2021年6月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その330



お風呂ピカソさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 人はなぜ一回で真っ直ぐテープを貼れないまま一生を終えてしまうのでしょうか?おそらくどんな人でも一生のうち1000回は貼る機会があると思うのですが、ほとんどの人が一回で思った通りに貼れてないと思うのです。僕に至っては毎日1回は仕事で貼る機会があるのに毎度妥協しています。もしかして性格の歪みなのでしょうか?


テープを一回でまっすぐに貼れない問題は、かの哲人アリストテレスもその悩ましさを著書にぐちぐち書き連ねていたと、夢のなかで聞いたことがあります。今も昔も変わらぬ、そして未だ解くこと能わぬ神秘のひとつです。テープがあるかぎり、人はそれをまっすぐに貼ることはできません。わりとまっすぐに貼れるのでさほど苦にしたことがない僕でさえ、基本的にはまっすぐに貼ることができないという揺るぎない信念を抱いています。この三千世界における厳然たる物理法則のひとつとして、とにかくそういうことになっているのです。

しかしここはちょっと視点を変えて、テープの側から考えてみましょう。

日本には古来より、自然のありとあらゆるものに神が宿るという考え方があります。いわゆる八百万の神ですね。たとえ人工物であっても、突き詰めていけば元素の集合でしかないので、これもまた自然の一部、もしくは延長と言っていいでしょう。この世に神の宿らぬものなど存在しません。枝毛ささくれため息なんかはもちろん、つまようじの頭にあるなくてもいい溝や、新しい靴下を留めてある金具折ったら役目を終えるプッチンプリンのプッチン部分にもまた神は宿ります。個人的にはアンニュイなため息に宿る神様が好きですね。

してみると当然、テープにも神が宿っていることになります。テープの側から考えるというのはつまり、テープに宿る神様のきもちになって考える、ということです。

今まさに引き出されようとしているテープの、そのすぐそばに神は御座します。それを自分に置き換えて想像してみてください。2センチとか5センチのテープなら、特に気にもなりません。しかし10センチ、20センチ、30センチと伸びていくにつれて、そわそわと落ち着かなくなってきます。なんとなれば伸びれば伸びるほど、まっすぐに貼る難度が上がっていくからです。神としてもまっすぐに貼ってあげたいのは山々ですが、何しろテープに寄り添うくらいのサイズなので、まっすぐどころか自分がテープに巻き込まれかねません。どれだけそわそわさせられても、最後までじっと我慢して成功を祈るより他にないのです。

そして、いいですか、必要な長さを引き出し終え、全神経を集中していざテープを貼ろうとする、テープも空気もぴんと張りつめて、ごくりと唾をのみ、何なら呼吸も止めていざというその瞬間です。

プレッシャーに耐えきれなくなった神様がチョイと手を出すでしょう。

うおおおおおおおおおおい!と叫び出したくなる気持ちはよくわかります。わかりますが、落ち着いてください。神様だろうが何だろうが、この状況であればチョイの手はどうあっても不可避です。たとえ時間を巻き戻したとしても、その都度かならず、チョイの手は発動します。如何ともし難いという意味ではある種の不随意運動であり、書店にいると必ずやってくる便意にも近いものがあると言ってよいでしょう。わたしたちにはそれをどうすることもできません。

したがって、これら一切はわたしたちの責任ではないし、もちろん性格の歪みとは何の関係もありません。ただただそういうことになっているのであり、テープを一回でまっすぐに貼れないまま一生を終えることこそ自然の摂理です。安心して明日も失敗してください。


A. 神のチョイの手があるからです。




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その331につづく! 
 

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