2021年7月30日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その337


残酷な店主のテーゼさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 金星から来ましたという自己PRは婚活で有利でしょうか?


僕が昔から釈然としない視点のひとつに「黙っていれば可愛いのに(=残念)があります。これはどう控えめに解釈しても「言動が容姿の価値を損ねている」という意味です。損ねるどころか魅力倍増じゃねえか!と僕なんかはいつも思いますが、言動は見た目に準ずるか、でなければ表に出さないでほしいと恋愛対象であっても身勝手に望む層は少なからずいます。ひとつ屋根の下における容姿など壁に飾る絵くらいの意味しかないにもかかわらずです。

そういう連中を最初から除外できるという点で、「金星からきました」という自己PRは、確実に有利です。なんとなれば余計なことは言わなくていいと考える層は一瞬にしてふるい落とされるし、興味を持ってくれる人がいるならそれは一貫して心と心のやりとりになるだろうからです。

一見すると多くの人を惹き付けるようなわかりやすい魅力をアピールしたほうが単純に分母が大きい分、これという人に出会う可能性が高くなるようにもおもわれますが、うんこみたいなやつらを山ほど集めたところでうんこの山にしかなりません。人はいくらでも自分を取り繕うことができるのだから、まずはそこを突破することが肝心です。お付き合いすることとひとつ屋根の下で暮らすことはあんパンとクリームパンくらい違うものであり、いっしょに暮らし始めた途端、それまで一度も顔を出さなかった問題が雨後の筍のように持ち上がるものと心しておきましょう。それなら人が「えっ」とおもうようなカードを初手から切っておくほうが手っ取り早いし、それを受け止めてくれる人こそ真っ当にして正しいパートナー候補だと僕はおもいます。

少なくとも僕は「むむ、ふつうに考えれば頭おかしいけど、これはそれを逆手に取った観測気球なのか?あるいは本当に金星からきたのか?それともやっぱり頭おかしいのか?」くらいには興味をそそられます。個人的には「本当に金星からきている」が冗談抜きでいちばんポイント高いですね。

ただもし伴侶の条件としてたとえば学歴、収入、身長、スタイル、顔面偏差値といった、赤の他人でも指標になるようなわかりやすいステータスを内面より重視される場合はそのかぎりではありません。ステータス保持者を求めるならそれと釣り合うくらいのステータスを身につけるべきだし、すでに身につけているのであれば金星の話などせずに直接ステータスを見せびらかしたほうがよいでしょう。売人同士の取引みたいなものですね。


A. たいへん有利です。




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その338につづく! 

 

2021年7月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その336


昨日の敵は今日のトムさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 5分間で息抜きをできる方法はあるでしょうか。


息抜き、それは生き馬の目を抜くの略……ではなく生き馬の目を抜く現代社会において欠くこと能わざる心理的メンテナンスのひとつです。息というのは何かと詰まるものであり、詰まるなら窒息する前にとっとと抜かねばなりません。

しかしその方法は多種多様であり、ぶっちゃけ人それぞれです。一ヶ月ほどの休暇をとって世界一周のクルーズに出る人もいれば、鼻くそをほじる人もいます。

後者なんかは5分もかからずに済む可能性大ですが、人目を忍んでほじるだけの甲斐がある大きな成果を常に得られるとは限らないのが難と言えば難です。鼻に指を突っ込むだけで息抜きになるほどわれわれは単純ではない、というかたとえ息抜きになったとしても自分がそこまで簡単な人間だとはさすがに思いたくありません。

だんだん鼻をほじる僕の話みたいなことになってきましたが、もちろん例え話です。そこをそう受け止めるなら世界一周のクルーズに出る人の話も同じように僕のことだと大いに誤解していただきたい。

しかしいかんせん、5分というのはとても短い。ファミレスなら席に案内されておしぼりで手をふいてお冷や飲んでメニュー見て注文する前に帰らなくてはなりません。

また一方で、5分というのはそこそこ長い。ファミレスなら席に案内されておしぼりで手をふいてお冷や飲んでメニュー見て注文してさんざん食ったあと追加注文したデザートに舌鼓を打ち、ドリンクバーのコーヒーを手に窓の外の景色を眺めながらたっぷり1時間は楽しんだ、と想像できるくらいには長い。

もうお気づきですね。カギを握るのは、想像力です。

想像力は時間を拡張します。5分を1時間に引き延ばすくらいならすぐにでもできるわけだから、熟練の拡張者ともなればそれこそ数年を要する世界一周のクルーズを5分で想像しきることも可能です。そもそも想像による時間の拡張に限度はありません。理論的には1000年どころか宇宙の年齢である137億年すら5分に圧縮できるでしょう。

その領域にあってもはや5分という時間の縛りは何の意味も持ちません。そして想像力が許すかぎりありとあらゆることが選択肢に入ります。金も時間も、何なら肉体すら自由に分裂可能です。自分が同時多発的に存在できる以上、不可能なことなどまずありません。何もかもが無限の世界を手にしたあとでは、むしろままならない現実こそが馬鹿馬鹿しい夢に思えてくるでしょう。世界を征服するもよし、何万回と結婚を繰り返すもよし、人類未踏の地を片っ端から踏み倒すもよし、全人類のすね毛を剃って地球からすね毛という概念をなかったことにするもよし、五輪を中止するもよし、ほぼ神です。

ところがこれで終わりではありません。

時空を超えてすべてが可能になるということは、この星に暮らす数十億の人間と対話が可能になる、ということでもあります。今さらそんなことでいったい何が息抜きになるんだとお思いかもしれませんが、チッチッチッ(得意げに指を振っています)。何か肝心なことをお忘れではありませんか?

地球上の対話可能なすべての人に5分で息抜きができる方法を訊ねればよいのです。


A. 想像力を駆使しましょう。




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その337につづく! 


2021年7月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その335



超10ギガさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 時間指定の荷物が届かない時、何して時間潰しますか?


時間指定の荷物が届かないときにどう時間をつぶすか……いわゆる時間指定の荷物が届かないときにどう時間をつぶすか問題ですが、これもまた現代人が抱える、もしくはなぜこんなものを抱えなくてはいけないのかさっぱりわからない大きな悩みのひとつです。

僕の場合はどう過ごすかよりもむしろ、どう過ごしてはいけないかのほうがはっきりしています。具体的に言うと、うんこをしてはいけません。去年の質問箱でも触れましたが、僕の排便は宅配を磁石のように引きつける性質を持っているので、トイレにこもれば必ずそのタイミングでピンポンが鳴り、配達する人と受け取る僕の双方にとって不幸な事態が発生します。実際には手を伸ばせば届くほどの至近距離にいるにもかかわらずです。

それはもちろん、裏を返せばいつまでたってもやってこない時間指定の荷物を瞬時に引き寄せる能力でもあります。思いのままに利用できるならこんなに便利な能力はありません。読んで字のごとく、便によって利する力と言えましょう。

しかし実際にはこれほどままならない特殊能力もありません。何しろどうあがいても身動きのとれないその状況こそがお届けのトリガーになっているのだから、触れるものすべてを黄金に変えるミダス王の手と同じレベルのジレンマです。

とはいえうんこをせずに待っていれば受け取れる話なので、それはまあどうでもいいといえばどうでもよろしい。問題はうんこをせずに何をするかということですね。

マンガを読んだりゲームに興じたり腕立て伏せをしながら時計をちらちらと気にしつつそわそわ待つのも、単なる荷物なのに好きな人が初めて部屋に来るみたいで業腹です。できれば待ちわびたことなどおくびにも出さずに「ああ、来たのね」と大人っぽくクールに迎えたいし、そうでなくてもせめて「あ、いらっしゃい」と笑顔で余裕こいて迎えたい。なんかもう完全に好きな人を初めて部屋に迎える前提の頭になっていますが、ほぼ同じといえばほぼ同じなのでしかたがありません。初めて部屋に来るならむしろこっちから駅まで迎えにいけよとか言われそうな気もしますが、これは宅配される荷物の話です。

個人的にオススメしたいのは、ゴルフボールを雪だるまのようにひとつずつ上に積んでいくことです。僕自身は3つまで積んだことがありますが、いやでも時間を忘れて集中せざるを得ないし、そのうち世界がまっ白になって自分とゴルフボールだけになります。今にしておもうとあのときの僕は宇宙の真理の一端に触れるとこまで行ってたんじゃないかとおもう。ただ本当に無我の境地に達してしまうと肝心の呼び鈴も聞こえなくなるので注意が必要です。

無為な時間をスリリングに楽しむなら、思いきって最寄りのコンビニまで出かけてくるのもアリです。もしかしたらその数分の間にすれ違ってしまうかもしれないし、帰宅時のタイミングで鉢合わせもあったりして、ギャンブル性に富んでいます。ミスって受け取れないダメージがリスクとしてある分、うまく受け取れたときの射幸感はただ待つよりも莫大です。

しかしまあ、料理あたりが結局そこそこ時間も使うし、いちばん無難かなという気がしますよね。常備菜だったら翌日以降の食卓がちょっと豊かになるし、もしやってくるのが荷物でなく好きな人だったら「カレーつくったんだけど……」とかかなりポイント高そうな気もするし、もうそういう妄想はいいからという人だって、荷物を届けてくれた人に「あの、ちょっと作りすぎちゃったんで、よかったら……」とか言ってそこから始まる別の時間指定がまったくないとも言い切れないわけですから。


A. 手料理で明るい未来を勝ち取ります。




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その336につづく! 

 

2021年7月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その334


ツルの倍返しさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今まで食べたものの中で一番美味いと感じたものは何ですか?


こう言ってしまってはなんですが、僕は物心ついてから食べものを前に「不味い」と発語したことは本当に数えるほどしかありません。回数で言ったらたぶん、片手で足りるとおもいます。世間にはすごく美味しいとまでは言えない程度で不味いと言ってしまう人もいますが、僕にとって不味いとはシンプルに「口に入れていられない」という意味であり、実際に吐き出したものだけです。パッと思い出せるのはまだ10代で料理にあれこれ試行錯誤を重ねていたころ、里芋の煮っころがしにオレガノを入れてしまったとき(鉛筆みたいな味でした)と、その昔コンビニで買った森永の「カレーヨーグルト」ですね。西部劇で決闘するガンマンの早撃ちよりも早く吐き出したのは今のところこれだけです。

ためしにググったらウィキペディアの記載があるばかりか、記憶に違わぬ衝撃的な商品であったことを裏付けてもらえて本当に助かります。98年だったか……すげーなインターネット……。

美味いと感じたものの話なのになぜ不味いものの話をしているのかというと、それ以外は僕のなかでだいたい「美味い」に分類されているからです。安心して食事ができることそれ自体を美味いと定義してしまっているふしすらある。

そうなると今までで一番美味いというのはかなりハードルの高い難問になってきます。それはワンピースで言うとサンジに美しい女性を一人選べというようなものです。このたとえでどれくらいの人に伝わるかわからないけど、食物に関しては少なくとも味覚のみでの判断は困難を極めます。どうしてもこう、そのときの状況、思い出なんかとセットになってしまうのは避けられません。

それで言うとまず思い出せるのは、小学生くらいのときに食べたイカの刺身です。水揚げされたばかりのものだったらしくて、色も透明、食感もぷちぷちと口の中で弾けて鼻血が出るほど興奮したのをおぼえています。イカというのは白くてクニクニしたものだとおもっていただけに、あの衝撃は忘れられません。ただこれは味覚がどうというより、味覚ではあるんだけど、それ以上に未知との遭遇ですよね。

それから肉体労働をしていたころ、工事現場の残土で育てていたトマトです。トマトをあんなに美味いとおもったのは後にも先にもこのときだけですが、これもまあ夏の炎天下だったし、真っ赤な完熟をその場でもいで食ったんだからそりゃ美味いわと言うほかありません。たぶん、あのトマトをいま食卓に出しても同じ美味さは味わえないとおもう。残土がまたちょっとね、いい土だったんだよな。

食べものでなくてもよければ、シンプルに味覚のみで衝撃を受けたものがひとつあります。もう10年近く前にブログにも書きましたが、伯母にもらったダージリンのファーストフラッシュです。紅茶ですね。

そもそも僕がコーヒー派であること、また紅茶好きの人がキレてもおかしくないほど時季を逸してしまっていたにも関わらず、あまりの美味さに一週間ほどコーヒーを飲まずその紅茶だけをだいじに飲んでいたこと、さらに状況や思い出なんかとは結びついていなかったこと等々を考え合わせると、本当に掛け値なしの美味さだったんだとおもいます。中国茶の奥深さもヤバいらしいという風の噂も、あのとき初めて、実感として理解できたような気がしたものです。紅茶なのに黄金色だったしな……。

アイスの中で、というかなり限定された条件つきでよければ、これも昔、名前も覚えていないお店で食べたザバイオーネのジェラートです。そもそも特にアイス好きというわけでもないので、これを超えたことはいまだにありません。ザバイオーネが何だかも知らなかったし、今ググっても「んん?そうだっけ?」というかんじで全然ピンとこないのだけれど、ザバイオーネという耳慣れない単語だけは今でもよく覚えているし、あれから一度も出会っていないせいもあって僕の中でちょっとした伝説と化しています。あれは一体何だったんだという謎がまた過大評価に拍車をかけているとおもう。

それでまあ、一晩たってもまだ今までに食べた美味いものを思い出そうとしていたのだけれど、単にめちゃめちゃ美味い、ならいくらでも出てくるんですよね。あれも美味かったし、これも美味かった、でもその中で一番と言われると途端に思考が止まります。人生でとりわけ美味かったものを、たったひとつだけ挙げるなんてことができるんだろうか……?それはある意味、否が応でも自分の人生を象徴する、もしくはそれと等価値を持つ食べものです。ですよね?

