2024年10月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その434


ジャバザハットたかたさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.一見幸せなようで実は不幸なんじゃないか、と思うことは何ですか。


言わんとするところはよくわかります。それはたとえば、絶世の美男/美女と結婚することと、その美しさゆえに気苦労も絶えないことがカードの表裏になっている、みたいなことですよね?みんなでワイワイと論じたらぜったい楽しいし、僕もその場にいればあーでもないこーでもないと考えるでしょう。

ただ、こうして今、僕ひとりになってみると、同じように考えることはできません。なんとなればこの問題は、「幸不幸は比較によって判断されるもの」という、こうして言葉にしてみたら絶対に誰もそれにイエスとは言わないはずの前提に立っているからです。

絶世の美男/美女と結婚した本人が幸せならそれはもう絶対に幸せであり、逆に本人が気苦労の絶えないことを不幸と言うならこれまた誰がなんと言おうと不幸と結論づけるほかありません。幸福とは徹頭徹尾、本人だけの問題です。重要なのは幸せかどうかであって、幸せに見えるかどうかではない点に注意しましょう。

実際、多くの人は幸せに見えるかどうかを幸せの基準と考えている印象があります。言ってしまえば、人が羨むかどうかです。そしてその幸せは比較によって相対的に決定されるので、ぜんぜん別の尺度を持ち出して比較した途端、不幸に転じて見えたりするわけですね。でもそれはせいぜい比較する第三者の溜飲を下げることにしかならないし、それゆえに却って羨望が日々つきまとうことになります。ですよね?

かくいう僕も、たとえば「良いものを安く買えた」といったことに喜びを感じてしまう男なので、日々反省しきりです。それはそれでまちがいなく幸せではあるんだけど、でもこの幸せはもっと安く買えたと知った途端に色褪せてしまいます。良いものであることには何ら変わりがないにもかかわらずです。こうして文字にすると本当にバカバカしくなるけど、何しろずっとバカなのでしかたがありません。

一方、うちの人なんかはむしろ「良いものを買えた」ことに喜びを見出すタイプです。そこに価格の高低はあまり関係がない。なのでそこで得た幸せはいつまでも色褪せることなく、燦然と輝いているわけですね。ああもう、ほんとにそういうことだよな、といつもおもう。

この強度のちがいがおわかりだろうか。

以上のことを総合すると、答えは自ずとこうなります。


A. 比較によって得られる幸せすべてです。




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その435につづく!

2024年10月11日金曜日

ゆで玉子の誤謬について考える


ああ、あのこと書き残しておけばよかったなあ、と思いながらこの世を去り、その未練が原因で成仏できず、怨霊となって下界をうろつくようになっても困るので、今のうちにゆで玉子のことを書き残しておきます。ゆで玉子を手にうろつく怨霊は想像するだけでめちゃめちゃ怖いです。そういう望ましくない未来を断ち切るためだけでも、今回の話にはたいへんな意義があると申せましょう。

僕がここである種の遺言として書き残しておきたいのは、「玉子の殻を剥きやすくする技」のことです。玉子のお尻に穴を開けたり、酢を入れて茹でたりといろいろありますが、技そのものや効果を否定したいわけではありません。率直に言えば、それ以前の問題です。そして僕がこのことに懸念を抱いているのは、それが必ずしも玉子にかぎった話ではないからです。

たとえばここに、殻が剥きやすくなる技を使って、きれいに剥けたゆで玉子があるとします。技のおかげできれいに剥けたと考えるのはごく自然な気もしますが、実はそうとはかぎりません。

なんとなればここには、技を使わなくても殻がきれいに剥けた可能性もあるからです。おわかりだろうか?

もちろん、技のおかげである可能性も同じくらいあります。それを否定したいわけではないと言ったのはそのためです。問題は、それを証明することは誰にもできない、という点です。

それを証明するためには、同じ1つの玉子で「技を使った場合」と「使わなかった場合」の両方を試す必要があります。まったく同じ条件下であっても、別々の玉子であればその時点で証明にならない点に注意しましょう。実際、同じパックの玉子でも剥きやすさが違うことは往々にしてあります。証明するなら、あくまで1つの玉子で2つのやり方を検証しなくてはいけません。

いや、無理じゃん、と思われましょう。そのとおりです。ではなぜその技が有効であると断言できるんだろうか?同じ玉子で技を使わなかった場合を検証していないし、したくてもできないのに?

玉子にかぎった話ではないと先に書きましたが、では玉子抜きで言い換えてみましょう。ここでは、本来であれば2つの結果を比較して初めて証明されるはずのことが、1つの結果のみで証明されたことになっています。

というのも、得られた結果が言ってみれば望んだとおりだったからです。誤謬に気づかない理由がここにある。

具体的すぎる別のケースに置き換えてみましょう。たとえば僕がアルバムのリリース前に全曲試聴を用意したい、と主張したとします。それに対して、全曲試聴はネタバレみたいなもので期待値を下げるし、売り上げを下げることに繋がりかねないから試聴は1、2曲にとどめたい、と反対されたとします。その意見を尤もだと受け止めた僕は、試聴を1、2曲にすることに合意します。アルバムはぶじリリースされ、なかなか好調な滑り出しを見せたとします。ここまではよろしい。問題はその後です。

この状況で、「試聴を1、2曲にとどめて正解だった」と結論づけることは可能だろうか?リリース後の好調な滑り出しは、全曲試聴をしていたらこれ以下の結果にしかならなかったと結論できる根拠になっているだろうか?

なっていません。ですよね?

これを先のゆで玉子に置き換えるなら、「技を使った場合」が「試聴を1、2曲にとどめる」で、「技を使わなかった場合」が「全曲試聴」になります。繰り返すけれど、それはどちらも、同時に検証することができません。

全曲だろうと数曲だろうと試聴が売上にさほど影響しなかった可能性もあれば、全曲試聴が思いのほか功を奏した可能性もある。しかし得られた結果が望んだとおりかそれ以上になると、検証のしようがない他の可能性に蓋をして、判断の正しかったことが証明された、と考えてしまうわけですね。

ゆで玉子くらいなら別に問題でもないけれど、この論理的誤謬が本質的にマズいのは、誤謬と気づかずに証明されたと考えてしまうことがそのまま経験値として次の判断に影響を与えることになるからです。ぶっちゃけ会社組織なんかもう、そんなんばっかなんじゃないかとおもう。

そしてこのゆで玉子の話がめちゃめちゃ教訓的なのは、件の誤謬が例外どころか、ほぼすべての人に適用される可能性を示唆しているからです。これが教訓でなくて何だろう?

そんなわけで、以前はあれこれ試してみたりもしたけれど、今の僕はゆで玉子の殻をきれいに剥くための技を使っていません。経験則としてやっているのは、茹でた直後に水で冷やすこと、あまり新しい玉子を使わないこと、の2つだけです。

うまく剥けないときもあるけど、人生だって似たようなもんですからね。

2024年10月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その433


新しい学校のレイダース/失われたアーク(聖櫃)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 夢は叶いますか?


いい質問です。

ただ僕は物心ついたときから「夢は叶う」というフレーズに対して、いくらなんでも大雑把すぎんかと疑義を抱いてきた男であり、人生の折り返し地点を過ぎた今でも、やっぱり大雑把すぎるしそれゆえにそう断言するのは無責任すぎると感じています。

たとえば遠い未来の宇宙空間で戦争があったとしましょう。これから宇宙船で出撃するパイロットは故郷に婚約者がいて、帰還したら結婚する予定です。実際のところ婚約者がいて帰還したら結婚式を挙げることが決まっている宇宙船のパイロットというのはその設定自体が死を意味するものですが、それはまあさておくとして、彼がぶじ帰還できるかどうかは誰にも断言できません。生きて帰るための努力を積み重ねて確率をいくらか上げることはできそうだけれども、それだけでは帰還できる保証になりません。なんとなれば帰還という結果を左右する要素がめちゃめちゃ多くあるからです。なんなら、ここがおれの死に場所だ!と自暴自棄になって突っ込んでいった死にたがりがどういうわけか巡り巡ってあっさり帰還してしまう可能性すらあります。ですよね?

どう考えても結果を左右する要素が本人の意志以外にも多くある以上、希望した結果になると断言することは誰だろうとできないはずです。単純化しすぎで大雑把な上に無責任と考える所以がここにあります。

もちろん、鼓舞することでそれが一種の暗示になり、プラスに働くこともあるでしょう。というか実際、プラスに働くんじゃないかと思う。ただですね、鼓舞というのは結果に影響する他の要素をすべて度外視しているというか、「君次第だ」と問題を極端に単純化してしまうので、仮にうまくいかなかった場合、その理由もまた「才能がなかった」とか「努力が足りなかった」と極端に単純化されてしまうことになります。でも、本当にそうなんだろうか?

その昔、バイト先の社員に大のサッカー好きがいました。たしか当時で26歳だったと思いますが、仕事の合間にちょっと手が空くとリフティングをしていた気がするし、ほぼすべての休日をフットサルに費やしていたばかりか、毎日ドリブルで通勤していたと聞けば、その熱の入れようがおわかりいただけましょう。ドリブルで通勤はさすがに今でもすげえなとおもう。

彼がプロになりたかったのは確かです。でもプロにはならなかった。ではなぜならなかったんだろう?努力が足りなかったんだろうか?才能がなかったんだろうか?少なくとも彼自身はそう考えていたようだったけれど、そんなわけねえだろと僕は声を大にして言いたい。夢を叶えるための条件が本人に帰するなら、それは一握りの天才にしか不可能と言っているのと結果的に同義ではないのか?

