2026年6月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その485



ピーチジョン万次郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私も随分、長く生きてるなぁと感じた事があったら教えてください!


「年をとった」ではなく「長く生きてる」というのがいいですね。同じっちゃ同じだけど、前者は心身の衰えとか世代間ギャップみたいなことが主体になるのに対して、後者では積み重ねた年月をしみじみ実感していて、印象がずいぶん違います。昔話でキャッキャできるのはほんと、中年以降だけですからね。

そういう視点で考えると真っ先に思い浮かぶのは、今や両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らしている年月のほうが断然長いことです。気づいたときにはとっくに追い越していて、びっくりした記憶があります。もっと言うと、ビートに乗せてリーディングをする活動期間のほうがすでに長い。何しろ1枚目のアルバムをリリースしたのが22年前です。長いな。

生まれてから実家を出るまでの日々が18年くらいで、仮にそれをひとつのサイクルとすると、今は3周目の半ばです。とりわけ最初の18年は吐き気がするほど長かった印象がつよいので、それを2周も3周も繰り返しているとなると、いいかげんうんざりしてくるレベルの長さになります。もう一度誕生からやり直すのは本当にご免こうむりたい。あの体感時間はいったいなんだったんだろうとつくづく思います。人生の後半を下り坂と表現したりするけれど、長い年月をかけてひたすら登ってきたとんでもなく長い坂をこれからはチャリで漕がずに下れるなら、むしろ爽快で最高じゃないですか?

(風を全身で浴びながら颯爽と駆け下りるイメージ)

月日の重みは、いやでも年々軽くなっていきます。今日も気づいたら夜です。そして今のこの日々は、100%庇護下にあったかつての甘やかな時期と違って、ぜんぜん当たり前ではありません。山中とか廃屋とかでのたれ死んで白骨化してもなお気づかれない結末を迎える可能性はいつでも、そして歴然とあります。そういう懸念を昔から抱き続けているので、なんならその覚悟もちょっとできているくらいです。

だからこそこの先は1日1日をじっくりと味わうように噛み締めていかないといかんなあ、といただいた質問で思いを新たにすること自体、そこそこ長く生きてる証なのかもしれないですね。


A. 気づいたら両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らす年月のほうがぜんぜん長くてびっくりしました。




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その486につづく!

 

2026年6月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その484


おっちょこチョリソーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 言葉の魂の重さは、全て約21gですか?ダンカン・マクドゥーガルは、魂の重さは約21gと提唱しました。「言葉には魂が宿る」という言葉があるので、私は、言葉の魂の重さは約21gだと思いました。


言葉に魂が宿るというのはたぶん、いわゆる言霊のことですね。いい発想です。

魂=21g」は僕もその昔、知ったときはかなり胸アツだった記憶があります。とりわけ「(実体がない)魂の重さを測ろう」というむちゃな発想が白眉です。実験が失敗だったとしても魂の存在が否定されないのもいいし、対象そのものを観測するのではなく別の現象から推定するという科学的なアプローチには今でも妙な説得力を感じます。暗黒物質(ダークマター)とかブラックホールなんかもそうですからね。

ただ実験から120年後を生きる今の僕としては、21gはいくらなんでもちょっと重すぎるな、という印象です。何しろ21gといったら大さじ1と1/3であり、小皿に垂らす刺身醤油とか餃子のタレくらいの量があります。じぶんの魂で餃子がひと皿おいしく食べられるなら人生もそんなに悪いもんじゃないと思いますが、ロマンチストとリアリストが常に同居してときどき取っ組み合いの喧嘩を繰り広げるアンビバレントな僕の結論としては、もう少し軽くなりそうです。その重さについてはまたあとでふれましょう。

そして肝心の言霊です。言葉は使用者が意図するよりもはるかに大きな力を持つ、というのは僕もつねづね実感しています。言葉はそれ自体がある種の呪力を纏っていると言ってもいいし、その呪力の核を魂と呼べるかもしれません。