選んでみたい……けど、そうすると何だ?何になるんだ?紅茶……紅茶でいいのか……?毎日飲んでいるのはコーヒーなのに?

しみじみと、よい質問です。機会があったらいろんな人に訊いてみよう。とりあえず今日のところは、紅茶で!食べものじゃないですけど。


A. 伯母がインドから持ち帰ったダージリンのファーストフラッシュです。




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その335につづく! 

2021年7月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その333


ロビンソン来る嘘さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)ロビンソン、来なかったんですね。


Q. 空腹と眠気ならどちらが勝ちますか?


シンプルにしてなかなか奥の深い質問です。

ある時点までなら圧倒的に空腹が勝利を収めます。僕も経験があるけれど、そのせいか飢えに対する本能的な恐れみたいなものが今も厳然とあって、食えるときに食えるだけ食うという強迫観念を未だに捨て去ることができずにいるくらいです。量はともかく、腹八分では不安で落ち着かないところがあります。

そしてそのハードな経験からすると、空腹ではまず眠れません。眠りでは空腹に太刀打ちできないと言い換えてもよろしい。

実際、空腹でかつそれをどうにかする手立てが他に何ひとつないとき、人がすがるのは睡眠です。というか、睡眠しかありません。空腹から気を逸らしてくれるなら別に睡眠でなくてもいいんだけれど、空腹は空腹で一旦止めてもしつこくスヌーズを繰り返してくるので、意識を失うことができるならそれがいちばん手っ取り早いのです。

しかし先にも申し上げたように空腹は睡眠への移行を決して見逃してはくれません。「いやいやいや、ははははは!何かお忘れじゃありませんか!寝る前にほら、することあるでしょ。それは焼く前の生肉にステーキの匂いを嗅ごうとするようなものですよ。そんな馬鹿げたマネをせんでも、肉は焼けば自然とステーキのいい匂いが漂ってきます。そうでしょうが?睡眠も同じで、満腹になれば自然とまどろむようにできてるんですよ、体ってのはね。そんなことはとっくにご存知のはずなのに空腹のまま眠ろうとするなんてまったく、ちょっとこう、日々のお勤めでお疲れなんでしょうな!ここはひとつガッツリとカロリーの高いものをたらふく平らげてですな、ゲップのひとつも大砲みたいに放って、そのままバタンキューといきましょうや!さあさあ、ぼんやりしてないで、景気よく、大盛りのカツ丼なんかどうですね!」

食うものがないから寝ようとしているのに、空腹とはことほどさように無神経です。食うためには金がいるという根本的な現実すら認識できません。減ったなら満たせばいいじゃない、とまるでマリー・アントワネットのように無邪気です。

そんな聞き分けのない空腹に対して、睡眠が手を差し伸べてくれることはまずありません。この状況で黙して語らぬ睡眠が手を差し伸べてくれるのは、喚き疲れた空腹がとうとう音を上げて黙りこみ、もうこれ以上は無益だからとやさしく死に誘ってくれるときだけです。

そしてここにこそ、冒頭に指摘したシンプルながらも奥深いポイントがあります。なんとなれば人に引導に渡す、いわゆるクー・ド・グラース(とどめの一撃)を食らわすことができるのは空腹ではなく睡眠だからです。

生命活動を維持できる状態であれば、勝つのは圧倒的に空腹です。眠りには手を出すこともできません。しかしこれ以上維持できない状態では、むしろ空腹にできることなど何もなく、最後にして最大の勝利を収めるのは睡眠です。

「勝たせてやれるときには勝たせてやる」というある種の貫禄めいた余裕を考えると、本当に強いのは勝ち負けに拘泥しないがいざとなったら勝利しかない睡眠のほうなのではないかと僕はおもいます。怒らせるとヤバいのはどっちだと言われたら、そりゃ睡眠のほうだよな、とやはり戦々恐々たる面持ちで認めざるを得ますまい。


A. 睡眠です。




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その332につづく! 

 

2021年6月25日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その332



ふくらはぎさんからの質問です。(ペンネームはご自身によるものです)


Q. 自分の部屋の壁にカレンダーくらいしかかかっていない事にうんざりしてきました。なにか額に入れた絵でも飾ろうかなと思ったのですが、何を飾っていいのかよくわかりません。自分はどんな絵が部屋にあると充実するのか見当もつきません。好きな絵は無くもないですが、好きな絵と部屋に飾るべき絵はまた違うのかなと思ったりもします。僕は何を飾ればよいのでしょうか


一人暮らしをしていたころ、UFOキャッチャーで取ったしょくぱんまんのぬいぐるみを壁にぶら下げていたことがあります。

今にして思うとなぜなのかさっぱりわからないのだけれど、とにかくUFOキャッチャーにのめりこんでいて、毎日のように100円玉を投入しては取りまくったぬいぐるみを片っ端から押し入れにぶちこんでいた時代があったのです。押し入れの1/4くらいはぬいぐるみで埋まっていたんじゃないかとおもう。

今はもうありません。あの大量のぬいぐるみを一体どうやって処分したのか、それもまったく覚えていない。友人もいなかったし、というかこんなことしてるんだからそりゃそうだよなと思わないでもないですが、たぶんどこかのタイミングでまとめて燃えるゴミの日に出したんでしょう。

壁に飾っていたのはしょくぱんまんだけです。数百体ものぬいぐるみの中からなぜこれが選ばれたのか、これも今となってはまったく思い出せません。他とくらべて特に好きだった記憶もないし、ひょっとするとクオリティが群を抜いて高かったのかもしれないけど、わざわざ記憶を掘り返す甲斐もなさそうなので理由はまあどうでもよろしい。僕が今でもはっきりと覚えているのは、部屋の西側の何もない壁にしょくぱんまんだけがぽつんとぶら下がっていたことだけです。

言葉を重ねれば重ねるほど、不可解な状況ですね。

そんな当時のある日、風呂から上がってふと壁を見ると、しょくぱんまんの鼻が黒くなっていることに気づきました。風呂上がりで眼鏡を外していたので、目をこらしても黒いことしかわかりません。でも黒いのはわかる。というかホントにちょうど、鼻だけ黒い。

眼鏡をかけた瞬間、レンズをぱりんと割るほど目玉が飛び出たあの夜を、僕はこの先忘れることはないでしょう。そこにいたのはしょくぱんまんの鼻に擬態した一匹のゴ

擬態できてねえよ!

いやいやいやいやあんた全身、黒光りじゃん!しょくぱんまん超色白だから!似てるどころか対極じゃん!あるだろもっと他に擬態できそうな何かが!なんでよりによって色白の鼻に擬態すんだよ!そっちの界隈では美白で通るかもしれんけどでも元がほぼ黒じゃん!そんでまた何でサイズだけぬいぐるみの鼻とぴったり一致してんだよ!いやああああああもうああああああああああああああああああ!(殺虫剤をまき散らしています)

あれから四半世紀もたとうという今となっては、懐かしい思い出です。あれから何度、この話を方々で披露したことでしょう。そのたびに人から「ないない」と鼻の話だけに鼻であしらわれたものです。当の本人である僕ですら何言ってんだとおもうし、無理もありません。

しかしひとつ言えるのは、壁にしょくぱんまんを飾っていた日々が決して無駄ではなかったということです。それは想像もできないような驚異の体験のひとつとして、僕のしょぼくれた人生を今も彩ってくれています。

絵画ほど心を豊かにしてくれるものではないかもしれません。しかしその代わりに、忘れたくても忘れられないような劇的な何かを心に刻みつけてくれる可能性があります。実際に否応なく刻み付けられた僕が太鼓判を押すのだから、間違いありません。

ゆえに僕としては、誰がどこで何と言おうと、堂々と胸を張ってこれをお勧めする次第です。


A.しょくぱんまんのぬいぐるみを飾りましょう。




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その333につづく! 


2021年6月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その331


うるめいわしのサブリナさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 脳みその代わりに入れるとしたら、何を頭の中に入れたいですか?ちなみに私は硬めのプリンを入れたいです。


プリンはよいですね。夢があります。頭を冷やせと言われたら、プリンを冷やせばいいわけですからね。冷蔵庫に冷えたプリンがあることほど夢のあることはないし、プリンが生温いのなら冷やせと言われるのも当たり前であると申せましょう。

しかしそもそも、と僕はおもうのです。僕らのこの頭蓋骨のなかに、本当にプリンは入っていないんだろうか?

一般的には、そして常識的にはプリンではなく脳みそが入っていることになっています。味噌なら味噌でそれは別にいいと基本的には僕もおもっていますが、問題は誰かの頭に脳みそが入っているからと言って、僕の頭にも脳みそが入っているとはかぎらない、という点です。

たとえば僕らは地球を丸いと信じているし、ありとあらゆる状況証拠は地球が丸いことを示しているけれども、科学的に立証されていると僕らが認識するところのものはあくまで「信頼できる人がそう言っている」という意味にすぎない現実を思い出さなくてはなりません。

アメリカでは今も国民の約4割が進化論ではなく創造論(神がこの世界を作ったという考え方)を支持しているそうですが、裏を返せばそこに科学の限界とジレンマがあると言えましょう。どれだけデータを積み重ねても、そうじゃないかもしれないという可能性を完全に排除することはできません。なんとなれば、知識を共有する時点でそれは「伝聞」になるからです。僕らはある知識について、「そう聞いた」と言うことなく断言できるだろうか?創造論どころか陰謀論ですら根絶やしにできないのも、おそらくこのあたりに決定的な理由があります。

脳みその話に戻ると、たぶん僕の頭にも脳みそが入っているだろうな、と僕もおもいます。おもいますが、僕だけ何か別のものが入っている可能性とその疑念を、100%拭うことはできません。プリンなんか入ってねえよと誰もが口を揃える当然の主張は、僕のではない別のデータから導き出されたものだからです。

空っぽだとはおもいません。明らかに頭は重たいし、何かが詰まっていることは確かです。その実感もあります。しかしこの目で確かめたことがない以上、小粒のじゃがいもがたくさん詰まっているわけではないと言い切ることもできないのです。(念のため付け加えておくと、脳が別のどこかにあるという考え方ではなく、じゃがいもが脳の代わりに考えているという考え方です)

脳みその存在を前提とするならば、代わりにぬか床を詰めてキュウリの1本でも漬けたいところですが、いざパカッと頭蓋を開いてそこにじゃがいもが詰まっていたら、その哀しみはちょっと計り知れません。じゃがいもの代わりにぬか床を入れる意味がいったいどこにあるというのだろう?その哀しみを押してぬか床と入れ替えたところで、取り出されたじゃがいもはどこに行けばよいのだろう?甘辛く煮っころがしてしまっていいものだろうか?かつて僕という男の人格を成していたこの煮っころがしを夕飯の一皿として平らげたのち、僕はどこにいることになるんだろう?

今や僕は頭から取り出したキュウリをぽりぽりかじりながら、脳みそが恋しいと言わざるを得ません。こんなことならせめてじゃがいものまま、それを知らずにいたかったと切におもいます。そのじゃがいもですら、今は甘辛く煮っころがされて胃の腑に納まっているのです。

もしじゃがいもでなく脳みそだったら、こんなことにはなっていなかったんじゃないだろうか?

今となってはそれも詮無いことです。かつての自分だったじゃがいもはもうないことを受け入れ、代わりのぬか床を頭蓋に詰めて生きていくほかありません。

そしてある晩ふと、星空を見上げながら、思わないでもないのです。詰まっていたのがじゃがいもでなくプリンだったら、また違う人生になっていたかもしれないと。


A. じゃがいもの代わりに脳みそを入れたいです。




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2021年6月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その330



お風呂ピカソさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 人はなぜ一回で真っ直ぐテープを貼れないまま一生を終えてしまうのでしょうか?おそらくどんな人でも一生のうち1000回は貼る機会があると思うのですが、ほとんどの人が一回で思った通りに貼れてないと思うのです。僕に至っては毎日1回は仕事で貼る機会があるのに毎度妥協しています。もしかして性格の歪みなのでしょうか?