また「夢は叶う」というフレーズは、実際に叶えた人にしか言うことができない点にも注意が必要です。自分でも叶ったんだから、他の人だって叶うと考えるのはごく自然なことですが、一方でどれだけ強く望んでも叶わなかった人のほうが圧倒的に多い現実もまた厳然とあります。その現実に蓋をするなら、やはり無責任であると言わざるを得ません。

その上で僕には、誰にでも突出した何らかの才能が絶対にある、という強い確信があり、それはいいおっさんになった今でもまったく揺るぎないばかりか、ますます強固になっています。ただし、その才能が自分の望むものとはかぎりません。たとえば僕は今でも声を使って作品を作ったりデザインをしたりしているけれど、それで名を成したかといったら別に成してないので、なんなら別種の、僕自身ぜんぜん気づいていない才能が今もスヤスヤ眠っている可能性があります。たとえば皿洗いがあまり苦ではない体質が、何らかの才能の片鱗を示しているとか、そんなことはないだろうか?

なので僕にとって夢を叶えた人というのは、望んだ才能と実際の才能がうまく合致した上に、結果に影響する要素の多くがプラスに働いた、もしくはプラスに引き寄せた人です。言うまでもなく、結果に影響する要素の中には、不断の努力も含まれています。そして努力はそれ自体が汎用性の高い、万能な経験値である、とだけは断言されて然るべきでしょう。

そんな僕が、夢は叶うかどうかを問われて答えるとしたら当然こうです。


A. それは誰にもわかりません。




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その434につづく!

2024年9月27日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その432


亀の甲より推しの子さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ここ最近、ぜんぜん外国語を話せないのに翻訳という行為に興味があるのですが、今まで触れた中で原文とあわせてこう訳すのか、と気になった・印象に残った翻訳の文章があれば教えていただきたいです。


文章でもなんでもないですが、こう訳すのかという点で言うと今も忘れられない最初期の経験があるのでそれをお話ししましょう。義務教育で初めて英語というものに触れた、中学生になりたてのころの話です。

そのころの中1と言えば、ローマ字は読めても英語の読み方はまったくわからない、そんなお年ごろでした。今でも覚えているのは college という単語で、生徒が授業でこれをコレゲと読んでも誰も笑わないくらい、みんな英語に対する免疫というものがなかったのです。つーかどう考えても読めるわけないだろクソ教師、と今の僕は思います。

そんなレベルなので、覚えたての「this」と「is」と「it」をつなげて「これはそれって何だよ!」とまるで笑い話のように腹を抱えたりしていました。今となっては「これはそれ」の何がそんなに可笑しかったのかもよくわかりませんが、まあ何しろ中1ですからね。

もちろん、”This is it.” におかしなことは何もありません。「きた!」「見つけた」「今こそ」みたいに最終的な判断のニュアンスで、わりと普通に使われます。マイケル・ジャクソンのドキュメンタリーにもこのフレーズをタイトルに冠していましたが、この場合はたしか「これでおしまい」みたいな意味合いだったはずなので、しいて訳せば「最終章」というようなことになるでしょう。

でも単語の読み方も覚束ないレベルでは「これはそれ」としか訳せなかった。

さて、そんな年ごろのある時、僕は街中で赤地に白い文字で描かれた「Coke is it!」というフレーズを目にします。細かな状況はぜんぜん覚えていないけれど、とにかくそれを目にして、そしてたまたま、その場に級友の兄がそばにいたのです。たしか彼はその時ふたつくらい年上で、ということはつまり中3で、しかも帰国子女だったので、僕は思わず彼に尋ねます。「ねえ、あれは日本語でどう言えばいいの?」

“This is it.” を「これはそれ」としか訳せない超初級者にとって “Coke is it!” は「コークはそれ」としか訳せません。もう、根本からしていろいろわかってないんだけど、よちよちレベルだったのでしかたがない。

それに対して級友の兄はこともなげにこう答えました。

「コーラだ!」

これがコカ・コーラ社の惹句のひとつであったことを考えると、むしろ「コーラでしょ!」くらいのニュアンスだと今では思いますが、いずれにしてもまったくその通りです。訳し方がどうとかよりも英語に対する解像度の違いにのけぞったんだと、思い返せばそんな気もしますが、このときの衝撃は忘れられません。何もわかっていないアホとしては、え、なんで?itは?とか言いたいし実際言ったと思うんだけど、「どうしてと言われてもそうとしか言ってない」と返されてしまうのだから、その驚きたるや計り知れないものがありました。ついでに言うと「コーラって書いてないのになんで?」とも訊いた気がする。

特に英語に長じているわけではない僕が翻訳についてああだこうだと言うことはもちろんできません。言えませんが、この体験は本当に得難いものだったと今でも思います。なんとなれば言語とは単語のことではないというめちゃめちゃ当たり前で自分も日本語でよく知っているはずのことを、たった一瞬のこのやりとりで直観的にわからせてくれたからです。

そのわりに英語が得意になっているかと言ったら別になっていないので、良し悪しとしてはちょっと何とも言えないですけども。


A. その昔、“Coke is it!” を「コーラだ!」と訳してもらって目からウロコが落ちました。




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その433につづく!


2024年9月20日金曜日

古書店アルスクモノイ5周年記念ポスターのこと


なんの因果か旧営団地下鉄エドガー橋駅にほどちかいエリアで、かつてミス・スパンコールと呼ばれていたうちの人が古書店「アルスクモノイ」を開いたのは2019年の9月20日、それも今年と同じ金曜日でした。僕にとっても初めてのアルバムを作るきっかけとなった思い出深い1曲、「棘/tweezers」で言及している馴染み深い土地でもあり、オープン当時は実在しないのではないかと考える人もいたといいます。ムリもない。

しかし今もまちがいなく存在するアルスクモノイは今年、そして今日、おかげさまでめでたく5周年を迎えることができました。


しみじみと思い返せばいろいろあったような気もします。店の2軒隣が消防車4台、消防士20人以上で消火にあたる火事になり、「避難したほうがいいですか」と消防士さんにおそるおそる聞いたら「危なくなったら避難してください」と言われたので、数メートル隣のビルがごうごうと炎を吹き散らしているのにソワソワと店の中で待機するしかなかったとか、2日間の臨時休業を強いられる災難に見舞われたあげく訴訟に発展したとか、うちの人が20年以上推しとして崇めつづけているアーティストがちょっとした巡り合わせから常連のように店を訪れてくれるようになったとか、それこそ枚挙にいとまがありません。

お店は生きものだと諸先輩から聞かされていたとはいえ、ほんとうにまったくそのとおりだと強く頷かされる日々です。棚や商品が増えるだけでなく、お客さんの来訪が栄養としてお店を活き活きと育ててくれる、そんな実感がたしかにあります。人のいない空き家があっという間に朽ちるとはよく言われることだけれど、その意味が今は心の底からよくわかる。至近距離にいる僕としてもこんなに誇らしいことはありません。

そんなアルスクモノイが、5周年を記念してA2サイズのポスターをつくりました。


「あらゆるジャンルを越えて、遠く離れているように見える点と点を結び、その線と線が網のように広がっていく、その触媒でありたい」という、店名の由来でもあるコンセプトを図案にしています。

ご希望の方には店頭で差し上げますので、お気軽にお声がけくださいませ。

そして6年目に向かう古書店アルスクモノイを、今後ともどうぞよろしくお願いします。

(繁盛すればするほど巡り巡って僕も助かる仕組みになっているのです)(小声)

あと、20年来の親友であるイラストレーター、オノダエミ姉さん(@himatan_desyu)が上の画像に最高のイラストを描き足して祝ってくれました。姉さんありがとう!!!こっちのほうが圧倒的にいいな…。


2024年9月13日金曜日

気がつくと脛にキズのある男の話


内容的には本当にたった一言で済む話だし、わざわざ言葉を尽くすようなことでもないからそれこそ言いたきゃ川面の葉っぱのようにSNSに流してしまえばいいというか実際にそうした気もしつつ、いまだに収束する気配がないので改めて記しますけれども、脛に傷があるのです。

やましいことがある、という意味の慣用句ではありません。現実に肉体としての脛が傷を負っている、という完全に文字通りの意味です。もちろんやましいことはいろいろあります。でもそういう話ではない。

脛のどこかにちょっと傷ができるくらいで一体何をそんなに騒ぐのか、とお思いになるのも無理はありません。本人である僕自身が長いこと気にしていなかったくらいです。しかしある時また傷があることに気づいてから、どうもおかしいと印象が変わり始めました。何となれば位置は毎回すこしずつ違うけれども、ちょいちょいできるこの傷の原因を僕は今も特定できていないのです。ぶつけたとか擦ったとか、そんな記憶も一切ない。

大した傷ではありません。例外的に足の甲まで血が流れていたケースもあるけれど、基本的にはどこかにちょっとぶつけたような、どこかでちょっと擦ったような、そして大体シャワーを浴びたときに気づくような、その程度の傷です。ほっといたって別に支障はないし、早ければ数日で治ります。ただその頻度がちょっと尋常ではない。いつもとか常には言い過ぎだとしても、脛の傷なしで1ヶ月を過ごしたことはないんじゃなかろうか、と考えるくらいには多いのです。

それでいて、傷が生じる決定的瞬間を捕捉できたことはかつて一度もありません。この状況を認識してからもう何年もたつのに、いつも気づいたら傷ができています。傷ができる瞬間にちょっとでも痛みがあれば容易に原因が特定できるはずなのに、それもない。

同じ位置ではないにせよ、頻度からして傷が生じる状況はおそらく同じである、と言えそうな気はしています。たぶん毎回、同じような状況で傷を負っている。でもその状況がわからない。日ごろから注意深く観察していても、傷のできた日の行動をていねいに辿ってみても、脛に衝撃を与えるような状況にはいつも思い当たらない。視認できない小人が隙を見てバールでぽかりと殴っている、と言われたほうが現状ではよほど納得できる気がします。

僕は昔からわりとオカルトを好むたちなので、超常現象そのものは大歓迎です。でも根拠なしにそう思いこむほど純朴でもない。にもかかわらず聖痕かもと疑ってしまうくらいには、頻度が高い上に何もかもが謎すぎます。あるいは取り返しのつかない大きな病の兆候かもしれないし、それならそれでやはり後世のためにきちんと書き残しておく必要があるだろう、というのが一見どうでもよさそうな、あるいは実際にどうでもいいとしか言いようのない話をここでこうしてつらつらと書き連ねている所以です。

何よりも業腹なのは、この絶え間なく生じる傷のせいで、グラビアでヌードを披露できる美しい肉体ではなくなっていることです。年齢にしては腹も引っ込んでるし骨格だけはイケメンとして胸を張れる矜持を持っているのに、この不可解な脛の傷のせいですべてが水泡に帰しています。きれいに消えた傷もあるけれど、痕として残るものもちょいちょいあって、これらはおそらくこの先もう消えることはないでしょう。

とはいえ、傷がなければ今ごろめちゃイケてる骨格モデルとして…と夢見る年でもありません。原因がはっきりしていて、そりゃ傷にもなるわなあ、と納得できるならそれで十分です。七夕の短冊や流れ星や神仏に頼るまでもない、ごくごく控えめな願いごとじゃないですか?こうまで徹底して本人に気づかせないよう脛に傷をつくらなくてはいけない理由が一体どこにあるというのか?