その上で、言霊という漢字を見てみてください。同じたまだし、同じ強力な精神性を帯びた非実体だけれども、「魂」ではなく「霊」です。大雑把に分けると、内包する個体に影響を及ぼすのが魂、不特定多数に影響を及ぼすのが霊、ということになります。閉鎖と開放の違いでしかないとも言えるので、漢字が入ってくるよりもずっと昔、和語としての「たま」では区別されていなかったのかもしれません。

先の例で言えば、対象に届いた時点で発動する呪力が「霊」、その呪力の源となる核が「魂」です。霊魂という言葉があるくらい、どちらも根っこは同じですが、その重さが問題になるとすれば後者になるわけですね。なぜ言魂ではなく言霊なのか、その理由もここらへんにあると僕は考えます。

では、なんとなく曖昧だった部分をスッキリ区別できたところで、その重さを考えてみましょう。

小皿に注いだ餃子のタレほど重いはずがないとはいえ、魂が単に生物としての実体がないだけであることを踏まえると、長年にわたる思考と経験のすべてが保存された情報量は相当なものです。裏を返せば、その膨大な情報をどこまで圧縮できるのか、ということでもあります。

そこで参考になりそうなのが、染色体です。染色体1セット(30億塩基対)には生物を形づくる上で必要な基本情報の大部分が詰めこまれています。そればかりかデジタルデータに換算すると多くとも3GBくらいしかないそうなので、その密度と効率性といったらまさに圧倒的です。なので魂の情報量もだいたいそれくらいであると考えたとしても、あながちむちゃな比較でもない、という印象があります。

染色体1セットの重量は、およそ3.1ピコグラム(3.1gの1兆分の1)です。だとすれば魂の重さもまた、3.1ピコグラムくらいである、と個人的には考えます。

一方、言葉に魂があるとすれば、その情報量はヒトの一生ほどではありません。また「首都圏連続強盗殺人事件広域重要指定事件合同捜査本部」と「バナナ」という言葉の魂が同じ重さと言われてもいまいちピンとこないので、染色体よりもむしろ分子の重さのほうが類例としてしっくりきます。分子もいろいろありますからね。なのでここでは最小の分子である水素を参考に、0.00000000000335ピコグラムとしておきましょう。染色体の重さの9260億分の1です。言葉におけるいちばん小さな魂の重さとしてはこれくらいでいいんじゃないかとおもう。

ちなみにざっくりした視点で考えると、車のタイヤなんかも単一分子です。世界最大のタイヤは直径4メートル、重さが5トン以上あります。作ったのは日本を代表するばかりか世界トップクラスのタイヤメーカー、ブリヂストンです。すごいぜ。

言葉の魂の重さが場合によっては5トンを超えるというのはさすがに逸脱しすぎな気もしますが、しかし夢があります。そしてどうあれ僕はいつでも夢があるほうを選びます。5トンの言葉、味わってみたいですね。


A. 言葉の魂の重さは同一ではなく、その最小は0.00000000000335ピコグラムである、というのが僕の見解です。




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その485につづく!

 

2026年5月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その483


ルイ・アームストロングゼロさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「生命科学的思考」という本を少し前に読みました。その中で生物の死について書かれており、端的に言うと、死は環境に適応した新バージョンに入れ替わる為とのことです。そこで質問です。今の我々はバージョンいくつくらいで、前の個体からどんな機能が追加されていると思いますか?


死を個体のアップデートとして考える、という視点はユニークですね。これはひょっとすると、「世代交代による適応」を大胆かつカジュアルに言い換えた、ということなのかもしれません。

世代交代による適応とは、その時々の環境に対応できる個体の集まりが結果として残る(自然選択)、という考え方のことです。

進化というとその言葉から何か新たな機能を獲得したような印象を受けますが、必ずしもそうとは言えません。

たとえば特定の害虫Aを寄せつけない穀物を開発したとしましょう。今まで食べられていた穀物が食べられなくなるので、一見するとこの害虫Aは食いっぱぐれてそのまま絶滅の一途を辿りそうですが、実際にはそう簡単にいきません。というのも、「気にせずおいしく食べてしまう個体」が存在する可能性が常にあるからです。そしてこの場合、当然の帰結として気にせずおいしく食べられる個体の子孫が増えていくことになります。食べられない個体はみんないなくなりますからね。何度も何度も世代交代を繰り返したその先は、害虫Aにおけるすべての個体が気にせずおいしく食べることになるでしょう。害虫対策は振り出しに戻ります。いたちごっこと言われる所以です。

