2024年6月14日金曜日

新たなリリースに必要なすべてのデータが出揃ったこと


さて、アグロー案内 VOL.6から9ヶ月…ようやくVOL.7の準備が整いました。時間がかかったというよりも、この先もできるだけ長く続けていきたいプロジェクトなので、急がず焦らず、無理なくリリースできるタイミングがたまたまこのあたりだっただけ、と申せましょう。僕はともかく、片割れである御大はこのところ本当に大忙しなので、その隙を縫って戻ってきてくれるだけでも御の字です。

リリース日が確定した暁にはまた改めて鼻息荒くお知らせしますけれども、VOL.7はこれまでのシリーズと明らかに一線を画します。前作 VOL.6 で名探偵山本和男が滝壺に転落した気がしないでもないと言い切れなくもなくはなかった劇的な展開もあり、われわれも今作からはシーズン2という位置付けです。

個人的にはあくまで気持ちの問題だとばかりおもっていましたが、蓋を開ければさにあらず、サウンドが明らかに異なっています。今に至るまで進化もくそもないガラパゴス的立ち位置に甘んじる僕にしてみれば青天の霹靂で感電死と言うほかありません。第一線で活躍し続けるミュージシャンにとって9ヶ月とはかくも大きな変化をもたらすものなのかと、人知れず戦慄したくらいです。

ここに至っては気持ちの問題だけでなく、名実ともにシーズン2と呼ぶにふさわしい仕上がりに相なったと申せましょう。

そうなると僕としても認識を改めざるを得ません。中身の印象がこれだけ違うのに、ジャケットが今までと同じで本当にいいのか?内容だけでなく、むしろロゴやジャケットを一新することでもフェーズの遷移を示すべきではないのか?

そんなわけで、冒頭の画像にもあるように、タイトルロゴが一新されました。

そしてもちろん、シリーズジャケも更新されます。

歩幅が小さい、数曲ずつのEPリリースだからこそ、そしてリアルタイムで対応できる配信ならではの醍醐味ここに極まれりです。こんなふうに展開していくことになるなんて当人たちですら予想していなかったのだから、ちょっとした感慨があります。まだまだいろいろと遊べそうだなあ。

刮目してお待ちあそばせ!

2024年6月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その429


ジャングルジム大帝さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 毎日夢に出る猫がいつまで経ってもなつかないときどうすればいいのでしょうか。


夢に出る、というのがいいですね。現実だったらなつかなくても不思議はないけど、夢となると話がちょっと変わってきます。その猫の存在やなつかないことに意味はあるんだろうか?それともないんだろうか?

質問に深い意味はないとおもうし、深掘りしなくてもよさそうなものですが、しなくていい深掘りをして無駄に大きな穴を空けるのがこの質問箱の骨頂でもあるので、ここはやはり真剣に悩んでいて夜も眠れず、気づけば毎日夢に出るどころか眠れていないので最後に見た夢の記憶すら定かではなく、しかしそうすると悩む理由がないので眠れない理由もないという、Excelで言うところの不毛な参照循環に陥っていることを前提に考えてみましょう。前提の時点ですでにある種の解決を示唆しているように見えなくもないですが、そう見なければいいだけの話です。

個人的に気になるのは、「なついていいのか」という点ですね。

なつかなかった猫がなつくとすれば、それは明らかに劇的な変化です。考えようによっては無から有に転じたとも言えるのだから、天地創造に比肩すると見なすこともできるでしょう。現実世界ならそのままハッピーな日々がつづくと考えてよさそうですけれども、夢となるとそうはいきません。なんとなれば夢の中では、その猫が何らかの象徴である可能性も否定できないからです。以前と以後で何かが決定的に変わってしまうかもしれないことを肝に銘じる必要があります。

たとえば夢の中の猫が平穏の象徴であったとしましょう。それならなおのこと、なつくほうがよっぽど平穏に思われるかもしれませんが、逆になつかないことのほうが変化がない点でむしろ平穏を意味しているかもしれないのです。

また一度なついた猫は、こちらが適切な愛情をもって接するかぎり、以前と同じ距離まで退くことはありません。とすればそれは不可逆の変化です。人生にも不可逆の変化はいろいろありますが、以前と以後で決定的に変わって二度とは戻らない、その最たる変化が死であることを考えると、夢の中の猫がなつくことを無条件に受け入れていいものだろうか?