ちなみに今もひとつあります。

そういや同時にふたつできたことはないな…

何なんだろうまじで 

2024年9月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その431

 


時間差トーマスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子供みたいなんですがいまだに「いつか自分が死ぬ」ことが受け入れられません。たまに考えて焦るし怖いです。自分が死ぬことをどうやって受け入れたらいいですか?


なるほど、たしかに受け入れることができたらすこしは気が楽になるかもしれないですよね。

ただ、僕としては受け入れる必要性をあまり感じません。なんとなれば最後の最後まで絶っっっ対にイヤだ!!!!と暴れまくって頑強に抵抗したとしても、死がそうした情状を酌量してくれるわけでは当然ないからです。であれば何があろうと頑なに受け入れない姿勢を貫き通すのもまた、ひとつの心のあり方である、と申せましょう。

今よりもずっとお化けが怖かったころ、ふと、なんでこんな気持ちに苛まれなくちゃいけないんだ、お化けにはお化けの理由があるのかもしれないけど、だからといって一方的に怖がらせていいわけないだろ、ちょっとでも危害を加えてみろ、こっちはこっちで絶対にゆるさんぞ!!と腹を立てたら急に気が楽になったことがありますが、それにちょっと近いものがあります。

そもそも望んでもいない未来の死に脅かされるのはお化けにちょっかいを出されるのと同じくらい理不尽なことなのだから、基本的には同じ姿勢でオーケーです。

いつか死ぬことをなぜ受け入れられないかと言えば、それはご自身の人生を絶望よりも希望が多く占めているからです。シンプルだけれど見過ごされがちなこの事実を、改めて見つめ直すのもアリという気がします。いつかくる死を受け入れられないということは、それ自体が人生におけるかけがえのない、光のひとつでもあるのです。どちらかといえば僕は、その光を持たない側にいます。何度もマッチを擦りながら、ときどき火が点いてはあっという間に消えてしまう、そんな日々もまた、この世界には厳然とあります。灯す必要のない光をすでにお持ちなら、それを大切にしなくてはいけません。

さらに、これはまあ、ここだけの話に留めておきたいところですが、実際に死なない可能性もあります。少なくとも死の可能性が限りなく100%に近いとはいえ100%では絶対にない点には留意しておく必要があるでしょう。仮にこれまで100億人近い人類が例外なく死んでいるとしても、だからといって自分もまた100%確実に死を迎えるということにはなりません。

たとえば地球における脊椎動物の中で最も長寿と言われるニシオンデンザメは今のところ最長で500年以上(!)の寿命が確認されていますが、何らかのエラーでこのサメみたいな体質をうっかり獲得してしまい、数百年から数千年、有形なり無形なりで今も生き続けている誰かがどこかにいないとは、誰も全人類の動向を把握していない以上、誰にも言えないのです。生物であればヒトであれクマムシであれ確実に寿命があっていずれ必ず死を迎える、とは言っていいと思いますが、それは自分がその例外的存在ではないという理由にはならない。ですよね?

ひょっとしたら自分がその例外中の例外かもしれない。そしてその可能性はほぼゼロではあるけど絶っっっ対にゼロではない。でも仮に死ななかったとして、それこそ本当に、心から受け入れられることだろうか?


A. 死なない可能性もゼロではありません。




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その432につづく!

2024年8月30日金曜日

アグローと夜(Agloe and Night) 2024のお知らせ


そんなわけで今年も開催と相成りました。アグロー案内シリーズの実演版、「アグローと夜(Agloe and Night)2024」のお知らせです。


「アグローと夜(Agloe and Night) 2024」
11月22日(金) @恵比寿TimeOut Café & Diner

出演:小林大吾、タケウチカズタケ
Open 17:30  Start 18:30
Charge ¥3,900(入場時に1ドリンク ¥600)

プレイガイドURL

注:URLは9月2日(月) 10:00から有効になります。

TimeOut Café & Diner
東京都渋谷区東3丁目16−6 リキッドルーム 2F

詩人/ポエトリーリーディング・アーティスト/グラフィック・デザイナーである小林大吾とキーボーディスト・音楽プロデューサーのタケウチカズタケが言葉と音楽の可能性を広げ続けている作品「アグロー案内」シリーズ。その実演ライブ&トークイベント「アグローと夜」、今年は恵比寿TimeOut Café & Dinerで開催です!


また今回、チケットのご購入はプレイガイドのみとなります。事前にチケットをご購入いただいた上で、来場時にドリンクを1点ご注文いただく、という流れです。すこしお手数をおかけするようで心苦しいかぎりですが、どうかご容赦くださいませ…!!

そして3,900円という、ライブチケットにあるまじき半端な額は、すこしでもお得に感じてほしいという、スーパーの価格設定にも近い心意気の表れです。100円よりは98円のほうが、4000円より3980円のほうが心理的に軽い!にもかかわらずさらにちょぴっと低く抑える、これが心意気でなくて何でしょう。

でも!ぜひ!来てほしいので!

今年もよろしくおねがいします!(年始の挨拶)

2024年8月23日金曜日

フライと焼きそば、あるいは8月にして早くも1年を振り返ろうと試みる話の続き


今年のあれは…4月だったか5月だったか、ちょっとした野暮用があって埼玉県のあるエリアをバスで移動していたら、「フライ/焼きそば」という看板が目についたのです。

何のフライだかわからないけれども、アジフライとかかな、まあそんな店もあるだろうとあまり気に留めずにいたら、15分くらいの間にちょいちょい似たような看板を見かけてさすがにいやいや待て待てと席を立たずにはいられません。

言うまでもなく、看板自体はそれぞれまったく違います。でも看板メニューがどれもこれも判で押したように「フライ/焼きそば」とあるのです。どう考えてもこれは尋常ではない。そもそもアジフライだろうとエビフライだろうと、一般的に言ってフライを売りにする店はそう多くありません。少なくとも僕は見かけた記憶がないし、何のフライなのかを明記しない時点でだいぶ常軌を逸しています。そして焼きそばです。一軒だけならともかく何軒も、そしてさも当たり前のように掲げるフライと焼きそばの組み合わせに一体どんな関連性があるというのか、何だこの町は、とまるで異世界に迷いこんだかのような混乱を覚えたのも無理からぬことと申せましょう。

野暮用を済ませてあとは電車で帰るだけ、という段になってからGoogleマップで周辺を検索すると、びっくりするほどフライを売りにする店がヒットします。そしてどの店も、フライが何のフライであるかを明記していません。ここに至って何となく察した点は2つです。この町におけるフライとは一般に言われる揚げ物としてのフライではないかもしれないということ。そしてどうやらフライが主で焼きそばが従であるらしい、ということです。ホームズとワトソンみたいなことですね。

何しろあとは帰るだけだったので、謎を探るとしたら駅周辺しかありません。徒歩圏内でなんとなく古くからありそうな、フライを扱う店に目星をつけてまっしぐらに向かいます。この町におけるフライとは何なのかを確かめずに、このまま帰路につくことはできません。

意を決して店に入ると、齢80越え(!)と思しき老婦人がひとりで切り盛りしているようです。印象としては昭和の喫茶店に近くて、懐かしい趣を醸しています。


席についてメニューを手に取れば、どこをどう見てもフライ、というかふらい焼きと焼きそばしかありません。あ、焼くんだ…。


迷わずふらい焼きを注文して、ひたすらその時を待ちます。そして出てきたのがこれです。



食感的にはお好み焼きとチヂミの中間みたいでなぜこれをふらい焼き(フライ)と呼ぶのかわかんないけど美味え。80年代によく見かけたようなお店の雰囲気と相まって超楽しい。あんまり楽しいので焼きそばも注文してみたけれど、これはやっぱりホームズに対するワトソンよろしく、フライといえば焼きそば、というある種の定型のようです。焼きそばそれ自体にはそこまで強い印象はありません。でもおいしい。そしてふらい焼きは明らかに食べたことがないタイプのメニューです。あとまあそりゃそうかという気もするけどそれにしたってめちゃめちゃ安い。個人的にはふらい焼きの後に追加で注文した焼きそばの後さらに追加で注文したキムチふらいがとりわけ絶品だったことを付け加えておきましょう。


想定外の未体験が楽しすぎてうっかり長居したのち、帰り際に聞いたら店は今年で70周年らしく、また卒倒しかけます。

「70年!?フライってこの店が始めたんですか?」
「いやいや隣の、行田にね、先輩がいて、その人が始めたの」

つまりフライとは、揚げ物でもなんでもないけれど、行田とその周辺地域に少なくとも70年以上伝わる郷土料理だったのです。行田とフライでググればわかります(このときはあえてググらなかった)。限られたエリア以外ではまず見ないし、それでいてエリア内にはやたらとフライを扱う店があるので、どうあれこれは郷土料理と言うべきでしょう。

2024年に偶然でくわした個人的に最大の事件のひとつがこれです。

あとはもちろん、アグロー案内 VOL.7 がぶじに配信されたことですね。なんだ藪から棒にと思われるかもしれませんが、先々週から予告していたように、今年1年を振り返っているのです。

あとはこれといって特筆できそうなこともありません。今年もありがとう!どうか良いお年を!

