3016年2月2日金曜日
2026年5月22日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その482
途中まで塗って力尽きたらしい
このマリリン紋所が目に入らぬかさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 私はユニコーンは実在すると思っていたりいなかったりしますが、”実在する”と自分が思う「現実」とChatGPTがいう「現実」ってちがうのかなと感じることがあります。だとすると『現実』ってなんでしょう。
ふむふむ。そうですね、現実に対する認識がじぶんとAIとで異なるとすれば、それはシンプルに主観と客観の違いです。客観的な現実というのは言ってみれば多数決で決まるような話なので、他者の同意が希少なものごとについてはまず現実とみなされません。かつては地動説もそうだったことを思い出してください。したがって一般的には、現時点で他者が事実と認定できるものごとの総称、ということになります。
ただしここで重要なのはそれが、主観的な事実を否定するものではまったくない、という点です。100億人に否定されたらそれは「ない」ことになるのかといったら、なりません。それはあくまで客観的に認定できないというだけの話です。
たとえば僕は10代のころ、実家にひとりでいるときに、タタタタッと階段を駆けあがる幼児(3歳くらい)の足音をはっきりと聞いたことがあります。当時のわが家には3歳児どころか12歳児すら存在しなかったので、あんまりびっくりして父親のゴルフクラブを持って確認しにいったくらいです。そしてまあ、そりゃそうかという気もするけど、おそるおそる2階に上がっても誰もいないし、何もありませんでした。
これを客観的な現実の俎上に乗せたら、現実ではなく勘違いと判断されるでしょう。そりゃそうだよな、と僕もおもう。でも僕にとっては今でもよく覚えている、100%現実の話です。それを客観的に認定してもらう必要がいったいどこにあるだろう?
つい最近のニュースだけれど、ものすごく興味深い話があります。
3週間にわたって昏睡状態だった19歳の女性が目を覚ましたとき、彼女は「三つ子を妊娠・出産して7年育てた26歳」という認識だったそうです。その7年間をあまりにも鮮明に記憶していたので、今もじぶんがまだ19歳のままであることを受け入れられずにいると言います。
これを客観的・医学的な現実としてみた場合、せん妄ということになります。それ以外に合理的な解釈ができないからです。実際、家族からしたら病院のベッドに3週間眠りつづけていたのを毎日見ていたわけですからね。彼女の記憶は現実ではない、と断じるほかありません。
でも、本当にそうだろうか?彼女が意識を失っていたのは、その意識がべつの世界にシフトしてべつの人生を歩んでいたから、という可能性はないのか?
常識的な人なら、明確にないと断言するでしょう。当然と言えば当然だし、僕もそれは心の底から理解できる。
ところがここに、ちょっとした落とし穴があります。というのも、科学者であれ誰であれ、彼女の意識が昏睡中べつの世界にシフトしなかったと立証することは絶対にできない(=悪魔の証明になる)からです。少なくともその可能性をゼロと結論づけることは誰にもできない。そしてこれは科学的思考を常とする人ですら忘れがちですが、どんな可能性であれゼロと断じるならそれは科学的思考ではない。
少なくとも彼女にとって、三つ子を産んで7年過ごしたことは現実です。それでいて科学的に100%否定できるわけではない以上、客観的な事実である可能性すらあります。もちろん、そうに違いない、と結論づけたいわけではありません。ある種のバグとして処理するほうが誰だって受け止めやすい。一方で、彼女が実際にべつの世界で7年過ごしていたとして、僕らがそれを素直に受け止めてはいけない理由があるのかと言ったら、全然ないのです。僕が次に目覚めたとき、「君が音楽的な活動をしていたことは一度もないし、結婚もしていない」と家族とか医者に言われたら、やっぱり受け入れられないとおもう。そうならない保証がいったいどこにあるだろう?
主観的な現実と、客観的な現実の境目がすこしずつ、曖昧になってきましたね。それはまあそれとして、ユニコーンの不在を証明することはできないという事実は、それだけでちょっと心強いと思いませんか。
A. 心の底から実感しているなら、どうあれそれは現実です。
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その483につづく!
2026年5月15日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その481
レッド・ホット・チリ・ペッパー警部さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 子どものイヤイヤ期ってなんなんでしょうか?
