2024年12月31日火曜日

ジェダイが暗黒面に堕ちることの意味がよくわかったこと


さて、雷光です。雷光と言ったらもちろんスーパーウルトラエキサイティングでオーセンティックかつドラスティックなフォーリンラブ煎餅、ひざつき製菓「雷光(旨塩味)」以外にありません。


ことの発端は、見たことのない煎餅をたまたまスーパーで見かけたうちの人が買って食ったことにあります。「閃光の如く旨味が走る」というマッチョでドスの効いた惹句の通り、ひと口で閃光に舌と脳髄を貫かれてしまい、それからずっと飢えた獣のように血眼でいるのです。

もちろん、また買えばいいんだからふつうは血眼になる必要はありません。ではなぜこんなことになっているかといえば、あちこち探し回ってもなかなか見つからないからです。

最初に見かけたスーパーにいそいそと買い足しに出かけて、「広告商品だったのでもうありません」と言われたときの、奈落に突き落とされたようなうちの人の絶望を想像してみてください。あわてて思いつくかぎりのスーパーを十数店駆け巡るものの、これがまたどこにも置いていないのだから、進退極まるとはこのことです。血眼から真っ赤な涙が流れるのも無理はないし、ジェダイが暗黒面に堕ちるとしたらまさにこんなときだろうと痛感せずにはいられません。

ネットでいいじゃんとお思いでしょうが、直営のオンラインショップやその他のサイトで売られているのは1セット16袋であり、気軽に買うには多すぎます。何しろひと抱えもある段ボールでドンと届くのです。煎餅くらい、もうちょっと気楽に買いたい。

というようなことをお店でお客さんに話していたら、そばにいたうちの人がバツの悪そうな顔をして言うのです。「もう注文してしまいました…」

背に腹は代えられません。ほどなくしてうちに16袋入りの段ボールが届きます。すぐに食べ切れる量でもないので、布教のためにせっせと知人にお裾分けしていきました。アグロー案内の片割れであるタケウチカズタケもその一人です。

そして僕が先月の「アグローと夜」でこの話をし、みんなでふむふむ、そんなら一度買ってみよ、と思ったらまじで生活圏のどこにも売ってない、というわけでひと月以上が経過した今もまだドタバタと探索劇が繰り広げられているのです。

おそらく、すぐに手に入るものならとうにほとぼりも冷めていたでしょう。そしてまったく売られていないならあきらめもつくのに、じつはそうとも言い切れず、あるところにはあるらしいから困るのです。そして運よく雷光を射止めた人々はやはりもれなく閃光に貫かれていることがまた、この状況と焦燥に拍車をかけています。煎餅リテラシーのほとんどない僕ですら、あれは美味しいと本当におもうし、うちの人が煎餅ソムリエと崇める古書店仲間もびっくりして太鼓判を押すくらいなので、見かけたら即買いでまず間違いありません

僕も相当の範囲であちこち駆け巡っているつもりですが、最初に見かけたとき以来、今も実店舗では巡り会えていません。ひざつき製菓の煎餅にはちょいちょい出会うようにはなりましたが、雷光はない。ついでに言うと「城壁」もない。

ちなみに栃木のメーカーなので、栃木近郊ではわりと難なく手に入るそうです。まだそこまで広く浸透しているわけではないとも言えるけど、むしろ一部のメーカーがちょっと幅を利かせすぎなんじゃないのかとおもう。

こうしてSNSや知人、うちの人の古書店ネットワークから寄せられるわずかな手がかりを元に、一縷の望みをかけてあちこち出向いては空振りを繰り返し、あと一歩で出会えそうな、パチンコで言うとあと5000円ぶっこめば出るみたいな根拠のない期待感だけが募るまま、雷光を再び手にすることなく2024年が暮れようとしています。うちにあるのはあと2袋です。とてもじゃないけど、開封できる気がしない。

したがって、今年もいろいろあった気がするけれど、一年をひと言で表せと言われたら雷光の2文字に尽きるでしょう。いったいなぜこんな報われない恋みたいなことになっているのか、つくづく無念と言うほかありません。もう以前と同じ日々には戻れない、そんな気にさえさせられます。今の僕らにできるのはただ、ひざつき製菓の公式キャラクターのはずでありながらLINEスタンプ以外ではまったく見かけない「ひざつきボーイ」のスタンプを日々連打することだけです。おちおち年も越せません。


本来であれば今年はタケウチカズタケとのアグロー案内やその実演版である「アグローと夜」を筆頭に、ドームツアー、海外進出、チャンネル登録者数100万人突破、紅白出場、M-1連覇、テイラースウィフトから直々のオファーが来たりと、そんな夢を見て目が覚めたら朝だった話の数々を、感謝とともにあることないこと振り返っていたはずですが、今となってはそれも儚い、泡沫のようにも思われます。初めからぜんぶ泡沫でなかったとも言い切れませんが、この際それは問題ではありません。


ともあれ今年もここでこうして、また来年があることを前提に(←重要)ご挨拶ができるのも、ときどき思い出しては訪れてくれるみなさまのおかげです。アグロー案内を聴いてくれてありがとう。初日と最終日を兼ねたライブに足を運んでくれてありがとう。

何より、10年もの間アウトテイクのまま留まっていた「コード四〇四/cannot be found」のこれ以上ないほど完璧な正規リリースや、当人たちですらまったく想定していなかった「紙芝居を安全に楽しむために」のライブにおける発展形は御大タケウチカズタケの存在なくして語ることができません。とりわけ「紙芝居…」はライブでなんかできるわけないと思っていたのが、今やライブでないと意味がないくらいの域に到達しつつあります。難があるとすればそれほど需要がないことですが、考えてみたら元から需要の多い立ち位置でもないので、今さら気にすることもないでしょう。「コード四〇四」だってここまで一分の隙もなく鮮やかに披露できる日が来るとは夢にも思っていなかった。

僕にまだ少しでも追う価値があるとするなら、それはひとえに彼のおかげです。去年感じたよりもまだもうちょい先がありそうだと心から思える、それだけでもまちがいなくこの1年の甲斐はあったと断言せずにはいられません。

僕が取り返しのつかない何かをやらかさないかぎり、この道はまだ続きます。どうか引き続きもう少し、よろしくお付き合いくださいませ。

今年もありがとう!そしてよいお年を!

あとうちの人を暗黒面から連れ戻すための情報もお待ちしています。

2024年12月27日金曜日

思うところあって、書き留めておきたいこと


いろいろあって、裁判の原告側にいるのです。

ややこしい話ではありません。むしろ裁判になるのが不思議なくらい、一般的にはシンプルな話です。もちろんいきなりそんな展開になったわけではなく、最初の交渉を破棄され、次に代理人を通じて通知書(これは法的な効力を有すると同時に、交渉の意志があることを伝えるための文書です)を送付し、それもスルーされてしまったので、やむなくここに至ったという次第です。

せっかくなのでいちおう書いておくと、もし法律事務所や弁護士から通知書が内容証明郵便で送られてきたら、それは相手も本気ということなので、絶対にスルーしてはいけません。ふつうに堂々と、反論したらよろしい。個人としてはもちろん、会社の場合は社会的な信用にも関わります。今回は小さな会社が相手なので、会社としてやらかしてはいかんことをここでも重ねてしまっているわけですね。

とはいえ、ことの顛末とか是非をここで問いたいわけでは全然ありません。この件を通じてあれこれと考えさせられることがあった、という話です。差し障りがあってもいけないので具体的には書きませんが、別の例に置き換えてみましょう。

クマちゃんの粗忽な振る舞いで、ウサギくんの大事なものを壊したとします。ウサギくんはせめてクマちゃんに謝ってほしかったものの、結果としてクマちゃんは責任を認めず、謝りもしませんでした。

実際の状況とはまるっきり違うんだけど、これくらいシンプルな話である、という意味では同じです。誰がどう見たってクマちゃんが100%悪い。ウサギくんにとって大事なものならなおさらです。

ではウサギくんが裁判所に駆け込んで、「クマちゃんに大事なものを壊されたんです!」と訴えたとき、裁判官は「おお、それはひどい。クマちゃん、謝りなさい」となるだろうか?

答えはNOです。

裁判官が当事者でない以上、それが事実であることを示す証拠がないかぎり、客観的な判断ができません。この時点で提示できる明確な物的証拠は「壊れた大事なもの」だけなので、これだけで「クマちゃんひどい」とは言えないのです。したがって、クマちゃんの言い分も聞く必要があります。

クマちゃんの代理人弁護士の言い分はこうです。「粗忽な振る舞いは認めます。ウサギくんの大事なものが壊れたことも認めます。ただし、粗忽な振る舞いによって大事なものが壊れた、という点は否認します。なぜなら、大事なものが壊れたのは粗忽な振る舞いが直接の原因であると立証されていないからです」

おいおいおい、ふざけんなよ、まじでふざけんなよ!!!とウサギくんは激昂するでしょう。僕だって頭にきます。

しかし裁判ではそうはなりません。なんとなれば裁判官はお互いの言い分と証拠でしか客観的な判断が下せないからです。したがってこう言うでしょう。「なるほど、確かに一理ある。ウサギくん、クマちゃんの粗忽な振る舞いが壊れた直接の原因であると主張するなら、その根拠を示してください


めちゃめちゃシンプルな話だったはずなのに、気づいたらクソめんどくさい話になっている。ですよね?しかし実際のところ、当事者ではない第三者が客観的に判断するというのはこういうことなのだ、と今の僕は心の底から痛感しています。そしてこれこそがこの話の主旨です。

ウサギくんは裁判官の指摘に対して根拠を示すことができるかもしれないし、できないかもしれません。しかしできなかった場合、クマちゃんの主張には一定の合理性が認められることになります。要するにクマちゃんが勝訴する可能性があるわけですね。

もしこれが世間の注目を浴びるようなニュースなら、「大事なものを壊されたとしてウサギくんがクマちゃんを提訴」みたいなことになるでしょう。なぜ提訴に至ったか、その詳細も記事になっているはずです。一般市民である僕らの印象としては「ひどい!クマちゃん謝るべき!」となります。

そしてクマちゃんの勝訴です。

一般市民の僕らとしては、到底納得のいく結論ではない。

ここで注意したいのは、ウサギくん敗訴=クマちゃんが正しい、という意味ではないことです。クマちゃんに明確な責任があると断定できないことと、クマちゃんが正しいことはイコールではない。でも一般市民かつ第三者である僕らとしては、この状況でウサギくん敗訴とかあり得ない、裁判官まじ頭おかしい、弾劾しろ!という気持ちになってもおかしくありません。ここにはすべての精査と法的な観点がないかぎり埋められない、めちゃめちゃ大きなギャップがある。

僕は正直、人生観がちょっと揺さぶられました。少なくとも、新聞、テレビ、SNSで伝えられる裁判の経緯と結果をそのまま鵜呑みにはできないと考えるようになっています。第三者が客観的に判断することは一般市民である僕らが思うほど単純な話ではないと言い換えてもいい。

もちろん裁判官も同じ人間なんだからやらかすことも絶対にあるはずだし実際にときどき取り返しのつかないことをやらかしてると思うけど、少なくとも僕らが目にしているのは常に海面よりも上の氷山だけだということを、改めて肝に銘じておきたいのです。伝わってるだろうか…?