2024年8月16日金曜日

サラブレッドとしてのきゅうりについて考える話


【お詫び】今週は8月にして早くも1年を振り返って総括するとお伝えしていましたが、急ぎかといえば全然急ぎでもないし何ならあと5ヶ月くらいは余裕があるので、急遽予定を変更してお送りします。ご了承ください。


それは先日ふと小さな、それでいてかなり根本的な疑問を抱いたことに始まります。

お盆といえば祖先の霊を祀り迎える行事であり時期ですが、ここで言うご先祖とは一体誰で、どの家に帰ることになっているのだろう?

子孫のなかった人の霊はこの時期何してんだろうな、とは昔から僕がぼんやり考えることのひとつです。囲碁でも打つとか、Vtuberの配信でスパチャに興じるとか、でもそんなん別にお盆じゃなくてもいいしな、そうするとお盆も単なるカレンダーの一部みたいな認識になるんかな、とかまあそんなかんじでいつものようにせっせと貴重な人生を浪費していたわけですね。

しかしふと、もし子や孫がいる霊の立場だったら、と考えたときに思考が停止したのです。待てよ、下界に帰省って、どこに帰りゃいいんだ?

一番わかりやすいのは、子がひとりで、つい最近に霊の仲間入りをした場合です。これはもうどう考えても、帰ると言ったら子の家に決まっています。他に寄るところもないし、疑問の余地はありません。

では子が5人いる場合はどうだろう?当然、全員に会いに行ってほしいよなと思うけど、ここで問題になるのが、いわゆる精霊馬です。きゅうりと茄子で作る、ご先祖のための乗り物ですね。

聞き知るところによればきゅうりは馬、茄子は牛を表していると言います。もちろん、早く来て、ゆっくり帰ってね、という小粋な気配りです。

しかし早く来るための馬はともかく、ゆっくり帰るための牛は、それ以外に寄るところがないことを意味しています。どう考えても、寄る家がひとつである前提です。あちこち寄るなら牛になど乗っている暇はありません。ですよね?

にもかかわらず茄子の牛がきゅうりの馬とセットで置かれるのだから、これはもう明らかに、下界で寄ることができるのはひとつの家のみという暗黙の前提があることになります。僕が5人の子をもつ霊だったら、そんなの困るとしか言いようがありません。

家制度の時代ならわかります。継がれる家はひとつしかないし、それを継ぐ人が確実にいたのだから、ご先祖が帰るとなったら当然その家で、もし兄弟姉妹がいるならそこにみんな集合する。単純明快です。僕がその時代の霊ならぜんぜん悩まない。

しかしそれはせいぜい80年くらい前までの話です。何なら祖父母の暮らしていた家がすでにないことも、今では往々にしてある。うちもそうです。その上で子が5人いるなら、じゃあ長男の家に行くか、とはなりません。なぜならそう選択するための根拠がとっくに消え失せているからです。

ではこの時代に複数の子孫を持つ霊となった僕は下界のどこへいけば良いのか?

また、ここまでは話をすごくシンプルにしていますが、家制度の存在しない現在、仮に僕が玄孫を持つ祖先でかつ霊だった場合、さらに帰省先がわからなくなります。血のつながりがある家をすべて訪れるにしてもかなりの数になるでしょう。そしてそれ以前に、そもそも迎える側が曽祖父母以前の祖先まで想定していない可能性のほうがはるかに高い。僕自身は曽祖母までは認識しているけれど、その血縁者は自分につながる分と、従姉妹につながる分しか知りません。でも間違いなくもっと大勢いるはずだし、高祖父母になると何をか言わんやです。さらにその祖先となったら父系と母系を合わせてその数はかなりのものになります。ちょっとしたフェス並みです。1、2本のきゅうりと茄子で済むわけがない。

そうなると玄関先に置かれた数本のきゅうり馬は、大量にいる祖先の霊の間で奪い合いになるでしょう。さながらビーチフラッグの様相を呈してきます。霊なんだから骨も肉もないのに文字どおり骨肉の争いです。血のつながりのある家のうち、見過ごされがちな家に目星をつけておく、といった戦略も必要になってきます。また畑を持っている家は用意するきゅうりも新鮮で質が高く、それが馬としての性能に反映されているはずです。競争率の高いきゅうり馬をあえて狙うか、萎びていても確実に奪えるきゅうり馬を狙うか、祖先としての経験が問われるに違いありません。中にはたとえば僕なんかのように、べつに牛でもいいやと茄子に乗ってそのまま旅に出てしまう祖先もいるでしょう。

さらにここで俄然意味を帯びてくるのが、お盆にすることがなかったはずの、子孫を持たない霊のみなさんです。今年は一体どの霊が最も優れたきゅうり馬を手にするのか、これはもう間違いなく賭けの対象になります。もはやお盆は子孫の有無にかかわらずすべての霊が熱狂できる一大イベントです。一斉に下界へと向かうご先祖さまたちの動きを、固唾を飲んで見守ります。盛り上げるために実況を買って出る霊がいてもおかしくありません。刻一刻と変動するオッズに片時も目が離せない、それが天上におけるお盆のありかたであってほしい

そんなことを考えながら糠漬けにしたきゅうりをポリポリ食べるのが僕のお盆です。他のどの季節よりもおいしいとおもいます。

2024年8月9日金曜日

おいしい豆大福、あるいは8月にして早くも1年を振り返ろうと試みる話


さて、2024年もいよいよ大詰めを迎えようとしています。何と言っても唯一の、そしてそれゆえに最大のニュースは、アグロー案内 VOL.7がぶじリリースされたことです。10大ニュースにしてもひとつしかないのでぶっちぎりの1位で間違いありません。これなくしてこの1年は語れないというか、語りようがないというか、右を見ても左を見てもこの話題しかない、部屋中引っかき回してみてもこの話題以外に目ぼしいものが見当たらない、そういう意味では超局所的に席巻したと言えなくもない、そんな幸せな1年であったと申せましょう。

8月上旬に年末みたいな顔でこうして1年を振り返ることには異論もあるでしょうが、もちろんそれには明確かつ相応の理由があります。というのも、この先の予定はこれといって特にないからです。

たとえば今ここに、群林堂のおいしい豆大福があります。東京3大豆大福に数えられる逸品です。これを今食べずに、ひょっとしたらもっとおいしくなるかもしれないという一縷の望みを抱いて12月に食うのは正しいことだろうか?誰がどう考えてもその日のうちにいただくのが自然であり、道理じゃないだろうか?

8月上旬に振り返ることもできた1年の総括を、空白のまま過ごした5ヶ月後に振り返るというのは、つまりそういうことです。

豆大福をつまむ暇もないくらい予定が詰まっているなら格別、そうでないなら豆大福はおいしいうちに食べるべきだし、1年の総括もまた同じ理由で早いうちにしておくべきである、とやはり言わざるを得ません。

そうでなくとも人生、いつ何が起こるかわからないのです。運よく今日まで生き延びてきたけれど、明日ポックリ逝かないともかぎらない。僕はつねづねそういう心構えで日々をどうにかこうにかしのいでいるし、何ならいわゆる終活についてもすでにちょっと考えているくらいです。

また、もし総括をしないままこの世を去ることになったら、それが未練で成仏できないかもしれません。やっぱり8月にしておけばよかったと夜な夜な電柱の影でぶつぶつ嘆き悲しんだり、鬼のような形相で通りすがりの誰かに取り憑いて今すぐ1年の総括をしろとに迫る悪霊に身を堕とす可能性もあります。逆にいま僕がそんな悪霊に取り憑かれたら、共感しすぎて泣いてしまうでしょう。

だからこそ今、そうならないうちに総括をしてしまわねばならないのです。だいたい8月と言ったらもう立派に1年の後半です。人生に置き換えたら初老みたいなものだし、そう考えると何の違和感もありません。こう言ったらアレだけど、1月とか2月に総括するより断然マシじゃないですか?

しかしなぜ8月に総括をする必要があるのかという前置きだけでだいぶスペースを割いてしまったので、本編である総括についてはまた次回にいたしましょう。

ちなみにアグロー案内のライブ版、「アグローと夜」の開催は今年もすでに決定しています。詳細は来月あたりにまた改めてお知らせすると思いますが、これはもちろん僕がそのときまで無事でいたらという前提なので、どうか無事を祈っていてください。

2024年8月2日金曜日

アグロー案内VOL.7 解説「コード四〇四/cannot be found」


さて、長らくご愛顧いただいた解説もいよいよ終着が近づいてまいりました。

最後は僕の中でもちょっと特異な位置付けにあり、御大のおかげで10年ぶりにとうとう正規リリースを果たした「コード四〇四/page cannot be found」についてです。

しかし改めて説明しなくてはなりますまい。「コード四〇四」はもともと、アルバム「小数点花手鑑」の特装版に付随していたミニアルバム、「パン屋の1ダース」に収録の1編です。あくまでオマケとしての収録だったのと、当時は限られた形でしか聴くことができなかったので、正規という位置付けにはなっていません。ある時点でYouTubeに公開したので今では誰でも聴くことができますが、言ってみればこれは放流みたいなことであって、リリースではなかった。

ぶっちゃけ大差ないと言えばないんだけど、少なくとも今回は僕自身が「リリースするぞ!」と意気込んでいたし、本人がそう言ってるんだからそうじゃなかったら何なんだ、ということで正真正銘、これが初めてのリリースとなります。

