2021年10月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その346


ウニむさぼるスタジオジャパンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 運命の人に出会うにはどうしたらいいですか。


現在の僕はある種の運命論者です。もちろん宇宙の隅から隅まで、初めから終わりまですべてきっちり定められている、とまではさすがにちっともおもしろくないのでまったく考えていませんが、「人生にはあらかじめ決められた小さなポイントがある」とざっくり考えているところがあります。

小さなポイントというのは実際のところ、こっちの道から行こうとか、昼は何を食べようとか、それくらいのささやかなものです。要は選択なんだけど、それを「選択している」ではなく「選択することになっている」と考えるわけですね。

小さなポイントはそれ自体が分岐点になることもあれば、単に伏線のひとつでしかないこともあります。またその集合は気がつくとちょっとした川になっていて、おいそれとはその流れを変えることはできません。

これまでの道のりを振り返ったりするうちに漠然とそう考えるようになっていったのだけれど、この考え方が胸に根を下ろすようになったのは、あのときこうしていればという後悔がまったくなくなることに気がついたからです。何しろ「そう選択する」と決まっていたのだから、悔いる意味も甲斐もありません。責めるべきは自分ではなく、僕がそう選択することを決めた得体の知れない何者かです。人生が冴えないのはおれのせいじゃないという予防線にもなるので、今ではすっかりこのスタンスが気に入っています。

さて、そんな部分的運命論者である僕からすると、いただいた質問は「運命ナメんな」と一蹴せざるを得ません。なんとなればこの質問は、あらかじめ定められているはずの運命の人に出会えない可能性を示唆しているからです。八百長で勝つにはどうしたらいいかと訊ねるのに等しい奇妙さがあります。ほっといても、何があろうと、どんなあり得ない行動をとろうと出会ってしまうから運命なのであって、出会えないならそれは運命でもなんでもありません。というか、出会えないならそれこそが運命です。もしくは、「おかしい……この人じゃない……この人であるはずがない……」と感じるのに縁が切れないとしたらそれがまさしく運命の人です。

昔から疑問におもうことだけれど、運命の人という言い回しにはどういうわけかポジティブな響きがあります。運命である以上そもそも100%ニュートラルでそこにはポジティブもネガティブも同じだけ含まれるはずなのに、なぜ都合よくポジティブにだけ受け止められるのか不思議でなりません。前回、暗殺よりも不幸と言われた結婚に身を投じたリンカーンの話をしましたが、運命というならそうして娶った妻もやはり運命の人です。

まったくもってポジティブではない超ネガティブな可能性もポジティブと同じくらい厳然と存在する以上、運命の人のことなど考えないほうが賢明であると僕は断じます。夢をみるほどの甲斐ははっきり言って全然ありません。忘れるほうが無難です。考えうるかぎり最も相性の合わない誰かを運命ですと押しつけられることほどの絶望が他にあるだろうか?

なので改めて、自身に問いかけましょう。本当に出会ってしまっていいものだろうか?出会わないほうがよほど幸せだった運命を受け入れる準備はできているだろうか?運命である以上、出会いは確定事項でまず不可避です。でもせめてそれが運命であることを知らずにいることができたら、まだ出会っていない、もしくはきっとこの人がそうだと最後まで信じ続けることができるんじゃないだろうか?

部分的運命論者である僕にとって、運命とはどろどろ流れる溶岩のようなものです。触れるのはいつでもそれが通りすぎたあと、冷えて固まってからのほうが焼け爛れなくていいとおもいます。


A. 忘れるほうが無難です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その347につづく! 

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