ここで注意したいのは、適応のきっかけとみなせる先の個体が、「生き延びるために新たな能力や特性を獲得したわけではない」という点です。むしろたまたまその特性を持っていたにすぎません。遺伝子は個体ごとに常に変異(エラー)と修復を繰り返しているので、知らないうちにある個体だけがなんだかよくわからない特性を獲得していたりする可能性があります。そしてそのなんだかよくわからない特性がたまたま環境の急激な変化に対応可能だったとき、初めてその威力を発揮することになるわけですね。

遺伝子の些細な変異も数打ちゃ当たります。そして当たればそれが適応とみなされるのです。ランダムかつ日常的な遺伝子のエラーそれ自体が、じつは生物としての高度な生存戦略のひとつなんじゃないかとおもう。

個体の変異ばかりか、交配によるシャッフルも加わったとき、遺伝子にどれだけ多様なパターンが生じるか、想像してみてください。数えきれないパターンがあれば何が起きてもさすがにどれかは生き残るだろうと思いませんか?

以上を踏まえると、適応かどうか現時点では誰にもわからないけれども、結果的にのちのち有効となりうる新たな機能が知らずに追加されている可能性はたしかにあります。

バージョンは、そうですね、うーん、1.0が二足歩行だとすると、火の獲得、言語の獲得、分解能力が他の生物と比べて著しく高い特異な点からしてアルコールの獲得、産業革命(労力の圧倒的なアウトソーシング)、デジタルで6、たぶんシンギュラリティで7になりそうだから、現時点のAI(思考のアウトソーシング)で6.5くらいかなあ…。1万年くらい前からはもう、言うほど変わっていない気もするんですよね。むしろ削られた機能のほうが多そうな印象あります。

直近のマイナーアップデートで改善された機能としては、冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでの所作ですね。以前に比べて、より滑らかでエレガントになっているとおもいます。


A. バージョンは6.5、追加された機能は冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでのエレガントな所作です。




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その484につづく!


2026年5月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その482

途中まで塗って力尽きたらしい

このマリリン紋所が目に入らぬかさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私はユニコーンは実在すると思っていたりいなかったりしますが、”実在する”と自分が思う「現実」とChatGPTがいう「現実」ってちがうのかなと感じることがあります。だとすると『現実』ってなんでしょう。


ふむふむ。そうですね、現実に対する認識がじぶんとAIとで異なるとすれば、それはシンプルに主観と客観の違いです。客観的な現実というのは言ってみれば多数決で決まるような話なので、他者の同意が希少なものごとについてはまず現実とみなされません。かつては地動説もそうだったことを思い出してください。したがって一般的には、現時点で他者が事実と認定できるものごとの総称、ということになります。

ただしここで重要なのはそれが、主観的な事実を否定するものではまったくない、という点です。100億人に否定されたらそれは「ない」ことになるのかといったら、なりません。それはあくまで客観的に認定できないというだけの話です。

たとえば僕は10代のころ、実家にひとりでいるときに、タタタタッと階段を駆けあがる幼児(3歳くらい)の足音をはっきりと聞いたことがあります。当時のわが家には3歳児どころか12歳児すら存在しなかったので、あんまりびっくりして父親のゴルフクラブを持って確認しにいったくらいです。そしてまあ、そりゃそうかという気もするけど、おそるおそる2階に上がっても誰もいないし、何もありませんでした。

これを客観的な現実の俎上に乗せたら、現実ではなく勘違いと判断されるでしょう。そりゃそうだよな、と僕もおもう。でも僕にとっては今でもよく覚えている、100%現実の話です。それを客観的に認定してもらう必要がいったいどこにあるだろう?