ちなみに、以上のようなたいへんニュートラルな視点を踏まえた上で、いま直面している裁判の相手(被告)は、唖然とするほど人としてあり得ないタイプです。そしてもし僕が相手方の弁護士なら、明らかに不要かつ絶対にやめてほしい、自ら不利になるようなことをガンガンやらかしています。提訴後ですらやらかしていて、向こうがガッツポーズを決める可能性はゼロです。まじで何がしたいんだろう…と常識的な人なら誰でも首を傾げるレベルなので、これについてはまあ、ふつうに忘れてください。

世の中には金を払ってでも絶対に謝らない人がいる、と代理人弁護士に言われて驚いたんだけど、それを今じわじわと実感しつつあります。

要は「客観的に正しくあってほしい」「主観的な印象に沿っていてほしい」を当たり前みたいに混同してはいけないよ、という話です。みんなも気をつけてね。

2024年12月20日金曜日

いずれ消えゆく足跡も、歩みとして残るたしかな道のり


かつて頭が真っ白になる驚天動地の美白効果でコスメ界に殴りこみをかけ、今ではその界隈で知らない者はいないと言えたらよかったのにとよく言われる、名実ともに美のミスリーディングカンパニーとして成長を遂げた奇跡の化粧品メーカー「ゴルゴン」

ゴルゴンの沿革についてはこちらをご覧ください

2013年のポテンヒット商品

「美白というよりもはや漂白」と人に言わしめるほど白さにこだわり、またそれが広く世に受け入れられたことから、多くの犠牲を出しながらも振り返ることなく猪突猛進で究極の白さを追い求めた結果、いつしか企業としての理念、計画、目標までまっさらな白紙でなければ生み出す白さも説得力に欠けるという妄信に陥り、失えるものはだいたいぜんぶ失うところまで凋落する、文字どおり空白の時期があったことはあまり知られていません。

片っ端からすべてが白紙に戻ってようやく、白さのために頭どころか未来まで真っ白になっては元も子もないことに、ゴルゴンは気づきます。

しかし何もかもが無に帰したからと言って、これまでの歩みまでもが無に帰すわけではありません。踏み出しさえすれば、いつもそれが新しい一歩になります。回り道もまた、まだ見ぬ道へとつながる立派な道のひとつです。

「消えゆく足跡も、たしかな歩み。」

創業210年目にしてゴルゴンは過去の慢心と増長を受け入れ、否定はしないがなるべく見なかったことにする強靭な企業理念を新たに掲げ、伝統を守りながらも変化を恐れずに明日へと進みます。


そんなゴルゴンの決意表明として、全国紙に一面広告を出す予定が数千万かかると知って消沈し、やむなく町中の貼れそうなあちこちに無断で掲示しながらも狭量な苦情の殺到で回収を余儀なくされた渾身の広告を、若干名の方におすそわけいたします。

ご希望のかたは件名に「ゴルゴン再起の一面広告」係と入れ、

1. 氏名
2. 住所
3. わりとどうでもいい質問をひとつ

上記の3点をもれなくお書き添えの上、dr.moulegmail.com(*を@に替えてね)までメールでご応募くださいませ。

そして今年も!わりとどうでもいい質問にNG項目を設けます。「二択」は禁止です。去年はそれによって応募数が1/3くらい減ったという、考えようによっては耳寄りな事実も明記しておきましょう。

締切は12月27日(金)です。(仮に抽選となった場合でも、いただいたメールには必ず返信しています)

応募多数の場合は抽選となりますが、世に数多ある抽選の中で最も、そして異常なほど当選確率が高いことをここで堂々と請け合っておきましょう。元気を出して!という励ましのお便りも手ぐすね引いてお待ちしております。

今年もありがとうー!

2024年12月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その435


さて、#アグローと夜 というタグがすっかり #ひざつき製菓 に置き換わってきたことでもあるし、そろそろまた通常運行に戻るといたしましょう。


全自動ケンタッキーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もしハチ公が犬ではなくミミズだったら..もしくはおよそペットとは言えない動物であったら渋谷駅には謎の動物の石像がたっていたんでしょうか


渋谷駅近くには、ハチ公と同じように待ち合わせのシンボルとして親しまれる、謎というならこれ以上の謎はない石像が設置されています。ちょうど今、長く鎮座していた場所から別の場所に移設の真っ最中だったと思いますが、「モヤイ像」というやつです。

モヤイ像それ自体に謎はありません。ラパ・ヌイ(イースター島)のモアイをモチーフに、新島固有の岩石を彫刻したちょっと大きめのオブジェです。あちこちに寄贈されて日本の各地にあります。

しかしそのオリジナルであるモアイは今もって謎の塊です。モアイだけでなく、ラパ・ヌイにはかつてロンゴロンゴと呼ばれる文字が存在し、この島でしか使われなかった上に現存する資料(木片)がごくわずかしかないため、今も解読されていません。島の歴史からして謎に満ちています。

島の歴史やモアイについては科学的な見地から「たぶんこういうことだろうと思われる」という解釈である程度落ち着いてはいる印象ですが、とはいえ当時のことを書き記した記録が他に何も残されていない以上、あくまで現代の感覚で納得できる解釈でしかなく、それを踏まえてもまだ不可解なことがちょいちょい散見されるので、ピラミッドなんかと同じく、やはり人類史に刻まれた大きな謎のひとつと言ってよいでしょう。とくにモアイは数百年ものあいだ人力で継続的にせっせと拵えるにはどう考えてもデカすぎる上に多すぎるというめちゃシンプルな点からして、なるほどと頷ける説明は全然できてないとおもう。

ことほどさようにモアイが今も本質的には謎であるとしか言いようがない以上、それをモチーフにした新島のモヤイもまた、何だろなこれ程度にはやはり謎であり、したがって新島から寄贈された渋谷のモヤイもまたこの謎を当然まるっと受け継いでいます。実際、何だろなこれというほかありません。

ここでやっと、ぎゅーんと話を戻しますけれども、もし公共の場にミミズの銅像が建てられるならば、多くの人が共感するような美談や人気がその背景にあるはずです。そうでなければ銅像にはなりません。

セミをゾンビ化する驚異の真菌マッソスポラだろうと、範馬勇次郎に匹敵すると言われる地上最強の生物クマムシだろうと、それは同じです。おそらくそこには誰もが納得する理由があります。

ミミズやマッソスポラやクマムシが銅像になっていないのはまだ人の胸を打つストーリーを伴っていないからであり、いずれ涙なしには聞けないマッソスポラくんの物語が日本中に広く知れ渡らないともかぎらないのです。そうして建つ像を謎とは、やはり誰にも言えません。モヤイのほうが無限に謎です。

何より、これは強調しておかなくてはいけない気もしますが、「およそペットとは言えない生物」は地球上に存在しません。どうあれ愛情をもって日々をともに過ごすなら、それはペットであり、当人にとっては家族です。

かくいう僕も、今では糠床を愛すべき家族として受け入れています。なんとなれば糠床は、ちいさな森と言っても良いくらい、多種多様な菌の相互作用によってそれ自体が複雑な生態系を成しているからです。手入れを怠って糠床をダメにするのは森が全滅するのにも等しいことであり、同程度の糠床に復元するためには数年の歳月を要することから、僕なんかはふつうに立ち直れなくなるでしょう。何であれ対象が生物であり、かつ当事者が愛情をもって日々を共にしているかぎり、それがペットでないと否定することは誰にもできないのです。糠床の銅像まではさすがに考えたことないですけど。

以上をふまえた僕の結論としては、こうなります。


A. 建っていたでしょう。それも堂々と。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その436につづく!


2024年12月6日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「名探偵の登場/the adventure of solitary cyclist」


こればっかりはどうあっても説明しなくてはなりますまい。

名探偵山本和男が縦横無尽にやらかす冒険活劇のシーズン1は、アグロー案内VOL.5に収録された「名探偵の死/the final problem」にて、肝心の山本和男がライヘンバッハっぽい滝に足を滑らせて落ちたっぽいという、劇的なシーンで幕を閉じ、絶大な反響を呼び起こしました。

「ウソでしょ、ここでシーズン1終了!?」
「打ち切りじゃないよね!?」
「和男が死んだ!」
「寝覚め悪すぎ」
「え、次の主役、加藤?

等々、SNSでのバズりっぷりはかの有名な滅びの呪文「バルス」に匹敵するほどだったと言います。

それから1年…待ちに待ったどころかみんなしびれを切らしてちょっと忘れかけていたシーズン2のスタートが、アグロー案内VOL.7に収録の新しいテーマソング「名探偵は2度起きる/the return of you-know-who」にて発表と相成りました。

そして今回のアグロー案内VOL.8に収録された「名探偵の登場/the adventure of solitary cyclist」でいよいよ、完全に死んだと思われていた、もしくは完全に死んだと思われていることになっていた山本和男がまるで何ごともなかったかのような顔でしれっと奇跡の大復活を遂げたと、こういう流れになっております。

説明しなくてはなりますまい、というのはむしろここからです。

曲中には4人の登場人物がいます。1人目はもちろん山本和男です。「なんだあのセスナ機は?」という何者かの発言から、セスナに乗っていることがわかります。しかし「あの中肉中背のパッとしない男は」との発言からすると、全身が視認できる状態であり、セスナを操縦してるわけではない、つまり機体の外側に屹立しているようです。

2人目は、先の発言をした人物です。彼が犯人だと山本和男に看破されてひどく悔しがっていることから、どうあれ何らかの犯人であったことは間違いないように思われます。

3人目は、助手の加藤くんです。「やまもとーーー」と歓喜の声を上げているのが、彼ですね。探偵でもないのに何をしていたんだろう。

4人目は先の犯人とちがってきちんと名前がある新キャラ、山口警部です。自ら名乗ってくれているあたり好感が持てますが、事件の解決にはとくに寄与していないようなので、今後の活躍が待たれます。ちなみに彼が食っている煎餅はひざつき製菓「雷光(旨塩味)」です。


よくよく考えるとセスナを操縦しているのは誰なのかという問題もなくはないですが、これはあらかじめ自動操縦にしておいた、ということで良いでしょう。したがって山本和男がひらりと飛び降りた後、あのセスナ機は楽曲に描かれていない遠く離れたところで地面に激突して爆発、炎上しているはずです。