「ボタンを押したい」とか「荷物を持ちたい」とか「ウランを90%まで濃縮したい」などと要求し、受け入れられない場合は爆発的な癇癪を起こして容赦なく暴れ回り、手も足も出ない親の心を草1本残らない焼け野原にするという、あの悪名高い反抗期のことですね。
高度な反抗になると、本当にAで良いのかと何度も確認して了承を得たにもかかわらず「そんなことは言っていない」「わたしは最初からBだと言っていた」「フェイクニュースだ」と泣きわめくケースもあるようです。世の親たちが大挙して「いいかげんにしろ」とシュプレヒコールをあげながらデモ行進をしたくなるのもむりはありません。
専門家でもなんでもない僕が幼児をヒトの一個体として考えるに、これはたぶん「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」の本能的な発現です。わたしはわたしであってあなたではない、と自他を区別するその始まりと言い換えてもよいでしょう。本能的、というのは幼児であるその個体が自身の言動とその意味を自覚しているわけではおそらく全然ないからです。どちらかというと条件反射に近いのではないかと僕なんかは思います。猫の目の前に動くものがあったら手を出さずにはいられないようなものです。
幼児にかぎらずですが、自分が自分であって他の誰でもないことがはっきりするのは、他者との間に線を引くとき、つまり拒否を表明するときです。同意(YES)も意思表示ではあるけれど、追従の側面がある以上、拒否(NO)には及びません。
なにぶんそこそこ言葉が通じてしまうので、どうしても幼児の「こうしたい」という要求に意識が向いてしまいますが、もしイヤイヤ期がヒトの健やかな成長において不可欠な過程だとするならば(どう考えても必要であると僕は確信していますが)、重要なのはじつは要求が満たされることではないと考えられます。というのも、要求だけなら乳児も本能的にしているからです。生存にかかわりますからね。
また要求を満たすことが重要なのであれば、100%満たしているにもかかわらず真逆のことを言い出してちゃぶ台をひっくり返すような事態にはまず陥らないはずです。しかし実際には、ふつうにちゃぶ台はひっくり返されます。「話がちがうじゃないか」とデモ行進でシュプレヒコールをあげたくなる所以です。
したがって、イヤイヤ期の幼児にとって重要なのはむしろ拒否することです。実際には是(YES)であっても、とにかく非(NO)が意味を持ちます。要求に対する親の拒否を受け入れない(ダメに対してダメじゃないと抗う)ことも同様です。わたしがわたしであると表明する機会を常に待ち構えている状態、と言えるかもしれません。
つまりイヤイヤ期とは、ヒトの成長過程において芽生えた自己同一性の土台を固める段階である、と申せましょう。これを哲学っぽく言い換えるなら「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」ということになります。
理不尽に思える幼児のギャン泣きはほぼすべて「我イヤ!ゆえに我あり!」に翻訳できるとここで無責任に断言しておきましょう。誰であれ僕らはみな、かつてはデカルトに匹敵する偉大な哲学者だったのです。
A. 「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」の一言に尽きます。
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その482につづく!
2026年5月8日金曜日
ペガサス、もしくは野生の富豪についてときどき考える話
日々の合間を見つけつつ、アグロー案内の新作をちまちま書き進めています。
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表題のままっちゃそのままなんだけど、どうにかこうにか生き延びてだいぶいい年になってくると、そういうことをふと、考えたりするのです。
字義どおりの富豪では、もちろん全然ありません。際立つのはむしろ真逆に稼ぎを心配されるくらいのケースでしょう。要は人が好きで、人に愛されている人のことです。
顔が広いってことでしょ、とおもうかもしれませんが、ちょっとちがいます。というかそれを言ったら富豪になればなるほど顔は広くなります。何しろありとあらゆる局面で、できることが人よりも明らかに多い立場だからです。したがって資産の多寡が関係に影響しないことが条件である、とも言えましょう。
多かれ少なかれ、顔の広さにはメリットが付随します。特定の好ましい人とつながる可能性があるなら、媒介となる人と面識があることはそれ自体がすでにメリットです。社会における人間関係とはその一言に尽きるとさえおもう。
ただ世の中には、つながることで得られるメリットがあるかどうかを問わず、好かれているというだけで結果としてめちゃめちゃ顔の広い人が存在します。それが野生の富豪です。
それをなぜ富豪と呼べるかといえば、やはり同じようにありとあらゆる局面で、やろうと思えばできることが人よりも明らかに多いからです。すくなくとも、困窮極まったときに誰を頼っていいかわからない事態に陥ることはありません。助けて!と必要ならいつでも率直に言えるし、力になりたいと考える人々がいつでも待ち構えています。富豪と同じことができるのならそれはもうまちがいなく豊かだし、それでいて裸一貫みたいなものだとすればこれを野生と言わずに何と言おう。
言うまでもなく当人がそうありたいと望んでいるわけではなくて、ただただ、結果としてそうなっているのがポイントです。柔和であるとか、活力があるとか、隙があるとか、裏表がないとか、欲がないとか、声とか表情とか、要素を一つひとつ挙げることはできるんだけれど、どう考えてもそれだけではないし、何ならそのどれも当てはまらないケースもあります。そうなるともう、磁場とか引力とかフェロモンに近い。