つい最近のニュースだけれど、ものすごく興味深い話があります。


3週間にわたって昏睡状態だった19歳の女性が目を覚ましたとき、彼女は「三つ子を妊娠・出産して7年育てた26歳」という認識だったそうです。その7年間をあまりにも鮮明に記憶していたので、今もじぶんがまだ19歳のままであることを受け入れられずにいると言います。

これを客観的・医学的な現実としてみた場合、せん妄ということになります。それ以外に合理的な解釈ができないからです。実際、家族からしたら病院のベッドに3週間眠りつづけていたのを毎日見ていたわけですからね。彼女の記憶は現実ではない、と断じるほかありません。

でも、本当にそうだろうか?彼女が意識を失っていたのは、その意識がべつの世界にシフトしてべつの人生を歩んでいたから、という可能性はないのか?

常識的な人なら、明確にないと断言するでしょう。当然と言えば当然だし、僕もそれは心の底から理解できる。

ところがここに、ちょっとした落とし穴があります。というのも、科学者であれ誰であれ、彼女の意識が昏睡中べつの世界にシフトしなかったと立証することは絶対にできない(=悪魔の証明になる)からです。少なくともその可能性をゼロと結論づけることは誰にもできない。そしてこれは科学的思考を常とする人ですら忘れがちですが、どんな可能性であれゼロと断じるならそれは科学的思考ではない。

少なくとも彼女にとって、三つ子を産んで7年過ごしたことは現実です。それでいて科学的に100%否定できるわけではない以上、客観的な事実である可能性すらあります。もちろん、そうに違いない、と結論づけたいわけではありません。ある種のバグとして処理するほうが誰だって受け止めやすい。一方で、彼女が実際にべつの世界で7年過ごしていたとして、僕らがそれを素直に受け止めてはいけない理由があるのかと言ったら、全然ないのです。僕が次に目覚めたとき、「君が音楽的な活動をしていたことは一度もないし、結婚もしていない」と家族とか医者に言われたら、やっぱり受け入れられないとおもう。そうならない保証がいったいどこにあるだろう?

主観的な現実と、客観的な現実の境目がすこしずつ、曖昧になってきましたね。それはまあそれとして、ユニコーンの不在を証明することはできないという事実は、それだけでちょっと心強いと思いませんか。


A. 心の底から実感しているなら、どうあれそれは現実です。




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その483につづく!

2026年5月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その481


レッド・ホット・チリ・ペッパー警部さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子どものイヤイヤ期ってなんなんでしょうか?


「ボタンを押したい」とか「荷物を持ちたい」とか「ウランを90%まで濃縮したい」などと要求し、受け入れられない場合は爆発的な癇癪を起こして容赦なく暴れ回り、手も足も出ない親の心を草1本残らない焼け野原にするという、あの悪名高い反抗期のことですね。

高度な反抗になると、本当にAで良いのかと何度も確認して了承を得たにもかかわらず「そんなことは言っていない」「わたしは最初からBだと言っていた」「フェイクニュースだ」と泣きわめくケースもあるようです。世の親たちが大挙して「いいかげんにしろ」とシュプレヒコールをあげながらデモ行進をしたくなるのもむりはありません。

専門家でもなんでもない僕が幼児をヒトの一個体として考えるに、これはたぶん「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」の本能的な発現です。わたしはわたしであってあなたではない、と自他を区別するその始まりと言い換えてもよいでしょう。本能的、というのは幼児であるその個体が自身の言動とその意味を自覚しているわけではおそらく全然ないからです。どちらかというと条件反射に近いのではないかと僕なんかは思います。猫の目の前に動くものがあったら手を出さずにはいられないようなものです。

幼児にかぎらずですが、自分が自分であって他の誰でもないことがはっきりするのは、他者との間に線を引くとき、つまり拒否を表明するときです。同意(YES)も意思表示ではあるけれど、追従の側面がある以上、拒否(NO)には及びません。

なにぶんそこそこ言葉が通じてしまうので、どうしても幼児の「こうしたい」という要求に意識が向いてしまいますが、もしイヤイヤ期がヒトの健やかな成長において不可欠な過程だとするならば(どう考えても必要であると僕は確信していますが)、重要なのはじつは要求が満たされることではないと考えられます。というのも、要求だけなら乳児も本能的にしているからです。生存にかかわりますからね。