死ほど極端ではないにせよ、「なつかない=失いたくない」、「なつく=失う」に置き換えるだけで背筋を冷たいものが伝います。そう考えるとむしろこれはどんな手を使ってでも絶対になつかせてはいけないミッションであるかもしれないのです。愛らしいネコチャンを使って失いたくないものを失わせるなんて、狡猾にもほどがある。

もちろん、実際にはなつかせることができれば、決定的な不可逆の変化として、その後の人生は薔薇色が保証される可能性もあります。その対極が死である以上、一か八かで賭けるにはちょっと心理的コストが高すぎる気もしますが、そもそも日々が地獄みたいなものなのであまり気にならない、もしくは死とは竹馬の友なので、夢の中の猫をなつかせることにはどう転んでもメリットしかない、という人もいるでしょう。

ただその場合、問題になってくるのは、なつかせるために駆使したい諸々のアイテムを夢の中に持ちこむことができない、という点です。また覚醒時にいいアイデアが閃いても、それを夢の中の自分が引き継ぐとはかぎりません。

なので僕としては、蕎麦殻の枕を木天蓼の実と入れ替えることをおすすめします。枕だけでなくパジャマを木天蓼柄にするなど、寝具とベッドを木天蓼一色に染めてしまいましょう。夢の中でも木天蓼にうなされるくらいになれば、なつくかどうかを考えるよりも先に、猫がゴロゴロと喉を鳴らして近づいてくるはずです。また仮にそれでも近づいてこないとすれば、それは猫ではありません。猫の形をした別の何かであって、距離を縮める必要のないことがはっきりします。一石二鳥です。試す価値はあるでしょう。

ただし、その結果起きるかもしれない不可逆の変化については責任を負いかねます。がんばってください。


A. 木天蓼に埋もれて寝てみましょう。




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その430につづく!

2024年5月31日金曜日

音吐朗々を体現する数少ない朗読詩人のこと

画像はイメージです

音吐朗々という言葉があります。ハリがあって伸びやかでどこまで行き渡るような発声、というような意味です。主に豊かな朗読を指して使われる言葉ですが、たぶんプレゼンとか演説なんかにも当てはまります。

これまでに細々と続けてきた僕自身の発声表現に音吐朗々という言葉を当てることはとてもできないけれど、それでもまだどうにかこうにか続けられているのは、例えばここ数年は「アグロー案内」のパートナーでもある御大タケウチカズタケのおかげによるところが大きい。誰であれ、人生にはこの人がいなければその後が大きく違っていたと感じる、有意な縁がいくつもあるものです。

こうした分水嶺とも言える出会いをいくつか遡っていくと、現在の僕の歩みを決定づけたそもそもの端緒、濫觴として、どう考えても不可欠なひとりの人物に行き当たります。出会いというよりもむしろその存在が、と言い換える方が正確かもしれません。

それがさいとういんこ女史です。

いんこさんはかつて僕が初めて人前で朗読を披露したイベントの主催者です。この形でなら一度はトライしてみたいと思える、今も昔も唯一のイベントだったので、彼女がいなかったら詩は書いても朗読は今もしていなかった可能性がめちゃめちゃ高い。

そして彼女自身、音吐朗々を体現する数少ない朗読詩人のひとりでもあります。

じつを言うと僕もそれ以外のことをあまりよく知りません。知っているのはローリング・ストーンズとマクドナルドが大好きで、その昔バンドでメジャーデビューをしたボーカリストだったことくらいです(レコード屋でソロ時代のEPを見つけたので本人にプレゼントしたことがあります)。あと、気に入らないやつの車の助手席にシェイクをぶちまけたことがあると話していた気がする。