しかしまあ本当にしみじみと、その甲斐がありました。何と言ってもカズタケさんのビートはオリジナルよりも情感をたっぷり含んでいて、聴き返すたびに鳥肌が立ちます。何ならちょっといい話に聞こえるくらいです。まさかあの内容でグッと込み上げる着地があるなんて、夢にも思っていなかった。唖然とするほど細かなミックスも含めて、タケウチカズタケの今をすべて注ぎこんでくれています。

仮に10年前にこのビートがあっても、太刀打ちはできません。キングコングの上にチワワが乗るようなものです。一体どこにチワワがいるのか、みんな必死に探すことになるでしょう。今だからこそ可能になった作品だとすれば、10年寝かせただけの意味はあったとおもいます。


冒頭で僕にとって特異な位置付けであると書きましたが、それはこの一編が、どちらかといえば読むよりも喋ることに重心を置いているからです。

もともと僕がじぶんのスタイルをラップではないと明言している理由のひとつ(あくまで例としてのひとつです)に、発語の弾性があります。

ラップが多種多様に発展してきたことを考えると今ではあまりそう言い切れない気もするけれど、オーソドックスなラップにはほぼこの弾性があります。歌とは異なる形でリズムに同調して、言葉を伸び縮みさせていく、というようなことですね。だから当然、アカペラで聴いても会話や朗読にはない別種の聴感がある。

翻って、リーディングにはそれがほとんどありません。あってもすごく薄いし、何ならふつうの朗読として違和感がないケースもある。

そして僕自身は、会話や朗読と同等の聴感であってもぴたりとリズムに寄り添うことはできるし、一定に保つこともできると昔から考えていて、そこにこのスタイルのおもしろさを感じているのです。僕の作品に、リズムを無視したものはひとつもありません。

じつは「コード四〇四」にも明確な弾性が1箇所あります。フックの「型どおりコード四〇四、ことごとくこうだと目も回る」ことっごとくと発音していますが、この促音がつまり弾性です。普通に読んだらそんな促音いらないですからね。


「コード四〇四」は通常のリーディングでもほとんどないこの弾性をさらに削って、ふつうに喋るとか話す形でリズムと完璧に噛み合ってたらおもしろいのにな、と考えたことから生まれています。日本酒で言うところの精米歩合みたいなもんですね。

でも当時は、というのはつまり10年前ですが、やってみたらすごく難しかった。難しい理由はいろいろあるんだけど、まず単純に言葉が多いので、息が続かなかったのです。実際、オリジナルはヴァースとフックを分けて録音しています。とてもじゃないけど、ライブでできるものではなかった。正規リリースにしなかった理由のひとつがこれです。いくらライブをしないとはいえ、アルバムの収録曲となったらどこかのタイミングで必ずやらざるを得なくなります。お蔵入りもむべなるかなというものです。

そして今だからこそわかります。息が続かないのは、1を吸って1を吐くという単純な呼吸しかしていないからです。そのやり方では当然、常にどこかで「1を吸うための間」が必要になるし、言葉がみっちりと詰まっている場合、そんな隙間はどこにもない。詰むのが自然です。むしろ1ヴァースだけでもよくやったと言わねばなりますまい。

でも今は1吸うことを考えていません。そのときに必要な分だけを吸って吐いています。1を吸うための間はなくても、1/2とか1/4ならちょいちょいある。そうなるとヴァースとフックを分けることなく、最初から最後までワンテイクで録れるわけですね。先達がいれば教えを乞うこともできたかもしれないけど、誰もいないのでそれができると知るまでにすごく時間がかかってしまった。

ここがクリアできると、やり切ること自体には何の不安もなくなります。それはつまり、それ以外の部分に意識が割けるということです。喋る以上は情感をこめるとか、自ら設定したデリバリーにおけるフェイントその他のポイントを踏み外さないとか、そういう部分に対して、正面から安心して向き合えることになります。

フックはむしろ小休止ですと言ったらカズタケさんがのけぞっていたけれど、ここは立ち止まったり加速したりといったトラップ要素がないので、ブレスコントロールさえできれば問題ないどころかボーナスステージみたいなもんだし、気楽でうれしい。

なので最大の難関は、必要な情感を込められているか、すべての小さなデリバリートラップをクリアできているかの2点です。そして実際に、できていると思います。ここには確かに、リーディング、もしくはスポークンワーズとしての強度がある。今も日毎に進化をつづけるタケウチカズタケに一歩も引けを取らない、そんな作品に仕上がっていると、断言できます。スタイルを真似るどころか、まるっとコピーするのもおいそれとはできない、ささやかな金字塔のひとつです。初めて触れるならこれをと思える、僕にとっては名刺代わりの作品になりました。

アグロー案内なしにはどうあっても辿り着けなかったことを考えると、本当に頭が上がりません。カズタケさんありがとう…!

あ、プルクワパ霊苑にテキスト置いてあります。



2024年7月26日金曜日

アグロー案内VOL.7 解説「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」


ある昼行灯の問題/still on the table」と「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」のテキストをプルクワパ霊苑に埋葬してあります。よかったら読んでみてください。


僕は昔から「それ以外の選択肢」に心を寄せる傾向があります。それ以外というのはつまり、多くの人が選ぶわけではないし目立たないけれども、確かにあって手を伸ばすことができる選択肢のことです。

どちらかといえば僕自身が「それ以外の選択肢」に属している自覚もあって、それを選択することはそのまま自分自身を肯定することにつながっているのかもしれません。

思えばリーディングというスタイルからしてそうだったし、それによって生まれたアルバム群もまた当然そこに連なります。

また、アルバムとしてだけでなく、収録された作品にも「それ以外の選択肢」はあるわけだから、これはもうある種のフラクタルと言っていいでしょう。

フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」は、おそらく「紙芝居を安全に楽しむために /you may be the last to carry on」と並んでその極北、でなければ辺縁ギリギリに位置する一編です。何を言ってるのかわからないかもしれないけど、これ以上の「それ以外」にはなかなかお目にかかれないんじゃないかとおもう。深海魚みたいですね。

タケウチカズタケの才能をこんな得体の知れない深海魚の調理に浪費させてしまっていいのかという後ろめたさや自責の念はもちろんあります。もちろんあるけど、アグロー案内なので仕方がありません。びっくりするほど美味しいスペシャリテに仕上げてもらった以上、僕としては次の深海魚を狩るべくしれっとまた海に潜るだけです。

テキストはもともと、朗読の練習のために書いた記憶があります。ただ、なぜパイナップルなのかは全然おぼえていない。最初はむしろフィボナッチに焦点を当てていたような気もするから、たぶん書いているうちにピントがずれていったんじゃないかと思う。出口に辿り着ける迷宮よりも、一向に辿り着かない迷宮で快適に過ごそうとする性分なので、これも仕方がありません。

この性分はまた、わかることよりもわからないことのほうに重きを置いている、と言い換えることができます。わからないほうがいい、ではなく、わからなくてもいいに近いニュアンスです。

何であれ大切なのは考えつづけることであって、答えではない、と僕はつねづね胸に刻んでいるところがあります。イージーな答えはそこで思考が止まってしまうという点で、いつも危うい。わからないものは無理にわかろうとせずに、わからないまま置いておけばいい。必要ならまた考えるときが来る。

そうした向き合い方を知るひとつの端緒として、最初から最後まで何ひとつわからないゴリッとした異物がさも意味ありげに存在していることはそれだけでたしかな意味があると、僕は思うのです。それこそモノリスのように。

2024年7月19日金曜日

アグロー案内 VOL.7解説「ある昼行灯の問題/still on the table」



各地で話題が沸騰したあげく吹きこぼれて空焚きして炎上して焼け落ちてもなお鎮火せずに延焼中!とかじゃなくてよかったじゃないか、火の気がないのが一番だよ、と夜中にひとりアンニュイな面持ちでグラスを傾けながらしんみり夢みる人生をみごとに体現した噂の アグロー案内 VOL.7、今週は2曲目「ある昼行灯の問題/still on the table」について語ります。DON’T MISS IT!!!!

♪ズッチャッズッチャッ(ジングル)

この番組は、いつも心にぷくぷく泡を、泡ぷくぷくコーポレーションの提供でお送りします。


さて、というわけで今回は神奈川県町田市にお住まいのペンネームたらちゃんから前回いただいた「グレープフルーツからフルーツを取るとなぜブドウになってしまうのですか」という質問について、ひょっとしたら何かのヒントになるかもしれないので、まずは「ある昼行灯の問題/still on the table」のお話をしてみましょう。

(間)

失礼しました。町田市は東京都です。訂正の上、つつしんでお詫び申し上げます。

お伝えし忘れていましたが、アグロー案内の片割れであるタケウチカズタケからみた VOL.7 徹底解説がすでに全曲分、まとめて公開されております。僕自身も知らなかったことがてんこ盛りなのでぜひそちらも併せてお楽しみください。


ある昼行灯の問題/still on the table」は、これはもう、完全にタケウチカズタケのビートを活かすつもりで書いた一編です。一聴するとリーディングに合わせてビートを構成したようにも思われるかもしれませんが、実際には逆で、テキストは100%、初めから組まれていた構成に沿って書いています。

たとえば「ピンポーン」というインターホンの音から始まる緩やかなパートは、テキストに合わせて音を足してもらったわけではなく、僕が元からビートにあったその音をインターホンみたいだな、と解釈してテキストをこしらえたわけですね。

なのでカズタケさんの解説にもあったように「うわっ音に合わせてきた!」と気づいてもらえたのはすごくうれしかった。聴くぶんには気にもならないと思うけど、この部分はこのプロジェクトがお互いに全力の応酬であることを明確に象徴する、ささやかなハイライトのひとつです。

また、この曲ではメッセージ性やストーリー性よりも、言葉遊びに重点が置かれています。というのも、届いたビートを聴いてまず思い浮かべたのが「永遠に繰り返されるある一日」だったからです。あれこれ考えて、さんざん悩み抜いた結果、振り出しに戻る感じ。どのみちこの先も懲りず繰り返されるわけだから、生半なパンチラインよりもむしろ言葉遊びにうってつけのテーマと言えるでしょう。

