2024年12月6日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「名探偵の登場/the adventure of solitary cyclist」


こればっかりはどうあっても説明しなくてはなりますまい。

名探偵山本和男が縦横無尽にやらかす冒険活劇のシーズン1は、アグロー案内VOL.5に収録された「名探偵の死/the final problem」にて、肝心の山本和男がライヘンバッハっぽい滝に足を滑らせて落ちたっぽいという、劇的なシーンで幕を閉じ、絶大な反響を呼び起こしました。

「ウソでしょ、ここでシーズン1終了!?」
「打ち切りじゃないよね!?」
「和男が死んだ!」
「寝覚め悪すぎ」
「え、次の主役、加藤?

等々、SNSでのバズりっぷりはかの有名な滅びの呪文「バルス」に匹敵するほどだったと言います。

それから1年…待ちに待ったどころかみんなしびれを切らしてちょっと忘れかけていたシーズン2のスタートが、アグロー案内VOL.7に収録の新しいテーマソング「名探偵は2度起きる/the return of you-know-who」にて発表と相成りました。

そして今回のアグロー案内VOL.8に収録された「名探偵の登場/the adventure of solitary cyclist」でいよいよ、完全に死んだと思われていた、もしくは完全に死んだと思われていることになっていた山本和男がまるで何ごともなかったかのような顔でしれっと奇跡の大復活を遂げたと、こういう流れになっております。

説明しなくてはなりますまい、というのはむしろここからです。

曲中には4人の登場人物がいます。1人目はもちろん山本和男です。「なんだあのセスナ機は?」という何者かの発言から、セスナに乗っていることがわかります。しかし「あの中肉中背のパッとしない男は」との発言からすると、全身が視認できる状態であり、セスナを操縦してるわけではない、つまり機体の外側に屹立しているようです。

2人目は、先の発言をした人物です。彼が犯人だと山本和男に看破されてひどく悔しがっていることから、どうあれ何らかの犯人であったことは間違いないように思われます。

3人目は、助手の加藤くんです。「やまもとーーー」と歓喜の声を上げているのが、彼ですね。探偵でもないのに何をしていたんだろう。

4人目は先の犯人とちがってきちんと名前がある新キャラ、山口警部です。自ら名乗ってくれているあたり好感が持てますが、事件の解決にはとくに寄与していないようなので、今後の活躍が待たれます。ちなみに彼が食っている煎餅はひざつき製菓「雷光(旨塩味)」です。


よくよく考えるとセスナを操縦しているのは誰なのかという問題もなくはないですが、これはあらかじめ自動操縦にしておいた、ということで良いでしょう。したがって山本和男がひらりと飛び降りた後、あのセスナ機は楽曲に描かれていない遠く離れたところで地面に激突して爆発、炎上しているはずです。

そもそもセスナが滑空できるほどのだだっ広いところで3人は何をしていたのか、加藤くんと山口警部を除けばあとは謎の男しかいない状況で何に行き詰まることがあるのか、セスナ機に立って颯爽と登場する山本和男のイメージ以外はほぼすべてが謎に包まれている印象ですが、事件があって犯人が判明した以上、それ以外のちまちました謎など問題ではありません。いつでもカッコいい場面とその瞬間のみに全力を注ぐ作家タケウチカズタケの真骨頂がまさしくここにあります。

それよりもむしろ、曲の最後に残された不可解な呟きのほうがはるかに重大です。何しろこの楽曲それ自体が、事件の発端であることを示唆しています。

山本和男を讃える言葉の数々が忽然と消え失せている…。これは事実です。このシリーズにおける多くの例と違ってそういうことになっているわけではなく、ここには実際に言葉がありました。実際に書いて録音した僕が言うのだから間違いありません。あったはずの声が楽曲から失われるという、他に類を見ない前代未聞の事態です。

どこの誰が何のために声を盗んだのか、そしてこれを取り戻すことができるのかどうかが、華々しく幕を開けたシーズン2を左右する、でなければ上下する重大なカギになっていると申せましょう。

ただし、山本和男がカギを見つけても拾わないばかりか気にも留めないタイプの名探偵である点には注意が必要です。何しろそういう人なので、こればっかりは僕らでも如何ともし難いところがあります。