でもこれだけで十分にその女傑ぶり、ひいては朗読の朗々っぷりを想像してもらえる気もします。初めていんこさんの朗読を聴いたときの凛とした空気と澄んだ声音は、僕にとっても忘れられない記憶のひとつです。

そんな彼女を中心とした、稀有な朗読イベントが6月にございます。


2024年6月16日(日)
Splash Words presents
「SPOKEN WORDS SICK 5
さいとういんこ『ハンバーガー関係の数編の詩と、その他の詩』出版記念」

出演:さいとういんこ、長沢哲夫、カワグチタケシ、小林大吾
時間:19:00open 19:30start
会場:Flying Books(東京都渋谷区道玄坂1-6-3 2F)
料金:¥2,000(1ドリンク付 限定40名様)
チケット:Yahoo!パスマーケットにて (5月5日正午受付スタート)
(残席がある場合のみ、当日券を発行させていただきます。)


断腸の思いで割愛したけれど、ナーガやカワグチタケシさんも、このお二方だけで界隈がざわつくレジェンドと大ベテランです。そこにしれっと僕も紛れこんでいて恐悦至極というか心苦しいかぎりですが、せっかくなので僕もアグロー案内に収録予定の新作なんかを、ビートなしで朗読するつもりです。

よかったらいらしてね。

2024年5月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その428


ハルマゲ丼さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. いつも行くお店(例えば大阪王将)で新しいメニューを頼もうと思ってお店に入ってもいつも同じものを頼んでしまう現象の解決方法をご教示ください。


これ、僕も完全に同じですね。というか僕はそもそも同じメニューを毎日食べ続けてもさほど飽きない体質なのでいっしょにしていいのかちょっとためらいますが、しかしまあ誤差の範囲でしょう。行き慣れている店では95%くらいの確率でいつも同じものを頼みます。のこりの5%は稀に起きるエラーです。なぜエラーが起きるのかは僕もよくわからない。

しかしなぜいつも同じではいけないのか、と僕なんかは切におもいます。そりゃ毎日ラーメンとか牛丼となったらいろいろと支障もあるでしょうが、そういう話ではありません。この店に来たらこれを頼むというだけです。普通じゃないですか?

いつも同じものを頼むのは、それが美味いと知っているからです。コストに対して100%の見返りが得られると言い換えてもいいでしょう。一方で今までに頼んだことのないメニューはその見返りが未知数です。いつも頼むメニューよりも見返りが大きい可能性はもちろんありますが、大幅に損なう可能性も同じくらいあります。上回るか下回るかだけで見ればその確率は五分五分です。確実に得られる最大値を取るか、50%の確率で100%以上を期待するか、人としてどちらがいいとは言えないけれども、生物としてはリスクなしに最大値を得るほうが普通なのは間違いありません。何となれば50%の確率というのはあくまでも賭けであり、賭けに負けた場合は死に直結することもあり得るからです。いつものあの店で毎回チャーハンを食うことの一体何がいけないのか、むしろわざわざいつもと違うメニューに挑むギャンブル体質こそ是非を問われていいはずだぞ、ドン!と握り拳をテーブルに叩きつけながら僕は言いたい。

さて、自身の正当化と理論武装はこれくらいにしてもう少し客観的に考えてみると、まずこれ、じつは前提からおかしなことになっています。

考えてもみてください。ある店にいつも行くとすれば、理由はもちろん、その店が好きだからです。それが飲食店だった場合、好きなのはそこに美味いものがあると知っているからです。そしてなぜ美味いと知っているのかといえば、もちろんそれを食べたことがあるからです。もし毎回違うメニューを選べているのなら、そもそもいつも行く店にはなっていないことを自覚する必要があります。いつも同じものを頼むからこそ、いつも行く店になっているのです。

もちろん好きになったからこそ他のメニューも頼んでみたい、ということはあるだろうし、それは僕もよくわかります。実際、僕ですらそういう店はある。でも毎回同じもの、たとえばふわとろ天津炒飯と焼餃子を頼んでしまうとすれば、それがまさしく大阪王将を好きな理由だからです。