そもそもセスナが滑空できるほどのだだっ広いところで3人は何をしていたのか、加藤くんと山口警部を除けばあとは謎の男しかいない状況で何に行き詰まることがあるのか、セスナ機に立って颯爽と登場する山本和男のイメージ以外はほぼすべてが謎に包まれている印象ですが、事件があって犯人が判明した以上、それ以外のちまちました謎など問題ではありません。いつでもカッコいい場面とその瞬間のみに全力を注ぐ作家タケウチカズタケの真骨頂がまさしくここにあります。

それよりもむしろ、曲の最後に残された不可解な呟きのほうがはるかに重大です。何しろこの楽曲それ自体が、事件の発端であることを示唆しています。

山本和男を讃える言葉の数々が忽然と消え失せている…。これは事実です。このシリーズにおける多くの例と違ってそういうことになっているわけではなく、ここには実際に言葉がありました。実際に書いて録音した僕が言うのだから間違いありません。あったはずの声が楽曲から失われるという、他に類を見ない前代未聞の事態です。

どこの誰が何のために声を盗んだのか、そしてこれを取り戻すことができるのかどうかが、華々しく幕を開けたシーズン2を左右する、でなければ上下する重大なカギになっていると申せましょう。

ただし、山本和男がカギを見つけても拾わないばかりか気にも留めないタイプの名探偵である点には注意が必要です。何しろそういう人なので、こればっかりは僕らでも如何ともし難いところがあります。

アグロー案内シリーズ屈指のフィリーソウル感も楽曲として最高なんだけど、ともあれどんな声と言葉がそこに乗っていたのか、想像しながら聴くのもまた一興かもしれません。

あ、あとそうそう、タイトルの英語部分、 ”the adventure of solitary cyclist(孤独な自転車乗り) は、シャーロック・ホームズシリーズの一編から拝借しています。こうしてみると山本和男のことにしか思えないけど、実際にこのタイトルを冠した短編があるのです。よかったら探して読んでみてね。

2024年11月29日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」


人でない何かが決定権を持つ時代に向けて、いよいよ土壌が整ってきたなあ、と最近はよくおもうのです。人ではない何かとは、昔ならコンピュータで、今ならAI、たぶんまた新たなフェーズに移行して呼び名も変わるだろうけど、とにかく人工的な知能、もしくは少なくともそう見えるものを指しています。

今がその時代であるとはまだ全然おもいません。土壌が整ってきたと表現したのは、そのためです。ひょっとしたらまだ種すら蒔かれていないかもしれない。でも蒔けば自然と芽が出る、そんな土壌はもうできつつあるとおもう。

形あるものにしろ、形なきものにしろ、あらゆるものがネットワークで結ばれている状態がデフォルトになれば、次にくるのは端末の最適化です。アクセスする側の特性に合わせて、どんどん使い勝手が良くなっていきます。使い勝手が良くなればなるほど、それがないことを不便と感じるようになるでしょう。現時点ですでにそう感じている人も、たぶんいますよね。

膨大な情報が外からも内からも端末に蓄積されていき、それを元に今度はこちらが操作しているはずの端末側から別の選択肢を提示できるようになります。あなたはこれも好き「かも」から、あなたはこれが好きな「はず」になり、いずれ最終的には「あなたはこれが好き」と断言されるようになっても、全然おかしくない。

今というよりも、すこし先の、未来の話です。

人はみな誰でも、自分で考えて、正しく判断できると信じています。ただしその根拠は僕らが自分で感じるほど盤石ではありません。そしてそのことが人類の、高度なテクノロジー社会における致命的な弱点でもあるとおもう。本当に自分で判断しているのか、それともそう判断するように仕向けられているのか、僕らはその違いを区別することができるだろうか?

たぶんできないな、というのが僕の考えです。仕向けられている自覚がないなら、そりゃいつだって自分が自分の意志で判断しているとしか認識できないわけだから。

つまり僕ら人類は結果として、いずれ外からコントロールされるための土壌を自らせっせと耕している、とも言えるのです。

批判ではありません(←重要)。良し悪しでもなく、むしろこれは自然で不可逆な流れです。人が好ましいと感じるごくごく些細なことの積み重ねとその結果でしかない。仮に時間を100年巻き戻してもやっぱり同じ未来を迎える気がするし、そういうもんなんだろうなとおもう。進歩の副次的な作用、と言ってもいいのかもしれません。

一方で、そうした流れに抗う人は未来にもたぶんいっぱいいて、それもまたごく自然なことだと僕は考えています。希望とか絶望の話ではなくて、もっと単純に、自然な作用には自然な反作用があるはずだ、みたいなことですね。


例によって前置きが長くなってしまったけれど、「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」はそんなあれこれから生まれた作品です。

こうありたいとか、こうあるべきという強い意志では全然なくて、ただふとそんな選択をしてみる気になったこと、今までそんなこと考えもしなかったから足がすくむし、不安にもなること、でもそれはすごく自然なこと。

先の作用と反作用で言うなら、蛾の羽の「舞い上がるためにある」が作用で、「舞い降りるためにある」が反作用にあたります。

その選択が正しかったかどうかは誰にもわからないし、それを知る必要もありません。ただ彼女はそうした、というだけです。ふわりと着地して何ごともなかったようにそのまま立ち去る、その後ろ姿はなんとなく、以前よりも凛として見えます。そこに美しさがあるならそれでいいなと、僕はおもうのです。

できればその後ろ姿を、見えなくなるまで見送りたい、そんな気持ちもあって曲の余韻をたっぷりとれたらうれしいな、と考えていたところにカズタケさんの思惑もぴたりと重なって、最終的にこの曲は最初からそう意図していたように感じるほど、理想的な形に昇華されています。感無量というほかありません。

僕のイメージが「彼女の後ろ姿が見えなくなるまで」だとしたら、カズタケさん主体の Part2 はそこから視点がゆっくりと空へと移り、大気圏を突き抜けて、宇宙へと向かっていくイメージです。ソロになることでふくらむ浮遊感がとにかく良いんですよね…。とりわけ Part1 の終盤からそっと顔を出し始めるリフがもう!も〜〜〜〜!そりゃ体もプカッとなってフワフワ〜ッてなるじゃん!(語彙)

そんな浮遊感に身を委ねながら、広大無辺をふわふわ、ぷかぷか、くるくる遊泳してもらえたらとおもいます。 

2024年11月24日日曜日

ある意味でロシアンルーレットみたいな夜だったこと


慣れないライブの後はいつも力尽きて、しばらく人として使い物にならない日々が続くわけですけれども、今回は翌日本当に発熱してぶっ倒れておりました。まじかよとお思いでしょうが、僕もまったく同感です。ワンマンと言っても過言ではないライブをやっておいて毎回なぜ二の足を踏むのか、図らずも証明してしまったと申せましょう。プーン!(鼻をかむ音)

ともあれ「アグローと夜 2024」はおかげさまで今年も大団円のうちに閉幕と相成りました。今回も北は北海道から南は大分まで、全国各地プラス海外は中国からもお越しいただいて、この感謝の気持ちをどうお伝えしたらよいのか言葉もありません。ありがとうありがとうありがとう!

常に多くの機会を有するタケウチカズタケはともかく、まずそんな機会のない僕について言えば世界中に点在する全フォロワーが一堂に会する何らかの記念日であり、四葉のクローバーを見つけるよりも難しい同志の存在を実感できる千載一遇の夜です。

だからこそ、その甲斐あったと感じてもらえる夜になるよう全身全霊で努めていますけれども、とりわけ今年はいつになくその実感がありました。

何と言っても今回最大の特徴は、曲の合間にちょいちょいCMが挿入されたことです。ふつう挟まれるのはCMではなくMCのはずですが、たっぷりあるMCとはぜんぜん別に、演者自ら丹精こめて製作したCMが流れる構成だったわけですね。そしてそのクオリティたるや下手な外注を余裕で上回るレベルであったと、これも申し添えておきましょう。曲の余韻に浸る間もなく唐突に不可解なCMがぶちこまれるばかりか、次はどんなCMで、いつ流れるのかもわからない以上、ほとんどロシアンルーレットみたいなものであり、場内のアドレナリン濃度が高まるのは当然というほかありません。超たのしかったよね!

それから、僕にとってもカズタケさんにとっても想定外の変化を遂げつつあるのが、去年も披露している「紙芝居を安全に楽しむために」です。

これはもともとビートに合わせて書いたものではありません。そもそも音楽に乗せることすら想定されておらず、音楽とは関係のない仕事でプレゼンのためにデモとして録音しておいた、純然たる朗読です。それを組曲に仕立ててくれたのがカズタケさんなわけですが、朗読としての全体のリズムを維持しつつも、朗読をビートに合わせてめちゃめちゃ細かく調整してくれています。つまりビートを意識しながら朗読したような仕上がりになっているのです。単に朗読とBGMを貼り合わせた作品では、全然ない。それどころか余人には窺い知れない極めて高度な音楽的スキルがしれっと施されています。今でもアグロー案内における傑作の一つとして揺るがない所以です。

それゆえに当然、ライブでの精密な再現はほぼ不可能に近い。(というか本人含めて誰も求めていない)

と思っていたのだけれど、音源と同じである必要はないし、むしろ違うほうがライブらしくていいし、タイム感が変わっても問題なく対応できるから、テキスト読みながらでもええやん、とカズタケさんが請けあってくれたので、思いきって去年も一昨年も披露してきた次第です。

ところがこの3年で何百回も繰り返し練習しているうちに、僕のほうに意外な変化が起きました。これまでは綱渡りをするような感覚だったのが、口笛を吹きながら綱を渡るような感覚に変わってきたのです。

もうすこし具体的には、カズタケさんのビートに対してこちらから掴むイメージを持てるようになった、もしくは初めからビートがあることを前提にした朗読であったかのように、自ら寄せることができるようになってきています。

僕自身はもちろん、カズタケさんにとっても想定外、と先に書いたのはそのためです。作品としての発端を考えると、こんな着地は夢にも思っていなかった。

15分もの間、ただひたすら自己啓発セミナーの講師よろしくぺらぺらと喋っているだけのように見えながら、足場としてのリズムを要所要所で確実に踏んでいくとすれば、その醍醐味はまさにライブならではということになるでしょう。

もはやテキストの中身など問題ではありません。どのみち何も言っていないに等しいのだから、意味を聞き取る必要もない。何だかよくわからない異様な熱弁が気がつけば音楽とシンクロしている、そんな不思議な感覚を、おそらくライブではより強く味わえます。意味を追わずにぼーっと聴けば聴くほど、音楽的な側面が色濃く浮かび上がるはずです。そういう作品じゃなかったはずなんだけど。

そしてもうひとつ、「コード四〇四」が新たにラインナップに加わったことで、個人的にはピースの揃った印象があります。表現としての振り幅が大きければ大きいほど、却って他の作品が活きてくるはずとずっと思っていたので、これはうれしかった。昔は自分にとって超絶技巧だったのが、今では単なる技巧のひとつでしかないと知ることができたのも大きい。

今でこそ当たり前のようにカズタケさんのピアノひとつで「棘」「処方箋」を演っているけれど、最初はちいさなライブで即興的に試してみたらビートなしではリズムがぜんぜんとれなくてグダグダになり、赤っ恥をかいた記憶があります。それだって昔の僕には超絶技巧だったのです。

総じて、ぜんぶ丸ごと、観てもらえてよかったと思える、そして心から楽しかったと言える夜、それが「アグローと夜 2024」だったと思います。それもこれも、新たな引き出しを開けてくれた御大タケウチカズタケのおかげであり、何より今もこうしてお付き合いくださるみなさまのおかげです。もしまたこんな夜があるとしたら、絶対に心躍るひとときになると胸を張って言いたい。

心躍るひとときになることを確約できるのに、ライブそのものを確約できないのは、やると発熱して寝こむからです。こればっかりはもう、体質だからしかたありません。

とにもかくにも、またお目にかかることを心から願って!