アグロー案内シリーズ屈指のフィリーソウル感も楽曲として最高なんだけど、ともあれどんな声と言葉がそこに乗っていたのか、想像しながら聴くのもまた一興かもしれません。

あ、あとそうそう、タイトルの英語部分、 ”the adventure of solitary cyclist(孤独な自転車乗り) は、シャーロック・ホームズシリーズの一編から拝借しています。こうしてみると山本和男のことにしか思えないけど、実際にこのタイトルを冠した短編があるのです。よかったら探して読んでみてね。

2024年11月29日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」


人でない何かが決定権を持つ時代に向けて、いよいよ土壌が整ってきたなあ、と最近はよくおもうのです。人ではない何かとは、昔ならコンピュータで、今ならAI、たぶんまた新たなフェーズに移行して呼び名も変わるだろうけど、とにかく人工的な知能、もしくは少なくともそう見えるものを指しています。

今がその時代であるとはまだ全然おもいません。土壌が整ってきたと表現したのは、そのためです。ひょっとしたらまだ種すら蒔かれていないかもしれない。でも蒔けば自然と芽が出る、そんな土壌はもうできつつあるとおもう。

形あるものにしろ、形なきものにしろ、あらゆるものがネットワークで結ばれている状態がデフォルトになれば、次にくるのは端末の最適化です。アクセスする側の特性に合わせて、どんどん使い勝手が良くなっていきます。使い勝手が良くなればなるほど、それがないことを不便と感じるようになるでしょう。現時点ですでにそう感じている人も、たぶんいますよね。

膨大な情報が外からも内からも端末に蓄積されていき、それを元に今度はこちらが操作しているはずの端末側から別の選択肢を提示できるようになります。あなたはこれも好き「かも」から、あなたはこれが好きな「はず」になり、いずれ最終的には「あなたはこれが好き」と断言されるようになっても、全然おかしくない。

今というよりも、すこし先の、未来の話です。

人はみな誰でも、自分で考えて、正しく判断できると信じています。ただしその根拠は僕らが自分で感じるほど盤石ではありません。そしてそのことが人類の、高度なテクノロジー社会における致命的な弱点でもあるとおもう。本当に自分で判断しているのか、それともそう判断するように仕向けられているのか、僕らはその違いを区別することができるだろうか?

たぶんできないな、というのが僕の考えです。仕向けられている自覚がないなら、そりゃいつだって自分が自分の意志で判断しているとしか認識できないわけだから。

つまり僕ら人類は結果として、いずれ外からコントロールされるための土壌を自らせっせと耕している、とも言えるのです。

批判ではありません(←重要)。良し悪しでもなく、むしろこれは自然で不可逆な流れです。人が好ましいと感じるごくごく些細なことの積み重ねとその結果でしかない。仮に時間を100年巻き戻してもやっぱり同じ未来を迎える気がするし、そういうもんなんだろうなとおもう。進歩の副次的な作用、と言ってもいいのかもしれません。

一方で、そうした流れに抗う人は未来にもたぶんいっぱいいて、それもまたごく自然なことだと僕は考えています。希望とか絶望の話ではなくて、もっと単純に、自然な作用には自然な反作用があるはずだ、みたいなことですね。


例によって前置きが長くなってしまったけれど、「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」はそんなあれこれから生まれた作品です。

こうありたいとか、こうあるべきという強い意志では全然なくて、ただふとそんな選択をしてみる気になったこと、今までそんなこと考えもしなかったから足がすくむし、不安にもなること、でもそれはすごく自然なこと。

先の作用と反作用で言うなら、蛾の羽の「舞い上がるためにある」が作用で、「舞い降りるためにある」が反作用にあたります。

その選択が正しかったかどうかは誰にもわからないし、それを知る必要もありません。ただ彼女はそうした、というだけです。ふわりと着地して何ごともなかったようにそのまま立ち去る、その後ろ姿はなんとなく、以前よりも凛として見えます。そこに美しさがあるならそれでいいなと、僕はおもうのです。

できればその後ろ姿を、見えなくなるまで見送りたい、そんな気持ちもあって曲の余韻をたっぷりとれたらうれしいな、と考えていたところにカズタケさんの思惑もぴたりと重なって、最終的にこの曲は最初からそう意図していたように感じるほど、理想的な形に昇華されています。感無量というほかありません。