ふわとろ天津炒飯がこれだけ美味いのだから他のだってきっと美味いはずだ、と考えるのは当然だし、確率的にも理にかなっています。初めての店に行くよりも美味いと感じる確率は高い。しかし行ったら行ったでやっぱりふわとろ天津炒飯と餃子が食いたくなるので、成功率で言ったらむしろグッと低くなります。同じ理由で2つの確率を相殺しているわけですね。

いつも行く店に足を運んだ時点で勝敗は決しています。その上でなぜわざわざ新しいメニューに挑む必要があるのか、もう一度よく考えてみましょう。選ぶことができれば他の店よりもわりと高めの確率で見返りを得られるのは確かですが、行為それ自体の成功率はむしろ低い。となれば解決法はやはりひとつしかありません。


A. 行ったことのない別の店に行きましょう。




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その429につづく!

 

2024年5月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その427


たけのこの佐藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もし地獄に行くことになったら楽しみなことと、逆に天国に行くことになったら不安なことはなんですか?


天国に対する不安はともかく、地獄の楽しみとはまた難儀な質問です。何であれ楽しみにされたら地獄もたまったものではありません。まんじゅうこわいが通用するほどのんきな場所でもなさそうだし、楽しみがあると知られたとたんにそれを潰しにかかるか、逆手に取ろうとするでしょう。

昔から気になっているのは「そこにヒト以外の動物はいるのか?」という点です。天国にはいるような気もするけど、地獄にはそういうイメージがありません。少なくとも僕が鞭で打たれているその隣で、同じように鞭で打たれるウサギがいるとは思えない。ですよね?

もちろんヒト以外の動物に罪はありません。罪はあくまで人間が社会を維持するために生み出した概念です。しかしそうなると、なぜ人間由来の概念が人知など遠く及ばないはずの地獄で同じように適用されているのかというわりとシンプルな疑問が生まれます。

人間社会において、たとえば窃盗や殺害は明確に罪ですが、ヒト以外の生物社会においては当てはまりません。それとも僕らが知らないだけで、鹿とかライオンもそれぞれの地獄で責め苛まれたりするんだろうか?だとすると「それぞれの地獄」とわざわざ区分けする必要はどこにもなさそうだし、僕らのいる地獄にも悪いサルとか悪いカメとか悪いカタツムリがいてもおかしくないことになります。

しかしいくら極悪だとしても、そのために1匹のカタツムリが責め苛まれるとしたらそれは虐待には当たらないんだろうか?いや、これは虐待ではないのだ、報いなのだ、と言って納得できる人がいるだろうか?

だから、そうですね、地獄にヒト以外の動物がいるのかどうかを確かめてみたいです。それをひとつの楽しみと言ってもいい気がします。ついでに虐待がどうあれ正当化される根拠も訊いてみたい。

だいたいなんで造物主側がジャッジしてんだよ、どういう理屈で被創造物が責任を負うことになるんだ、つくった側も責任とれよ、お菓子に混入物があったら責任とるのはメーカーだろ、エラーとしてのお菓子を地獄に落とすとか責任転嫁もいいとこじゃないか、そもそも造物主なんだからエラーがないようにつくりゃいいだろ、と僕なんかは思わないでもないけど、べつに波風を立てたいわけでもないので、これは僕ひとりの胸に留めておきましょう。

一方天国については正直、不安しかありません。争いがないとか苦痛がない、というのはなんとなくわかるんだけど、それが具体的にどういうことを意味しているのか、それ以上に「僕らはなぜそこにいるのか」があまりにも漠然とし過ぎているからです。

これは地獄もそうなんだけど、永遠という対価が善に対しても悪に対しても大きすぎます。仮に全人類が満場一致で認めた極悪非道な罪人がいるとして、永遠の苦痛はその罪に見合うものだろうか?永遠ですよ!1億年とか1000兆年ですら一瞬に感じられるような圧倒的なスケールの時間です。百歩譲って永遠の苦痛に見合う罪があるとしても、ではその線引きがいったいどこにあるのか、とやはり異議を唱えずにはいられません。そもそも永遠に「結果」は存在しないし、その終わりなき苦痛が何のためにあるのかも、こうなるとさっぱりわからない。そんなことよりむしろ真っ当な善人へと更生させるほうに注力してほしいとおもう。

