2025年2月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その443


キャプテン・クックパッドさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 家族でけんかというほどでもない、意見や気持ちの相違があった時の解決策を教えてください。


きのこの山かたけのこの里かというだけで常にキューバ危機みたいな一触即発状態にあることを考えると、「けんかというほどでもない」が実際のところどれくらいの衝突を指しているのか、具体的な例がほしい気もしますが、それがなくとも考えられそうなことだけ考えてみましょう。

まず、「意見や気持ちの相違」は家族であっても初めから互いに別人格である以上、当たり前のことです。むしろ一致することのほうが例外であり、望外の喜びであると胸に刻むほうが圧倒的によろしいと僕なんかはおもいます。

家庭内にかぎらず同意や共感は誰にとってもうれしいものですが、それに執着すると異論に対する抵抗感はいずれ忌避感に転じます。その先に待つのはどう考えても軟着陸ではありません。ですよね?お互いに歩み寄らないかぎり、着陸は絶対にあり得ない。

それはつまり、こちらだけが歩み寄ってもやっぱり着陸とは言えない、ということです。他者のアドバイスが実際のところほとんど意味をなさない理由がまさしくこの点にあります。どうあれ徹頭徹尾、当事者同士ががっぷり四つで向き合うほかないのです。夫婦間のことならそれができることこそ結婚の最低条件にすればいいのに、といい年ぶっこいたおっさんになった今ではしみじみおもいますが、僕もべつに当時そんなことは1ミリも考えていなかったので、えらそうなことは言えません。

では打つ手がないかというと、そんなこともありません。一番手っ取り早いのは、自分の認識を変えることです。相手の立場を採用してもいいし、押しも引きもせず「なるほど」とそのままどしんと受け止めてもいい。なんとなれば相手に譲歩する気配がないかぎり、できることといったらそれくらいしかないからです。

白旗を挙げるわけではありません。言葉を尽くした上で受け止めて「まあいいか」とおもえるならそれでよし、おもえないならそのままにしておけばいい。自分とまったく同じではない誰かと日々を共にするというのはそういうことです。相手に同意できない自身の認識にブレーキをかけることができないなら、それはつまり自身に都合のよい結果しか受け入れられないわけだから、そもそも解決など望むべくもありません。不倫とかクソめんどくさい話ならまた話は変わってくるけど、「けんかというほどでもない」ならそれほど難しいことではないはずです。

そして経験上、受け入れられないと感じていたことを一度でも受け入れると、びっくりするくらい気持ちが楽になります。自身の認識を堅持することにいったいどれだけの意味があったのか、首を傾げるほどです。

また受け入れる姿勢を見せることの相乗効果として、相手が軟化することもあります。もちろん全然しないことも余裕でありますが、それはもうそういうものとして受け止めるほかありません。何しろ家族ですからね。


A. 自身の認識を改めることから始めましょう。




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その444につづく!

2025年2月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その442

カメラロールにときどき紛れこむやつ


かいわれ界隈さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「そういうものだ」と飲み込んではいるけれど正直納得いっていないことはなんですか


これまたひとりで考えるのが本当にもったいない質問です。やーもうこんなんみんなめっちゃあるでしょ〜。ひとりで考えるにしてもできれば1週間くらいほしいし、ポッドキャストとかやってたら絶対に募集してみたいテーマのひとつです。

真っ先に思い浮かぶのは昔からずっと釈然としない「戦争」ですね。先進国の連中は「戦争にもルールがある」みたいなことをさも当たり前のように言うけど、いい年ぶっこいた今でも「は!?」と思います。しかしこれはまさしくパンドラの箱という気もするので、これ以上は開かずにそっと脇によけておきましょう。

ごくごく小規模な個人的なところでいうと、交通違反によって付与された点数には正直納得いってません。付与される、ではなく、付与され、がポイントです。

具体的な話をすると、その昔、一時停止をすべきところでしなかった、という理由で切符を切られたことがあるのです。僕としては完璧に一時停止をしたと思っていたので、承服できるはずもありません。しかし警官は警官で絶対に一時停止をしていないという認識なので、これは当然、水掛け論になります。

ここで違反切符が違反者に求めるのは反則金です。多くの人はこれを罰金と捉えている印象ですが、じつはそうではありません。これは実際にはこの金額を収めれば刑事手続きをスキップできるという意味合いの請求であり、裁判にのぞむ気概があるのなら堂々と拒否できるものでもあります。