僕のイメージが「彼女の後ろ姿が見えなくなるまで」だとしたら、カズタケさん主体の Part2 はそこから視点がゆっくりと空へと移り、大気圏を突き抜けて、宇宙へと向かっていくイメージです。ソロになることでふくらむ浮遊感がとにかく良いんですよね…。とりわけ Part1 の終盤からそっと顔を出し始めるリフがもう!も〜〜〜〜!そりゃ体もプカッとなってフワフワ〜ッてなるじゃん!(語彙)

そんな浮遊感に身を委ねながら、広大無辺をふわふわ、ぷかぷか、くるくる遊泳してもらえたらとおもいます。 

2024年11月24日日曜日

ある意味でロシアンルーレットみたいな夜だったこと


慣れないライブの後はいつも力尽きて、しばらく人として使い物にならない日々が続くわけですけれども、今回は翌日本当に発熱してぶっ倒れておりました。まじかよとお思いでしょうが、僕もまったく同感です。ワンマンと言っても過言ではないライブをやっておいて毎回なぜ二の足を踏むのか、図らずも証明してしまったと申せましょう。プーン!(鼻をかむ音)

ともあれ「アグローと夜 2024」はおかげさまで今年も大団円のうちに閉幕と相成りました。今回も北は北海道から南は大分まで、全国各地プラス海外は中国からもお越しいただいて、この感謝の気持ちをどうお伝えしたらよいのか言葉もありません。ありがとうありがとうありがとう!

常に多くの機会を有するタケウチカズタケはともかく、まずそんな機会のない僕について言えば世界中に点在する全フォロワーが一堂に会する何らかの記念日であり、四葉のクローバーを見つけるよりも難しい同志の存在を実感できる千載一遇の夜です。

だからこそ、その甲斐あったと感じてもらえる夜になるよう全身全霊で努めていますけれども、とりわけ今年はいつになくその実感がありました。

何と言っても今回最大の特徴は、曲の合間にちょいちょいCMが挿入されたことです。ふつう挟まれるのはCMではなくMCのはずですが、たっぷりあるMCとはぜんぜん別に、演者自ら丹精こめて製作したCMが流れる構成だったわけですね。そしてそのクオリティたるや下手な外注を余裕で上回るレベルであったと、これも申し添えておきましょう。曲の余韻に浸る間もなく唐突に不可解なCMがぶちこまれるばかりか、次はどんなCMで、いつ流れるのかもわからない以上、ほとんどロシアンルーレットみたいなものであり、場内のアドレナリン濃度が高まるのは当然というほかありません。超たのしかったよね!

それから、僕にとってもカズタケさんにとっても想定外の変化を遂げつつあるのが、去年も披露している「紙芝居を安全に楽しむために」です。

これはもともとビートに合わせて書いたものではありません。そもそも音楽に乗せることすら想定されておらず、音楽とは関係のない仕事でプレゼンのためにデモとして録音しておいた、純然たる朗読です。それを組曲に仕立ててくれたのがカズタケさんなわけですが、朗読としての全体のリズムを維持しつつも、朗読をビートに合わせてめちゃめちゃ細かく調整してくれています。つまりビートを意識しながら朗読したような仕上がりになっているのです。単に朗読とBGMを貼り合わせた作品では、全然ない。それどころか余人には窺い知れない極めて高度な音楽的スキルがしれっと施されています。今でもアグロー案内における傑作の一つとして揺るがない所以です。

それゆえに当然、ライブでの精密な再現はほぼ不可能に近い。(というか本人含めて誰も求めていない)

と思っていたのだけれど、音源と同じである必要はないし、むしろ違うほうがライブらしくていいし、タイム感が変わっても問題なく対応できるから、テキスト読みながらでもええやん、とカズタケさんが請けあってくれたので、思いきって去年も一昨年も披露してきた次第です。

ところがこの3年で何百回も繰り返し練習しているうちに、僕のほうに意外な変化が起きました。これまでは綱渡りをするような感覚だったのが、口笛を吹きながら綱を渡るような感覚に変わってきたのです。

もうすこし具体的には、カズタケさんのビートに対してこちらから掴むイメージを持てるようになった、もしくは初めからビートがあることを前提にした朗読であったかのように、自ら寄せることができるようになってきています。

