコ)の前脚にあって、なくてもよさそうに見える肉球は言ってみれば肉球界のピエール瀧である、と僕は考えます。なくなった途端、着地を担う肉球が精彩を欠くことになるのはまちがいありません。何かが足りないという印象が常につきまとうことにもなるでしょう。すべての肉球が明日も愛されるぷにぷにであるためには、手根球こそがどうあっても必要かつ不可欠なのです。

でなければ、そうですね、ジムニーの背面にくっついてるタイヤみたいなものかもしれません。主要な肉球のひとつがポロッと取れてしまったら速やかに交換できる、要は予備です。


A. ピエール瀧として、もしくは予備です。


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その493につづく!

2026年9月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その491


案ずるより産むがタカシさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 短歌や俳句のTV番組やYoutubeの動画を見ていると怒りが抑えられなくなります。ラップや歌の歌詞を見てもそう思うこともありますが、短歌や俳句は特に顕著です。限られた文字数を無駄に使い、言うべきでないことに無駄な文字数を費やしている句を見ると許せなくなります。そしてそれが他人に誉めそやされていることにも無性に腹がたってしまいます。自分でもどうかしてると思います。自分でも俳句は作りますが、文句を言えるほどのものは作れていないのに、他人の表現を見て怒りの感情が異常なほど湧き出てしまいます。もちろん口からも出てしまい、友達やパートナーに愚痴みたいに言ってしまって、しばらく後に自己嫌悪する日々です。自分がもし、自分が言っているような批判を受けたらきっと平静ではいられなくなります。なのに口にするのをやめられません。最近はSNSやTVから離れるようにして何とか心の平穏を保とうとしています。大吾さんはそうしたことは当然ないとは思いますが、日々心を乱されないために何かした方がいいように思うことがあれば教えてください。


正直なお人柄とそれゆえの懊悩がひしひしと伝わってきます。ご自身でもよくないと痛感しているだけに、これはつらいですね。

僕はというと、うーん、短歌や俳句ではないけれども、うっかり耳にしてしまった歌詞にギョッとすることは大人になってからわりとちょいちょいあります。うっかり口をついて出ることもあった気がするけど、ただ怒りでは全然ないです。どちらかというと冷や汗が流れます。

言葉がどうこうというよりも、たとえば美味しい炒飯を食べたことがない、もしくはそもそも求めていないのに「炒めればいいんでしょ」とてきとうに作ったひと皿を食わされるのにも似た、どちらかというと主に良し悪し以前の戸惑いですね。

ただ歌詞にかぎらず、なんであれ時代とか潮流というものがあるので、そういうもんなのかもな、と今はわりとソフトに受け止めるように努めています。あくまで内心でギョッとしているだけです。僕だって上の世代からギョッとされてる可能性、めちゃめちゃありますからね。

さてその上でいただいたご質問は、言葉との向き合いかた云々ではなく、むしろストレートに心のエラーである、と僕はおもいます。最大のポイントは「怒りが抑えられない」という部分です。短歌や俳句における言葉のあり方は、たまたま怒りのトリガーとして機能したにすぎません。もし言葉よりも料理に重きが置かれていたら、巷にあふれる簡単で美味しい手抜き時短レシピなんかがトリガーになっていた可能性もあります。したがってここでの問題はその対象がなんであれ、なぜ怒りが抑えられないのかです。わかっているのにやめられないところにそのヒントがあるかもしれません。

そもそも、怒りには快楽の側面があるらしいと言われています。古くはアリストテレスがすでに言及していたほどです。そしてべつにその方面の専門家でもなんでもない僕も、経験的にそう感じます。これをもうすこし科学的に解きほぐしてみましょう。

怒りにはドーパミンという、神経伝達物質の放出が伴います。このドーパミンには、放出の原因となった対象への距離を縮める傾向というか、側面があります。直接的に欲するというよりも、たとえば誰かがズルをするのを見て怒りを感じたら、以前よりも他人のズルを感知しやすくなる、ということですね。感知しやすくなれば当然、怒りの頻度も増えることになります。正のフィードバックによる悪循環の完成です。怒るたびに次の怒りを予約している、と言っても過言ではありません。

またこの悪循環は、とりわけ外に向けて発散する(ポストしたり愚痴ったりする)場合に顕著だとされています。なんとなれば一時的にスッキリはするので、以降はそのスッキリを求める回路が強化されてしまうのです。

なのでまさに「離れる」ことこそが最適解です。自覚的に距離を置かないと、過去のドーパミン作用によって無意識に近づいてしまいます。

以上を踏まえて、僕らのぷよぷよした脳みその内側で何が起きているかを、この際みっちり叩きこんでおきましょう。理性の問題というよりは、生物として不可抗力な挙動のひとつであると理解するだけで、きもちがすんげー楽になるし、世界と適切な距離を保つことの大切さが骨身に沁みるはずです。

悪循環に陥っている認識があるならばそれはもう、見るたびに怒るというより、怒るために見るフェーズに入っています。

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あとは、そうですね、これはなんというか人生哲学みたいになってしまうんだけど、なるべく物ごとの良い面を抽出するようにふんわり心がけてみてください。誰であれ、そしてなんであれダメな理由を挙げるほうが圧倒的に楽で、長所を具体的に抜き出すのはめちゃめちゃ難しいです。ダメ出しのときはやたらと具体的なのに、褒めるときは良いとか素晴らしいとかヤバいとか、語彙がいきなり激減します。埋もれて見えない長所を拾い上げることのできる人はそれこそ、絶滅が危惧されるほどの希少種です。

言葉を尽くすなら、それこそここにその甲斐がある、と今の僕なんかは自戒をこめておもいます。


A. 脳みその内側で何が起きているかを、みっちり叩きこんでおきましょう。


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その492につづく!