2026年7月17日金曜日

アグロー案内 VOL.11解説「惑星/searching for Irene」①


さて、「惑星」です。

制作に至る経緯もあるので2回に分けて、まずは内容にふれておきましょう。

大きなギミックがポンと置かれているので、どうしたってそこにピントが合ってしまうと思いますが、僕自身が手応えを感じている、つくってよかったと感じるおもしろさは、むしろその奥にあります。

最大のポイントは、書いた僕自身でさえ思い描いた情景が強制的にキャンセルされてしまう点です。

シンプルに考えれば、そこには僕らと同じ日常が投影されている、という受け止め方になるでしょう。そしてそれは実際に正しい。問題はそうではない可能性があまりにも多すぎることにあります。

語り手が最初に思い浮かべた「空」は、僕らの知る空と同じだろうか?掬い上げる「砂」は僕らが思い浮かべる砂だろうか?彼の言う「チョコレート」はカカオから作られた茶色くて甘いあの菓子なんだろうか?要はそこに並ぶありふれた言葉すべてが、実はぜんぜん別の何かを指しているかもしれない、ということです。そういう厳然たる可能性がここにはあります。

そう指摘されてもなお、思い浮かべるイメージは全面的に切り替わったりはしないはずです。やっぱり馴染みのある情景を思い浮かべるとおもう。僕もそうです。でもそれは考えうる可能性のうち、一番手前にあって最もつかみやすい世界のひとつにすぎません。

100歩譲って、僕らとほぼ同じ日常が投影されている前提で映像化したとしましょう。それでもいちばん目立つギミック自体は支障なく機能します(←ここが重要)。一方でそれは、ある点で瞬時に増殖した無数の可能性を、たったひとつに確定してしまうことになります。解釈以前に、まず前提が曖昧すぎるわけですね。

ひょっとしたらそうはならないアプローチもあるのかもしれないけど、現時点ではぜんぜんわからないし、わからないことに意義がある。言ってみればこれは、想像するしかないからこそ成り立つ物語でもあるのです。そもそも語り手がヒトどころか生物ですらない可能性すら、めちゃめちゃありますからね。

書き終えてから気づいたことではあるけれど、確定しえない情景(ある状態とそうではない状態が重なり合っている)というシュレーディンガーの猫みたいな問い、そうとわかっていてもなお最初に思い浮かべた情景を拭うことができないパラドックスやその強制性にたぶん、この一編の骨頂があります。

テキスト自体に読ませるだけの力がある、とは僕自身あまり思っていません。読んでみようかな、とおもわせるほどのフックはどこにもないし、むしろいつにも増して軽く聴き流せるよう努めたところもあるくらいです。イヤでも身を委ねてしまうタケウチカズタケの美しいビート、特に変わったことは何も言っていないように感じられる僕のリーディング、何よりテキストと異なり自動で進行する「楽曲」というフォーマット、それらすべてがある種の罠であり、であるからこそ最大の効果を発揮する、とぶじにリリースを終えてひと息ついた僕はおもいます。

何かをつくるとき、どうあれ僕はこのスタイルでしかできないことを強く意識するところがあるけれど、前回の「九番目の王子と怪力の姫君」と同様に、これもまたそんな作品のひとつです。

2026年7月10日金曜日

アグロー案内 VOL.11解説「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」


とまあそんなわけで、アグロー案内 Vol.11 がぶじ配信と相成りました。

いつもならまず新作についてあれこれ語り散らすところです。しかし今回にかぎってはやはり「手漕ぎボート」のリメイクから触れなくてはなりますまい。


お聴きいただければおわかりのように、今回のリメイクにはオリジナルになかった女性がフィーチャーされています。曲タイトルには付記されていませんが、アグロー案内としても初めての、なんなら最初で最後かもしれない、たいへん貴重なゲストです。

古くからお付き合いいただいている向きには一聴してお気づきかもしれません。

手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」に力添えいただいたのは、ポエトリーと音楽、という組み合わせでは今も昔も比肩できる人が大袈裟でもなんでもなくまじでひとりもいない、唯一無二の声とスキルを併せ持つ文字どおり空前絶後のアーティスト、totoさん(@totonote)です。