テープを一回でまっすぐに貼れない問題は、かの哲人アリストテレスもその悩ましさを著書にぐちぐち書き連ねていたと、夢のなかで聞いたことがあります。今も昔も変わらぬ、そして未だ解くこと能わぬ神秘のひとつです。テープがあるかぎり、人はそれをまっすぐに貼ることはできません。わりとまっすぐに貼れるのでさほど苦にしたことがない僕でさえ、基本的にはまっすぐに貼ることができないという揺るぎない信念を抱いています。この三千世界における厳然たる物理法則のひとつとして、とにかくそういうことになっているのです。

しかしここはちょっと視点を変えて、テープの側から考えてみましょう。

日本には古来より、自然のありとあらゆるものに神が宿るという考え方があります。いわゆる八百万の神ですね。たとえ人工物であっても、突き詰めていけば元素の集合でしかないので、これもまた自然の一部、もしくは延長と言っていいでしょう。この世に神の宿らぬものなど存在しません。枝毛ささくれため息なんかはもちろん、つまようじの頭にあるなくてもいい溝や、新しい靴下を留めてある金具折ったら役目を終えるプッチンプリンのプッチン部分にもまた神は宿ります。個人的にはアンニュイなため息に宿る神様が好きですね。

してみると当然、テープにも神が宿っていることになります。テープの側から考えるというのはつまり、テープに宿る神様のきもちになって考える、ということです。

今まさに引き出されようとしているテープの、そのすぐそばに神は御座します。それを自分に置き換えて想像してみてください。2センチとか5センチのテープなら、特に気にもなりません。しかし10センチ、20センチ、30センチと伸びていくにつれて、そわそわと落ち着かなくなってきます。なんとなれば伸びれば伸びるほど、まっすぐに貼る難度が上がっていくからです。神としてもまっすぐに貼ってあげたいのは山々ですが、何しろテープに寄り添うくらいのサイズなので、まっすぐどころか自分がテープに巻き込まれかねません。どれだけそわそわさせられても、最後までじっと我慢して成功を祈るより他にないのです。

そして、いいですか、必要な長さを引き出し終え、全神経を集中していざテープを貼ろうとする、テープも空気もぴんと張りつめて、ごくりと唾をのみ、何なら呼吸も止めていざというその瞬間です。

プレッシャーに耐えきれなくなった神様がチョイと手を出すでしょう。

うおおおおおおおおおおい!と叫び出したくなる気持ちはよくわかります。わかりますが、落ち着いてください。神様だろうが何だろうが、この状況であればチョイの手はどうあっても不可避です。たとえ時間を巻き戻したとしても、その都度かならず、チョイの手は発動します。如何ともし難いという意味ではある種の不随意運動であり、書店にいると必ずやってくる便意にも近いものがあると言ってよいでしょう。わたしたちにはそれをどうすることもできません。

したがって、これら一切はわたしたちの責任ではないし、もちろん性格の歪みとは何の関係もありません。ただただそういうことになっているのであり、テープを一回でまっすぐに貼れないまま一生を終えることこそ自然の摂理です。安心して明日も失敗してください。


A. 神のチョイの手があるからです。




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その331につづく! 
 

2021年6月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その329


ジュラシック・パクッさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)食べられちゃったんでしょうね。


Q. ムール貝博士言行録を見ていると、「○○だとおもう」など「思う」を「おもう」「おもいます」などひらがなで表記していることに気がつきました。特に意味はないのかもしれませんが、何をおもってそうされているのですか?ちなみに僕は「宜しくお願いします」を「よろしくおねがいします」とすべてひらがなで書くのが好きです。かわいいので。


いい質問です。と言って得意げにお話しできるようなことなどありゃしないのですが、たしかに僕は日ごろから意識してそうしているところがあります。

何より、それまでぜんぜん意識していなかった女子に「ダイゴくんの字って丸っこいよね」と言われたときのような、そんな親も知らないようなちょっとした癖とか指摘されて急に意識し始めちゃうみたいな、それは以前から僕のことをちょいちょい見てたってことですよね!?みたいな、甘酸っぱいきもちに鼻息を荒くせずにはいられません。

それで言うと、「よろしくおねがいします」もかなりの頻度で使います。すこし堅い場合でも「よろしくお願いいたします」が多いですね。「宜しく」も「致す」も漢字としてはほぼ使いません。

面と向かって訊かれたことがないので(あったかな……)あまり深く考えてもこなかったけれど、どうも漢字にする必要があるかどうかで選択しているようです。

たとえば「たべる」は高確率で「食べる」と変換します。漢字があるのとないのとでは印象が変わるし、この場合はむしろ漢字のほうが印象として優位だからです。文字として明らかに表意である、と言い換えてもよろしい。

「思う」も漢字のほうが優位だとおもうんだけど、明確な思念としてアクセントを置きたいというよりは使い方が単なる語尾に近い……のでたぶん、一文の印象を平らにならすために漢字を避けています。

ただし「あれこれ思いを馳せる」と文の間に入るようなときは、まず100%漢字です。「おもいを馳せる」ではパッと見たときに文意を把握しづらい気がするし、視覚的なアクセントとして漢字を含むほうが読みやすくなることもあるからです。

同じ理由で、いくつかの漢字が重なってしまうようなときも、一部をひらく傾向があります。ひらくというのは漢字をひらがなにする僕個人の造語ですが、たとえば「大抵独りです」みたいな場合は「たいてい独りです」「大抵ひとりです」のどちらかにひらくわけですね。ここで「ひらく」を「開く」と漢字にしないのは、「あく」と「ひらく」2つの読み方があるのと、文字の組み合わせが別の言葉と混同されにくい言葉だからです。

なのでおそらく、漢字でないとわかりづらい言葉は漢字、そうでないときはひらがな優先、ひらがなが並びすぎて読みづらいなら漢字を混ぜ、逆に漢字が続くようなら一部をひらく、という使い分けが基本になっています。

微妙なニュアンスの話をすると、「そうしないと読みにくい」よりは「そうすると少し読みやすいかな」くらいの向き合い方ですね。

あと、漢語より大和言葉のほうに惹かれる僕自身の習性も少なからず影響してそうな気がするんだけど、そこまで踏み入ってしまうとさすがに収集がつかなくなる気もするので、このへんですっきり畳んでしまいましょう。


A. 必要性と可読性とそのときの気分に応じて使い分けています。




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その330につづく! 


2021年5月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その328


ちびマルコ・ポーロさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は現在就活中で市役所に勤めたいと思っているのですが、そのためにはSPIという一般常識テストがあり、合格するために日々勉強に励んでいます。ですが、最近が梅雨入りということもあり、土砂降りの雨が続いており、なんだか憂鬱な気分になり、勉強に身が入りません。私個人の問題ではあるのですが、雨の日は何故か無気力で何もしたくない感情に苛まれます。
雨の日でも、やる気を出して、勉強に精を出せる方法をご教授願いたいです。


そのきもち、生ビールをぐいっと豪快に呷ってジョッキをダーンとテーブルに叩きつけたのち背中をバーンと叩きたくなるほどよくわかります。僕、下戸ですけど。

たまに降るやわらかな雨はささくれた心を丸く整えてくれるやさしさもあります。でも降りつづくとやっぱりちょっと、萎れますよね。それほど意識はしていなくても、ようやく晴れ渡った青空を仰ぎ見ると生き返るような心地になるものです。雨の日の勉強に身が入らないのも無理はありません。

それなら視界に入るすべての窓を遮断して、雨だと気づかなければよさそうですが、しかし実のところこれはまったく意味をなさないことが僕個人の経験から判明しています。雨を視認していなくても、メンタルはしっかりその影響を受けているのです。湿度はもちろん、たぶん気圧が大きく関係しているんだとおもう。

したがって、この気圧の影響をいかに低減できるかが、SPIに合格するためのカギとなるでしょう。気圧を制する者がSPIを制すると言っても過言ではありません。

そこで参考にしたいのが、ジャック・クストーです。

スキューバダイビングで使用するアクアラングを世界で初めて開発した伝説の海洋学者、ジャック=イヴ・クストーは1960年代、コンシェルフ(Conshelf=Continental Shelf Station)と名付けた居住空間を水面から10メートルの海底に設置し、1ヶ月ほど生活したことでも知られています。

その様子を克明に記録した、今も語り継がれる驚異のドキュメンタリーが「太陽のとどかぬ世界」です。まじで必見なので、勉強の息抜きにコーヒーでも飲みながら観てみてください。コンシェルフからさらに25メートル下の深度に設置された「ディープステーション」で2人が一週間滞在したことも、映像として残されています。何から何までSFにしか見えないので、初めて観たときは特撮を疑ったくらいです。

そしておそらく、雨の日の憂鬱にはこれが最適解であろう、と僕は考えます。海のなかだと水に囲まれて雨なんかより断然ひどいようにおもえるけれど、すくなくとも気圧にはまったく影響されません。どちらかというと水圧の問題になります。

考えてもみてください。雨どころか土砂降りであってもまったく影響を受けない居住空間……これほど勉強にうってつけの環境が他にあるだろうか?

断じてない、というのが僕の結論です。

そのためにはまずジャック・クストーになる必要があります。フランス国籍を取得し、フランス人になり、その他もろもろの物理的心理的ハードルを越え、海洋学者として名を馳せることができれば、コンシェルフまではあと一歩です。晴れてコンシェルフさえ海中に設置できれば勉強がはかどることはまず間違いないし、僕自身はいまいちまだよくわかっていないSPIの合格はもちろん、市役所勤めも目前と言っていいでしょう。

また、それよりはいくらか後退しますが、意外とおすすめなのが風呂です。のぼせてしまうと元も子もないので、プールくらいの温水につかりましょう。一糸まとわぬ素っ裸で知識を叩き込んでいく非日常感は、それまで知らずにいたある種の異世界へと誘ってくれます。仮にうまくいかなくても体を洗って出ればそれだけで風呂に入った甲斐はあるというものだし、うまくいくならまさしく一石二鳥です。

幸運を祈ります。


A. 海底に居住空間を設置しましょう。




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その329につづく! 

2021年5月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その327



エレクトリカルカレーうどんさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 眠れない夜はありますか?そんなとき、どのように過ごされていますか?


眠れない夜、というのはそれだけでどこか詩的な響きがあります。海の底のようにしんと静まり返って自分の他には誰も存在しない、控えめだけれど規則的な呼吸とやわらかな鼓動だけがかろうじて世界をリアルたらしめる、そんな夜です。

ただおたよりには「最近は死ぬのが怖くてあまり眠れません」とあるので、まずその前提でお話ししましょう。

誰とも関わりを持たない僕ひとりだけのことで言うと、死を怖いとおもうことがほぼない、というのが正直なところです。

苦痛は困ります。苦しいのも痛いのも、問答無用でイヤです。でも単純に自分の存在が消えてなくなるという意味での死に対しては、それほど拒否感がない。

それはおそらく僕が昔から生命とか科学的な意味での意識に興味を持っていることと、死についてずっと考えつづけてきたことからきているとおもいます。もう死にたいとか、死んだらどうなるとか、もう死にたいとか、もう死にたいとか、そも死とはなんぞやとか、そういうのを全部ひっくるめての死ですね。

もちろん、そうした永遠の問いに対する結論を得たわけではありません。ただ考えすぎて身近になったというだけです。十代後半に出会った宮崎学の「死」という写真集は今も大事にしているくらいだから、たぶんその頃からずっとこんな感じだったんだとおもう。

なので僕としては、まあまあ、死もとりあえず今日は来なかったし、明日は明日でまた考えようぜ、と肩を抱いて翌日も同じことを言うほかないのです。

しかしまあそれはそれとして、原因がなんであれ眠れないときは眠れません。

いちばん良くないのは、ベッドの上でごろごろと寝返りを打ちながら悶々と過ごすことです。実際のところ、その状態から良質の穏やかな眠りへと移行することはまずありません。ただ呼吸が吐いてどうなるわけでもない濃密なため息に変わるだけです。

なのでふつうに、ベッドから抜け出しましょう。忘れてはいけないのは、睡眠が理性ありきの義務ではなく、本来は拒否してもやってくる強制的な生理現象であるということです。生物という生物は例外なくただ寝落ちが訪れるその瞬間を待つほかありません。

本を読んだり、ゲームをしたり、映画を観たり、酒をのんだり、畳の目を数えたり、タマネギの皮をむいたり、どう過ごそうと自由です。僕自身はインターネットがまだ今のように常時接続ではなく、いちいち回線をつなぐ必要があったダイヤルアップのころ、「しかたないからエロ画像でも見て回るか」みたいなことをしていたような気がします。1MBにも満たないたった一枚の画像が100%表示されるのに数分かかる時代なので、ちょっとずつ表示されるのを待ちに待った挙げ句、期待したのとはかけ離れた健全な画像にぶち切れてゴミ箱を蹴り倒したりすることに夜を費やしていました。それでいて翌日はもう眠すぎて話にならないんだから、踏んだり蹴ったりです。われながらかわいそうなことですね。

実際そうだったのでしかたなくぜんぜん参考にならない例を持ち出しましたが、要はいつでも眠れる態勢で無理して眠ろうとせず、休日の昼と同じようにお過ごしなさいということです。その結果翌日がしんどいことになるのは目に見えているわけだけれど、何しろ生理現象なので無理にコントロールできるものでもありません。眠れなかった翌日のしんどさもまた、誰もが経験する人生の醍醐味のひとつです。だとすればその気がない睡魔の首に縄をつけてひきずり倒すより、開き直っていっしょに花札でもするほうがよほど有意義だと僕はおもいます。

仮に思い悩むことがあっての不眠であっても、同じことです。眠らなくてはいけないという焦りは、それ自体が懊悩にくべられる余計な薪になります。思いがけず先週と同じ結論になってしまった気がするけれど、今回もまた、ぜんぶ忘れることに全力を注ぎましょう。気を逸らす逃避のスキルはこの先ありとあらゆる局面でまちがいなく重宝します。その上でさらなる巨大な壁にぶつかるときがきたら、またいっしょに考えたらよいのです。


A. いい機会だとおもっていずれ確実に役立つ逃避のスキルを磨きましょう。




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その328につづく! 