本当にありがとうー!



2024年11月15日金曜日

空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates



どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな
夜がそこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は
電源を切った

張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
こうして彼女は
電源を切った

あるときレンガ塀に
羽を広げてくつろぐ
一羽の蛾を見た
行きも帰りも
おなじ塀におなじ姿で
鳴りをひそめて微動だにしない
明けても暮れても
変わらずそこにいて
その位置だけがときどき移ろう
こんな時期に花の蜜はあるだろうか?
彼女はその蛾をソクラテスと名づけた

彼女はその姿に哲学者を見た
煉瓦はそれぞれが問いにも見えた
気品と
威厳と
深慮と
孤独と
しなやかな強さと
儚げな脆さと
どうしたらそう泰然自若として
いられるの?
得られるの?
あるいは選べるの?
その目に映る風景を訪ねたくて
彼女は電源を切った

張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
そのひとつひとつが
ゆらめいて瞬く

消えたのは重力
残ったのは余白
寄り添うのは初めて知るやさしい孤独
こんなに余白があるなら
絵を描こうか?
お湯を沸かして
紅茶を淹れようか?
茶葉はほぐれて踊るように開く
みるみる紅く染まり取り巻く
ひと口ごとにつく息は深く
おかえりと呟く
誰にともなく

どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな夜が
そこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は電源を切った

レンガ塀の哲学者を
思い浮かべる
あの繊細な羽を
思い浮かべる
舞い上がるためにある
と見えてむしろあれは
舞い降りるためにこそ
あるんだろうと
損なうことなく
足はいずれ地につく
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ
ひと思いにと手放すつもりで
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ

空に身を投げて
ふわりと降り立つ
空に身を投げて
ふわりと降り立つ

2024年11月8日金曜日

アグロー案内 VOL.7 リリースのお知らせ

今年中にできたらいいな〜とはもちろん夢見ておりましたけれども、なにぶんいろいろとタイミングというものがあります。その点に拘泥しないことこそが、細くとも長く続ける秘訣のひとつである、と大らかに構えていたらここにきて急転直下の展開です。

シリーズも早8作目となるアグロー案内 VOL.8 が、年に一度もあるとは断言しきれない稀有な実演会アグローと夜(おかげさまでチケットは完売です!)を前に、まさかのリリース決定と相成りました。


前回のVOL.7では「告知から配信まで10日しかない」と右往左往していましたが、あれくらいはなんでもなかったと今なら申せましょう。ぶっちゃけ今回はその比ではありません。何しろ配信日は11月15日(金)です。

7日後。

そして年に一度もあるとは言えないアグローと夜7日前です。

また改めて書くつもりでいるけれど、収録される新作は、詩を書いたりそれを詠んだりしていたときよりも、すこし日がたって聴く今のほうが思い入れが深い、そんな仕上がりになっています。

制作過程のキャッチボールによって着地がここまで変わる、という意味ではシリーズ随一と言っても過言ではありません。僕がイメージしていたよりもはるかに高みに連れていってくれたというか、コップに入れた塩水をカズタケさんに預けたら海になって返ってきたようなものです。海水じゃなくて、海ですよ。嘘偽りなく、この曲は言葉を聴き終えてからが真骨頂であって、そりゃ目ん玉もスポンと転げ落ちましょう。

そしておなじみ、名探偵山本和男の新しいテーマでは、前代未聞の事件が起こります。

何しろ楽曲そのものが事件の現場になっているのです。

事件を描写しているわけではありません。曲それ自体が事件です。正直、まさかそんな着地をすることになるとは制作過程で想像もしていなかったし、当の僕らでさえ面食らっているところがあります。果たしてこれは解決するのか、しないのか、それとも新たな謎へと展開するのか、いずれにしても「そんなことある!?!?!?」という、他所ではまずお目にかからない、現実的にはほぼほぼ無理なアプローチになっているとおもうので、楽しみにしていてください。

いやーすごいわ、ほんと、いろんなことができるもんだなあ…(しみじみ)

2024年11月1日金曜日

アグローと夜2024では会場限定販売となるCDがあること


SNSでさんざんわめき散らしたのでここに明記しておくのをすっかり忘れていましたが、11月22日(金)に予定されている「アグローと夜2024」では会場限定販売となるCDがございます。去年もあったのでだいたい同じような感じかな、と思いきやさにあらず、今回はアグロー案内シリーズとしてリリースされた楽曲のインストやアカペラはもちろん、わざわざこのためだけに制作されたCMが多く収録されているのです。

CM…と侮ってはいけません。そのクオリティたるや驚異的であり、考えようによってはアグロー案内というプロジェクトの真骨頂と言っても過言ではない出来栄えです。うちの人なんかはこれだけを延々とリピートしながらずっと腹を抱えて転げ回っていた、と付け加えてもいいでしょう。

考えてもみてください。ここにいるのはミュージシャンとして第一線で活躍する男と、言葉と声を武器にする男です。何らかのCMを制作するのにこれ以上うってつけの組み合わせはありません。そしてそれは今回の会場限定販売CDで、明確に証明されています。こんなかんじのCMがあってもいいのにな、というふわっとした妄想を見事に軽々と上回る完成度で、当事者である僕らとしても爆笑を禁じ得ません。たとえば僕がこんなアイデアを別の誰かに持ちかけても、タケウチカズタケがいなければここまでのクオリティに達することはないでしょう。もちろん、その逆も然りです。聴けばわかります。そしてまったくその通りだと、完全に納得してもらえるはずです。

僕は元来ライブというのものにめちゃめちゃ及び腰な男ですが、これが販売できるなら喜んでライブをするし、むしろしたい、と本気でおもいます。そういうレベルです。

そうは言ってもなかなかイメージしづらいと思うので、収録される予定のCMとその銘柄をここに記しておきましょう。

・阿具楼本舗「浅利のしぐれ煮」
・ボスコム「アグローミルクチョコレート」
・誘拐代行はおまかせ!キッドナップサービス
・赤毛堂「ピッチピッチチャップス」
・その他数点

これらは当日も会場で流れる予定ですが、一度聴けばもう一度聴きたくなること請け合いです。

そしてそれを聴くためには、ぜひとも会場に足を運んでいただかなくてはなりません。

チケットはおかげさまで多くの方にご購入いただいています。が、まだ若干(数名…?)は購入可能だそうなので、どうかどうか、この機会をお見逃しなく…!

チケットのご購入はこちら!

2024年10月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その434


ジャバザハットたかたさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.一見幸せなようで実は不幸なんじゃないか、と思うことは何ですか。


言わんとするところはよくわかります。それはたとえば、絶世の美男/美女と結婚することと、その美しさゆえに気苦労も絶えないことがカードの表裏になっている、みたいなことですよね?みんなでワイワイと論じたらぜったい楽しいし、僕もその場にいればあーでもないこーでもないと考えるでしょう。

ただ、こうして今、僕ひとりになってみると、同じように考えることはできません。なんとなればこの問題は、「幸不幸は比較によって判断されるもの」という、こうして言葉にしてみたら絶対に誰もそれにイエスとは言わないはずの前提に立っているからです。

絶世の美男/美女と結婚した本人が幸せならそれはもう絶対に幸せであり、逆に本人が気苦労の絶えないことを不幸と言うならこれまた誰がなんと言おうと不幸と結論づけるほかありません。幸福とは徹頭徹尾、本人だけの問題です。重要なのは幸せかどうかであって、幸せに見えるかどうかではない点に注意しましょう。

実際、多くの人は幸せに見えるかどうかを幸せの基準と考えている印象があります。言ってしまえば、人が羨むかどうかです。そしてその幸せは比較によって相対的に決定されるので、ぜんぜん別の尺度を持ち出して比較した途端、不幸に転じて見えたりするわけですね。でもそれはせいぜい比較する第三者の溜飲を下げることにしかならないし、それゆえに却って羨望が日々つきまとうことになります。ですよね?

かくいう僕も、たとえば「良いものを安く買えた」といったことに喜びを感じてしまう男なので、日々反省しきりです。それはそれでまちがいなく幸せではあるんだけど、でもこの幸せはもっと安く買えたと知った途端に色褪せてしまいます。良いものであることには何ら変わりがないにもかかわらずです。こうして文字にすると本当にバカバカしくなるけど、何しろずっとバカなのでしかたがありません。

一方、うちの人なんかはむしろ「良いものを買えた」ことに喜びを見出すタイプです。そこに価格の高低はあまり関係がない。なのでそこで得た幸せはいつまでも色褪せることなく、燦然と輝いているわけですね。ああもう、ほんとにそういうことだよな、といつもおもう。

この強度のちがいがおわかりだろうか。

以上のことを総合すると、答えは自ずとこうなります。


A. 比較によって得られる幸せすべてです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その435につづく!

2024年10月11日金曜日

ゆで玉子の誤謬について考える


ああ、あのこと書き残しておけばよかったなあ、と思いながらこの世を去り、その未練が原因で成仏できず、怨霊となって下界をうろつくようになっても困るので、今のうちにゆで玉子のことを書き残しておきます。ゆで玉子を手にうろつく怨霊は想像するだけでめちゃめちゃ怖いです。そういう望ましくない未来を断ち切るためだけでも、今回の話にはたいへんな意義があると申せましょう。

僕がここである種の遺言として書き残しておきたいのは、「玉子の殻を剥きやすくする技」のことです。玉子のお尻に穴を開けたり、酢を入れて茹でたりといろいろありますが、技そのものや効果を否定したいわけではありません。率直に言えば、それ以前の問題です。そして僕がこのことに懸念を抱いているのは、それが必ずしも玉子にかぎった話ではないからです。

たとえばここに、殻が剥きやすくなる技を使って、きれいに剥けたゆで玉子があるとします。技のおかげできれいに剥けたと考えるのはごく自然な気もしますが、実はそうとはかぎりません。

なんとなればここには、技を使わなくても殻がきれいに剥けた可能性もあるからです。おわかりだろうか?