言葉の置き方としてぼんやりイメージしていたのは Common の “Come Close” ですが、できてみると全然ちがいますね。ただなんというか、テーマと同じように言葉も同じ音を繰り返して、歩くというよりはその場で足踏みをするような形にしたかったので、それはクリアできてよかった。

英題の「still on the table」は、もちろんテキストの「まだテーブルの上にある」に対応しているわけですが、on the table はそのまま検討中という意味の慣用句でもあります。裏を返せば本当にテーブルの上に置いてあるわけではないことを、このフレーズが示しているのです。英題を添えているのはこういう、視点としてのちょっとしたギミックを仕込めるからでもあります。われながら野暮な気もするけど、このブログもこの先はすべてが遺言みたいなものなので、遺言じゃ仕方ねーなと大らかに受け止めてください。

次回はVOL.7に収録された曲のうち最も難解だが書いた当人含めてべつに誰も解く気はない「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」についてです。


2024年7月12日金曜日

アグロー案内 VOL.7解説「名探偵は2度起きる/the return of you-know-who」


さてみなさま、アグロー案内 VOL.7 はお聴きいただいていますでしょうか。

わたくしもリリースされてからというもの、各種メディアの取材依頼が殺到したり何らかのパーティーに引っ張りだこの夢にうなされて朝もおちおち起きられず、町を歩けばファンと思しき散歩中の犬に吠えられたりとたいへん忙しい日々を送っております。

何と言っても数字の大きさからしてアグロー案内史上最高峰との呼び声も高いVOL.7です。本来であればタケウチカズタケの音楽におけるかなり明確な変化と深化についてお話ししたいところですが、正直あまりに高度すぎるのでそれは御大自身の発信を待つとして、これからしばらくはほとぼりをなるべく維持するためにも、KBDG視点による楽曲解説をしてまいりましょう。


え、山本和男が1曲目なん?とカズタケさんはギョッとしていましたが、これはもう、迷うことなくそうあるべきでしょう。

VOL.5で滝壺からの予期せぬ滑落を描いた「名探偵の死/the final problem」、そしてそこからシーズン1のエンディングテーマとも言うべきVOL.6の「名探偵は眠らない/to be continued…」を踏まえてのシーズン2、VOL.7です。その華々しい新たなオープニングテーマを1曲目以外に置く選択肢などありません。

このビートが届いたのは、たしか3月の頭です。この時点ではふたりとも、例によって何らかのセリフを乗せるつもりでしたが


待てよ、これ曲の盛り上がりを煽るような詞のほうがいいんじゃないのか…?と僕が勝手に言葉数を増やし、そのまま採用されています。

カズタケさんには話していなかった気がするけれど、もともと僕はインストで遊ぶだけでなく、いずれちゃんと名探偵山本和男の詞を書くべき必要性を感じていたので、書くとしたらこんなことだよなとかねてから若干のテキストを温めておいたのです。まさかこんな熱量の高いニュージャックスウィングに乗せることになるとは想像もしてなかったけど、どう考えてもめちゃめちゃカッコいいし、どう考えても使うなら今しかないということで、お互いに想定外の着地と相成りました。結果として初めからそういう予定だったように感じるほど新オープニングテーマに相応しい仕上がりになっています。われながら完璧な判断です。えらい。

具体的なことは何ひとつ語られていないのに、背後にあるストーリーとその奥行きを想像せずにはいられない、これが創造性でなくてなんだろう!そういえばそういうことをやりたい人生だったと気づいたら改めて実感させてくれている、それが名探偵山本和男シリーズです。

タイトルについても触れておきましょう。

言うまでもなくこれは前回VOL.6に収録の「名探偵は眠らない/to be continued…」に対するカウンターとしてのタイトルです。もちろん前回はあくまで山本和男の物語は終わらないという意味での「眠らない」だったわけですが、これを字義通りに解釈して、「寝てんじゃねーか」というツッコミになっています。しかも2度起きているので、二度寝です。めっちゃ寝てるやん。

そしてもちろん、タケウチカズタケが敬愛する映画007の5作目「007は二度死ぬ」のオマージュでもあります。

とはいえ山本和男はシャーロック・ホームズへの偏愛から生まれた探偵です。ホームズシリーズ「最後の事件」に酷似する前回の状況からしても今作は「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」に当たります。なのでそれがそのまま、英題に反映されているわけですね。

ただ「The Return of Yamamoto Kazuo」ではちょっとあざとすぎるし、何ごともなかったかのようにというか実際何ごともなかったはずなので、しれっと再開するために「you-know-who(あの人)」とお茶を濁しています。たぶんカズタケさんも気づいてないとおもうけど、これはハリー・ポッターの宿敵ヴォルデモート卿の通名からの拝借です。山本和男をヴォルデモート扱いすんなよ!と盛大に叩かれたい、そんなささやかな願いがこめられています。

次回は新曲、「ある昼行灯の問題/still on the table」についてです。

2024年7月5日金曜日

まだ公開されていない体で公開されるトラックリスト

アグロー案内 VOL.7
2024年7月7日(日)配信開始

勿体ぶるつもりもないんだけれど、ほっとくと川面の葉っぱのようにスイーと流れていってしまうので、それをこう、ちょっとでも引き止めるべく、小分けにできそうな情報を個包装にしてリリースまでの日々を維持しなくてはいけないのです。何しろリリースの確定から配信まで10日しかない最短級のスケジュールでありながら、早くも特に言えそうなことがありません。

そこでトラックリストです。何と言っても今回はVOL.6の2倍の曲数を収録しています。CD時代で言ったら2枚組に匹敵すると言っても過言ではありません。さらにタイトルの文字数だけなら3.3倍という脅威のボリュームです。ここぞとばかりにアピールする甲斐はあると言うべきでしょう。

そう思っていそいそと心の準備をしていたところ、数日前に御大がトラックリストをあっさり放流しており、まさしく川面の葉っぱのようにタイムラインをスイーと流れていきました。

流れ去る葉っぱを川べりでひとり見送るわたくし。

蓋し、人生とはそういうものです。気づけば色とりどりの種々様々な葉っぱが、日々という名の川を流れていきます。ここに小さな葉っぱをもう1枚、流したところでバチは当たりますまい。


VOL.6と並べてもらえるとわかりますが、眠らないはずの男が早くも二度寝をしていることがわかります。アグロー案内のシーズン2は、タイトルからすでに始まっているのです。

配信まであと2日です。都民のみなさまは都知事選の投票用紙にうっかり「山本和男」と書いてしまわないように気をつけてください。 

2024年6月28日金曜日

アグロー案内 VOL.7 リリースのお知らせ

さて、ぶっちゃけアグローどころではないほど多忙を極める御大が、超人的なバイタリティでナノレベルの微細な隙を縫いに縫いまくり最後の最後まで心血を注ぎ続けたアグロー案内 VOL.7がとうとう満を持してリリースの運びと相成りました。

シーズン2の開幕を祝して、シリーズジャケも一新しています。


しかももはや情報を小出しにする暇もありません。配信日は七夕の7月7日(日)です。

10日後。

告知からリリースまで最低でも3ヶ月を要していた時代とはしみじみ隔世の感があります。

よく考えたら都知事選の当日で声を枯らしてリリースを叫んでもあっさりかき消されそうなことに昼ごろ気づきましたが、いざとなれば「選挙がなかったらめちゃめちゃ話題になってたはずなのに!」とさも確定していた未来を失ったかのように地団駄を踏むことはできるので、それはそれでよしとしましょう。

ともあれ、どう考えてもリーディングを乗せるようなビートではない、という点に限ればアグロー案内史上おそらく最高、それでいていつになくリーディングとビートが互いに不可欠な要素としてがっちり噛み合っている、シーズン2の始まりに相応しいというか片割れの僕としてはこれが遺作でも異存ない作品です。

トラックリストやそれぞれの曲については来週以降にくどくどと書き連ねるとして、兎にも角にもサウンドの進化にひっくり返ってほしい。何ひとつしがらみのないプロジェクトなので、タケウチカズタケのサウンド実験室として存分に有効活用してもらえたらとは当初から考えていましたが、結果的にそのへんの作品を余裕で蹴散らす完成度に達してしまっています。現代の名工に数えられる和菓子職人が本気で駄菓子に取り組むような、そんな趣さえ感じられる仕上がりです。やめずにいてよかった…!

そんなわけで、いつになく刮目してお待ちあそばせ!

あ、忘れてた

前回は2曲でちょっとしたスナック感覚でしたが、今回は4曲あるので、わりとお腹もふくれます!

2024年6月20日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その430


セロ弾きの喪主さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんの好きな香りがあれば知りたいです。また、香りによって昔の記憶を思い出す事はありますか?