2021年5月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その326


空中飛び膝デリさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)アクロバティックな惣菜の提供で話題のデリカテッセンですね。


Q. 「こうすべき」ということが明確に分かっているにも関わらず、めんどくさかったり気分がのらなかったり、様々な言い訳を駆使して行動できずにいるとき、僕らに必要なものはなんでしょうか。毎朝自分の理想とする時間に起きることができないのですが起きるために何かいいアイデアがあれば知りたいです。


前半と後半では同じように見えてだいぶ意味合いが違うんじゃないかという気がしないでもないですが、そうですね、とりあえず前半のほうに焦点を置くと、僕の人生においては無気力がデフォルトなので、こうすべきとわかっているだけで御の字とどこかでしみじみありがたがっているところがあります。

こうすべきとわかっている状態がある種のアラートなのだとしたら、基本的には壊れていてまず鳴らない、ということですね。なのでこうすべきとはっきり自覚しているときの僕はじつに活き活きと取り組んでいるように見えるはずです。アラートが鳴るだけホントありがたい。

そんな僕からすると、「しなくちゃとわかっているけれどもめんどくさかったり気分がのらなかったり様々な言い訳を駆使してやれずにいる」くらいなら、とりあえずぜんぶ忘れてネトフリを観たりSNSで片っ端からいいねしたりマンガでも読んだりしてのんびり過ごしたらいいんじゃないかとおもいます。どのみち手をつけられないなら言い訳をしようがしまいが同じことだし、こうすべきと考えている時点で責任を自覚しているわけだから、これ以上はまじ無理とアラームが最大音量で鳴り始めた時点でイヤでも取り組むことになるでしょう。だいたい、すべきことをきちんと実行できる男なら今ごろこんなところでこんな暮らししてねえよと僕は声を大にして言いたい。

それよりもはるかに具体的な質問の後半部分に焦点を置くと、例えばうちの人もまた毎朝自分の理想とする時間に起きることができないタイプです。典型的な夜型、ということですね。この20年、毎日彼女を起こすのは僕の役目になっているけれど、声をかけてすぐに起きてきたことはかつて一度もありません。

その代わり、どうにかこうにか起きてきたときに不機嫌なこともまずありません。おはようと言うときにはいつもにこにこしています。僕はこれを本当に心の底からすごいことだとおもっていて、今では無理に叩き起こすことはなくなりました。

そしてここにこそ、人生におけるある種の真理があると今の僕は考えます。

理想とする時間にパリッと起きられるようになったら、たぶんその後の人生はより豊かに感じられるでしょう。ただし、他人に対してもそれができると考えるようになるはずです。

起きられないけれども起きたときにはにこにこしているなら、おもうように行動できない負い目は消えないかもしれないぶん、それを他人に強いることもまたないし、その笑顔がまた誰かを癒すことになるとおもうのです。すくなくとも僕はその恩恵を今まさに享受しています。

なので僕としては、どうにかして理想の時間に起きられるようになるよりも、せめて起きたときには笑顔でいられるように心がけるほうをお勧めします。なんとなれば長い目でみたときに、より多くの局面で人の心を和らげてくれるようにおもわれるからです。

起床にかぎったことではないけれど、誰にでも得意なことと苦手なことがあります。またこれに関しては、子どもができたとか酒をやめたとか、本当にちょっとしたことがきっかけでびっくりするほど簡単に反転することもあるらしいので、今のところ生活に支障が出ていないのであれば気長に見てもいいんじゃないかなと僕なんかは思います。

そしていただいた質問に立ち戻るなら、どうもこう日々うまくいかない僕らに必要なのはただひとつ、大らかな心です。たぶん胸のうちの端っこのほうに転がっていると思うので、探してみてください。


A. 必要なのは大らかな心です。




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その327につづく! 


2021年5月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その325


さんま1/2さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)メスになったりオスになったりする忙しない秋刀魚のことですね。


Q. 2017年、何か変化はこの世界で起きるでしょうか。


今が2021年であることなどおかまいなしに、というかちょうど前回の質問のすぐそばにあったのでお答えしますが、そうですね、2017年といえばドナルド・トランプが世界中の予想を一刀両断に覆してアメリカ第45代大統領にごろごろどすんと落石よろしく就任した年です。

とにかくやることなすことすべてが型破りな大統領だったとはいえ、本当に大統領として任期を全うしたのでともすると忘れられがちですが、ドナルド・トランプが大統領になるというのはアメリカ国民でさえ100%ジョークでしかないような話でした。

何しろそこから遡ること17年前、今から数えるともう21年前ですが、アメリカにおけるちびまる子ちゃんともいうべき国民的アニメ「シンプソンズ(The Simpsons)」において、そのころすでにぶっ飛んだ富豪として知られていたドナルド・トランプが大統領としてあれこれやらかした国を立て直すエピソードが存在するくらいです。

つまり2000年当時は、それくらいあり得ない話だったわけですね。

世界は変わった、と誰もがおもったし、僕もおもいました。おもいましたが、4年たった今僕がこの話を持ち出すのは、当時とちょっと印象がちがうからです。

まちがいなく変化ではありました。でも実際のところ、当時感じていたように破壊的かつ終末的な変化というより、瞬間的にはどれだけ劇的であっても、実はこれくらいの変化ならどの時代もごくふつうにあるのではないか?と今はおもうのです。

僕個人の印象にのこっている世界の変化(天災を除く)を振り返ってみると、たぶん最初の記憶はベルリンの壁の崩壊です。それから湾岸戦争ですね。地下鉄サリン事件からの超絶大騒動も丸ノ内線がわりと身近だったこともあってかなり生々しく覚えているし、911なんかは深夜、友人からの電話で今すぐテレビをつけろと叩き起こされたものです。

今にしておもえば、というのは当時まだ中学生だった僕個人の視点だからですが、ベルリンの壁の崩壊は明らかに世界を揺るがす劇的な事件です。

当時もし僕が大人だったら「やべえ、世界まじやべえ」とアパートの部屋でひとりざわついていたとおもいますが、当時の僕は「めっちゃ壁壊してる!気持ちよさそう!」と無邪気にどきどきしていたくらいで、ことの重大性がいまいちピンときていなかったし、とりたてて日常に変化もなかったし、じっさい今の僕には何ひとつ影響を及ぼしていません。

急に思い出したけど、ソビエト連邦の崩壊もあったのに、そういえばこれもぜんぜん記憶にありません。ソ連のことで僕がおぼえているのは落合信彦の「ゴルバチョフ暗殺」という一冊がめちゃめちゃおもしろかったことくらいです。ソ連のことをほとんど何も知らないのにおもしろかったんだから、よっぽどだったんでしょうね。

いずれにしてもリアルタイムで経験していながら、印象としてはどれも教科書で学ぶような歴史的な出来事のひとつにすぎません。それでいうと「ご一新」と呼ばれた明治維新なんかは本当に日本を観念から文化に至るまで根こそぎ植え変えてそれこそ破壊的だったとおもうけれど、僕らにとってはむしろそのおかげで今があるほど昔むかしの話です。ですよね?

こう書くとどれもそう大したことではないように聞こえてしまうかもしれませんが、そうではなくて、ここで僕が言いたいのは「世界はつねに変化しつづけている」ということと、「僕らの日々は僕らがおもうよりもずっと頑丈である」ということです。

僕らの日々は僕らがおもうよりもずっと頑丈である。

そしてそれをざっくりと言い換えるなら、「明日も必ず日は昇る」ということになります。

もし生きて今ここにいるのなら、たぶんそれがすべてだろうと、今の僕はおもうのです。いまだに収束の気配が見えないパンデミックの渦中である、今このときでさえも。


A. 起きたし、今も起きているし、また起きるでしょう。




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その326につづく! 

2021年5月4日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その324



パンドラ的質問箱では、数年前にいただいた質問をまるでついさっき届いたかのような顔でお答えすることがあります。これもそのひとつです。ひょっとすると、というかひょっとしなくてももうここにはいらっしゃらないような気もしますが、そんなことはないと鼓舞するように自らのほっぺをパンパンと張り倒してお答えしましょう。


ロビンソン来る嘘さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 長年使ってたFacebookをやめようと思ってます。なにか挨拶的なものはいりますでしょうか。誰も気にしてないわと思われるのもなんですし。当方53歳。


かれこれ4年もの月日が流れてから言うようなことじゃないとおもいますが、ぶじFacebookを辞めることはできましたでしょうか。

聞くところによるとFacebookは他のSNSに比べて匿名性が低いせいか、より生々しくつながってしまう傾向があり、しかも年をとればとるほど話題が食事と家庭と病気に偏ってしまい、なぜこんな他人の、心底どうでもいいわりにヘビーな話を毎日のように目にしなくてはいけないのかと苛まれるケースが多いようです。われながら偏見に満ち満ちているので全然そんなことない可能性もありますが、人は年を取ると本当に話題が仕事と育児と病気に限られてくるので、おそらくそういう側面は実際にあるでしょう。同窓会でしかしないような話を、強制的に毎日摂取させられるようなものですね。同窓会の案内を受け取ったことがない僕が言うのもなんですけど。

幸か不幸か、僕は機を逸したというか、素敵なつながりより不本意なしがらみのほうが勝ちそうだと感じたこともあってFacebookにはかつて一度も触れたことがない男ですが、しかしこれはありとあらゆるSNSに共通するありがちな問題でもありましょう。ほっとくと否が応でも形見になってしまうし、SNSは潮時を見てさくっと断つのが肝要だと僕もおもいます。

しかし辞めどきの挨拶の必要性について言えば、芥子粒ほどもありません。なんとなればまさにそういうちょっとした心理的負担のためにこそ、やめようとお思いになっているはずだからです。

いらないものはいりません。それがすべてです。SNSがなくともつながりのある人には直接話をする機会もあるでしょう。それでいいし、それだけでいいと僕はおもいます。

でなければせいぜい、そうですね、「ご愛読ありがとうございました。先生の次回作にご期待ください!」くらいは書き残しておいてもいいかもしれません。意味合いとしては結局そういうことだし、何よりわかりやすい打ち切り感があります。

これに限ったことではないけれど、過剰な礼もまたそれがゆえに礼を失するものです。枕詞としての「申し訳ないけど」とか、語尾にくっつく「させていただく」とか、「FF外から失礼します」とか、バンドや企業にまで敬称をつけるのもそうした過剰な礼であり、ここまでくると敬意よりもむしろリスクヘッジや保険に近いものがあります。

裏を返せば、単なるリスクヘッジやある種の保険としてなら挨拶もアリということです。ただしそこには大した意味も甲斐もありません。何がどう安全なのかはわからないけれども、とにかく安全なことは確かであるというだけです。いつ車にはねられるかわからないから外出したくないという慎重な向きになら僕もつよくオススメするとおもいます。

いずれにせよ、やめたいとおもうSNSから身を引いたところで、どう考えてもこれからの実生活に大きな影響があるわけではまったくないというごく当たり前のことを、まず思い起こしましょう。

評価されるためならまだしも、ただ非難されないために気持ち的なコストを払うことがどこにどうつながって何を得るのか、そしてそもそも礼とは何か、SNSがデフォルトの時代に生きる僕らは常に問われているような気もしますよね。


A. 「先生の次回作にご期待ください!」と書き残して去りましょう。




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2021年4月30日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その323



関ヶ原のララバイさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. かっこいい大人になる秘訣はなんでしょうか?


なんてことないように見えて、その実、切っ先を喉元に突きつけられるような質問です。平然と答えてしまえばかっこいい大人であると自ら喧伝する恥ずかしいことになり、回答を拒否したらしたでこれまたかっこいい大人ではないと自ら喧伝する恥ずかしいことになります。

その昔ヨーロッパで魔女を疑われた人が火あぶりにされたのは、その結果によって魔女であるか否かを判別できるとされたからですが、いずれにしても待つのは死のみである以上、これとほぼほぼ同じと言っても過言ではありません。どのみち死ぬんなら何をしても同じじゃないか、殺すなら殺せ、ひと思いにバッサリやるがいい、さあ!どうした、早くやれ!と道ばたに大の字で寝転んで力のかぎり叫びたいきもちでいっぱいです。

なんならそこに「それがわかりゃ苦労しねえんだよ」というハルマゲドン的な一言を付け加えてもいいところですが、さすがにそれは赤裸々すぎるのでここでは自重しておきましょう。前途ある有望な若者のきらめく未来を木っ端微塵に打ち砕いてさらさらの粉にして初夏のそよ風に攫われるがままにするなどということは、人生の下り坂を今まさに猛スピードで転がり落ちようとしている僕としても本意ではありません。

図らずもかっこいい大人ではないことをずるりと露呈してしまったので開き直ってお話しすると、かっこいい大人になるための秘訣、というか手っ取り早い方法のひとつは、自分以外の人類をこの地球からひとり残らず駆逐することです。比較する他の誰も地上に存在しない以上、かっこいいも悪いもすべては自身の認識次第という全能感あふれる立ち位置を手にする、もしくは足にすることになります。最後のひとりというだけでもう十分にかっこいいし、そればかりか容姿、人格、財産、社会的地位といったありとあらゆる要素においても、ひとりなので文字通り独壇場です。否定しようにもその否定する人がどこにもいないのだから、100%かっこいいと言うほかありません。

僕自身はもう年も年なので今さら人類を駆逐する気力も甲斐もないですが、若いうちならノリでいけてしまうケースもままあります。がんばってください。


A. 人類をひとり残らず駆逐することです。




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2021年4月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その322


ローマの振替休日さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 安上がりな引っ越しの方法を教えてください。


僕も費用さえゼロなら事あるごとに引っ越してぜんぶなかったことにしたいたちなのでよくわかります。

たぶんいちばん安上がりに済むのはこの世からあの世への引っ越しだとおもいますが、人生で一度しか使えない上に安上がりに済ませる意味も消え失せるのであまりオススメはできません。

地球というバカでかい球体の表面をほんのちょぴっと移動するだけなのに、敷金・礼金、それに運送費や交通費、作業に疲れたときのおやつといった諸々の費用で僕なんかはすっからかんになったりします。なぜ球面上のわずかな移動で無一文にならなくてはいけないのか、意味がぜんぜんわからない。

とはいえ、やろうとおもえば運送それ自体にかかる費用はわりとごっそり省けます。実際、かつて僕が引っ越したときの荷物は今も至近距離にいるうちの人が2トントラックでぜんぶ運んでくれました。一抱えもある大きなハンドルを握ってブイブイやってくる彼女を見たときはじつに頼もしく感じられたものです。

思いきってガソリン代も節約するのであれば、すこし時間はかかりますが持ち物をひとつずつ、ポッケに入れて徒歩で移動すればOKです。大きすぎてポッケに入らない場合は、ポッケのほうを大きくしましょう。とにかくポケットを大きくしさえすれば物という物はだいたい何でも入ります。

できれば転居先の敷金・礼金、なんなら家賃も更新料もカットしたいというちょっと欲張りな向きには「長期取得時効」の活用がオススメです。

民法第162条第1項にはこうあります。

第162条(所有権の取得時効)
1 20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。

つまり、どこで誰が所有していようと気に入った土地を居住地に定め、隠すことなく堂々と胸を張り、周囲にもご近所さんとして認知され、かつ所有者に気づかれることなく20年住みつづけることができれば、その土地は自分のものになる、という法律です。たぶんそういう主旨ではないとおもいますが、ざっくり言い換えるとそういうことになります。

20年、しかも公然と、さらに平穏に、というこのさらっとした部分を立証する若干のハードルはあるにせよ、一切の費用をかけることなく他人の土地を所有できるんだから、夢があるじゃないですか?

