2021年6月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その331


うるめいわしのサブリナさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 脳みその代わりに入れるとしたら、何を頭の中に入れたいですか?ちなみに私は硬めのプリンを入れたいです。


プリンはよいですね。夢があります。頭を冷やせと言われたら、プリンを冷やせばいいわけですからね。冷蔵庫に冷えたプリンがあることほど夢のあることはないし、プリンが生温いのなら冷やせと言われるのも当たり前であると申せましょう。

しかしそもそも、と僕はおもうのです。僕らのこの頭蓋骨のなかに、本当にプリンは入っていないんだろうか?

一般的には、そして常識的にはプリンではなく脳みそが入っていることになっています。味噌なら味噌でそれは別にいいと基本的には僕もおもっていますが、問題は誰かの頭に脳みそが入っているからと言って、僕の頭にも脳みそが入っているとはかぎらない、という点です。

たとえば僕らは地球を丸いと信じているし、ありとあらゆる状況証拠は地球が丸いことを示しているけれども、科学的に立証されていると僕らが認識するところのものはあくまで「信頼できる人がそう言っている」という意味にすぎない現実を思い出さなくてはなりません。

アメリカでは今も国民の約4割が進化論ではなく創造論(神がこの世界を作ったという考え方)を支持しているそうですが、裏を返せばそこに科学の限界とジレンマがあると言えましょう。どれだけデータを積み重ねても、そうじゃないかもしれないという可能性を完全に排除することはできません。なんとなれば、知識を共有する時点でそれは「伝聞」になるからです。僕らはある知識について、「そう聞いた」と言うことなく断言できるだろうか?創造論どころか陰謀論ですら根絶やしにできないのも、おそらくこのあたりに決定的な理由があります。

脳みその話に戻ると、たぶん僕の頭にも脳みそが入っているだろうな、と僕もおもいます。おもいますが、僕だけ何か別のものが入っている可能性とその疑念を、100%拭うことはできません。プリンなんか入ってねえよと誰もが口を揃える当然の主張は、僕のではない別のデータから導き出されたものだからです。

空っぽだとはおもいません。明らかに頭は重たいし、何かが詰まっていることは確かです。その実感もあります。しかしこの目で確かめたことがない以上、小粒のじゃがいもがたくさん詰まっているわけではないと言い切ることもできないのです。(念のため付け加えておくと、脳が別のどこかにあるという考え方ではなく、じゃがいもが脳の代わりに考えているという考え方です)

脳みその存在を前提とするならば、代わりにぬか床を詰めてキュウリの1本でも漬けたいところですが、いざパカッと頭蓋を開いてそこにじゃがいもが詰まっていたら、その哀しみはちょっと計り知れません。じゃがいもの代わりにぬか床を入れる意味がいったいどこにあるというのだろう?その哀しみを押してぬか床と入れ替えたところで、取り出されたじゃがいもはどこに行けばよいのだろう?甘辛く煮っころがしてしまっていいものだろうか?かつて僕という男の人格を成していたこの煮っころがしを夕飯の一皿として平らげたのち、僕はどこにいることになるんだろう?

今や僕は頭から取り出したキュウリをぽりぽりかじりながら、脳みそが恋しいと言わざるを得ません。こんなことならせめてじゃがいものまま、それを知らずにいたかったと切におもいます。そのじゃがいもですら、今は甘辛く煮っころがされて胃の腑に納まっているのです。

もしじゃがいもでなく脳みそだったら、こんなことにはなっていなかったんじゃないだろうか?

今となってはそれも詮無いことです。かつての自分だったじゃがいもはもうないことを受け入れ、代わりのぬか床を頭蓋に詰めて生きていくほかありません。

そしてある晩ふと、星空を見上げながら、思わないでもないのです。詰まっていたのがじゃがいもでなくプリンだったら、また違う人生になっていたかもしれないと。


A. じゃがいもの代わりに脳みそを入れたいです。




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その332につづく! 

2021年6月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その330



お風呂ピカソさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 人はなぜ一回で真っ直ぐテープを貼れないまま一生を終えてしまうのでしょうか?おそらくどんな人でも一生のうち1000回は貼る機会があると思うのですが、ほとんどの人が一回で思った通りに貼れてないと思うのです。僕に至っては毎日1回は仕事で貼る機会があるのに毎度妥協しています。もしかして性格の歪みなのでしょうか?


テープを一回でまっすぐに貼れない問題は、かの哲人アリストテレスもその悩ましさを著書にぐちぐち書き連ねていたと、夢のなかで聞いたことがあります。今も昔も変わらぬ、そして未だ解くこと能わぬ神秘のひとつです。テープがあるかぎり、人はそれをまっすぐに貼ることはできません。わりとまっすぐに貼れるのでさほど苦にしたことがない僕でさえ、基本的にはまっすぐに貼ることができないという揺るぎない信念を抱いています。この三千世界における厳然たる物理法則のひとつとして、とにかくそういうことになっているのです。

しかしここはちょっと視点を変えて、テープの側から考えてみましょう。

日本には古来より、自然のありとあらゆるものに神が宿るという考え方があります。いわゆる八百万の神ですね。たとえ人工物であっても、突き詰めていけば元素の集合でしかないので、これもまた自然の一部、もしくは延長と言っていいでしょう。この世に神の宿らぬものなど存在しません。枝毛ささくれため息なんかはもちろん、つまようじの頭にあるなくてもいい溝や、新しい靴下を留めてある金具折ったら役目を終えるプッチンプリンのプッチン部分にもまた神は宿ります。個人的にはアンニュイなため息に宿る神様が好きですね。