もちろん、技のおかげである可能性も同じくらいあります。それを否定したいわけではないと言ったのはそのためです。問題は、それを証明することは誰にもできない、という点です。

それを証明するためには、同じ1つの玉子で「技を使った場合」と「使わなかった場合」の両方を試す必要があります。まったく同じ条件下であっても、別々の玉子であればその時点で証明にならない点に注意しましょう。実際、同じパックの玉子でも剥きやすさが違うことは往々にしてあります。証明するなら、あくまで1つの玉子で2つのやり方を検証しなくてはいけません。

いや、無理じゃん、と思われましょう。そのとおりです。ではなぜその技が有効であると断言できるんだろうか?同じ玉子で技を使わなかった場合を検証していないし、したくてもできないのに?

玉子にかぎった話ではないと先に書きましたが、では玉子抜きで言い換えてみましょう。ここでは、本来であれば2つの結果を比較して初めて証明されるはずのことが、1つの結果のみで証明されたことになっています。

というのも、得られた結果が言ってみれば望んだとおりだったからです。誤謬に気づかない理由がここにある。

具体的すぎる別のケースに置き換えてみましょう。たとえば僕がアルバムのリリース前に全曲試聴を用意したい、と主張したとします。それに対して、全曲試聴はネタバレみたいなもので期待値を下げるし、売り上げを下げることに繋がりかねないから試聴は1、2曲にとどめたい、と反対されたとします。その意見を尤もだと受け止めた僕は、試聴を1、2曲にすることに合意します。アルバムはぶじリリースされ、なかなか好調な滑り出しを見せたとします。ここまではよろしい。問題はその後です。

この状況で、「試聴を1、2曲にとどめて正解だった」と結論づけることは可能だろうか?リリース後の好調な滑り出しは、全曲試聴をしていたらこれ以下の結果にしかならなかったと結論できる根拠になっているだろうか?

なっていません。ですよね?

これを先のゆで玉子に置き換えるなら、「技を使った場合」が「試聴を1、2曲にとどめる」で、「技を使わなかった場合」が「全曲試聴」になります。繰り返すけれど、それはどちらも、同時に検証することができません。

全曲だろうと数曲だろうと試聴が売上にさほど影響しなかった可能性もあれば、全曲試聴が思いのほか功を奏した可能性もある。しかし得られた結果が望んだとおりかそれ以上になると、検証のしようがない他の可能性に蓋をして、判断の正しかったことが証明された、と考えてしまうわけですね。

ゆで玉子くらいなら別に問題でもないけれど、この論理的誤謬が本質的にマズいのは、誤謬と気づかずに証明されたと考えてしまうことがそのまま経験値として次の判断に影響を与えることになるからです。ぶっちゃけ会社組織なんかもう、そんなんばっかなんじゃないかとおもう。

そしてこのゆで玉子の話がめちゃめちゃ教訓的なのは、件の誤謬が例外どころか、ほぼすべての人に適用される可能性を示唆しているからです。これが教訓でなくて何だろう?

そんなわけで、以前はあれこれ試してみたりもしたけれど、今の僕はゆで玉子の殻をきれいに剥くための技を使っていません。経験則としてやっているのは、茹でた直後に水で冷やすこと、あまり新しい玉子を使わないこと、の2つだけです。

うまく剥けないときもあるけど、人生だって似たようなもんですからね。

2024年10月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その433


新しい学校のレイダース/失われたアーク(聖櫃)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 夢は叶いますか?


いい質問です。

ただ僕は物心ついたときから「夢は叶う」というフレーズに対して、いくらなんでも大雑把すぎんかと疑義を抱いてきた男であり、人生の折り返し地点を過ぎた今でも、やっぱり大雑把すぎるしそれゆえにそう断言するのは無責任すぎると感じています。

たとえば遠い未来の宇宙空間で戦争があったとしましょう。これから宇宙船で出撃するパイロットは故郷に婚約者がいて、帰還したら結婚する予定です。実際のところ婚約者がいて帰還したら結婚式を挙げることが決まっている宇宙船のパイロットというのはその設定自体が死を意味するものですが、それはまあさておくとして、彼がぶじ帰還できるかどうかは誰にも断言できません。生きて帰るための努力を積み重ねて確率をいくらか上げることはできそうだけれども、それだけでは帰還できる保証になりません。なんとなれば帰還という結果を左右する要素がめちゃめちゃ多くあるからです。なんなら、ここがおれの死に場所だ!と自暴自棄になって突っ込んでいった死にたがりがどういうわけか巡り巡ってあっさり帰還してしまう可能性すらあります。ですよね?

どう考えても結果を左右する要素が本人の意志以外にも多くある以上、希望した結果になると断言することは誰だろうとできないはずです。単純化しすぎで大雑把な上に無責任と考える所以がここにあります。

もちろん、鼓舞することでそれが一種の暗示になり、プラスに働くこともあるでしょう。というか実際、プラスに働くんじゃないかと思う。ただですね、鼓舞というのは結果に影響する他の要素をすべて度外視しているというか、「君次第だ」と問題を極端に単純化してしまうので、仮にうまくいかなかった場合、その理由もまた「才能がなかった」とか「努力が足りなかった」と極端に単純化されてしまうことになります。でも、本当にそうなんだろうか?

その昔、バイト先の社員に大のサッカー好きがいました。たしか当時で26歳だったと思いますが、仕事の合間にちょっと手が空くとリフティングをしていた気がするし、ほぼすべての休日をフットサルに費やしていたばかりか、毎日ドリブルで通勤していたと聞けば、その熱の入れようがおわかりいただけましょう。ドリブルで通勤はさすがに今でもすげえなとおもう。

彼がプロになりたかったのは確かです。でもプロにはならなかった。ではなぜならなかったんだろう?努力が足りなかったんだろうか?才能がなかったんだろうか?少なくとも彼自身はそう考えていたようだったけれど、そんなわけねえだろと僕は声を大にして言いたい。夢を叶えるための条件が本人に帰するなら、それは一握りの天才にしか不可能と言っているのと結果的に同義ではないのか?

また「夢は叶う」というフレーズは、実際に叶えた人にしか言うことができない点にも注意が必要です。自分でも叶ったんだから、他の人だって叶うと考えるのはごく自然なことですが、一方でどれだけ強く望んでも叶わなかった人のほうが圧倒的に多い現実もまた厳然とあります。その現実に蓋をするなら、やはり無責任であると言わざるを得ません。

その上で僕には、誰にでも突出した何らかの才能が絶対にある、という強い確信があり、それはいいおっさんになった今でもまったく揺るぎないばかりか、ますます強固になっています。ただし、その才能が自分の望むものとはかぎりません。たとえば僕は今でも声を使って作品を作ったりデザインをしたりしているけれど、それで名を成したかといったら別に成してないので、なんなら別種の、僕自身ぜんぜん気づいていない才能が今もスヤスヤ眠っている可能性があります。たとえば皿洗いがあまり苦ではない体質が、何らかの才能の片鱗を示しているとか、そんなことはないだろうか?

なので僕にとって夢を叶えた人というのは、望んだ才能と実際の才能がうまく合致した上に、結果に影響する要素の多くがプラスに働いた、もしくはプラスに引き寄せた人です。言うまでもなく、結果に影響する要素の中には、不断の努力も含まれています。そして努力はそれ自体が汎用性の高い、万能な経験値である、とだけは断言されて然るべきでしょう。

そんな僕が、夢は叶うかどうかを問われて答えるとしたら当然こうです。


A. それは誰にもわかりません。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その434につづく!

2024年9月27日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その432


亀の甲より推しの子さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ここ最近、ぜんぜん外国語を話せないのに翻訳という行為に興味があるのですが、今まで触れた中で原文とあわせてこう訳すのか、と気になった・印象に残った翻訳の文章があれば教えていただきたいです。


文章でもなんでもないですが、こう訳すのかという点で言うと今も忘れられない最初期の経験があるのでそれをお話ししましょう。義務教育で初めて英語というものに触れた、中学生になりたてのころの話です。

そのころの中1と言えば、ローマ字は読めても英語の読み方はまったくわからない、そんなお年ごろでした。今でも覚えているのは college という単語で、生徒が授業でこれをコレゲと読んでも誰も笑わないくらい、みんな英語に対する免疫というものがなかったのです。つーかどう考えても読めるわけないだろクソ教師、と今の僕は思います。

そんなレベルなので、覚えたての「this」と「is」と「it」をつなげて「これはそれって何だよ!」とまるで笑い話のように腹を抱えたりしていました。今となっては「これはそれ」の何がそんなに可笑しかったのかもよくわかりませんが、まあ何しろ中1ですからね。

もちろん、”This is it.” におかしなことは何もありません。「きた!」「見つけた」「今こそ」みたいに最終的な判断のニュアンスで、わりと普通に使われます。マイケル・ジャクソンのドキュメンタリーにもこのフレーズをタイトルに冠していましたが、この場合はたしか「これでおしまい」みたいな意味合いだったはずなので、しいて訳せば「最終章」というようなことになるでしょう。

でも単語の読み方も覚束ないレベルでは「これはそれ」としか訳せなかった。

さて、そんな年ごろのある時、僕は街中で赤地に白い文字で描かれた「Coke is it!」というフレーズを目にします。細かな状況はぜんぜん覚えていないけれど、とにかくそれを目にして、そしてたまたま、その場に級友の兄がそばにいたのです。たしか彼はその時ふたつくらい年上で、ということはつまり中3で、しかも帰国子女だったので、僕は思わず彼に尋ねます。「ねえ、あれは日本語でどう言えばいいの?」

“This is it.” を「これはそれ」としか訳せない超初級者にとって “Coke is it!” は「コークはそれ」としか訳せません。もう、根本からしていろいろわかってないんだけど、よちよちレベルだったのでしかたがない。

それに対して級友の兄はこともなげにこう答えました。

「コーラだ!」

これがコカ・コーラ社の惹句のひとつであったことを考えると、むしろ「コーラでしょ!」くらいのニュアンスだと今では思いますが、いずれにしてもまったくその通りです。訳し方がどうとかよりも英語に対する解像度の違いにのけぞったんだと、思い返せばそんな気もしますが、このときの衝撃は忘れられません。何もわかっていないアホとしては、え、なんで?itは?とか言いたいし実際言ったと思うんだけど、「どうしてと言われてもそうとしか言ってない」と返されてしまうのだから、その驚きたるや計り知れないものがありました。ついでに言うと「コーラって書いてないのになんで?」とも訊いた気がする。

特に英語に長じているわけではない僕が翻訳についてああだこうだと言うことはもちろんできません。言えませんが、この体験は本当に得難いものだったと今でも思います。なんとなれば言語とは単語のことではないというめちゃめちゃ当たり前で自分も日本語でよく知っているはずのことを、たった一瞬のこのやりとりで直観的にわからせてくれたからです。