パッと思いつくのは挽きたてのコーヒー豆、柑橘、檜あたりですかねえ。あと香りと言っていいのかわからないけど、草いきれとか土の匂いも好きです。茂みの中で茣蓙にくるまって息を潜めるのが好きな子どもだったので、そのころのわくわくするような気持ちと結びついているところがあります。土の匂いは、死んだらそのまま穴を掘って埋めてもらって微生物に分解してほしいくらい好きなんだけど、これはもういろんな現実的な理由から、実際には叶わぬ願いでしょうねえ。

個人的に香り(というか嗅覚)は、他の五感よりも圧倒的に記憶と結びつきやすい印象です。上に書いた「茂みの中で茣蓙にくるまって息を潜めていた記憶」もそうだし、プルースト「失われた時を求めて」で過去の記憶を呼び覚ます「紅茶に浸したマドレーヌ」も本文ではたしか味覚を強調していた気がするけど、あれも実際には味覚というより鼻に抜ける香りだったんじゃないかなとおもいます。

見たことある、聞いたことある、食べたことある、触ったことある、は普通にあるけれど、どれも嗅覚ほど唐突に記憶が強制再生されるほど強烈なトリガーにはなりません。なぜでしょうね?香りと結びつく記憶の話は、僕も他の人に尋ねてまわりたいことのひとつです。

僕にもそういう香りがあります。どんな香りと言われても説明できないのが本当にもどかしいんだけど、小4くらいのころ、クラスの女子にもらった手紙についていた香りです。思い返してみると、そういえば女子から手紙をもらうなんて人生でこの時くらいしかなかった気がするな…としんみりしないでもありません。しかしもういい年こいたおっさんなのでそれはまあどうでもよろしい。

率直に言って、この同級生女子についてはほとんど何も覚えていません。名前は覚えているけれど、顔はぜんぜん思い出せない。他に覚えているのは走り方がちょっと独特だったことと、彼女の家の庭に金柑の木があったことくらいです。どんな話をしていたのか、なぜ手紙をもらったのか、そもそも仲が良かったのかどうかもまったく覚えていない。逆にリアルですね。

ただ、もらった手紙についていた香りだけは、いまだに、この年になっても、嗅いだとたんに瞬時かつ強制的に記憶の引き出しを全開にさせられます。甘酸っぱい青春の思い出とかそういう感じならまだしも、本当に「あ、あの手紙の」となるだけです。今さら小学生のころのイメージを持ち出されても困るので、むしろ記憶を抹消したいんだけども、条件反射とか不随意運動に近いものがあって本当にどうにもなりません。嗅覚がいかに記憶と強く結びつくかという、まさに典型例であると申せましょう。

頻度で言うと、数年に1度もありません。10年に1度くらいはあるような気がするけど、5年に1度はない気がする。でもあると言えば、今も確実にあります。忘れたころに不意打ちを喰らっては些細なダメージを負う人生です。

もちろん嫌な記憶ではありません。言うまでもなく、これはどちらかといえば甘酸っぱい、キュンとするはずの思い出です。でも正直、いい年ぶっこいたおっさんになってまで、小学生のころの記憶にキュンとなんかしたくない。何十年前の話だとおもってんだ!その後の人生に大きな影響を与えたわけでもなし、爺さんになってまでその些細な記憶を保持する意味なんてないだろうが!もし死んだ直後にこの香りが漂ってきたらブチギレて生き返るぞ!!!!

そんな香りです。本当に勘弁してほしい。


A. 小学生のころ女子にもらった手紙を思い出す香りがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その431につづく!


2024年6月14日金曜日

新たなリリースに必要なすべてのデータが出揃ったこと


さて、アグロー案内 VOL.6から9ヶ月…ようやくVOL.7の準備が整いました。時間がかかったというよりも、この先もできるだけ長く続けていきたいプロジェクトなので、急がず焦らず、無理なくリリースできるタイミングがたまたまこのあたりだっただけ、と申せましょう。僕はともかく、片割れである御大はこのところ本当に大忙しなので、その隙を縫って戻ってきてくれるだけでも御の字です。

リリース日が確定した暁にはまた改めて鼻息荒くお知らせしますけれども、VOL.7はこれまでのシリーズと明らかに一線を画します。前作 VOL.6 で名探偵山本和男が滝壺に転落した気がしないでもないと言い切れなくもなくはなかった劇的な展開もあり、われわれも今作からはシーズン2という位置付けです。

個人的にはあくまで気持ちの問題だとばかりおもっていましたが、蓋を開ければさにあらず、サウンドが明らかに異なっています。今に至るまで進化もくそもないガラパゴス的立ち位置に甘んじる僕にしてみれば青天の霹靂で感電死と言うほかありません。第一線で活躍し続けるミュージシャンにとって9ヶ月とはかくも大きな変化をもたらすものなのかと、人知れず戦慄したくらいです。

ここに至っては気持ちの問題だけでなく、名実ともにシーズン2と呼ぶにふさわしい仕上がりに相なったと申せましょう。

そうなると僕としても認識を改めざるを得ません。中身の印象がこれだけ違うのに、ジャケットが今までと同じで本当にいいのか?内容だけでなく、むしろロゴやジャケットを一新することでもフェーズの遷移を示すべきではないのか?

そんなわけで、冒頭の画像にもあるように、タイトルロゴが一新されました。

そしてもちろん、シリーズジャケも更新されます。

歩幅が小さい、数曲ずつのEPリリースだからこそ、そしてリアルタイムで対応できる配信ならではの醍醐味ここに極まれりです。こんなふうに展開していくことになるなんて当人たちですら予想していなかったのだから、ちょっとした感慨があります。まだまだいろいろと遊べそうだなあ。

刮目してお待ちあそばせ!

2024年6月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その429


ジャングルジム大帝さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 毎日夢に出る猫がいつまで経ってもなつかないときどうすればいいのでしょうか。


夢に出る、というのがいいですね。現実だったらなつかなくても不思議はないけど、夢となると話がちょっと変わってきます。その猫の存在やなつかないことに意味はあるんだろうか?それともないんだろうか?

質問に深い意味はないとおもうし、深掘りしなくてもよさそうなものですが、しなくていい深掘りをして無駄に大きな穴を空けるのがこの質問箱の骨頂でもあるので、ここはやはり真剣に悩んでいて夜も眠れず、気づけば毎日夢に出るどころか眠れていないので最後に見た夢の記憶すら定かではなく、しかしそうすると悩む理由がないので眠れない理由もないという、Excelで言うところの不毛な参照循環に陥っていることを前提に考えてみましょう。前提の時点ですでにある種の解決を示唆しているように見えなくもないですが、そう見なければいいだけの話です。

個人的に気になるのは、「なついていいのか」という点ですね。

なつかなかった猫がなつくとすれば、それは明らかに劇的な変化です。考えようによっては無から有に転じたとも言えるのだから、天地創造に比肩すると見なすこともできるでしょう。現実世界ならそのままハッピーな日々がつづくと考えてよさそうですけれども、夢となるとそうはいきません。なんとなれば夢の中では、その猫が何らかの象徴である可能性も否定できないからです。以前と以後で何かが決定的に変わってしまうかもしれないことを肝に銘じる必要があります。

たとえば夢の中の猫が平穏の象徴であったとしましょう。それならなおのこと、なつくほうがよっぽど平穏に思われるかもしれませんが、逆になつかないことのほうが変化がない点でむしろ平穏を意味しているかもしれないのです。

また一度なついた猫は、こちらが適切な愛情をもって接するかぎり、以前と同じ距離まで退くことはありません。とすればそれは不可逆の変化です。人生にも不可逆の変化はいろいろありますが、以前と以後で決定的に変わって二度とは戻らない、その最たる変化が死であることを考えると、夢の中の猫がなつくことを無条件に受け入れていいものだろうか?

死ほど極端ではないにせよ、「なつかない=失いたくない」、「なつく=失う」に置き換えるだけで背筋を冷たいものが伝います。そう考えるとむしろこれはどんな手を使ってでも絶対になつかせてはいけないミッションであるかもしれないのです。愛らしいネコチャンを使って失いたくないものを失わせるなんて、狡猾にもほどがある。

もちろん、実際にはなつかせることができれば、決定的な不可逆の変化として、その後の人生は薔薇色が保証される可能性もあります。その対極が死である以上、一か八かで賭けるにはちょっと心理的コストが高すぎる気もしますが、そもそも日々が地獄みたいなものなのであまり気にならない、もしくは死とは竹馬の友なので、夢の中の猫をなつかせることにはどう転んでもメリットしかない、という人もいるでしょう。

ただその場合、問題になってくるのは、なつかせるために駆使したい諸々のアイテムを夢の中に持ちこむことができない、という点です。また覚醒時にいいアイデアが閃いても、それを夢の中の自分が引き継ぐとはかぎりません。

なので僕としては、蕎麦殻の枕を木天蓼の実と入れ替えることをおすすめします。枕だけでなくパジャマを木天蓼柄にするなど、寝具とベッドを木天蓼一色に染めてしまいましょう。夢の中でも木天蓼にうなされるくらいになれば、なつくかどうかを考えるよりも先に、猫がゴロゴロと喉を鳴らして近づいてくるはずです。また仮にそれでも近づいてこないとすれば、それは猫ではありません。猫の形をした別の何かであって、距離を縮める必要のないことがはっきりします。一石二鳥です。試す価値はあるでしょう。

ただし、その結果起きるかもしれない不可逆の変化については責任を負いかねます。がんばってください。


A. 木天蓼に埋もれて寝てみましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その430につづく!

2024年5月31日金曜日

音吐朗々を体現する数少ない朗読詩人のこと

画像はイメージです

音吐朗々という言葉があります。ハリがあって伸びやかでどこまで行き渡るような発声、というような意味です。主に豊かな朗読を指して使われる言葉ですが、たぶんプレゼンとか演説なんかにも当てはまります。

これまでに細々と続けてきた僕自身の発声表現に音吐朗々という言葉を当てることはとてもできないけれど、それでもまだどうにかこうにか続けられているのは、例えばここ数年は「アグロー案内」のパートナーでもある御大タケウチカズタケのおかげによるところが大きい。誰であれ、人生にはこの人がいなければその後が大きく違っていたと感じる、有意な縁がいくつもあるものです。

こうした分水嶺とも言える出会いをいくつか遡っていくと、現在の僕の歩みを決定づけたそもそもの端緒、濫觴として、どう考えても不可欠なひとりの人物に行き当たります。出会いというよりもむしろその存在が、と言い換える方が正確かもしれません。

それがさいとういんこ女史です。

いんこさんはかつて僕が初めて人前で朗読を披露したイベントの主催者です。この形でなら一度はトライしてみたいと思える、今も昔も唯一のイベントだったので、彼女がいなかったら詩は書いても朗読は今もしていなかった可能性がめちゃめちゃ高い。