物理的な資産の獲得による富豪とちがって、野生の富豪は望んでなれるものではありません。その自覚がないことこそ大前提、と言ってもいいでしょう。意図して得られる好感もあるだろうけど、そのためには死ぬまで意図を維持しつづけることが求められるからです。
人生を再現なくやり直せば富豪になる未来なんかも余裕であるでしょう。一方で野生の富豪はそうなりたいと望む時点でまず無理です。そういう意味で本当に得難い希少な、馬に翼が生えたような存在だと、感嘆せずにはいられません。
まじで実在するペガサスみたいな人を遠目に眺めながら、せめて今あるささやかな縁を大切にしよう、と胸に刻む今日このごろです。
2026年5月1日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その480
101回目のマヨネーズさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 文章でも料理でもなんでも、昨日作ったものが魅力的に感じられません。どうしても一気のエネルギーで作り上げるかさもなければ不出来なシチューにあれこれと手を加えてひどいことにするかのどちらかになってしまいがちです。せっかく自分で作った昨日(やそれ以前)のものを気持ちよく今日に迎え入れ一緒に生きる気持ちの持ち方を教えてください。
そうですね、つくるといっても文章と料理ではずいぶん隔たりがあるように感じられるので、なぜ同じように感じてしまうのかをしばらく考えてみたのだけれど、「一気に作り上げる」と「後から手を加える」という向き合い方を踏まえると、これはひょっとすると「かけるコストに対して求める見返りのほうが大きい」のかもしれません。
たとえば料理は、レシピに100%従って丁寧に再現すれば、不出来になることはまずありません。どれだけ正確にやっても不出来になるとすれば、それはレシピの書き方が悪いか、もしくはそもそもその料理自体がイマイチであるかのどちらかです。
念のため付言しておくと、きちんと計量せずに目分量でやったり材料を代用しているケースは含まれません。レシピ通りでは全然ないからです。そして実際、後から手を加えたくなる時点でレシピ通りではない可能性が高い。
だとすればそれは、本来必要な時間と労力を無意識に圧縮しようとしている、ということです。
コストの圧縮自体は別に何の問題もありません。むしろコストをかけた場合と同じ結果を求めることが問題になります。なんとなれば、思った結果にならなかったという失敗経験のほうが明らかに多く積み重なっていくことになるからです。昨日を引きずるのも無理はありません。
「おいしい料理」と「料理」では、かかるコストが異なります。料理をするだけなら材料も手順も厳密ではないわけだから、時間と労力もだいぶ違いますよね。「料理」のコストで「おいしい料理」を求めれば、そこには当然齟齬が生まれやすくなります。それは文章も同じです。
取りうる選択肢は2つあります。「おいしい料理」と「いい文章」に見合う時間と労力をかけるか、もしくは「料理ができた」「文章が書けた」というシンプルな成功に比重を移すか、そのどちらかです。いちばんいいのは、後者でちいさな成功体験を積み重ねつつ、ときどき普段よりも時間と労力を費やしてみることかもしれません。
どれだけ些細であっても成功は成功であって、積もれば当然、山になります。良いものとか魅力的なものというのは、その山のてっぺんに気づいたら咲いてる花みたいなもんですよ。
A. 求める見返りをちいさくしてみましょう。
ちなみに思いどおりに花を咲かせることができた人は、僕が知るかぎりコール・ポーターだけですね。
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2026年4月24日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その479
リサイクルチョップさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 好きの反対は本当に無関心でしょうか?よく言われるこの言葉は果たして本当にそうなのでしょうか。何となくそんなもんかと思いつつ、何かが奥歯に詰まったような、準備万端で出かけたはずが何か忘れたモノがあるのではないかと心のどこかに少し不安が残るような、イマイチ腹落ちしないというのが正直なところです。ムール貝博士はどう思いますか?
たしかにこれは、よく言われることのひとつですね。実際その論理でいくと、じゃあ嫌いはどこに位置してその対義語はなんなんだ、という話になるわけだから、釈然としないのもムリはありません。わかるような気はするけれど、どうも飛躍があるようで据わりがわるい。
なぜそんなことになるかといえば、「好き/嫌い」「関心/無関心」という本来異なる比較のレイヤーをそのまま強引に統合しているからです。レイヤーを跨いでいるわけだから、当然そこには飛躍が生じるわけですね。
これを避けるために、たとえば「心に刻まれる/刻まれない」という別のレイヤーを新たに用意してみましょう。このレイヤーにおいては「好き」「嫌い」「関心」が前者、「無関心」だけが後者に置かれることになります。
好きと関心はともかく、嫌いが「心に刻まれる」側に入るのは直感に反するかもしれませんが、ネガティブな印象が消えないのなら、刻まれていないとは言えません。いうまでもなく、心に刻まれるのはいいことばかりではない。ですよね?