してみると当然、テープにも神が宿っていることになります。テープの側から考えるというのはつまり、テープに宿る神様のきもちになって考える、ということです。

今まさに引き出されようとしているテープの、そのすぐそばに神は御座します。それを自分に置き換えて想像してみてください。2センチとか5センチのテープなら、特に気にもなりません。しかし10センチ、20センチ、30センチと伸びていくにつれて、そわそわと落ち着かなくなってきます。なんとなれば伸びれば伸びるほど、まっすぐに貼る難度が上がっていくからです。神としてもまっすぐに貼ってあげたいのは山々ですが、何しろテープに寄り添うくらいのサイズなので、まっすぐどころか自分がテープに巻き込まれかねません。どれだけそわそわさせられても、最後までじっと我慢して成功を祈るより他にないのです。

そして、いいですか、必要な長さを引き出し終え、全神経を集中していざテープを貼ろうとする、テープも空気もぴんと張りつめて、ごくりと唾をのみ、何なら呼吸も止めていざというその瞬間です。

プレッシャーに耐えきれなくなった神様がチョイと手を出すでしょう。

うおおおおおおおおおおい!と叫び出したくなる気持ちはよくわかります。わかりますが、落ち着いてください。神様だろうが何だろうが、この状況であればチョイの手はどうあっても不可避です。たとえ時間を巻き戻したとしても、その都度かならず、チョイの手は発動します。如何ともし難いという意味ではある種の不随意運動であり、書店にいると必ずやってくる便意にも近いものがあると言ってよいでしょう。わたしたちにはそれをどうすることもできません。

したがって、これら一切はわたしたちの責任ではないし、もちろん性格の歪みとは何の関係もありません。ただただそういうことになっているのであり、テープを一回でまっすぐに貼れないまま一生を終えることこそ自然の摂理です。安心して明日も失敗してください。


A. 神のチョイの手があるからです。




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2021年6月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その329


ジュラシック・パクッさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)食べられちゃったんでしょうね。


Q. ムール貝博士言行録を見ていると、「○○だとおもう」など「思う」を「おもう」「おもいます」などひらがなで表記していることに気がつきました。特に意味はないのかもしれませんが、何をおもってそうされているのですか?ちなみに僕は「宜しくお願いします」を「よろしくおねがいします」とすべてひらがなで書くのが好きです。かわいいので。


いい質問です。と言って得意げにお話しできるようなことなどありゃしないのですが、たしかに僕は日ごろから意識してそうしているところがあります。

何より、それまでぜんぜん意識していなかった女子に「ダイゴくんの字って丸っこいよね」と言われたときのような、そんな親も知らないようなちょっとした癖とか指摘されて急に意識し始めちゃうみたいな、それは以前から僕のことをちょいちょい見てたってことですよね!?みたいな、甘酸っぱいきもちに鼻息を荒くせずにはいられません。

それで言うと、「よろしくおねがいします」もかなりの頻度で使います。すこし堅い場合でも「よろしくお願いいたします」が多いですね。「宜しく」も「致す」も漢字としてはほぼ使いません。

面と向かって訊かれたことがないので(あったかな……)あまり深く考えてもこなかったけれど、どうも漢字にする必要があるかどうかで選択しているようです。

たとえば「たべる」は高確率で「食べる」と変換します。漢字があるのとないのとでは印象が変わるし、この場合はむしろ漢字のほうが印象として優位だからです。文字として明らかに表意である、と言い換えてもよろしい。

「思う」も漢字のほうが優位だとおもうんだけど、明確な思念としてアクセントを置きたいというよりは使い方が単なる語尾に近い……のでたぶん、一文の印象を平らにならすために漢字を避けています。

ただし「あれこれ思いを馳せる」と文の間に入るようなときは、まず100%漢字です。「おもいを馳せる」ではパッと見たときに文意を把握しづらい気がするし、視覚的なアクセントとして漢字を含むほうが読みやすくなることもあるからです。

同じ理由で、いくつかの漢字が重なってしまうようなときも、一部をひらく傾向があります。ひらくというのは漢字をひらがなにする僕個人の造語ですが、たとえば「大抵独りです」みたいな場合は「たいてい独りです」「大抵ひとりです」のどちらかにひらくわけですね。ここで「ひらく」を「開く」と漢字にしないのは、「あく」と「ひらく」2つの読み方があるのと、文字の組み合わせが別の言葉と混同されにくい言葉だからです。

なのでおそらく、漢字でないとわかりづらい言葉は漢字、そうでないときはひらがな優先、ひらがなが並びすぎて読みづらいなら漢字を混ぜ、逆に漢字が続くようなら一部をひらく、という使い分けが基本になっています。

微妙なニュアンスの話をすると、「そうしないと読みにくい」よりは「そうすると少し読みやすいかな」くらいの向き合い方ですね。

あと、漢語より大和言葉のほうに惹かれる僕自身の習性も少なからず影響してそうな気がするんだけど、そこまで踏み入ってしまうとさすがに収集がつかなくなる気もするので、このへんですっきり畳んでしまいましょう。


A. 必要性と可読性とそのときの気分に応じて使い分けています。




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その330につづく!