運送と土地にかかる費用をゼロに抑えることができればあとは建物だけですが、ここまでくればそれも大した問題ではないと断言してよいでしょう。安田タイル興業の専務も世に偏在するありとあらゆる廃材を駆使して、雨漏りしないとても立派な社屋を建造しています。なんやかんやあって自治体から取り壊しを命じられているらしいですが、だからといって廃材で家屋を建てられないことにはなりません。それはそれ、これはこれです。

したがって、最も安上がりな手順としてはこうなります。

1. 住む土地を決める
2. 廃材で家屋を建てる
3. 荷物をポッケに入れて移動する
4. 隠さず堂々と20年住む

今まで金をかけていたことがバカらしくなるし、なぜ誰も実行しないのか首をかしげるほどシンプルです。20年たったらぜひ僕も招待してください。


A. 長期取得時効を活用しましょう。




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その323につづく! 

2021年4月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その321



セーラー服とみかんジュースさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「具マヨメンタイ高菜」というものがあります。大吾さんがデザインしたのかな?と見紛うほどのパッケージなのですが、大吾さんには暖簾分けした弟子などがいるのですか?


閑古鳥がせっせと繁殖して今やフン害が大きな問題となっている印象がなくもないパンドラ的質問箱に珍しく直接お便りいただいたので、お答えしましょう。

「具マヨメンタイ高菜」、僕は初めて知りましたが吟味するまでもなくおいしいとわかりきってるやつですね。そしてデザインも、うむなるほどと頷かざるを得ない瓜二つぶりです。画像を引っぱってくるのが面倒なので気になる人はググってみてください。なんならそのまま購入してその感想ついでに現物を僕宛に送ってくれてもかまいません。たぶんうちの人のためにこしらえたお昼のおむすびの具としておいしくいただくことになるとおもいます。なぜここでうちの人の弁当が出てくるかと言えば僕は基本、昼食をとらない男だからです。

それはさておき、そうですね、答えるまでもないような気もしますが、暖簾分けした弟子などこの広大な宇宙のどこにもおりません。僕は今も昔も、そしておそらくこれからも、浜辺に打ち上げられた異国のビンのようにぽつんと独りです。道ばたに乳児が落とした片方の靴下のように独りであり、なぜか枝に一枚だけ散り損ねてぶら下がる枯れ葉のように独りです。年を重ねればそれなりに何かこう、時代の寵児みたいなフォロワーが現れて

「影響を受けた人は小林大吾さんです」
「それは誰ですか」

みたいなことになったりするかしらとわれながら気の毒すぎて肩にポンと手を置いてやりたくなるような期待を抱いていた時代もありましたが、そんな気配は今も一向にありません。ありがちであんまりおもしろくないなとか言われないだけ、仮にめちゃめちゃ方々で言われてるとしても耳に入らないだけ、ずいぶんマシじゃないかと宥めるようにじぶんを慰める今日この頃です。モテなんかと同様、もうどうでもいいやとナチュラルに思えてぜんぜん気にならないくらいには僕も年をとりました。

僕がグッときたのはむしろ、いただいた質問から察するにセーラー服とみかんジュースさんがかなりの高確率で「小数点花手鑑」をお持ちである、という事実のほうです。サブスクも解禁したし、「そういやCDなんてものもあったなあ、プレイヤーないから聴けないけど」がデフォルトの昨今なので、胸にしみ入るよろこびもひとしおです。どうもありがとう!「具マヨメンタイ高菜」がなかったらこんなよろこびに浸ることもなかったわけだし、やっぱり一度は購入しておいしくいただくべきではないかという気すらしてきます。

そして勇み足でよろこんどいて何ですけど、CDお持ちでなかったらすみません。かさばるし硬いし四角いし投げつけられて角が直撃すれば血も出るCDにくらべたら、誰もケガしないサブスクこそ至上と僕もおもいます。

わざわざ戻すほどではない話に戻ると、「もしやこれはダイゴさんのデザインでは」とお訊ねになるときはほぼ例外なく僕ではありません。ごく稀にそうだったりすることもないではないと言い切れなくもないきらいがなきにしもあらずですが、九割九分とあと五厘くらいは僕ではないと断言しておいてよいでしょう。こう書いていてだんだんやさぐれていく自分を今まさに肌で感じていますが、このままダークサイドに堕ちて帝国の逆襲に突入してしまわないためにも、たまにはドでかい仕事をひとつふたつドカンと依頼してみてもバチは当たらないんではないかなとその当人である僕なんかはおもいます。


A. 今も昔もこれからも、僕はここでぽつんと独りです。




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その322につづく! 

2021年4月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その320



労働・オブ・ザ・人夫さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 癒しが欲しくてしょうがないのですが、世話のことを考えると余裕がなくてペットは飼えそうにありません。なにか植物を育てようとしても子供の頃からお花は枯らすタイプだし、サボテンを買ってみましたが手がかからなすぎるのでいまいち愛情を感じられません。こんな私でも得られる癒しはこの世にあると思いますか?


癒し……それは生きづらくなればなるほどその需要を増す、したがってこの先はおそらく人類が滅亡するまで貪欲に求められつづけていくであろう、そしてそこに身を投じると人であれば例外なくなんかこう「ああ……あああ〜……」ってなるやつですね。

うちの人なんかはどんなに愛情を注いでもサボテンを余裕で枯らす猛者なので、その程度ではまだまだひよっこと申せましょう。

かくいう僕も他聞にもれず、というか小汚いおっさんに似つかわしくなくふわふわしたものが好きでことあるごとに毛布をなでたりしていますが、しかしここで一度はっきりさせておくと、癒しはそれがない状態で求めた途端にある種の風俗に成り果てます。

おれのふわっふわ毛布と風俗をいっしょにすんじゃねえよ!とブチ切れるのも無理はありません。ありませんが、落ち着いていただきたい。僕にとっての毛布はたしかに大いなる癒しの側面を持ち合わせていますが、そもそも癒しのために求めたわけではなく、防寒というきわめて実用的な目的のために入手したものが結果として癒しに転じているだけであって、ここに決定的な違いがあります。おっさんのおっさんによるおっさんのためのふわふわ毛布は今日も100%ふわっふわでよろしい。結果として癒されるぶんには何ひとつ支障がないのです。

風俗としての属性とその問題はあくまで「癒しを求め」た時点で生じます。なんとなればそうして手にしたものは癒された時点で用を成さなくなってしまうからです。すくなくともさらなる癒しを手にした時点で、確実に用を成さなくなるでしょう。もともと防寒のために求めた結果、癒しがオプションでついてきたおっさんのふわふわ毛布とはそこが決定的に異なるのです。

したがって、僕の結論はこうです。癒しのためにいま手にしていないものを探し求めるのではなく、今すでに手にしているものすべてを癒しのために改めて洗いざらい徹底的に総点検してみること。そのためにあるわけではなかったけれども、こうして向き合ってみると丸まった綿ぼこりも可愛いし風情があってなかなか癒されるものがあるなあ、とかそういう感じの何かを見つけることができれば言うことありません。何と言っても本来そのためにあったものではないので、仮にすっかり癒され尽くしたとしても不要になることがない点が肝心です。ただ綿ぼこりはどちらかといえば初めから不要な部類に含まれるので癒されたら捨ててください。

それでもなお新しい癒しを外に探したいというのであれば、まず近所のコンビニあたりから始めるのがオススメです。それらしいものがあればあったでラッキーだし、なければないで唐揚げでも買って帰ればそれなりの甲斐は見出せます。あれだけ商品数があるんだからひとつくらい絶頂レベルで癒してくれるものがあってもおかしくないはずです。

それにすごくやわらかいゼリーとか、スプーンでぷるぷる突ついてるだけで意外と癒されるもんですよ。


A. とりあえずいま身の回りにあるものを片っ端からさわったり撫でたり褒めそやしたりしてみましょう。




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その320につづく! 

 

2021年4月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その319



からしにしやがれさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)ワサビにしようとしたんでしょうね。


Q. 家に入ろうとするたび鍵の上下の向きが違ってガってなるのですがどうしたらいいですか


子どものころ、鍵の上下の向きがちがってガッとなったとき、負けじと押しつけた上に全力で回した結果、鍵がぐにゃりと90度くらいねじれてしまったことがあります。鍵の向きがどうだろうと住人が開けようとしてるんだからとっとと開けるのが筋なのにまったく、鍵ごときにナメられちゃたまったもんじゃないですよね。

しかし改めて考えてみると今の僕は鍵の向きを確認している意識もないのに、鍵でガッとなることがほとんど、というかまずありません。なんかとにかく突っこめば開くくらいの気持ちで差しこみ、実際にそれで開いている印象です。無意識に鍵の種類と向きを判別しているか、でなければ住人だから鍵の種類がちがったり向きが逆でもドア側の判断で開けてくれていることになります。

裏を返せば帰宅時に鍵がガッとなるのは、向きがちがっているか、もしくはドア側が住人の帰宅を拒否しているかのどちらかです。そうは言ってもしょせん鍵なので、向きが合えばイヤでも開けざるを得ないわけですが、もし毎回、判で押したように拒否してくるとなるとそれはちょっと真剣に受け止めなくてはいけません。

なんとなればそれまで住人の従属物にすぎなかった部屋の鍵が長年の間に少しずつ力をつけ、いずれ向きが合っていようと決して開けないクーデターを起こさないとも限らないからです。

このクーデターの恐ろしさは、いくら鍵を変えようと決して開かないこと、そして住人以外の人が鍵を手にしたときはあっさり開いてしまうので、誰にも信じてもらえないことです。じぶん一人だけが開けられない鍵など、はっきり言って手の打ちようがありません。窓から出入りするという手もあるにはあるけれど、窓だってドアと同じように拒否する可能性は大いにあるし、そもそも毎日のように窓から出入りしていたら遠からず通報されるのは目に見えています。

したがって、できれば鍵の向きがちがっても大らかに受け入れ、黙って開けてくれるくらいの信頼関係を今からでもドアと築いておく必要があるのです。

まずは謙虚に、わが身を振り返ってみましょう。

たとえばうちのマンションの住人は新型コロナが広まり始めたころ、外側のドアノブにティッシュを巻くという不可解な行動に出ていましたが、これなんかはドアノブがキレて入室を拒否しかねない格好の例と言えそうです。

あるいはたとえば、他の部屋にまちがえて入ろうとしてしまったとか、他所のカッコいいドアに見とれて、自室のドアが嫉妬するようなことをしていないだろうか?

締めるべき鍵を閉め忘れて、ドアノブが拗ねたりしていないだろうか?

仕事場や立ち寄ったお店で鍵をたびたび置き去りにしたりしていないだろうか?

当たり前におもえる関係ほど大切にしなくてはいけないのは、恋人も夫婦もドアの鍵もいっしょです。今のところまだ拒否はされていないけれど、そういえば僕もドアやドアノブや鍵に対して、感謝のきもちを忘れてはいなかっただろうかと今さらながら身につまされるものがあります。

鍵の向きが合えば開くということは、まだクーデターには至っていないということです。今からでも遅くはありません。ドアやドアノブや鍵の声に真摯に耳を傾け、好物や趣味を知り、信頼関係の回復に努めましょう。白馬の王子様を夢見る女子みたいなドアノブなら、白馬の王子様みたいなドアノブを紹介するのも一計です。肉が好きなら焼肉に連れていくのもいいでしょう。

それがなければ部屋に入れない以上、僕らは決して、鍵を軽んじているわけではありません。ありませんが、あるいは慣れによってそう受け止められてしまうケースはおそらく、往々にしてあります。ただちょっと、当たり前みたいになってしまった関係に甘えてしまっただけで愛が霧散したわけでは全然ないんだということを、誠心誠意、伝えてみましょう。今でも入室はできているのだから、ドアやドアノブや鍵だってきっと、それを待ってくれているはずです。


A. それがなくては人生が立ち行かない事実と正直なきもちを、この機会に誠心誠意伝えましょう。




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その320につづく! 