僕はその後、根気よく送られてくる督促状を一通一通ていねいにスルーしつづけ、最終的に裁判所から呼び出しをくらい、実際に裁判所に赴いてことの次第を滔々と語った上で、違反と言われるようなことは何もしていないので略式ではなく(←ここが重要です)正式な裁判で主張したいと訴えました。つまり、あくまで違反したと言い張るなら受けて立つから起訴してくれと裁判所で伝えたわけですね。

実際に確認したわけではないけれど、あれから5年どころではない月日が流れ去っているので、まずまちがいなく不起訴でこの話は終了しています。このときの反則金を、僕は支払っていません。起訴されていたらたぶん警官の主張のほうが警官というだけの理由で支持されていただろうとは思いますが、今となっては客観的にどちらが正しかったのか、誰にも判断のしようがありません。

問題はここからです。

不起訴になったということは、少なくとも違反があったことにはなっていないはずですが、にもかかわらず交通違反によって付与された点数はふつうに累積になっていて、なぜか撤回されないまま、僕は免許の更新時に違反者講習を受けています。

なんでやねん。

違反として明確に認定されたのならわかります。違反が認定されていないのに点数が付与されるのは、刑事事件で不起訴になったのに前科がつくのと同じくらい意味がわからない。これが違反の可否=点数付与の可否を問う話でないなら、なぜ僕は裁判所に呼び出されたのか?

ちなみに僕が反則金を支払わなかったのはこのときだけです。切符を切られてから裁判所に呼び出されるまで、たしか2年くらいかかっています。定期的に送られてくる反則金の督促状は目にするだけで忌々しいし、あるとき不意に届く裁判所からの出頭命令をうっかり見逃すとさらに厄介なことになるので、とっとと払ったほうがどう考えても手っ取り早いよな、と今ではしみじみおもいます。

あと納得いってないのは、毎日生えてくるヒゲですね。何のために生え、何のために剃るのか、ここには人生における何らかの、しかしなくても別に困らないハイレベルの哲学が潜んでいるような気がします。


A. ヒゲです。




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その443につづく!

2025年2月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その441


どんぐり勘定さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 音楽で溢れかえった近未来。音が地球の許容量を超えることを危惧した地球省は「聴ける音楽は生涯ひとりひとつまで」という法令を発しました。死ぬまでこの曲しか聴けないとなったら、何を選びますか。


「音が地球の許容量を超える」という発想がいいですね。斬新でありながら詩的だし、このアイデアだけで壮大な物語が作れるんじゃないだろうか?

この法令の施行後に生まれた人はそもそも音楽を一切聴けなくなってしまうので、現実的にはおそらくある年齢、例えば30歳までに生涯の1曲を決めなくてはいけない、というようなことになりそうです。当然それ以降に生まれた曲を聴くことはできません。音楽家も一律で30歳が定年ということになるだろうし、考え始めるといろいろ妄想がふくらみます。

とはいえ質問の主旨としては「生涯にただ1曲を選ぶ」だけなのでシンプルといえばシンプルですが、そうは言ってもこれがまたとんでもない難問です。

自分がいちばん好きな曲ということであればまだ選びようがありそうな気もしますが、それしか聴けないとなると話がちょっと変わってきます。

たとえば僕の人生において欠かすことのできない重要な1曲として、Dred Scott“Check The Vibe” を例に挙げましょう。17のときにCDショップの試聴機で聴いてぶっ飛んだので、いま聴いてもテンションが一瞬で沸点に達する曲ですが、今後死ぬまでこれしか聴けないとなったらたぶんこれを選ぶことはできません。どう考えても絶対に飽きるからです。

音楽経験としてはこのあたりからさらに深化していったので、自分の棺桶に入れてほしい曲となったらまた別の曲を選びますが、めちゃめちゃ好きな曲、もしくはめちゃめちゃ思い入れのある曲というのは、むしろそれゆえに「飽きたくない曲」でもあります。ですよね?本当に思い入れのある曲というのは、忘れたころに聴き返してグワーーーーと打ちのめされるのが良い。

したがって、今後それしか聴けないとなったら、そこまで思い入れが強くなく、かつ何度聴いても飽きないと思われるような曲をチョイスする必要があります。好きな曲は何万回聴いても飽きないという人もいると思うけど、少なくとも僕はそうではないので、別のアプローチを試みる必要があるのです。