そのわりに英語が得意になっているかと言ったら別になっていないので、良し悪しとしてはちょっと何とも言えないですけども。


A. その昔、“Coke is it!” を「コーラだ!」と訳してもらって目からウロコが落ちました。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その433につづく!


2024年9月20日金曜日

古書店アルスクモノイ5周年記念ポスターのこと


なんの因果か旧営団地下鉄エドガー橋駅にほどちかいエリアで、かつてミス・スパンコールと呼ばれていたうちの人が古書店「アルスクモノイ」を開いたのは2019年の9月20日、それも今年と同じ金曜日でした。僕にとっても初めてのアルバムを作るきっかけとなった思い出深い1曲、「棘/tweezers」で言及している馴染み深い土地でもあり、オープン当時は実在しないのではないかと考える人もいたといいます。ムリもない。

しかし今もまちがいなく存在するアルスクモノイは今年、そして今日、おかげさまでめでたく5周年を迎えることができました。


しみじみと思い返せばいろいろあったような気もします。店の2軒隣が消防車4台、消防士20人以上で消火にあたる火事になり、「避難したほうがいいですか」と消防士さんにおそるおそる聞いたら「危なくなったら避難してください」と言われたので、数メートル隣のビルがごうごうと炎を吹き散らしているのにソワソワと店の中で待機するしかなかったとか、2日間の臨時休業を強いられる災難に見舞われたあげく訴訟に発展したとか、うちの人が20年以上推しとして崇めつづけているアーティストがちょっとした巡り合わせから常連のように店を訪れてくれるようになったとか、それこそ枚挙にいとまがありません。

お店は生きものだと諸先輩から聞かされていたとはいえ、ほんとうにまったくそのとおりだと強く頷かされる日々です。棚や商品が増えるだけでなく、お客さんの来訪が栄養としてお店を活き活きと育ててくれる、そんな実感がたしかにあります。人のいない空き家があっという間に朽ちるとはよく言われることだけれど、その意味が今は心の底からよくわかる。至近距離にいる僕としてもこんなに誇らしいことはありません。

そんなアルスクモノイが、5周年を記念してA2サイズのポスターをつくりました。


「あらゆるジャンルを越えて、遠く離れているように見える点と点を結び、その線と線が網のように広がっていく、その触媒でありたい」という、店名の由来でもあるコンセプトを図案にしています。

ご希望の方には店頭で差し上げますので、お気軽にお声がけくださいませ。

そして6年目に向かう古書店アルスクモノイを、今後ともどうぞよろしくお願いします。

(繁盛すればするほど巡り巡って僕も助かる仕組みになっているのです)(小声)

あと、20年来の親友であるイラストレーター、オノダエミ姉さん(@himatan_desyu)が上の画像に最高のイラストを描き足して祝ってくれました。姉さんありがとう!!!こっちのほうが圧倒的にいいな…。


2024年9月13日金曜日

気がつくと脛にキズのある男の話


内容的には本当にたった一言で済む話だし、わざわざ言葉を尽くすようなことでもないからそれこそ言いたきゃ川面の葉っぱのようにSNSに流してしまえばいいというか実際にそうした気もしつつ、いまだに収束する気配がないので改めて記しますけれども、脛に傷があるのです。

やましいことがある、という意味の慣用句ではありません。現実に肉体としての脛が傷を負っている、という完全に文字通りの意味です。もちろんやましいことはいろいろあります。でもそういう話ではない。

脛のどこかにちょっと傷ができるくらいで一体何をそんなに騒ぐのか、とお思いになるのも無理はありません。本人である僕自身が長いこと気にしていなかったくらいです。しかしある時また傷があることに気づいてから、どうもおかしいと印象が変わり始めました。何となれば位置は毎回すこしずつ違うけれども、ちょいちょいできるこの傷の原因を僕は今も特定できていないのです。ぶつけたとか擦ったとか、そんな記憶も一切ない。

大した傷ではありません。例外的に足の甲まで血が流れていたケースもあるけれど、基本的にはどこかにちょっとぶつけたような、どこかでちょっと擦ったような、そして大体シャワーを浴びたときに気づくような、その程度の傷です。ほっといたって別に支障はないし、早ければ数日で治ります。ただその頻度がちょっと尋常ではない。いつもとか常には言い過ぎだとしても、脛の傷なしで1ヶ月を過ごしたことはないんじゃなかろうか、と考えるくらいには多いのです。

それでいて、傷が生じる決定的瞬間を捕捉できたことはかつて一度もありません。この状況を認識してからもう何年もたつのに、いつも気づいたら傷ができています。傷ができる瞬間にちょっとでも痛みがあれば容易に原因が特定できるはずなのに、それもない。

同じ位置ではないにせよ、頻度からして傷が生じる状況はおそらく同じである、と言えそうな気はしています。たぶん毎回、同じような状況で傷を負っている。でもその状況がわからない。日ごろから注意深く観察していても、傷のできた日の行動をていねいに辿ってみても、脛に衝撃を与えるような状況にはいつも思い当たらない。視認できない小人が隙を見てバールでぽかりと殴っている、と言われたほうが現状ではよほど納得できる気がします。

僕は昔からわりとオカルトを好むたちなので、超常現象そのものは大歓迎です。でも根拠なしにそう思いこむほど純朴でもない。にもかかわらず聖痕かもと疑ってしまうくらいには、頻度が高い上に何もかもが謎すぎます。あるいは取り返しのつかない大きな病の兆候かもしれないし、それならそれでやはり後世のためにきちんと書き残しておく必要があるだろう、というのが一見どうでもよさそうな、あるいは実際にどうでもいいとしか言いようのない話をここでこうしてつらつらと書き連ねている所以です。

何よりも業腹なのは、この絶え間なく生じる傷のせいで、グラビアでヌードを披露できる美しい肉体ではなくなっていることです。年齢にしては腹も引っ込んでるし骨格だけはイケメンとして胸を張れる矜持を持っているのに、この不可解な脛の傷のせいですべてが水泡に帰しています。きれいに消えた傷もあるけれど、痕として残るものもちょいちょいあって、これらはおそらくこの先もう消えることはないでしょう。

とはいえ、傷がなければ今ごろめちゃイケてる骨格モデルとして…と夢見る年でもありません。原因がはっきりしていて、そりゃ傷にもなるわなあ、と納得できるならそれで十分です。七夕の短冊や流れ星や神仏に頼るまでもない、ごくごく控えめな願いごとじゃないですか?こうまで徹底して本人に気づかせないよう脛に傷をつくらなくてはいけない理由が一体どこにあるというのか?

ちなみに今もひとつあります。

そういや同時にふたつできたことはないな…

何なんだろうまじで 

2024年9月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その431

 


時間差トーマスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子供みたいなんですがいまだに「いつか自分が死ぬ」ことが受け入れられません。たまに考えて焦るし怖いです。自分が死ぬことをどうやって受け入れたらいいですか?


なるほど、たしかに受け入れることができたらすこしは気が楽になるかもしれないですよね。

ただ、僕としては受け入れる必要性をあまり感じません。なんとなれば最後の最後まで絶っっっ対にイヤだ!!!!と暴れまくって頑強に抵抗したとしても、死がそうした情状を酌量してくれるわけでは当然ないからです。であれば何があろうと頑なに受け入れない姿勢を貫き通すのもまた、ひとつの心のあり方である、と申せましょう。

今よりもずっとお化けが怖かったころ、ふと、なんでこんな気持ちに苛まれなくちゃいけないんだ、お化けにはお化けの理由があるのかもしれないけど、だからといって一方的に怖がらせていいわけないだろ、ちょっとでも危害を加えてみろ、こっちはこっちで絶対にゆるさんぞ!!と腹を立てたら急に気が楽になったことがありますが、それにちょっと近いものがあります。

そもそも望んでもいない未来の死に脅かされるのはお化けにちょっかいを出されるのと同じくらい理不尽なことなのだから、基本的には同じ姿勢でオーケーです。

いつか死ぬことをなぜ受け入れられないかと言えば、それはご自身の人生を絶望よりも希望が多く占めているからです。シンプルだけれど見過ごされがちなこの事実を、改めて見つめ直すのもアリという気がします。いつかくる死を受け入れられないということは、それ自体が人生におけるかけがえのない、光のひとつでもあるのです。どちらかといえば僕は、その光を持たない側にいます。何度もマッチを擦りながら、ときどき火が点いてはあっという間に消えてしまう、そんな日々もまた、この世界には厳然とあります。灯す必要のない光をすでにお持ちなら、それを大切にしなくてはいけません。

さらに、これはまあ、ここだけの話に留めておきたいところですが、実際に死なない可能性もあります。少なくとも死の可能性が限りなく100%に近いとはいえ100%では絶対にない点には留意しておく必要があるでしょう。仮にこれまで100億人近い人類が例外なく死んでいるとしても、だからといって自分もまた100%確実に死を迎えるということにはなりません。

たとえば地球における脊椎動物の中で最も長寿と言われるニシオンデンザメは今のところ最長で500年以上(!)の寿命が確認されていますが、何らかのエラーでこのサメみたいな体質をうっかり獲得してしまい、数百年から数千年、有形なり無形なりで今も生き続けている誰かがどこかにいないとは、誰も全人類の動向を把握していない以上、誰にも言えないのです。生物であればヒトであれクマムシであれ確実に寿命があっていずれ必ず死を迎える、とは言っていいと思いますが、それは自分がその例外的存在ではないという理由にはならない。ですよね?

ひょっとしたら自分がその例外中の例外かもしれない。そしてその可能性はほぼゼロではあるけど絶っっっ対にゼロではない。でも仮に死ななかったとして、それこそ本当に、心から受け入れられることだろうか?


A. 死なない可能性もゼロではありません。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その432につづく!

2024年8月30日金曜日

アグローと夜(Agloe and Night) 2024のお知らせ


そんなわけで今年も開催と相成りました。アグロー案内シリーズの実演版、「アグローと夜(Agloe and Night)2024」のお知らせです。


「アグローと夜(Agloe and Night) 2024」
11月22日(金) @恵比寿TimeOut Café & Diner

出演:小林大吾、タケウチカズタケ
Open 17:30  Start 18:30
Charge ¥3,900(入場時に1ドリンク ¥600)

プレイガイドURL

注:URLは9月2日(月) 10:00から有効になります。

TimeOut Café & Diner
東京都渋谷区東3丁目16−6 リキッドルーム 2F

詩人/ポエトリーリーディング・アーティスト/グラフィック・デザイナーである小林大吾とキーボーディスト・音楽プロデューサーのタケウチカズタケが言葉と音楽の可能性を広げ続けている作品「アグロー案内」シリーズ。その実演ライブ&トークイベント「アグローと夜」、今年は恵比寿TimeOut Café & Dinerで開催です!