そういえばつい先日の投稿でもすこし触れましたけれども、改めてご紹介しておきましょう。

詠むことを音楽にするという意味で、僕とtotoさんはその昔、完全に同じタイミングで始めた盟友です。僕は単独で、totoさんはタケウチカズタケをリーダーとするバンド(!)で、という違いはあるものの、交流は今に至るまでずっと、途切れることなく続いています。

音源で交わったのはたぶん僕の1枚目のアルバム「1/8,000,000」に収録された「砂金/gold dust」と「おとづれ/a letter to him」が最初です。どっちが先だったかはすっかり忘れてしまったけれど、とりわけ「おとづれ/a letter to him」は僕の組んだビートにtotoさんがリーディングを乗せた(=じぶんのアルバムなのに僕はビートだけでリーディングしていない)一編で、考えてみたらそんな作品はいまだにこれしかありません。

その次がたぶん、totoさんのソロアルバム「◯と◯」に収録された「雲の上のお話」という作品で、これは僕が珍しく(ほんとに珍しい)ゲストとして参加しています。これが2011年です。なのでちょいちょい会ってはごはんを一緒に食べたりなどしてはいるものの、音源での共演はかれこれ15年ぶり、ということになります。

totoさんは現在、Cut SUIKAというユニットで僕なんかよりもはるかに精力的に活動しているので、この声に胸を射抜かれたみなさまはぜひチェックしてみてください。実際、今回のリメイクでは、最後の最後にぜんぶもってかれるくらいの威力があります。

totoさん、ほんとにありがとう!!!


手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」について、改めて付け加えることは何もありません。ただ御大タケウチカズタケ曰くミックスがめちゃムズだったそうなので、オリジナルとは比較にならない超絶技巧が施された一編に仕上がっていることだけは確かです。僕はリーディングに集中すればいいだけだったので、そのせいか初めて、おれ良い曲つくってたんだなとしみじみ思いました。もしシェアしてくれることがあるなら、オリジナルよりも圧倒的に完成度が高いこちらをチョイスしてください。ひらにひらに。


2026年7月3日金曜日

リリースを目前に控えてふと思い出すよしなしごと


アグロー案内シリーズの新作をいよいよ来週に迎える金曜ですが(発表が先週だったのでいよいよというほどでもない)、リリースとなると今でもふと、2枚目のアルバムである「詩人の刻印」リリースライブのことを思い出すことがあるのです。

1枚目から3年くらい経ってのアルバムで、別にメジャーでもなんでもないから、当時は本当にひっそりとしたリリースです。もちろんレーベルとしては考えうるかぎりの告知をしてくれていたけれど、今とちがってSNSもありません。リリースされること自体の情報としてはともかく、考えうるかぎり最小限の規模で行われるささやかなリリースライブの情報をどうすれば取得できたのかさっぱりわからない。仮にタイミングよく情報を手に入れたとして、行くかとなったらそれはまた別の話です。だいたい、詩人の刻印リリースに先がけてこのブログを開設したはずなのに、さっき20年ぶりくらいに確認したらどこにもリリースライブの告知がない。いったい何のために開設したんだとわれながら驚かずにはいられません。

総じて、来てくれる人は本当にいるんだろうか…と何もしてないくせに身勝手な不安を抱いていたことを今でもよく覚えています。百歩譲ってめちゃめちゃ行きたいと思ってくれる人がいたとしても、その情報に触れる確率がSNSやこのブログの存在がちょっぴり認知されていなくもない今よりも圧倒的に低かったのです。

案に相違して、リリースライブは思いのほかたくさんの人が来てくれました。といっても40人くらいの規模だけれど、そもそも着席できるのが30人以下のスペースなので、むしろ限度ギリギリだったわけですね。

もちろん、近しい人が友人を誘ってくれたりもしていたはずだし、なにぶん古い話なので僕自身の記憶が都合よく改ざんされている可能性もあります。でもそうとばかりも言えない印象は、たしかにありました。今もつづく毎年恒例の年賀状キャンペーンは、この夜の感謝から始まったくらいです。

最終的にこの「詩人の刻印」は最も多くプレスを重ねたアルバムになりました。プレスのたびにデザインを全面的に改訂しまくったので、パッケージも5種類くらいあることになります。レーベルにも、僕の手元にも、たぶん全種類はないとおもう。