僕自身はもちろん、カズタケさんにとっても想定外、と先に書いたのはそのためです。作品としての発端を考えると、こんな着地は夢にも思っていなかった。

15分もの間、ただひたすら自己啓発セミナーの講師よろしくぺらぺらと喋っているだけのように見えながら、足場としてのリズムを要所要所で確実に踏んでいくとすれば、その醍醐味はまさにライブならではということになるでしょう。

もはやテキストの中身など問題ではありません。どのみち何も言っていないに等しいのだから、意味を聞き取る必要もない。何だかよくわからない異様な熱弁が気がつけば音楽とシンクロしている、そんな不思議な感覚を、おそらくライブではより強く味わえます。意味を追わずにぼーっと聴けば聴くほど、音楽的な側面が色濃く浮かび上がるはずです。そういう作品じゃなかったはずなんだけど。

そしてもうひとつ、「コード四〇四」が新たにラインナップに加わったことで、個人的にはピースの揃った印象があります。表現としての振り幅が大きければ大きいほど、却って他の作品が活きてくるはずとずっと思っていたので、これはうれしかった。昔は自分にとって超絶技巧だったのが、今では単なる技巧のひとつでしかないと知ることができたのも大きい。

今でこそ当たり前のようにカズタケさんのピアノひとつで「棘」「処方箋」を演っているけれど、最初はちいさなライブで即興的に試してみたらビートなしではリズムがぜんぜんとれなくてグダグダになり、赤っ恥をかいた記憶があります。それだって昔の僕には超絶技巧だったのです。

総じて、ぜんぶ丸ごと、観てもらえてよかったと思える、そして心から楽しかったと言える夜、それが「アグローと夜 2024」だったと思います。それもこれも、新たな引き出しを開けてくれた御大タケウチカズタケのおかげであり、何より今もこうしてお付き合いくださるみなさまのおかげです。もしまたこんな夜があるとしたら、絶対に心躍るひとときになると胸を張って言いたい。

心躍るひとときになることを確約できるのに、ライブそのものを確約できないのは、やると発熱して寝こむからです。こればっかりはもう、体質だからしかたありません。

とにもかくにも、またお目にかかることを心から願って!

本当にありがとうー!



2024年11月15日金曜日

空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates



どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな
夜がそこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は
電源を切った

張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
こうして彼女は
電源を切った

あるときレンガ塀に
羽を広げてくつろぐ
一羽の蛾を見た
行きも帰りも
おなじ塀におなじ姿で
鳴りをひそめて微動だにしない
明けても暮れても
変わらずそこにいて
その位置だけがときどき移ろう
こんな時期に花の蜜はあるだろうか?
彼女はその蛾をソクラテスと名づけた

彼女はその姿に哲学者を見た
煉瓦はそれぞれが問いにも見えた
気品と
威厳と
深慮と
孤独と
しなやかな強さと
儚げな脆さと
どうしたらそう泰然自若として
いられるの?
得られるの?
あるいは選べるの?
その目に映る風景を訪ねたくて
彼女は電源を切った

張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
そのひとつひとつが
ゆらめいて瞬く

消えたのは重力
残ったのは余白
寄り添うのは初めて知るやさしい孤独
こんなに余白があるなら
絵を描こうか?
お湯を沸かして
紅茶を淹れようか?
茶葉はほぐれて踊るように開く
みるみる紅く染まり取り巻く
ひと口ごとにつく息は深く
おかえりと呟く
誰にともなく

どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな夜が
そこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は電源を切った

レンガ塀の哲学者を
思い浮かべる
あの繊細な羽を
思い浮かべる
舞い上がるためにある
と見えてむしろあれは
舞い降りるためにこそ
あるんだろうと
損なうことなく
足はいずれ地につく
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ
ひと思いにと手放すつもりで
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ

空に身を投げて
ふわりと降り立つ
空に身を投げて
ふわりと降り立つ

2024年11月8日金曜日

アグロー案内 VOL.7 リリースのお知らせ

今年中にできたらいいな〜とはもちろん夢見ておりましたけれども、なにぶんいろいろとタイミングというものがあります。その点に拘泥しないことこそが、細くとも長く続ける秘訣のひとつである、と大らかに構えていたらここにきて急転直下の展開です。