また今回、チケットのご購入はプレイガイドのみとなります。事前にチケットをご購入いただいた上で、来場時にドリンクを1点ご注文いただく、という流れです。すこしお手数をおかけするようで心苦しいかぎりですが、どうかご容赦くださいませ…!!

そして3,900円という、ライブチケットにあるまじき半端な額は、すこしでもお得に感じてほしいという、スーパーの価格設定にも近い心意気の表れです。100円よりは98円のほうが、4000円より3980円のほうが心理的に軽い!にもかかわらずさらにちょぴっと低く抑える、これが心意気でなくて何でしょう。

でも!ぜひ!来てほしいので!

今年もよろしくおねがいします!(年始の挨拶)

2024年8月23日金曜日

フライと焼きそば、あるいは8月にして早くも1年を振り返ろうと試みる話の続き


今年のあれは…4月だったか5月だったか、ちょっとした野暮用があって埼玉県のあるエリアをバスで移動していたら、「フライ/焼きそば」という看板が目についたのです。

何のフライだかわからないけれども、アジフライとかかな、まあそんな店もあるだろうとあまり気に留めずにいたら、15分くらいの間にちょいちょい似たような看板を見かけてさすがにいやいや待て待てと席を立たずにはいられません。

言うまでもなく、看板自体はそれぞれまったく違います。でも看板メニューがどれもこれも判で押したように「フライ/焼きそば」とあるのです。どう考えてもこれは尋常ではない。そもそもアジフライだろうとエビフライだろうと、一般的に言ってフライを売りにする店はそう多くありません。少なくとも僕は見かけた記憶がないし、何のフライなのかを明記しない時点でだいぶ常軌を逸しています。そして焼きそばです。一軒だけならともかく何軒も、そしてさも当たり前のように掲げるフライと焼きそばの組み合わせに一体どんな関連性があるというのか、何だこの町は、とまるで異世界に迷いこんだかのような混乱を覚えたのも無理からぬことと申せましょう。

野暮用を済ませてあとは電車で帰るだけ、という段になってからGoogleマップで周辺を検索すると、びっくりするほどフライを売りにする店がヒットします。そしてどの店も、フライが何のフライであるかを明記していません。ここに至って何となく察した点は2つです。この町におけるフライとは一般に言われる揚げ物としてのフライではないかもしれないということ。そしてどうやらフライが主で焼きそばが従であるらしい、ということです。ホームズとワトソンみたいなことですね。

何しろあとは帰るだけだったので、謎を探るとしたら駅周辺しかありません。徒歩圏内でなんとなく古くからありそうな、フライを扱う店に目星をつけてまっしぐらに向かいます。この町におけるフライとは何なのかを確かめずに、このまま帰路につくことはできません。

意を決して店に入ると、齢80越え(!)と思しき老婦人がひとりで切り盛りしているようです。印象としては昭和の喫茶店に近くて、懐かしい趣を醸しています。


席についてメニューを手に取れば、どこをどう見てもフライ、というかふらい焼きと焼きそばしかありません。あ、焼くんだ…。


迷わずふらい焼きを注文して、ひたすらその時を待ちます。そして出てきたのがこれです。



食感的にはお好み焼きとチヂミの中間みたいでなぜこれをふらい焼き(フライ)と呼ぶのかわかんないけど美味え。80年代によく見かけたようなお店の雰囲気と相まって超楽しい。あんまり楽しいので焼きそばも注文してみたけれど、これはやっぱりホームズに対するワトソンよろしく、フライといえば焼きそば、というある種の定型のようです。焼きそばそれ自体にはそこまで強い印象はありません。でもおいしい。そしてふらい焼きは明らかに食べたことがないタイプのメニューです。あとまあそりゃそうかという気もするけどそれにしたってめちゃめちゃ安い。個人的にはふらい焼きの後に追加で注文した焼きそばの後さらに追加で注文したキムチふらいがとりわけ絶品だったことを付け加えておきましょう。


想定外の未体験が楽しすぎてうっかり長居したのち、帰り際に聞いたら店は今年で70周年らしく、また卒倒しかけます。

「70年!?フライってこの店が始めたんですか?」
「いやいや隣の、行田にね、先輩がいて、その人が始めたの」

つまりフライとは、揚げ物でもなんでもないけれど、行田とその周辺地域に少なくとも70年以上伝わる郷土料理だったのです。行田とフライでググればわかります(このときはあえてググらなかった)。限られたエリア以外ではまず見ないし、それでいてエリア内にはやたらとフライを扱う店があるので、どうあれこれは郷土料理と言うべきでしょう。

2024年に偶然でくわした個人的に最大の事件のひとつがこれです。

あとはもちろん、アグロー案内 VOL.7 がぶじに配信されたことですね。なんだ藪から棒にと思われるかもしれませんが、先々週から予告していたように、今年1年を振り返っているのです。

あとはこれといって特筆できそうなこともありません。今年もありがとう!どうか良いお年を!

2024年8月16日金曜日

サラブレッドとしてのきゅうりについて考える話


【お詫び】今週は8月にして早くも1年を振り返って総括するとお伝えしていましたが、急ぎかといえば全然急ぎでもないし何ならあと5ヶ月くらいは余裕があるので、急遽予定を変更してお送りします。ご了承ください。


それは先日ふと小さな、それでいてかなり根本的な疑問を抱いたことに始まります。

お盆といえば祖先の霊を祀り迎える行事であり時期ですが、ここで言うご先祖とは一体誰で、どの家に帰ることになっているのだろう?

子孫のなかった人の霊はこの時期何してんだろうな、とは昔から僕がぼんやり考えることのひとつです。囲碁でも打つとか、Vtuberの配信でスパチャに興じるとか、でもそんなん別にお盆じゃなくてもいいしな、そうするとお盆も単なるカレンダーの一部みたいな認識になるんかな、とかまあそんなかんじでいつものようにせっせと貴重な人生を浪費していたわけですね。

しかしふと、もし子や孫がいる霊の立場だったら、と考えたときに思考が停止したのです。待てよ、下界に帰省って、どこに帰りゃいいんだ?

一番わかりやすいのは、子がひとりで、つい最近に霊の仲間入りをした場合です。これはもうどう考えても、帰ると言ったら子の家に決まっています。他に寄るところもないし、疑問の余地はありません。

では子が5人いる場合はどうだろう?当然、全員に会いに行ってほしいよなと思うけど、ここで問題になるのが、いわゆる精霊馬です。きゅうりと茄子で作る、ご先祖のための乗り物ですね。

聞き知るところによればきゅうりは馬、茄子は牛を表していると言います。もちろん、早く来て、ゆっくり帰ってね、という小粋な気配りです。

しかし早く来るための馬はともかく、ゆっくり帰るための牛は、それ以外に寄るところがないことを意味しています。どう考えても、寄る家がひとつである前提です。あちこち寄るなら牛になど乗っている暇はありません。ですよね?

にもかかわらず茄子の牛がきゅうりの馬とセットで置かれるのだから、これはもう明らかに、下界で寄ることができるのはひとつの家のみという暗黙の前提があることになります。僕が5人の子をもつ霊だったら、そんなの困るとしか言いようがありません。

家制度の時代ならわかります。継がれる家はひとつしかないし、それを継ぐ人が確実にいたのだから、ご先祖が帰るとなったら当然その家で、もし兄弟姉妹がいるならそこにみんな集合する。単純明快です。僕がその時代の霊ならぜんぜん悩まない。

しかしそれはせいぜい80年くらい前までの話です。何なら祖父母の暮らしていた家がすでにないことも、今では往々にしてある。うちもそうです。その上で子が5人いるなら、じゃあ長男の家に行くか、とはなりません。なぜならそう選択するための根拠がとっくに消え失せているからです。

ではこの時代に複数の子孫を持つ霊となった僕は下界のどこへいけば良いのか?

また、ここまでは話をすごくシンプルにしていますが、家制度の存在しない現在、仮に僕が玄孫を持つ祖先でかつ霊だった場合、さらに帰省先がわからなくなります。血のつながりがある家をすべて訪れるにしてもかなりの数になるでしょう。そしてそれ以前に、そもそも迎える側が曽祖父母以前の祖先まで想定していない可能性のほうがはるかに高い。僕自身は曽祖母までは認識しているけれど、その血縁者は自分につながる分と、従姉妹につながる分しか知りません。でも間違いなくもっと大勢いるはずだし、高祖父母になると何をか言わんやです。さらにその祖先となったら父系と母系を合わせてその数はかなりのものになります。ちょっとしたフェス並みです。1、2本のきゅうりと茄子で済むわけがない。

そうなると玄関先に置かれた数本のきゅうり馬は、大量にいる祖先の霊の間で奪い合いになるでしょう。さながらビーチフラッグの様相を呈してきます。霊なんだから骨も肉もないのに文字どおり骨肉の争いです。血のつながりのある家のうち、見過ごされがちな家に目星をつけておく、といった戦略も必要になってきます。また畑を持っている家は用意するきゅうりも新鮮で質が高く、それが馬としての性能に反映されているはずです。競争率の高いきゅうり馬をあえて狙うか、萎びていても確実に奪えるきゅうり馬を狙うか、祖先としての経験が問われるに違いありません。中にはたとえば僕なんかのように、べつに牛でもいいやと茄子に乗ってそのまま旅に出てしまう祖先もいるでしょう。

さらにここで俄然意味を帯びてくるのが、お盆にすることがなかったはずの、子孫を持たない霊のみなさんです。今年は一体どの霊が最も優れたきゅうり馬を手にするのか、これはもう間違いなく賭けの対象になります。もはやお盆は子孫の有無にかかわらずすべての霊が熱狂できる一大イベントです。一斉に下界へと向かうご先祖さまたちの動きを、固唾を飲んで見守ります。盛り上げるために実況を買って出る霊がいてもおかしくありません。刻一刻と変動するオッズに片時も目が離せない、それが天上におけるお盆のありかたであってほしい

そんなことを考えながら糠漬けにしたきゅうりをポリポリ食べるのが僕のお盆です。他のどの季節よりもおいしいとおもいます。

2024年8月9日金曜日

おいしい豆大福、あるいは8月にして早くも1年を振り返ろうと試みる話


さて、2024年もいよいよ大詰めを迎えようとしています。何と言っても唯一の、そしてそれゆえに最大のニュースは、アグロー案内 VOL.7がぶじリリースされたことです。10大ニュースにしてもひとつしかないのでぶっちぎりの1位で間違いありません。これなくしてこの1年は語れないというか、語りようがないというか、右を見ても左を見てもこの話題しかない、部屋中引っかき回してみてもこの話題以外に目ぼしいものが見当たらない、そういう意味では超局所的に席巻したと言えなくもない、そんな幸せな1年であったと申せましょう。

8月上旬に年末みたいな顔でこうして1年を振り返ることには異論もあるでしょうが、もちろんそれには明確かつ相応の理由があります。というのも、この先の予定はこれといって特にないからです。

たとえば今ここに、群林堂のおいしい豆大福があります。東京3大豆大福に数えられる逸品です。これを今食べずに、ひょっとしたらもっとおいしくなるかもしれないという一縷の望みを抱いて12月に食うのは正しいことだろうか?誰がどう考えてもその日のうちにいただくのが自然であり、道理じゃないだろうか?