2021年3月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その318



みんなのふたさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 竹取物語において、かぐや姫は帝のことをどれくらい好きだったと思いますか?


のっけから夢を派手にぶちこわすようでちょっと気が引けますが、結論から言うとべつに好きでもなんでもなかった、と僕は考えます。

そのことを帝との関係性から見てみましょう。

ご存知のように竹取物語は、光る竹から出てきた女児が美しく育ってめちゃモテたあげく月に帰るお話です。ストーリーは求婚した5人の公達が姫に渡された無理難題とどう向き合って退けられたかに多くの筆が割かれています。

帝の登場はその後です。そこに描かれている帝との関係をざっくり列挙してみると、5人の公達とちがって帝には(1)難題を出さず(2)3年間文通をつづけ、地上を去るときに(3)「悪い印象を残してしまうことが心残りです」と手紙に書き添えて、(4)不死の薬を形見に残す、という流れになります。

もしある程度の関係性ができあがっている段階であれば、5人の公達とちがって難題を出さない、という点にも何かしら好意的な思惑を見て取ることもできたかもしれませんが、初見から姫を文字どおり力づくで連れ出そうとしていたくらいなのでそれはありません。最高権力者に難題など出してもムダと考えるほうが無難でしょう。

かぐや姫が帝に思いを寄せるだけの重みを持ったエピソードはどこにも書かれていない、という点にも注意が必要です。そもそも初見でむりやり連れ去ろうとするような相手に恋心を抱く理由があるだろうか?

そこで唯一その根拠となりそうなのが(2)3年間文通をつづけた、という部分になるわけですが、ここで何か前向きな心が育まれた可能性はもちろんあります。ありますが、それでなくとも相手は最高権力者です。どう考えても無碍にはできないし、ましてやうざいからと気軽に打っ遣れるような対象ではありません。なのでどちらかというとこのやりとりはかぐや姫のやさしさ、細やかな気配りの表れであり、仮に恋心がなくともかぐや姫ならせっせと手紙を送ってくる帝に対して誠実に応対しつづけただろう、と僕にはおもわれます。べつに恋まで発展してもいいけど、しなくてもできる、ということですね。

それよりもはるかに「おっ」とおもわせてくれるのは月への去り際に(3)「悪い印象を残してしまうことが心残りです(なめげなる者に思しめし留められぬるなむ心にとまり侍りぬる)と帝に書き残している点です。好意を抱いていないのであれば、早くしろと急かす天の人に「そういうこと言わないの(もの知らぬことなのたまひそ)とまで言ってわざわざ書き残す必要はありません。ただ「ごめんね」と言って去れば済む話です。これちょっと何かあるんじゃないの?と勘ぐるだけの余地はあります。

そしてその印象をさらに後押ししてくれるのが(4)不死の薬を形見として残したくだりです。形見とはいえ地上には存在しないものをプレゼントとして贈るというのはアクションとしてもかなり特別であり、最も期待値が高いようにおもわれます。不死とかまじチートすぎるし、本命感めちゃある!


言いたいところですが、その前に僕はこの「不死の薬」という部分に大きな疑問を抱いています。本文にも不死の薬とあるにはあるのだけれど、よくよく考えるとなぜそれを不死の薬と断定できるのか、腑に落ちないのです。

天の人は姫にただ「壷のお薬をどうぞ(壷なる御薬奉れ)と言うだけです。月ではふつうにあってふつうに飲むものらしいからわざわざ不死のとも言いません。またそれにつづけて「汚れた土地のものを口にしていたから気分が悪いでしょう(穢き所の物聞こしめしたれば御心地悪しからむものぞ)とも言っています。

不死の薬ってそんな酔い止めみたいに飲むもんなの?

よろしい、百歩譲ってここは不死の薬だったとしましょう。では地上に愛着を抱いて去ることを惜しむかぐや姫が、地上にはない不死の薬を良いものとして大切な人に贈るだろうか?

かぐや姫は地上の日々において月世界とはちがう命のありかたと儚さ、そのよろこびを知ったはずです。そして不死を知るならなおのこと、まわりがどんどん亡くなっていくのに一人だけ生き続けることのむごさも容易に想像できるはずです。尋常ならざる知性と細やかな気遣いに満ちたかぐや姫がそのことに思いが至らなかったとは、さすがにちょっと考えにくい。

したがってそれは不死の薬というよりむしろ「心身を健やかに整える(=死を遠ざける)薬」、もしくは万能薬だった、というのが僕の結論です。

是非はさておき薬が本当に不死をもたらすものでそれを一人に贈った場合、そこには他の人に抱くのとはちがう特別な感情があったと考えることもできましょう。しかし万能薬だった場合、話はがらりと変わってきます。

なんとなれば「これ以上自分のことで思い煩わせるのは忍びない」という、純然たる労りからのアクションだった可能性が浮上してくるからです。そして僕としてはこっちのほうがよほど筋が通っていて、断然しっくりくるようにおもえます。

帝ひとりに贈ったのも彼が国の最高権力者だからであり、彼の不調は民を不幸にする事態にもつながりかねません。言い逃れできないほど明らかにその原因であるかぐや姫が彼にどうか立ち直ってほしいと願うのは、ごくごく自然なことです。

いずれにしても先に挙げたうちの(4)は、もはやそれほどスペシャルではない、ということになります。

そうなると最後の拠り所は(3)の「悪い印象を残してしまうことが心残り」という、ちょっとちょっと、そんなこと気にするなんてやっぱアレなんじゃないの、ラブなんじゃないの?と肘でぐいぐいやりたくなるくだりですが、じつはこれも「せっかくいい友人になれたのに」というかなしいほどシンプルな但し書きひとつで事足りてしまいます。3年もの間手紙で通じ合っていたのだから、恋などなくてもそう思うことに不思議はありません。

要は全体的に、姫が恋心が抱いていたと断じるには根拠が薄弱すぎるのです。

そしてまた仮に3年の文通でじつは恋が育まれていたとするなら、今度は逆に別れ際が物足りなさすぎます。個人的にはラブコメ大好きなので、もうホントまじでぜんぜん、物足りない。もっとありそうなもんでしょうが、他にやりようが、いろいろとおおおおお!!!と言いたい。天の羽衣着て「すーん」となってしまった姫の様子なんか聞きたくないし!富士山のてっぺんで手紙燃やして終わりにしてんじゃないよ!!と言いたい。

そんなこんなで、んもおおおおおお、とかのたうち回るくらいなら、「べつに好きでもなんでもなかった」という解釈のほうが姫のカッコ良さも際立ってよほどアリだと、僕なんかはおもいます。

こちらからは以上です。


A. べつに好きでもなんでもなかったとおもいます。




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その319につづく! 

2021年3月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その317


オズの無法地帯さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 好きな女の子の仕草は何ですか?


たぶん生まれてこのかた考えたこともない問題です。たしかにそういうのはある……気がする……し、実際キュンとすることもあるような気がするんだけれど、ただ僕はハゲ散らかした冴えないおっさんが公園のベンチでひとり手作りとおぼしき弁当を食ってるだけでキュンとするような男なので、ある特定の仕草、さらに女子のとなると鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするほかありません。

好ましく感じる女子の仕草というのはつまり、言ってみれば女性らしさを感じる仕草、ということですよね。

つらつら考えてみるに、僕はそもそも女性らしさというものに対してある種のコンプレックスを抱いているところがあります。もうすこし正確に言うと女性らしさそのものではなくて、必然的にそれと対になる男性らしさに対してですね。

女らしさを持ち出すなら当然、男らしさもまた避けて通ることはできません。そして僕はこの男らしさというものをろくすっぽ持ち合わせていない、というか持ちたいとすらおもったことがないので求められても困るし、それゆえ女性にもらしさを求めていないのです。あったらあったで素敵だけど、なくても全然困らない。

ないとは言いません。実際あるとおもうし、ふだん意識していないだけでちょっとした仕草にキュンとしているかもしれないので、ひとまずじぶんの性質を脇に置いておいて客観的に何かあるかなあとひとしきり考えてみたところ

ぜんぜん何も思い浮かばない。

待って待って、好き嫌いを別にしても、女子特有の仕草って言うほどなくないですか?

「女の子 仕草」でググったら出てきたCanCamによる女子のモテ仕草ランキングでも(まあ、こういうことですよね、おそらく)、「髪を耳にかける」とか「上目遣い」とか、一部わかる気はするものの、「鎖骨」「浴衣」と仕草ですらないものまで含まれていてびっくりするほど参考になりません。上目遣いなんて人差し指と中指で目潰ししてくださいと言ってるようなもんだし、髪とかそんなん、男子もそうじゃん?ちがうの?

と、ここでふと安田タイル業(諸事情により一時的に社名を変更しています)の専務が思い浮かびました。

ああ見えて弊社の専務は「女子たるものこうあってくれたらうれしい」の揺るぎない権威なので(もちろん「男たるもの」にも一家言ある)、見解を賜るにはうってつけの人物です。


ぐうの音もでないほど、じつにその道の権威らしい見解です。しかしもっとあるかと思いきや、意外とありません。冷静になってみると「腰クネ」も何だかわからない。日常にそんな仕草あるか?

こうなると逆に、「女子の魅力的な仕草一覧」がほしくなってきます。ずらーっと並んでたら不甲斐ない僕でも選べるかもしれません。

とはいえ専務言うところの「やだあとか言って肩触ってくるやつ」はたしかに男子にはなさそうなアレだし、僕でさえ忌々しいけどわかるとおもえるアレなので、今日のところはこれを回答にしておきましょう。

僕自身はどちらかというと「やだあじゃねえよ馬鹿野郎」と激昂するタイプですが、せっかくなのでこれを機にすこし歩み寄ってみようとおもいます。よかったらやだあとか言って肩触りにきてください。


A. 「やだあとか言って肩触ってくるやつ」です。




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その318につづく! 

 

2021年3月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その316



あしたのジョーズさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)ボクシング好きのサメが燃え尽きて灰になる不朽のパニック映画ですね。


Q. あと3ヶ月ほどで、大学生という就職猶予期間が終わり、毎日汗を光らせながら働く日々が頼んでもないのにやってきます。ムール貝博士が、そのような楽しくもないことに時間を使う際に心がけていることはなんですか。


ふむふむ、年末にいただいた質問なのでこれはつまり、この春から社会人になるよということですね。まず最初にお断りしておくと、ムール貝博士は昔も今も、楽しくもないことにあたら時間を費やすような御仁ではありません。といってまともな社会人だったためしなどついぞない僕がそれに答えるのも道ばたの草に相談するのと大差ないしどうかとおもいますが、しかしまあ他に代わりもいないので道ばたの草なりにお答えしましょう。

はっきりさせておいたほうがよさそうなのは、就業時間にかぎらず、そもそも人生は初めから終わりまで楽しくもないことに使う時間のほうが圧倒的に多い、ということです。

ゴミを出す時間もそうだし、食後に皿を洗う時間もそうだし、ほどけた靴紐を結び直す時間もそうだし、役所や病院で待たされる時間もそうだし、映画館で席について予告編が始まるまでの時間もそうだし、レジで並ぶ時間もそうだし、しゃっくりが止まるまでの時間もそうだし、信号が青になるまでの時間もそうだし、電話をかけて相手が出るまでの数秒だってその範疇に入ります。それらの対価に比べたら汗を光らせながら働く日々なんて、金のなる木みたいなものじゃないですか?

心がけもへったくれもありません。日々とは真っ直ぐに伸びる1本の単調な道であり、たとえ景色がどれだけ荒れ果てていようとそこに道があるなら僕らはただ歩みを進めるほかないのです。

そしてだからこそ、楽しいことが心の底から楽しく感じられるのだ、と改めて肝に銘じましょう。

あと、そうですね、ちょっと荒療治になりますが個人的にオススメなのは、家賃を払えなくなったり、電気・ガス・水道といったライフラインを止められる窮地にぶち込まれてみることです。かつて僕もひととおり経験していますが、一度でも経験すると当たり前の日々を当たり前に過ごせることの偉大さをイヤでも痛感させられるし、それに比べたら楽しさなど栄養素における糖分みたいな位置づけにすぎないことがよくわかります。糖分はあればひたすらありがたいものであって、ないと嘆くようなものではないのです。

道ばたの草に相談するとこうなるという典型的な回答になっているとおもいますが、訊く相手をまちがえたということで大目に見てやってください。


A. ライフラインを維持できる喜びを知りましょう。




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2021年3月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その315



ころぶハウスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)スネに傷のある者だけが集まることで話題をかっさらうもすでに下火になりつつあるらしい招待制のSNSですね。


Q. これまで実際に見知った中で、最も珍しい苗字は何ですか?


いただく質問、というかこれまでブログ維持のために半ば力業で徴収してきた質問には僕自身が他の人にも訊いてみたいものがあって、これなんかもそのひとつですね。小鳥遊(たかなし)さんとか、ホントどこにお住まいなんだろうとおもう。

と書いて思い出したけど、あれ?