シリーズも早8作目となるアグロー案内 VOL.8 が、年に一度もあるとは断言しきれない稀有な実演会アグローと夜(おかげさまでチケットは完売です!)を前に、まさかのリリース決定と相成りました。


前回のVOL.7では「告知から配信まで10日しかない」と右往左往していましたが、あれくらいはなんでもなかったと今なら申せましょう。ぶっちゃけ今回はその比ではありません。何しろ配信日は11月15日(金)です。

7日後。

そして年に一度もあるとは言えないアグローと夜7日前です。

また改めて書くつもりでいるけれど、収録される新作は、詩を書いたりそれを詠んだりしていたときよりも、すこし日がたって聴く今のほうが思い入れが深い、そんな仕上がりになっています。

制作過程のキャッチボールによって着地がここまで変わる、という意味ではシリーズ随一と言っても過言ではありません。僕がイメージしていたよりもはるかに高みに連れていってくれたというか、コップに入れた塩水をカズタケさんに預けたら海になって返ってきたようなものです。海水じゃなくて、海ですよ。嘘偽りなく、この曲は言葉を聴き終えてからが真骨頂であって、そりゃ目ん玉もスポンと転げ落ちましょう。

そしておなじみ、名探偵山本和男の新しいテーマでは、前代未聞の事件が起こります。

何しろ楽曲そのものが事件の現場になっているのです。

事件を描写しているわけではありません。曲それ自体が事件です。正直、まさかそんな着地をすることになるとは制作過程で想像もしていなかったし、当の僕らでさえ面食らっているところがあります。果たしてこれは解決するのか、しないのか、それとも新たな謎へと展開するのか、いずれにしても「そんなことある!?!?!?」という、他所ではまずお目にかからない、現実的にはほぼほぼ無理なアプローチになっているとおもうので、楽しみにしていてください。

いやーすごいわ、ほんと、いろんなことができるもんだなあ…(しみじみ)

2024年11月1日金曜日

アグローと夜2024では会場限定販売となるCDがあること


SNSでさんざんわめき散らしたのでここに明記しておくのをすっかり忘れていましたが、11月22日(金)に予定されている「アグローと夜2024」では会場限定販売となるCDがございます。去年もあったのでだいたい同じような感じかな、と思いきやさにあらず、今回はアグロー案内シリーズとしてリリースされた楽曲のインストやアカペラはもちろん、わざわざこのためだけに制作されたCMが多く収録されているのです。

CM…と侮ってはいけません。そのクオリティたるや驚異的であり、考えようによってはアグロー案内というプロジェクトの真骨頂と言っても過言ではない出来栄えです。うちの人なんかはこれだけを延々とリピートしながらずっと腹を抱えて転げ回っていた、と付け加えてもいいでしょう。

考えてもみてください。ここにいるのはミュージシャンとして第一線で活躍する男と、言葉と声を武器にする男です。何らかのCMを制作するのにこれ以上うってつけの組み合わせはありません。そしてそれは今回の会場限定販売CDで、明確に証明されています。こんなかんじのCMがあってもいいのにな、というふわっとした妄想を見事に軽々と上回る完成度で、当事者である僕らとしても爆笑を禁じ得ません。たとえば僕がこんなアイデアを別の誰かに持ちかけても、タケウチカズタケがいなければここまでのクオリティに達することはないでしょう。もちろん、その逆も然りです。聴けばわかります。そしてまったくその通りだと、完全に納得してもらえるはずです。

僕は元来ライブというのものにめちゃめちゃ及び腰な男ですが、これが販売できるなら喜んでライブをするし、むしろしたい、と本気でおもいます。そういうレベルです。

そうは言ってもなかなかイメージしづらいと思うので、収録される予定のCMとその銘柄をここに記しておきましょう。

・阿具楼本舗「浅利のしぐれ煮」
・ボスコム「アグローミルクチョコレート」
・誘拐代行はおまかせ!キッドナップサービス
・赤毛堂「ピッチピッチチャップス」
・その他数点

これらは当日も会場で流れる予定ですが、一度聴けばもう一度聴きたくなること請け合いです。

そしてそれを聴くためには、ぜひとも会場に足を運んでいただかなくてはなりません。

チケットはおかげさまで多くの方にご購入いただいています。が、まだ若干(数名…?)は購入可能だそうなので、どうかどうか、この機会をお見逃しなく…!

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