となると僕はたぶん、ジャズを選ぶとおもいます。パッと思いつくのは John Wright“Strut” です。

この1曲のためにLPを探しまくった記憶があるくらい好きなんだけど、音数が少なくてシンプルなのにリフがキャッチーで「飽きにくい」気がします。後になって、あの曲にすればよかった!とか後悔しないくらいには条件を満たしているとおもう。

そういう視点で言うと、Bud Powell“The Amazing Bud Powell (Volume 1)” に収録されている “Un Poco Loco” 2nd Take もいいですね。ジャズファンにはすげー怒られそうな気もするけど、門外漢すぎる僕にとって重要なのはむしろマックス・ローチで、1st Take に比べてカウベルのパターンが劇的に変わってるのがめちゃめちゃいい。何度聴き返しても「よくもまあ、こんなアプローチでやる気になったなあ!」と驚かされるし、 2nd Take を踏まえて完成度が格段に上がった 3rd Take よりも、まだ試行錯誤で不安定な 2nd Take のほうが飽きないんじゃないだろうか。

うーん、どっちがいいかなあ。Un Poco Loco、うるさいかなあ。そもそも「ちょっと変」って意味だしなあ。死ぬまで「ちょっと変」しか聴けないのもアレか…。

じゃ John Wright の “Strut” にします。明日にはまた気が変わってそうな気もしますけども。


A. John Wright の “Strut” です。




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その442につづく!

2025年2月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その440


ござるござるもニンのうちさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 気づけば学生時代に仲の良かった友人とはすっかり疎遠になりました。人間関係もちゃんとメンテナンスしないと縁って切れていってしまうものですね。恋人をつくるにはマッチングアプリ、知人の紹介などアイデアはありますが、友人をつくるにはどうしたら良いのでしょうか…。友人の作り方 と検索したりして虚しくなっています。


これはなかなか剣呑な問題です。質問のすべてがクリティカルにぶっ刺さります。そもそも疎遠になるような学生時代の友人が存在していたかどうかすら疑わしい僕のほうがよっぽど剣呑と言わざるを得ません。

しかし老境の先輩方の行く末を知る機会がじわじわ増えゆくのっぴきならないお年ごろでもあり、僕としても避けて通ることはできない問題という自覚はあります。ひっそりとまとめてひとり胸のうちに収めていた秘蔵のメモをここに開陳しましょう。

まず、人生において友人の多い人と少ない人では、対人距離が明確に異なります。前者が友人と認識している距離感は、後者にとって知人の距離感です。そして後者が友人と認識する距離感は、前者にとって親友の距離感です。友人が少ないと自認する人は友人判定の距離が比較的もしくは著しく狭い、と言い換えてもよいでしょう。僕なんかはまさにこのタイプなので、友人の多い人の友人の話を聞いていると「それは…友だちなの…?」と困惑することがちょいちょいあります。

したがって、知人をすべて友人という認識に置き換えること、これがステップ1です。べつに友だちじゃないけど…と深く考える必要はありません。むしろ固定観念による無意識の線引きを取っ払うことに意味があるのです。いや、上司とか同僚とか部下とかご近所さんとか取引先とかお客さんとかあるじゃん…と思うかもしれませんが、こうしたカテゴリーのひとつとして並列に友人があると考えるところに落とし穴があります。というか何なら僕らはすでにその穴の底にいます。友人とはあくまで、そして常に結果論であって一方的に認定するものではないという、人によっては当たり前すぎることを友人の少ない僕らは改めて自らの認識に上書きする必要があるのです。

ステップ2は「好奇心」です。外界の事象に対する「わ〜おもしろそう!」という気持ちを、観葉植物のように育てましょう。興味をもったら深く考えずに足を運びます。ただし、友人をつくるためではありません。ただただ、自分がたのしむためです。どうもその繰り返しが結果的に人生における肝となるらしい、と先輩方から学んだ今の僕は感じています。そして機会があれば自ら積極的に話しかけていきましょう。ひと昔前の僕なら「むり」と即答していたと思いますが、ここだけの話、歳を重ねるとそうも言ってらんねえわとならざるを得ません。友人の少ない僕らはこの問題について「一本釣り」みたいな印象を抱きがちですが、実際にはそれは「引網」なのです。こうして語る何もかもがぜんぶ自分にぶっ刺さって瀕死の僕が言うんだから間違いありません。


A. 好奇心という引網を担いで、ところかまわず出歩きましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その441につづく!