通りすがりにどっかの表札で見たことある気がしてきたな……「あーっ!いたー!」って声を上げた記憶がかすかにあるような……。でもすごい古い記憶だな……。いつだったろう……。どこかの踏切のそばで見かけた気がするんだけど……。

ただこれ、というのはえーと、珍しい姓のことですが、言うまでもなく日ごろから交流が多くて顔の広い人ほどそれに比例して増える話なので、弔問客のいない葬式を今から恐れる僕のようなタイプには向かない質問でもあります。

また難しいのは、珍しければ珍しいほど特定されやすくなってしまうので、あんまり気軽に言うのも憚られる点ですね。

僕もひとり、それはもう圧倒的に珍しい姓をお持ちの方を存じ上げているのだけれど、現時点でまだほそぼそとつながりがあって、どこにどう影響があるか想像もつかないのでうっかり「ホニャペタラ崎さんです」とか言うこともできません。

かろうじて言えそうなのはその由緒が古墳時代(!)まで遡るらしいこと(そのころからあったわけではありません、もちろん)、そして全国に200人前後しかいない(!)らしいこと、明治政府によって漢字の変更を余儀なくされたらしいこと、くらいです。

それまで見たことも聞いたこともなかったので最初は大陸系の姓なのかな、とおもったほどですが、といってそのときはまだ実際にお目にかかったことがなかったので訊ねることもできず、お会いしてようやく合点がいった次第です。誇りであると同時に重荷でもある、とそういえば仰っていましたね。

それから、今となってはあまり思い出したくもない昔のことですが、「伝(でん)」さんという人がいました。漢字が旧字だったような気もするけれど、何しろ古い話なので記憶が曖昧です。その姓自体が珍しいとおもうので、フルネームとなるとたぶん世界に一人しかいないんじゃないかとおもう。あちこちでちょいちょい見かけて誤認もざらな小林大吾とはえらい違いです。

あと、そうですね、個人的にすごく好きな姓に「小麦田」があります。名札で認識しただけなので「こむぎ」なのか「こむぎ」なのかすら判然としないのだけれど、たまたまその男性が、なんというかもう、本当に小麦田さんというかんじのドンピシャぶりでとにかく一方的に好感を抱いていたのです。色白で、ぽちゃっとしていて、ほどほどに中年で、裏表のなさそうな、目がちっちゃい、朴訥な印象の、何しろ小麦田しかないと言うほかないレベルでピタッとはまっていて、そうですね、常から小麦粉に対して並々ならぬ敬愛を注いでいる僕からすると小麦粉の妖精と言っても過言ではないくらい、非の打ち所なくパーフェクトに小麦田さんだったことを、今でもよく覚えています。

とここでふと思い立ってググってみたところ、予想もしていなかったあまりの衝撃にくわえてもいない煙草をポロリと口から落とすわたくし。

ぜ……

全国に20人だと……?

レッドデータブックに記載されてもおかしくない絶滅危惧姓じゃないか……!いまだかつてこれほど千載一遇の機を逸した経験があったろうか……?

ぐああああああこんなことなら勇気を出してお声がけして知り合いになっておけばよかった……!!!まじか!小麦田さん……!!!!


A. 「小麦田」です。


ちなみに通りすがりの表札で見かけて、行き過ぎてから「え?」と二度見した姓がひとつあります。つい写真を撮ってしまったけどそれをここに載せるわけにもいかないので、字だけ置いておきましょう。読み方は今も不明です。




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2021年2月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その314


プレミアムつらいデーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)月末の金曜はとくにつらいですね。


Q. このブログの人気記事が未だ目玉焼きの記事であることを気にされていることは重々承知ではありますが、今まで気になって仕方なかったのです。再び料理の話題をなんとなく聞くのが憚られておりました。ステイホームが長くなり、手持ち無沙汰な今、是非お聞きしたい事があります。切り干し大根と三つ葉の炒め物(たぶんTwitter2017年4月9日初登場)と、度々映る艶々と色っぽい煮豆のレシピを教えてください。


あれから、そうですね、かれこれ10年くらいはたちましょうか……。そうは言っても大したアクセス数でもない目玉焼きのレシピを未だに超えていないのだから、僕のレゾンデートルはおそらくこのへんにあるとさすがにそろそろ断言してもよいでしょう。ちょっとおいしい目玉焼きを伝えるためにこそ僕はこの世に生まれ出たのです。そしてその使命はすでに果たしたわけだから、あとは余生ということになります。変わった使命を与えられたものだとおもうけど、与えられるだけマシだとありがたく感謝しなくてはなりません。

それはさておきお尋ねの件ですが、毎回前置きばかりが長くなるので今日は単刀直入に参りましょう。切干し大根の炒めものと、煮豆のレシピですね。

★切干し大根の炒めもの

材料
切干し大根;適量を水で戻しておく
ベーコン:適量
三つ葉:適量
オリーブオイル:適量
コンソメスープ:固形のコンソメを100ccくらいの湯に溶かしておく

1. オリーブオイルでベーコンを炒める
2. 切干し大根を加えて炒める
3. 適当に塩と胡椒を加える
4. コンソメスープを適当に加える
5. 冷めたら適当にざく切りした三つ葉を加えて混ぜる

ものすごく雑なレシピに見えるとおもいますが、重要なのは「切干し大根はオリーブオイルで炒めて塩コショウだけでもすごく美味しい」という点です。これさえ叩き込んでおけばOKで、その他は多少のアレンジにすぎません。

オリーブオイルで炒めて美味しいならベーコンを加えるともっと美味しいはずだし、三つ葉を加えたら美味しい上に彩りもかわいい、というだけのことです。初春なら三つ葉の代わりにセリなんかもいいですね。

なんというかこう、昔から切干し大根はサラダ油で炒めて出汁と醤油で味付けをして……みたいな固定概念があるので、その無意識の枷さえ外すことができれば、もっと自由にいろいろ楽しめるとおもいます。

しいて言うことがあるとすれば、できるだけオリーブ油で炒めましょう、ということくらいですね。サラダ油よりはるかに香りが強いので、これがあるのとないのとでは雲泥の差があるのです。

料理には「アレンジしていい部分」「アレンジしないほうがいい部分」が厳然と存在していて、ここをおろそかにせずにいられるかどうかが美味しいとそんなでもないを分ける大きなカギになります。何でもかんでも代用しちゃう人がいるけど、代用でより美味しくなるケースは稀だし、同等にすらまずならない(←ポイント)ので、とにかく一度は材料を揃えて言われた通りにつくってみることがものすごく大事です。

次に煮豆ですが、たしかに僕は煮豆をこしらえてはその愛らしさにバシャバシャと写真を撮り、あまつさえツイートする習性があります。これまでに何度同じような、というかほぼ同じ煮豆の写真を強引にシェアしてきたか知れません。撮ったそばから削除するくらいの分別はあるのですが、たぶん「うちの子をみて!」みたいな気持ちが抑えられないんでしょうね。

★ぶどう豆

大豆:2カップ
砂糖:1.5カップ
水:たっぷり
醤油:小さじ2

1. 大豆をたっぷりの熱湯につけて一晩置く
2. つけておいた水ごと、大豆を茹でる
3. ぶくぶくと沸騰してきたら大豆を一度ザルにあける
4. 新たにたっぷりの熱湯を加えて、90分中火で茹でる
5. ぐらぐらと豆が踊るくらいの火加減が決まったら最後までキープ
6. 湯が減ったらそのぶん足して茹でつづける
7. 豆がやわらかくなったら砂糖をぶちこんで同じ火力のまま30分煮る
8. 砂糖を入れてからは湯を足さずに煮切る
9. 泡の立ち方が変わってきたら醤油をたらす
10. ぷちぷちと焦げるような音になったら火を止める

要は大豆を水と砂糖で煮てるだけなんだけど、途中の手順や加減で仕上がりにわりと大きな差が出ます。ぶどう豆にはある種のバタフライ効果が存在すると言っても過言ではありません。

経験上、つくりかたそれ自体よりもむしろちょっとしたポイントが要という気がするのでこれも併せて記しておきましょう。

A. 大豆を熱湯で戻す
水ではなく熱湯なのは、ふやかすと同時に豆の皮部分を膨張させて、破れにくくするためです。そして破れにくいというのは見た目以上に大きな意味を持っています。というのも、その皮と豆の間に煮汁(シロップ)が入りこんで、一粒一粒がおいしくなるからです。
B. 火加減を変えない
これも経験則ですが、一度火力を決めたら最後、火を止めるまで変えません。豆が常にくるくる踊るくらいを目安にしましょう。昔はちょいちょい火力を調節してたんだけど、なぜだかうまく仕上がらないんですよね。
C. 泡の立ち方に気をつける
シロップが煮詰まってくると、それまで全体的にぶくぶくとしていた泡が中央からサーッと引いていきます。これを見逃すと焦げるまであっという間なので、注意深く観察しましょう。
D. 鍋の音に気をつける
クライマックスで重要なのは、音です。もうこのあたりまでくるとふつうに食べられる状態ではあるのですが、すこしだけ焦がすとシロップがカラメル化して、びっくりするほど香ばしくなります。ただ一番むずかしいのがこのカラメル化で、なぜか毎回同じようにはいきません。とにかく抛っておくとガッチリ焦げ付いてしまうので、焦げ付かない程度に焦がします。それまでシュワシュワだった音がプチプチプチに変わってきたら火を止める頃合いです。
E. 豆を動かさない
煮詰まってくるとつい箸とか木べらでかき混ぜたくなってくるのですが、これも経験上、あまりいじらないほうがいいとおもいます。動かすとカラメル化もよりしづらくなるし、じっと我慢が吉です。

シンプルなわりにやたらと時間がかかるし、ごはんのおかずにもなりにくいけど、例えばちょっとした運動とか、いつもより丁寧な掃除をするとか、植物の世話をするとかそういう心身を整える行為に近いものがあるので、なんとなく疲れがたまってきたらつくる一品ですね。日持ちするからいっぱいつくって毎朝ちょっとずつ食べます。お金がないときでもこれさえあればだいぶ生き延びられる気がするんだよな。


A. 美味しくできますように。




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その315につづく! 

2021年2月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その313



寝てろグリセリンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一人暮らしをはじめて、気づくと部屋が散らかってたり、洗濯物がたまってたり、洗ってない食器がたまってたりします。やればいいのは分かっててもウダウダしてできず、より嫌になってしまいます。。家事をうまくやる、特に気持ち的にうまくやるコツがあったら教えてください…!


一人暮らしあるあるのオールタイムベスト5に常時ランクインする不動かつ永遠の問題ですね。ちなみに一人暮らしあるあるの23位は「輪ゴムとかS字フックとか台拭きとか実家にあるのが当たり前すぎて忘れてたちょっとしたものが揃うまでに意外とちまちま金と手間がかかってめんどくさい」です。

しかしこの問題について僕はある種のエキスパートと言っていいでしょう。なんとなれば僕は世にも珍しい、食器を洗うことがそれほど苦ではない奇跡のような男だからです。これがどれほど偉大かつスペシャルな属性であることか、多くの既婚者にはものすごくよくわかってもらえるとおもうし、じっさい若いころに認知してもらえていれば右から左から袖が破れるほどひっぱりだこのモテモテライフを送っていたはずですが、当時はそんなの僕自身を含めて誰も気づくことはありませんでした。ままならないものですね。

とはいえ苦にならないだけで別に好きではありません。むしろそんな僕でもめんどくさくてやる気にならないケースが往々にしてあって、ここがエキスパートである所以かつとても重要なポイントになります。

たとえば食器を洗うことに関してですが、僕がこれを苦にしていないのは、料理をすることや食べることだけでなく、その片付けまで含めて食事と考えているからです。なので今では、ただ食べるだけだとそわそわして落ち着きません。うんこのあと尻を拭かないようなものです

今の僕にとって料理もせず片付けもしない上げ膳据え膳と言えるのは、外食を除けば義実家でごちそうになるときくらいですが(実家はそうでもない)、ラッキーどころかやっぱりそわそわしてちょっと立つ瀬がないような気持ちになります。これが当たり前すぎるとそもそも上げ膳据え膳とすら感じないし、そりゃ不用な火種にもなるわと個人的にはおもいますが、それはまあこの際どうでもよろしい。要はべつに好きでもなんでもないけど、皿洗いが済んで初めて食事を終えた気になる、ということですね。

これほど強固な認識をもってしてもなお、クソめんどくせえとおもって全然やる気にならないとき……それは何らかの理由で別のことに気を取られてしまい、「完全に忘れて間を置いてしまったとき」です。食事の延長である時点まではまだしも、一度忘れてしまうとそれは「独立したタスク」に変わります。いくら皿洗いが気にならない僕でも、そこに皿洗いだけが独立してあったらそれは単なる労働です。しかもその楽しくもない労働のためだけに時間とエネルギーを費やさなくてはならないとなったら、さすがに馬鹿馬鹿しくて手がつけられません。だって皿が使う前に戻るだけなんだもの。ゼロじゃん。ただのリセットじゃん。もっと何かこう大きなことをやり直せるならともかく、皿を使う前に戻すためだけにかけがえのない人生の一部を差し出す必要性がいったいどこにあるというんだ?