天国にしても、何ひとつ罪を犯さず、善行を積んで穏やかに一生を終えたからと言って、その対価が永遠はやはりいくらなんでも莫大すぎます。100年問題なかったからもう100年寿命あげるよとか、もう1回人間に生まれ変わっていいよ、くらいのほうがよっぽど納得できる話です。たかだか100年未満の歳月を善人として全うしたからと言って、1000年後に極悪非道に成り果てる可能性がゼロだとなぜ言い切れるのか、100年で永遠がもらえるなら一生に一度ゴキブリを殺さずに逃してやるだけで1000年くらいの天国在留資格を得てもいいんじゃないのか、と考えずにはいられません。

そういう疑問や不安を持たずにすむ場所なのだ、ということもできそうだけど、それはそれで自由意志を奪われているような気もします。しませんか?どんなに些細であれ疑いを抱くことができてこその自由だし、そうでないならそれは誰にも負の影響を及ぼさないというだけで、本質的には洗脳だし、マトリックスの世界と同じです。

だいたい姿形と性格が今の自分のまま永遠に突入することを、みんながみんな喜ぶとは思えないんですよね。亡くなった年齢で永遠が固定されるのもどうかとおもうし、と言って好きな年齢に若返るのも都合が良すぎます。あるがままを受け入れる人だけが在留資格を得るのかもしれないけど、そんならそもそも外見とか性格とか個性とか必要なくない?

そんなわけで天国は実際のところ地獄以上に胡散くさいと僕は考えます。不安しかありません。


A. 地獄で楽しみなのはそこにヒト以外の生物がいるかどうか、天国で不安なのはその存在そのものです。




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その428につづく!

2024年5月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その426


キャプテン米ぬかさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. たまに道端に落ちている石や物を拾って家に持って帰ることがあります…どうしてでしょうか。本当にたまになのですが、お地蔵さんみたいな木彫りの人形を拾って飾ってたりしました。


これはですね、わからない人には本当に言葉を尽くしても絶対にわからない話だとおもいますが、僕はなんとなくわかるような気がします。たぶんそこにある種の分身を見ているのです。

もちろん、分身であると明確に意識しているわけではありません。実際にはかわいいなとかおもしろいなとか、それくらいの認識でしかないはずです。ただおそらくだけど、拾うのはいつも、価値があるかと言ったら全然ないものなんじゃないかと思う。ここで言う価値とは、客観的な価値だけでなく、主観的な価値も含まれます。買うかと言ったらじぶんでも買わない、完全無欠の無価値です。ご自身でも首を傾げてしまうわけだから、この点は間違いないでしょう。

それなりのサイズがないかぎり、そこに価値があろうとなかろうと、人は落ちているものにさほど気を配りません。仮に価値があったとしても、拾われる確率が上がるだけでやっぱりすべての人が目を留めるわけではないし、完全な無価値となったらそりゃもう言わずもがなです。何しろ石ころだったりするわけですからね。

にもかかわらず目を留めて、拾い上げ、持ち帰り、部屋に飾るというのは、ちょっといいなくらいの気持ちだけでは説明しきれません。磁石が砂鉄を吸い寄せるように、そこには何か必然的な力が働いているのではないか。とすれば物それ自体というよりもむしろそこに投影された自身を拾い上げている、と考えるほうがしっくりきます。世界中に散らばっている小さな自分の欠片をこつこつ拾い集めている、と言い換えてもいいでしょう。

それでなくとも誰もが見過ごす日常の差異に気づくわけだから、その感性は繊細です。顧みられないものに対する感度もたぶん人一倍高い。

つまりこの行為は、誰にも語られることなく紡がれる細い細い物語の、目に見えない1ページでもあるのです。

物語はまだこの先も続きます。大事にしてください。


A. 世界中に散らばっている小さな自分の欠片をこつこつ拾い集めているのです。




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その427につづく!