8月上旬に振り返ることもできた1年の総括を、空白のまま過ごした5ヶ月後に振り返るというのは、つまりそういうことです。

豆大福をつまむ暇もないくらい予定が詰まっているなら格別、そうでないなら豆大福はおいしいうちに食べるべきだし、1年の総括もまた同じ理由で早いうちにしておくべきである、とやはり言わざるを得ません。

そうでなくとも人生、いつ何が起こるかわからないのです。運よく今日まで生き延びてきたけれど、明日ポックリ逝かないともかぎらない。僕はつねづねそういう心構えで日々をどうにかこうにかしのいでいるし、何ならいわゆる終活についてもすでにちょっと考えているくらいです。

また、もし総括をしないままこの世を去ることになったら、それが未練で成仏できないかもしれません。やっぱり8月にしておけばよかったと夜な夜な電柱の影でぶつぶつ嘆き悲しんだり、鬼のような形相で通りすがりの誰かに取り憑いて今すぐ1年の総括をしろとに迫る悪霊に身を堕とす可能性もあります。逆にいま僕がそんな悪霊に取り憑かれたら、共感しすぎて泣いてしまうでしょう。

だからこそ今、そうならないうちに総括をしてしまわねばならないのです。だいたい8月と言ったらもう立派に1年の後半です。人生に置き換えたら初老みたいなものだし、そう考えると何の違和感もありません。こう言ったらアレだけど、1月とか2月に総括するより断然マシじゃないですか?

しかしなぜ8月に総括をする必要があるのかという前置きだけでだいぶスペースを割いてしまったので、本編である総括についてはまた次回にいたしましょう。

ちなみにアグロー案内のライブ版、「アグローと夜」の開催は今年もすでに決定しています。詳細は来月あたりにまた改めてお知らせすると思いますが、これはもちろん僕がそのときまで無事でいたらという前提なので、どうか無事を祈っていてください。

2024年8月2日金曜日

アグロー案内VOL.7 解説「コード四〇四/cannot be found」


さて、長らくご愛顧いただいた解説もいよいよ終着が近づいてまいりました。

最後は僕の中でもちょっと特異な位置付けにあり、御大のおかげで10年ぶりにとうとう正規リリースを果たした「コード四〇四/page cannot be found」についてです。

しかし改めて説明しなくてはなりますまい。「コード四〇四」はもともと、アルバム「小数点花手鑑」の特装版に付随していたミニアルバム、「パン屋の1ダース」に収録の1編です。あくまでオマケとしての収録だったのと、当時は限られた形でしか聴くことができなかったので、正規という位置付けにはなっていません。ある時点でYouTubeに公開したので今では誰でも聴くことができますが、言ってみればこれは放流みたいなことであって、リリースではなかった。

ぶっちゃけ大差ないと言えばないんだけど、少なくとも今回は僕自身が「リリースするぞ!」と意気込んでいたし、本人がそう言ってるんだからそうじゃなかったら何なんだ、ということで正真正銘、これが初めてのリリースとなります。

しかしまあ本当にしみじみと、その甲斐がありました。何と言ってもカズタケさんのビートはオリジナルよりも情感をたっぷり含んでいて、聴き返すたびに鳥肌が立ちます。何ならちょっといい話に聞こえるくらいです。まさかあの内容でグッと込み上げる着地があるなんて、夢にも思っていなかった。唖然とするほど細かなミックスも含めて、タケウチカズタケの今をすべて注ぎこんでくれています。

仮に10年前にこのビートがあっても、太刀打ちはできません。キングコングの上にチワワが乗るようなものです。一体どこにチワワがいるのか、みんな必死に探すことになるでしょう。今だからこそ可能になった作品だとすれば、10年寝かせただけの意味はあったとおもいます。


冒頭で僕にとって特異な位置付けであると書きましたが、それはこの一編が、どちらかといえば読むよりも喋ることに重心を置いているからです。

もともと僕がじぶんのスタイルをラップではないと明言している理由のひとつ(あくまで例としてのひとつです)に、発語の弾性があります。

ラップが多種多様に発展してきたことを考えると今ではあまりそう言い切れない気もするけれど、オーソドックスなラップにはほぼこの弾性があります。歌とは異なる形でリズムに同調して、言葉を伸び縮みさせていく、というようなことですね。だから当然、アカペラで聴いても会話や朗読にはない別種の聴感がある。

翻って、リーディングにはそれがほとんどありません。あってもすごく薄いし、何ならふつうの朗読として違和感がないケースもある。

そして僕自身は、会話や朗読と同等の聴感であってもぴたりとリズムに寄り添うことはできるし、一定に保つこともできると昔から考えていて、そこにこのスタイルのおもしろさを感じているのです。僕の作品に、リズムを無視したものはひとつもありません。

じつは「コード四〇四」にも明確な弾性が1箇所あります。フックの「型どおりコード四〇四、ことごとくこうだと目も回る」ことっごとくと発音していますが、この促音がつまり弾性です。普通に読んだらそんな促音いらないですからね。


「コード四〇四」は通常のリーディングでもほとんどないこの弾性をさらに削って、ふつうに喋るとか話す形でリズムと完璧に噛み合ってたらおもしろいのにな、と考えたことから生まれています。日本酒で言うところの精米歩合みたいなもんですね。

でも当時は、というのはつまり10年前ですが、やってみたらすごく難しかった。難しい理由はいろいろあるんだけど、まず単純に言葉が多いので、息が続かなかったのです。実際、オリジナルはヴァースとフックを分けて録音しています。とてもじゃないけど、ライブでできるものではなかった。正規リリースにしなかった理由のひとつがこれです。いくらライブをしないとはいえ、アルバムの収録曲となったらどこかのタイミングで必ずやらざるを得なくなります。お蔵入りもむべなるかなというものです。

そして今だからこそわかります。息が続かないのは、1を吸って1を吐くという単純な呼吸しかしていないからです。そのやり方では当然、常にどこかで「1を吸うための間」が必要になるし、言葉がみっちりと詰まっている場合、そんな隙間はどこにもない。詰むのが自然です。むしろ1ヴァースだけでもよくやったと言わねばなりますまい。

でも今は1吸うことを考えていません。そのときに必要な分だけを吸って吐いています。1を吸うための間はなくても、1/2とか1/4ならちょいちょいある。そうなるとヴァースとフックを分けることなく、最初から最後までワンテイクで録れるわけですね。先達がいれば教えを乞うこともできたかもしれないけど、誰もいないのでそれができると知るまでにすごく時間がかかってしまった。

ここがクリアできると、やり切ること自体には何の不安もなくなります。それはつまり、それ以外の部分に意識が割けるということです。喋る以上は情感をこめるとか、自ら設定したデリバリーにおけるフェイントその他のポイントを踏み外さないとか、そういう部分に対して、正面から安心して向き合えることになります。

フックはむしろ小休止ですと言ったらカズタケさんがのけぞっていたけれど、ここは立ち止まったり加速したりといったトラップ要素がないので、ブレスコントロールさえできれば問題ないどころかボーナスステージみたいなもんだし、気楽でうれしい。

なので最大の難関は、必要な情感を込められているか、すべての小さなデリバリートラップをクリアできているかの2点です。そして実際に、できていると思います。ここには確かに、リーディング、もしくはスポークンワーズとしての強度がある。今も日毎に進化をつづけるタケウチカズタケに一歩も引けを取らない、そんな作品に仕上がっていると、断言できます。スタイルを真似るどころか、まるっとコピーするのもおいそれとはできない、ささやかな金字塔のひとつです。初めて触れるならこれをと思える、僕にとっては名刺代わりの作品になりました。

アグロー案内なしにはどうあっても辿り着けなかったことを考えると、本当に頭が上がりません。カズタケさんありがとう…!

あ、プルクワパ霊苑にテキスト置いてあります。



2024年7月26日金曜日

アグロー案内VOL.7 解説「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」


ある昼行灯の問題/still on the table」と「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」のテキストをプルクワパ霊苑に埋葬してあります。よかったら読んでみてください。


僕は昔から「それ以外の選択肢」に心を寄せる傾向があります。それ以外というのはつまり、多くの人が選ぶわけではないし目立たないけれども、確かにあって手を伸ばすことができる選択肢のことです。

どちらかといえば僕自身が「それ以外の選択肢」に属している自覚もあって、それを選択することはそのまま自分自身を肯定することにつながっているのかもしれません。

思えばリーディングというスタイルからしてそうだったし、それによって生まれたアルバム群もまた当然そこに連なります。

また、アルバムとしてだけでなく、収録された作品にも「それ以外の選択肢」はあるわけだから、これはもうある種のフラクタルと言っていいでしょう。

フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」は、おそらく「紙芝居を安全に楽しむために /you may be the last to carry on」と並んでその極北、でなければ辺縁ギリギリに位置する一編です。何を言ってるのかわからないかもしれないけど、これ以上の「それ以外」にはなかなかお目にかかれないんじゃないかとおもう。深海魚みたいですね。

タケウチカズタケの才能をこんな得体の知れない深海魚の調理に浪費させてしまっていいのかという後ろめたさや自責の念はもちろんあります。もちろんあるけど、アグロー案内なので仕方がありません。びっくりするほど美味しいスペシャリテに仕上げてもらった以上、僕としては次の深海魚を狩るべくしれっとまた海に潜るだけです。

テキストはもともと、朗読の練習のために書いた記憶があります。ただ、なぜパイナップルなのかは全然おぼえていない。最初はむしろフィボナッチに焦点を当てていたような気もするから、たぶん書いているうちにピントがずれていったんじゃないかと思う。出口に辿り着ける迷宮よりも、一向に辿り着かない迷宮で快適に過ごそうとする性分なので、これも仕方がありません。

この性分はまた、わかることよりもわからないことのほうに重きを置いている、と言い換えることができます。わからないほうがいい、ではなく、わからなくてもいいに近いニュアンスです。

何であれ大切なのは考えつづけることであって、答えではない、と僕はつねづね胸に刻んでいるところがあります。イージーな答えはそこで思考が止まってしまうという点で、いつも危うい。わからないものは無理にわかろうとせずに、わからないまま置いておけばいい。必要ならまた考えるときが来る。

そうした向き合い方を知るひとつの端緒として、最初から最後まで何ひとつわからないゴリッとした異物がさも意味ありげに存在していることはそれだけでたしかな意味があると、僕は思うのです。それこそモノリスのように。