いうまでもなく、あのころとは何もかもちがいます。最初から低すぎた活動頻度にしたって、さらに比べものにならないほど低い。でも活動しないと決めたことはないし、今も新たに出会ってくれる人がいて、リリースとなれば限られたごく少数でも、楽しみにしてくれる人がいる。そう確信できているのは、あの夜があったからこそです。

アグロー案内に、かつてのもどかしさは1ミリもありません。10年後に聴いて、できればこうしたかったと悔やむこともないでしょう。御大、と僕からしたらそう呼ぶほかないタケウチカズタケのおかげで、現時点で到達できる最高水準が更新され続けています。

Vol.11を最後にうっかり落命しても、悔いは何ひとつありません。楽しんでもらえますように!

2026年6月26日金曜日

アグロー案内 VOL.11 リリースのお知らせ


さて、アグロー案内にまた、甘い果実が生りました。VOL.11です。

リリースは2週間後、7月10日(金)0:00になります。

いつもであればどうにかして情報を小出しにしながらリリースまでの間を持たせようと不毛な苦心を重ねるところですが、実際のところその甲斐があるかといったら別にないことをさすがにもう学んだ気もするので、出し惜しみせずにトラックリストも公開しておきましょう。そもそもリストといったって3曲しかないのです。


恒例のリメイクは「手漕ぎボート」です。僕自身、夢にも思わなかった、カズタケさんのアイデアによるちょっとしたサプライズがあり、たいへんリッチな仕上がりになっております。リーディングにしても当時はいっぱいいっぱいで気に留める余裕もなかった細部に気を配れて感無量です。

恒例の山本和男シリーズは、原作者であるタケウチカズタケのホットな原稿を、僕が大胆にアレンジしています。あ、おれこんな声出るんだ……とじぶんで感心しながらレコーディングした声も含まれているので、それも合わせて楽しんでもらえたらうれしいです。

聴く分にはほとんど感じないことかもしれないけれど、今作の個人的なテーマはです。去年あたりから声について考える機会がたまたま重なったこともあって、改めて、というかたぶん初めて、意識的に声と向き合っています。アプローチではなく、むしろ基礎となる土台の部分ですね。

詩の内容やリーディングのステップ(ラップで言うフロウ)とは別に、声の味わいとその比重を高めてみたいな、とぼんやり考えていたら、新作のビートがまさにうってつけだったので、ここぞとばかりに取り組んでいます。

奇をてらったことは特にしていない、でも気づいたらまた再生してしまう、そういう声の磁力とか魔力があるならせめてその一端を見てみたいと試みた、その最初が今回の新作です。

その意図が功を奏しているかどうかはさておき、結果として詩の内容とビートの相性が過去イチと言えるマッチングになっているのはまちがいありません。僕らもお互いに自画自賛しまくりです。

そしてこれは言うまでもないことですが、アグロー案内は日々研鑽を重ねてとどまるところを知らないタケウチカズタケの進化を曲単位で定点観測できる稀有なプロジェクトでもあります。これまでの作品と併せて聴けば聴くほど味わいが変わると言っても過言ではありません。今回も自信を持ってお届けする、糖度高めのジューシーな果実です。どうぞご賞味あそばせ!

2026年6月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その486


チャン原トリ夫さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今年の1月に、ハンブレッダーズが『着陸』というポエトリーリーディング調の楽曲を発表しました。この曲はバンドサウンドを基調としていますが、大吾さんやtotoさんのように、ヒップホップやサンプリングをルーツに持つアーティストとは、リズムの取り方や歌詞の配置にどのような違いがあるのでしょうか。


これはすこし説明しなくてはなりますまい。totoさんというのは僕とほぼ同時期にポエトリーリーディングを始めたレーベルメイトで、もちろん今もバリバリと活動している、僕なんかよりもはるかに吟遊詩人と呼べるし実際にそういう生き方をしている、文字通り無二のアーティストです。