また要求を満たすことが重要なのであれば、100%満たしているにもかかわらず真逆のことを言い出してちゃぶ台をひっくり返すような事態にはまず陥らないはずです。しかし実際には、ふつうにちゃぶ台はひっくり返されます。「話がちがうじゃないか」とデモ行進でシュプレヒコールをあげたくなる所以です。

したがって、イヤイヤ期の幼児にとって重要なのはむしろ拒否することです。実際には是(YES)であっても、とにかく非(NO)が意味を持ちます。要求に対する親の拒否を受け入れない(ダメに対してダメじゃないと抗う)ことも同様です。わたしがわたしであると表明する機会を常に待ち構えている状態、と言えるかもしれません。

つまりイヤイヤ期とは、ヒトの成長過程において芽生えた自己同一性の土台を固める段階である、と申せましょう。これを哲学っぽく言い換えるなら「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」ということになります。

理不尽に思える幼児のギャン泣きはほぼすべて「我イヤ!ゆえに我あり!」に翻訳できるとここで無責任に断言しておきましょう。誰であれ僕らはみな、かつてはデカルトに匹敵する偉大な哲学者だったのです。


A. 「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」の一言に尽きます。




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その482につづく!




2026年5月8日金曜日

ペガサス、もしくは野生の富豪についてときどき考える話


日々の合間を見つけつつ、アグロー案内の新作をちまちま書き進めています。


表題のままっちゃそのままなんだけど、どうにかこうにか生き延びてだいぶいい年になってくると、そういうことをふと、考えたりするのです。

字義どおりの富豪では、もちろん全然ありません。際立つのはむしろ真逆に稼ぎを心配されるくらいのケースでしょう。要は人が好きで、人に愛されている人のことです。

顔が広いってことでしょ、とおもうかもしれませんが、ちょっとちがいます。というかそれを言ったら富豪になればなるほど顔は広くなります。何しろありとあらゆる局面で、できることが人よりも明らかに多い立場だからです。したがって資産の多寡が関係に影響しないことが条件である、とも言えましょう。

多かれ少なかれ、顔の広さにはメリットが付随します。特定の好ましい人とつながる可能性があるなら、媒介となる人と面識があることはそれ自体がすでにメリットです。社会における人間関係とはその一言に尽きるとさえおもう。

ただ世の中には、つながることで得られるメリットがあるかどうかを問わず、好かれているというだけで結果としてめちゃめちゃ顔の広い人が存在します。それが野生の富豪です。

それをなぜ富豪と呼べるかといえば、やはり同じようにありとあらゆる局面で、やろうと思えばできることが人よりも明らかに多いからです。すくなくとも、困窮極まったときに誰を頼っていいかわからない事態に陥ることはありません。助けて!と必要ならいつでも率直に言えるし、力になりたいと考える人々がいつでも待ち構えています。富豪と同じことができるのならそれはもうまちがいなく豊かだし、それでいて裸一貫みたいなものだとすればこれを野生と言わずに何と言おう。

言うまでもなく当人がそうありたいと望んでいるわけではなくて、ただただ、結果としてそうなっているのがポイントです。柔和であるとか、活力があるとか、隙があるとか、裏表がないとか、欲がないとか、声とか表情とか、要素を一つひとつ挙げることはできるんだけれど、どう考えてもそれだけではないし、何ならそのどれも当てはまらないケースもあります。そうなるともう、磁場とか引力とかフェロモンに近い。

物理的な資産の獲得による富豪とちがって、野生の富豪は望んでなれるものではありません。その自覚がないことこそ大前提、と言ってもいいでしょう。意図して得られる好感もあるだろうけど、そのためには死ぬまで意図を維持しつづけることが求められるからです。

人生を再現なくやり直せば富豪になる未来なんかも余裕であるでしょう。一方で野生の富豪はそうなりたいと望む時点でまず無理です。そういう意味で本当に得難い希少な、馬に翼が生えたような存在だと、感嘆せずにはいられません。

まじで実在するペガサスみたいな人を遠目に眺めながら、せめて今あるささやかな縁を大切にしよう、と胸に刻む今日このごろです。