え、待って待って、それだと嫌いの反対も無関心にならない?と疑義を呈するきもちもわかります。ただ実際、このレイヤーにおいてはまったくもってそのとおりです。塩と砂糖がどちらも白い結晶というレイヤーでは完全に同類であることを思い浮かべてください。
それこそ芸能人なんかは「嫌い/無関心」という対比が成り立ちます。わざわざ嫌いであることを表明されるほど多くの認知を獲得しているということでもあるからです。認知(=心に刻まれること)そのものがポジティブな結果をもたらす可能性がある場合、どうあれ知られていないことよりも、知られているほうが望ましい。このレイヤーにおいて好き嫌いは問題ではありません。悪名は無名に勝るとか、炎上商法が成り立つのもそのためです。
そして嫌いにはまちがいなく、好きよりもはるかに明確な理由があります。ここが最大のポイントです。裏を返せば、嫌悪はその理由さえ解消されたら好感に転じる可能性があります。一度でも心に刻まれた以上、少なくとも無関心までリセットされることはありません。加えて嫌悪から転じた好感は、無関心から転じるよりも圧倒的に印象が強いはずです。そういう意味では、好きとの距離が遠いのは嫌いよりもむしろ無関心ということになるでしょう。こちらが好意を寄せている場合はなおさらです。
言い換えるなら、件の対比が成立するのは相手の好意が問題になる場合のみ、ということになります。たとえば相手が納豆だったら、僕らも納豆側の好意まではさすがに考えたりしないので、この場合はただ好きと嫌いがあって、その間にどちらでもないが挟まるでしょう。そしてもし納豆が僕らに食べてほしいと熱烈に望んでいる場合、ハードルが高いのは嫌いよりもむしろ無関心だとおもうので、愛されたい納豆にとって好きの対義はやっぱり無関心になります。
A. それは相手の特別な好意を望んでいるときだけの話です。
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その480につづく!
2026年4月17日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その478
暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 『さいとう』『ふくだ』等など、苗字の店名が付いてる食堂は、なぜか、想像通りの良い感じの食堂が多いとおもいません?
ふむふむ、たしかにそんな印象ありますね。たとえば「スサノオ」とか「wabi-sabi」とか「魯山人」とかと並んで「さいとう」という食堂があったら僕も「さいとう」を選びます。仮に4店とも食べ比べてどれも美味しかったとしても、気楽に再訪するのは「さいとう」なんじゃないかという気さえする。ふしぎですね。
それでまあ、つらつら考えてみたんだけど、これはひょっとすると一見素朴におもえて、なかなか奥の深い視点かもしれません。
まず、食堂であることが重要です。そもそも大衆食堂は、ジャンルを問わずいろんなメニューが雑多に混在するイメージがあります。焼き魚の定食もあれば、カレーとかラーメンとかカツ丼があったりもするでしょう。実際にはそのどれもないかもしれないけれど、少なくとも「作れそうなもんは作る」くらいの大らかさがある。つまり食堂である時点で、とにかく腹を満たしたい勢にはすでに感じがよいのです。
そして店名が姓だとすれば、それが考えうるかぎり最もシンプルな名付けである以上、食事処として何も含むところがないことを端的に示しています。「たけし」とか「ともこ」といった下の名よりもさらにアノニマスである点に注意してください。姓ほど、ただ必要だからつけただけであってそれ以上の意味がないことを示す愚直な店名はありません。
業態が大らかで店名が愚直なら、店の雰囲気も自然とそうなるだろうし、料理もそうでしょう。感じのよい確率は総じて高くなります。
大らかと愚直のどちらが欠けてもいけません。「魯山人食堂」だったら水にもこだわりがありそうだし、「和食さいとう」ならたぶん旬の野菜を使った繊細な料理が出てきます。どっちもまちがいなく美味しそうではあるけれど、大多数の僕らは毎度の食事に明確な目的意識を持っているわけではないので、「ご賞味あれ」よりは「食ってけ」くらいのカジュアルな態様のほうが、実際のところ圧倒的に助かるのです。あとたぶん、というか絶対、リーズナブルですよね。
そしてつい忘れてしまいがちですが、僕らは日々の食事に求めているのはボルテージではなくむしろある種の癒しと安らぎです。それを自然と満たすひとつの目安として、「苗字の店名が付いてる食堂」は確実に有効だと僕もおもいます。
A. そこにはたぶん、人の良さが意図せずにじみ出ているのです。
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その479につづく!
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