そしてもうひとつ大事なことを補足すると、totoさんはヒップホップやサンプリングをルーツに持つ人では全然ありません。全然というのはほぼとかそういうレベルではなくて、完全にゼロです。言葉のありようとしての日本語ラップには敬意や憧れ、愛情を山ほど抱いているはずだけれど、ヒップホップであるかどうかは今も昔もあまり気にしていないんじゃないかとおもう。実際のところ、当時たまたま足を踏み入れたフィールドにラッパーがたくさんいたことから、自然とこう、ヒップホップ濃度が高く見えるようになっていったわけですね。下戸だったのに飲み会に付き合ってたら前よりちょっとだけ呑めるようになった、みたいなことだとおもいます。ほんとに。

なので逆に、totoさんとリズムの関係性はめちゃめちゃ興味深いものがあります。というのも、昔は体の外にあったリズムが、今は彼女の内にもある印象だからです。彼女が音楽に寄り添うこともできるし、音楽が彼女に寄り添うこともできる、その双方向性がすごい。これはもう、巡り合わせによる特殊な環境が育んだ結果でもあるので、真似したくてもできません。このあたりは僕もいちどゆっくり話を聞いてみたいですね。

ハンブレッダーズの「着陸」は僕からすると、音楽とスポークンワーズの正統な系譜に置かれる楽曲です。ポエトリーリーディングにしても昔はこのタイプのほうがずっと多かったとおもう。

というのも、言葉にとって音楽はまず情感のアンプ(増幅器)としての意味合いが大きいからです。言葉を朗読やシャウト、スポークンワーズの形で音楽に乗せようとすれば当然、情感が優先されます。リズムはその後です。すくなくとも朗読が先にあってそれを音楽に乗せる場合、リズムやBPMは絶対条件ではない。

だから違いがあるとすればたぶん、リズムの取り方や詞の配置以前に、BPMを前提としているかどうかですね。そしておそらく、音楽とリーディングという組み合わせにおいて「つんのめるギリギリまでガマンしたい」とか情感とはぜんぜん別のことを考えてるのは、僕以外にあんまりいないとおもいます。


A. アプローチというより、前提に最大の違いがありそうです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その487につづく!

2026年6月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その485



ピーチジョン万次郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私も随分、長く生きてるなぁと感じた事があったら教えてください!


「年をとった」ではなく「長く生きてる」というのがいいですね。同じっちゃ同じだけど、前者は心身の衰えとか世代間ギャップみたいなことが主体になるのに対して、後者では積み重ねた年月をしみじみ実感していて、印象がずいぶん違います。昔話でキャッキャできるのはほんと、中年以降だけですからね。

そういう視点で考えると真っ先に思い浮かぶのは、今や両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らしている年月のほうが断然長いことです。気づいたときにはとっくに追い越していて、びっくりした記憶があります。もっと言うと、ビートに乗せてリーディングをする活動期間のほうがすでに長い。何しろ1枚目のアルバムをリリースしたのが22年前です。長いな。

生まれてから実家を出るまでの日々が18年くらいで、仮にそれをひとつのサイクルとすると、今は3周目の半ばです。とりわけ最初の18年は吐き気がするほど長かった印象がつよいので、それを2周も3周も繰り返しているとなると、いいかげんうんざりしてくるレベルの長さになります。もう一度誕生からやり直すのは本当にご免こうむりたい。あの体感時間はいったいなんだったんだろうとつくづく思います。人生の後半を下り坂と表現したりするけれど、長い年月をかけてひたすら登ってきたとんでもなく長い坂をこれからはチャリで漕がずに下れるなら、むしろ爽快で最高じゃないですか?

(風を全身で浴びながら颯爽と駆け下りるイメージ)

月日の重みは、いやでも年々軽くなっていきます。今日も気づいたら夜です。そして今のこの日々は、100%庇護下にあったかつての甘やかな時期と違って、ぜんぜん当たり前ではありません。山中とか廃屋とかでのたれ死んで白骨化してもなお気づかれない結末を迎える可能性はいつでも、そして歴然とあります。そういう懸念を昔から抱き続けているので、なんならその覚悟もちょっとできているくらいです。

だからこそこの先は1日1日をじっくりと味わうように噛み締めていかないといかんなあ、といただいた質問で思いを新たにすること自体、そこそこ長く生きてる証なのかもしれないですね。


A. 気づいたら両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らす年月のほうがぜんぜん長くてびっくりしました。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その486につづく!