したがって僕の結論としては皿を洗うまでが食事、家に帰るまでが遠足、尻を拭くまでが大、ということになります。別の言い方に置き換えるなら、やろうと思えばいつでもできそうなちょっとした家事ほど独立したタスクにはしないことです。

もし用を足したあとで尻を拭かなくても特に支障がなくて、あとで思い出したときに拭けばいいとなったらそれはやっぱりものすごくめんどくさいタスクのひとつになるはずです。断言してもいいけど、拭かないままですごす人も少なからずいるでしょう。

皿洗いを例にとってお話ししましたが、洗濯物でも同じです。洗濯機に放りこむことと乾燥させることと乾いた衣服を畳むことを個別のタスクに分けてしまうと、途端に全部クソめんどくさくなります。ぜんぶ一連の、大きなひとつのタスクにしてしまいましょう。

気持ち的にうまくやるコツ、はどうだろう……あるかもしれないけど、少なくとも僕はこうした家事関連で気持ちが特に上向くことはありません。いつだってそれは100%めんどくさい。となれば何も考えずに捌ける向き合い方(お尻を拭くようにです)に自分自身を誘導していくほうがよほど理にかなっている、とおもいます。

あとは、そうですね、「もっときちんとできたらいいのに」より、「できることをできる範囲でできるだけやろう」くらいのほうがたぶん、じぶんをイヤにならずに済むはずです。僕もじぶんを大らかに受け止めるようになってからのほうが、以前より大らかに捌けている、もしくは捌けているような気がしています。今もふつうにとっ散らかってますけど。(・ω<)☆


A. やろうと思えばいつでもできそうなちょっとした家事ほど独立したタスクにしないことです。




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その314につづく! 

2021年2月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その312



そう仰るネットワークさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)だいたいみなさん、そう仰ってますよね。


Q. 多様性を受け入れるということには多様性を受けいれない人を受け入れることも含まれますか?


もちろん含まれます。

仮に含まれないとするならば、多様性を受け入れることの中にはそれもまた多様性のひとつである多様性を受け入れない人を受け入れないことが含まれることになり、多様性を受け入れない人を受け入れないことが含まれる以上、多様性を受け入れない人を受け入れないことを受け入れないことも、また多様性を受け入れない人を受け入れないことを受け入れないことを受け入れないことを受け入れないことも含まれることになり、受け入れると言いながら受け入れないの数は目に余るほど多く、なんなら無限に増えつづけていきもするからです。多様性を受け入れない人を受け入れないということは、単にひとつの性質を排除するどころか、そこから無限に連なる多様性のすべてを受け入れないことにも繋がります。となるとそれはただ受け入れられるものを受け入れているだけで、多様性を受け入れていることにはなりません。

個人的には「多様性を受け入れる」という表現にはいくばくかの語弊があるとおもいます。なんとなれば多様性とは、何らかの意図によって生み出されたものではなく、そもそも抛っておけば自然と勝手にそうなるものだからです。すでにそうある世界に対して後から加わっておきながら「受け入れる」と考えるのは、部屋に入ってきた客が「いらっしゃい」と言うようなものであり、傲慢どころかポンコツと言う他ありません。創造主でないかぎり、誰であろうと僕らは多様性のひとつとしていつでも「受け入れられる」側なのです。

もちろん、全体としての多様性に対してはそうでも、個々の立場で具体的にある種の価値観がどうしても受け入れられないことは往々にしてあります。

ここで注意したいのは、受け入れるからと言って必ずしも認める、もしくは尊重することにはならないということです。ここで言う「受け入れる」とは「ただあると受け止める」くらいのことにすぎません。多様性に敬意を払うなら、そこに「排除しない」と付け加えてもいいでしょう。なぜなら排除には必ず「同じように排除される資格」が付随するからです。

ともあれ、多様性という概念をわざわざ持ち出さねばそれを維持できないほど排除が当たり前の生物は地球上でヒトだけである、という事実はいつもポッケに入れておきたいですね。


A. 含まれます。




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その313につづく! 

2021年2月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その311


シトロエンにしたらええやんさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 占いは信じますか?


そうですね、例えばそれが「こうなるよ」と言われたことを確定として受け止めるか、という意味なら僕はあまり真剣に受け止めないほうだとおもいます。というのも、もし良いことが起きるならそれは占ってもらわなくても起きるだろうし、悪いことが起きるとしてもやっぱりそれは占いに関係なく起きるだろうからです。日々に希望が持てるとか、厄災に対する心がまえは持てるかもしれないけれど、でもひょっとしたらこの先寿命が尽きるまで何ひとついいことなく終わるかもしれないし、そんなことを聞かされた日にはその場で命を絶つ気になってもおかしくありません。何もかもが最悪だとわざわざ告げてもらう必要がどこにありましょう。占いが100%客観的かつ誠実に確率の高い未来を教えてくれるものであるなら、その可能性はいつだって必ずあるのです。悲観と絶望のプロフェッショナルである僕としては、不安を解消したいからこそ占ってもらうのにみんなちょっと楽観的すぎるんじゃないのか、と首を傾げているところもあります。

ただそれは得た結果を「信じる、信じない」で論じてしまうとどうしても論理的にそうなってしまうというだけで、僕自身は占いを世界に欠くべからざる重要な文化のひとつとして支持する者です。

不安を解消する側面もあるからどうしても予言調になってしまいがちだし、だからこそどうしても信じる信じないの話になってしまうけれど、そもそも占いに未来を決定する力はありません。確定した未来が存在する前提で結論を語るなら、それも誠実なことではありません。勝ち馬とか宝くじの番号はわからないけど、いいことがあるかどうかはわかるよ、というのは服だけ透けるチートな透視能力のようなものです。

でももし占いが何かを決定するものではなく、知りたくても知り得ないことの無限にある選択肢から無作為にピックアップするものだとすれば、それはたしかに理に叶っていると僕もおもいます。極めて高度かつ複雑なコイントス、と言い換えてもいいでしょう。行くべきか行かざるべきかみたいな単純なことならコインでもいいけれど、漠然とした不安とか結果がどうなるといった抽象的な話になってくると、適用範囲を広げつつ恣意や作為の排除により複雑な手順や儀式が必要になるのも頷けます。要は当たるかはずれるかではなく、「結果はこう出た、あなたはどうする?」ということですね。すくなくともそう考えるようになってから、古くからあって今もある占いの意義や役割がわかるようになった気がします。

そういう話じゃなかった気もしますけど。


A. あんまり真剣には受け止めないほうです。




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その312につづく! 

2021年1月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その310

 


本能寺が変さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)かれこれ400年以上たつのに、未だに変ですからね。


Q. 読者や視聴者が、その詩や楽曲を我が物顔で評論することについて質問です。私はわりとコレをやりがちなのですが、解釈を考えすぎだと言われたり、ちょっと面倒臭がれることも多いです。作者からすると、作品を深読み・評論されるのはどんな気持ちなのでしょうか?されて嬉しかった評論や不快だった評論を教えてください。参考にして、せめて聞く人が不快にならないような評論を心がけたいんです。


まずお伝えしたいのは、作り手にとって論じてもらえるのはただそれだけで本当にありがたい、ということです。関心のないどうでもよいものを、人は論じたりしません。罵倒であろうと酷評であろうと、また見当違いの見立てであってもそれは作品と正面から真剣に向き合っているということのたしかな証でもあります。僕がここで作り手の代表みたいな顔をして言うのはすごく気が引けるけれど、どうもありがとう。

したがってまったく、気にする必要はありません。正面から真剣に向き合ってくれているかぎり、たとえその結論がうんこだろうとゴミムシだろうと、揺るぎないリスペクトがそこにはあります。

もちろん作り手個人としては、うれしいケースやしんどいケースがあるのもたしかです。たしかですが、率直に言ってそれはまあ、あまり問題ではありません。評論というのはそういうものです。作品とは音楽だろうと文学だろうと料理だろうと世に放たれたその瞬間から例外なく、まな板の上の鯉にすぎません。堂々と胸を張ってください。

読み手の印象がどうしても気になるようであれば、そうですね、書き終えた文章を一度声に出して読んでみる、もしくは話し言葉に置き換えてみる、というのはある程度有効かもしれません。あ、これあれだな、口にするとすげえめんどくさいこと言ってるな、とおもえばそのあたりを整えればいいし、とくに気にならないようなら、もちろんそのままで大丈夫です。

話し言葉と書き言葉とでは、じぶんで意識しているよりもはるかに印象が異なります。メールだと慇懃で生真面目そうなのに、会って話すとめちゃフランクだったりするのが良い例です。文章がその人となりを必ずしもそのまま反映しているとはかぎらない。

裏を返せば、口には絶対しないようなことを、文章として綴っている可能性も大いにある、ということです。口語は口語、文語は文語としてその役割も魅力も異なるのだから同じように揃える必要はないけれど、目安として照らし合わせてみるのはひとつの手だとおもいます。

ちなみに僕自身は周囲から、対面で喋っても文章の上でも、おおむねめんどくさい奴として認識されています。どうにかできたらいいとおもうけど、気づいたら人生の折り返し地点まで来ちゃったし、今さらしかたないよな、と肩をすくめるほかありません。


A. ありがたいです、心からしみじみと。




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その311につづく! 

2021年1月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その309

 


 
ラスト天ぷらさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)盛り合わせの最後に残って誰も手をつけないやつですね。


Q. とても気に入ってくれてしょっちゅう家に呼んでくれるが回数が多くてめんどうくさい義実家との付き合い方。


さて、義実家です。

ありがたくも戸惑いを隠せないその悩ましさが質問の一文に端的すぎるほどよく表れています。すっぱり言い切るその姿勢にも気っぷの良さがにじみ出ていて清々しいかぎりです。うれしいけどめんどくさい。結婚生活においてはある意味もっともアンビバレントな問題のひとつかもしれません。

ただ、僕に言わせるとこれはわりとシンプルな話でもあります。なんとなれば義実家とは配偶者の実家であり、そこにちょっとでも悩ましい何かがあるならそれは同時に、配偶者の問題でもあるからです。夫婦であることによって生じたあれこれは、どちらか一方ではなく常に夫婦ふたりのあれこれであると認識しましょう。

したがってまずは配偶者が「うれしいんだけどちょっと多い」という口にしづらい悩ましい心を汲んでくれるかどうかがひとつのカギになります。「うちにはうちの日々があるんだからあんまり気軽に呼んでくれるな」とさりげなく伝えてもらえるのが理想的ですね。

しかし理想はあくまで理想にすぎません。僕が知るかぎり、こうしたケースで最も多いリアクションは「まあ大目に見ようよ、気に入ってくれてんだし」という、まったく、何の、まじでクソの役にも立たないものです。んなこたあわかってんだよ、ありがたいっつってんだろ、嬉しいしありがたいことが前提で、でもちょっとアレだっつってんだよ、都合のいい部分だけ拾ってスルーしてんじゃねえよ人の話聞いてんのかこのすっとこどっこい、と言うほかありません。

おわかりだとおもいますが、この何気ない、ともすればすぐに忘れ去られてしまいそうなちょっとしたやりとりは、今後の日々においてかなり重要な意味を持っています。

「自分は気にしないけど、相手が気にするならそれを尊重しよう」と考えるか、「自分が気にならないんだから相手も気にしないでいられるはずだ」と考えるか、ということですね。じぶんで書いていて何かこう、べつに剥がさなくてよかった皮をバリバリと全力で剥いでしまったような気がしないでもありません。

まあよろしい。どっちが良いとかそういうことではなくて、それによって向き合い方が変わってくる、というただそれだけのことです。でも長い目で見るなら早いうちにはっきりさせておいたほうが、たぶんいろいろ楽になる、と個人的にはおもいます。

ここでは配偶者が自身の問題でもあるにもかかわらずそれを認識しないまま放棄を選んだ場合を考えましょう。

手っ取り早いのは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、より義実家と親密になることです。具体的には配偶者を介さずダイレクトに「うるさい」と言えるくらい密に、ということですね。あえて今、何もすることなく、やむをえまいと受け入れつづけていれば自然とそうなっていく可能性は大いにあります。仮にそれを聞いた配偶者が「そりゃさすがにちょっと」と諭すようなら、肝心なときに何の役にも立たなかったやつが今さらうんこみたいな良識ぶっこいてしゃしゃり出てくんじゃないよ、と斬り捨てましょう。

もしくは真逆に、負けじと家に呼びまくることです。「ありがたいけど、ちょっとトゥーマッチかも…」と思わせるか、配偶者に「向こうも年だし、ほどほどにしといてやれよ」と言わせることができれば言うことありません。誰も見ていないところでニヤリとほくそ笑みましょう。深謀遠慮の極みここにありです。向こうがバツの悪そうな顔をして波のようにサーッと引いていくほどの勝利がほかにあるだろうか?


いずれにしてもひとつだけ、確かなことがあります。誰かと日々を共にするシチュエーションにおいて、ものすごく大きく功を奏するのは、相手を変えようとするときではなく、じぶんが変わろうとするときです。

アイデンティティに通じることでもあるし、そう簡単に変えられるものでもないけれど、ただそう胸に刻んでおくだけでも、本当に、びっくりするほど、のちのち大きく違ってきます。またそれによって思いもよらなかった新たなじぶんを発見することもあるのです。

結婚とはまじで、直面した事態とどう折り合いをつけていくかの連続であり、ベターはあってもベストはほとんどありません。なるべく痛みの少ない痛み分けなら上出来です。健闘を祈ります。


A. 負けじと家に呼びまくりましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その310につづく!