そして彼女自身、音吐朗々を体現する数少ない朗読詩人のひとりでもあります。

じつを言うと僕もそれ以外のことをあまりよく知りません。知っているのはローリング・ストーンズとマクドナルドが大好きで、その昔バンドでメジャーデビューをしたボーカリストだったことくらいです(レコード屋でソロ時代のEPを見つけたので本人にプレゼントしたことがあります)。あと、気に入らないやつの車の助手席にシェイクをぶちまけたことがあると話していた気がする。

でもこれだけで十分にその女傑ぶり、ひいては朗読の朗々っぷりを想像してもらえる気もします。初めていんこさんの朗読を聴いたときの凛とした空気と澄んだ声音は、僕にとっても忘れられない記憶のひとつです。

そんな彼女を中心とした、稀有な朗読イベントが6月にございます。


2024年6月16日(日)
Splash Words presents
「SPOKEN WORDS SICK 5
さいとういんこ『ハンバーガー関係の数編の詩と、その他の詩』出版記念」

出演:さいとういんこ、長沢哲夫、カワグチタケシ、小林大吾
時間:19:00open 19:30start
会場:Flying Books(東京都渋谷区道玄坂1-6-3 2F)
料金:¥2,000(1ドリンク付 限定40名様)
チケット:Yahoo!パスマーケットにて (5月5日正午受付スタート)
(残席がある場合のみ、当日券を発行させていただきます。)


断腸の思いで割愛したけれど、ナーガやカワグチタケシさんも、このお二方だけで界隈がざわつくレジェンドと大ベテランです。そこにしれっと僕も紛れこんでいて恐悦至極というか心苦しいかぎりですが、せっかくなので僕もアグロー案内に収録予定の新作なんかを、ビートなしで朗読するつもりです。

よかったらいらしてね。

2024年5月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その428


ハルマゲ丼さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. いつも行くお店(例えば大阪王将)で新しいメニューを頼もうと思ってお店に入ってもいつも同じものを頼んでしまう現象の解決方法をご教示ください。


これ、僕も完全に同じですね。というか僕はそもそも同じメニューを毎日食べ続けてもさほど飽きない体質なのでいっしょにしていいのかちょっとためらいますが、しかしまあ誤差の範囲でしょう。行き慣れている店では95%くらいの確率でいつも同じものを頼みます。のこりの5%は稀に起きるエラーです。なぜエラーが起きるのかは僕もよくわからない。

しかしなぜいつも同じではいけないのか、と僕なんかは切におもいます。そりゃ毎日ラーメンとか牛丼となったらいろいろと支障もあるでしょうが、そういう話ではありません。この店に来たらこれを頼むというだけです。普通じゃないですか?

いつも同じものを頼むのは、それが美味いと知っているからです。コストに対して100%の見返りが得られると言い換えてもいいでしょう。一方で今までに頼んだことのないメニューはその見返りが未知数です。いつも頼むメニューよりも見返りが大きい可能性はもちろんありますが、大幅に損なう可能性も同じくらいあります。上回るか下回るかだけで見ればその確率は五分五分です。確実に得られる最大値を取るか、50%の確率で100%以上を期待するか、人としてどちらがいいとは言えないけれども、生物としてはリスクなしに最大値を得るほうが普通なのは間違いありません。何となれば50%の確率というのはあくまでも賭けであり、賭けに負けた場合は死に直結することもあり得るからです。いつものあの店で毎回チャーハンを食うことの一体何がいけないのか、むしろわざわざいつもと違うメニューに挑むギャンブル体質こそ是非を問われていいはずだぞ、ドン!と握り拳をテーブルに叩きつけながら僕は言いたい。

さて、自身の正当化と理論武装はこれくらいにしてもう少し客観的に考えてみると、まずこれ、じつは前提からおかしなことになっています。

考えてもみてください。ある店にいつも行くとすれば、理由はもちろん、その店が好きだからです。それが飲食店だった場合、好きなのはそこに美味いものがあると知っているからです。そしてなぜ美味いと知っているのかといえば、もちろんそれを食べたことがあるからです。もし毎回違うメニューを選べているのなら、そもそもいつも行く店にはなっていないことを自覚する必要があります。いつも同じものを頼むからこそ、いつも行く店になっているのです。

もちろん好きになったからこそ他のメニューも頼んでみたい、ということはあるだろうし、それは僕もよくわかります。実際、僕ですらそういう店はある。でも毎回同じもの、たとえばふわとろ天津炒飯と焼餃子を頼んでしまうとすれば、それがまさしく大阪王将を好きな理由だからです。

ふわとろ天津炒飯がこれだけ美味いのだから他のだってきっと美味いはずだ、と考えるのは当然だし、確率的にも理にかなっています。初めての店に行くよりも美味いと感じる確率は高い。しかし行ったら行ったでやっぱりふわとろ天津炒飯と餃子が食いたくなるので、成功率で言ったらむしろグッと低くなります。同じ理由で2つの確率を相殺しているわけですね。

いつも行く店に足を運んだ時点で勝敗は決しています。その上でなぜわざわざ新しいメニューに挑む必要があるのか、もう一度よく考えてみましょう。選ぶことができれば他の店よりもわりと高めの確率で見返りを得られるのは確かですが、行為それ自体の成功率はむしろ低い。となれば解決法はやはりひとつしかありません。


A. 行ったことのない別の店に行きましょう。




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その429につづく!

 

2024年5月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その427


たけのこの佐藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もし地獄に行くことになったら楽しみなことと、逆に天国に行くことになったら不安なことはなんですか?


天国に対する不安はともかく、地獄の楽しみとはまた難儀な質問です。何であれ楽しみにされたら地獄もたまったものではありません。まんじゅうこわいが通用するほどのんきな場所でもなさそうだし、楽しみがあると知られたとたんにそれを潰しにかかるか、逆手に取ろうとするでしょう。

昔から気になっているのは「そこにヒト以外の動物はいるのか?」という点です。天国にはいるような気もするけど、地獄にはそういうイメージがありません。少なくとも僕が鞭で打たれているその隣で、同じように鞭で打たれるウサギがいるとは思えない。ですよね?

もちろんヒト以外の動物に罪はありません。罪はあくまで人間が社会を維持するために生み出した概念です。しかしそうなると、なぜ人間由来の概念が人知など遠く及ばないはずの地獄で同じように適用されているのかというわりとシンプルな疑問が生まれます。

人間社会において、たとえば窃盗や殺害は明確に罪ですが、ヒト以外の生物社会においては当てはまりません。それとも僕らが知らないだけで、鹿とかライオンもそれぞれの地獄で責め苛まれたりするんだろうか?だとすると「それぞれの地獄」とわざわざ区分けする必要はどこにもなさそうだし、僕らのいる地獄にも悪いサルとか悪いカメとか悪いカタツムリがいてもおかしくないことになります。

しかしいくら極悪だとしても、そのために1匹のカタツムリが責め苛まれるとしたらそれは虐待には当たらないんだろうか?いや、これは虐待ではないのだ、報いなのだ、と言って納得できる人がいるだろうか?

だから、そうですね、地獄にヒト以外の動物がいるのかどうかを確かめてみたいです。それをひとつの楽しみと言ってもいい気がします。ついでに虐待がどうあれ正当化される根拠も訊いてみたい。

だいたいなんで造物主側がジャッジしてんだよ、どういう理屈で被創造物が責任を負うことになるんだ、つくった側も責任とれよ、お菓子に混入物があったら責任とるのはメーカーだろ、エラーとしてのお菓子を地獄に落とすとか責任転嫁もいいとこじゃないか、そもそも造物主なんだからエラーがないようにつくりゃいいだろ、と僕なんかは思わないでもないけど、べつに波風を立てたいわけでもないので、これは僕ひとりの胸に留めておきましょう。

一方天国については正直、不安しかありません。争いがないとか苦痛がない、というのはなんとなくわかるんだけど、それが具体的にどういうことを意味しているのか、それ以上に「僕らはなぜそこにいるのか」があまりにも漠然とし過ぎているからです。

これは地獄もそうなんだけど、永遠という対価が善に対しても悪に対しても大きすぎます。仮に全人類が満場一致で認めた極悪非道な罪人がいるとして、永遠の苦痛はその罪に見合うものだろうか?永遠ですよ!1億年とか1000兆年ですら一瞬に感じられるような圧倒的なスケールの時間です。百歩譲って永遠の苦痛に見合う罪があるとしても、ではその線引きがいったいどこにあるのか、とやはり異議を唱えずにはいられません。そもそも永遠に「結果」は存在しないし、その終わりなき苦痛が何のためにあるのかも、こうなるとさっぱりわからない。そんなことよりむしろ真っ当な善人へと更生させるほうに注力してほしいとおもう。

天国にしても、何ひとつ罪を犯さず、善行を積んで穏やかに一生を終えたからと言って、その対価が永遠はやはりいくらなんでも莫大すぎます。100年問題なかったからもう100年寿命あげるよとか、もう1回人間に生まれ変わっていいよ、くらいのほうがよっぽど納得できる話です。たかだか100年未満の歳月を善人として全うしたからと言って、1000年後に極悪非道に成り果てる可能性がゼロだとなぜ言い切れるのか、100年で永遠がもらえるなら一生に一度ゴキブリを殺さずに逃してやるだけで1000年くらいの天国在留資格を得てもいいんじゃないのか、と考えずにはいられません。

そういう疑問や不安を持たずにすむ場所なのだ、ということもできそうだけど、それはそれで自由意志を奪われているような気もします。しませんか?どんなに些細であれ疑いを抱くことができてこその自由だし、そうでないならそれは誰にも負の影響を及ぼさないというだけで、本質的には洗脳だし、マトリックスの世界と同じです。

だいたい姿形と性格が今の自分のまま永遠に突入することを、みんながみんな喜ぶとは思えないんですよね。亡くなった年齢で永遠が固定されるのもどうかとおもうし、と言って好きな年齢に若返るのも都合が良すぎます。あるがままを受け入れる人だけが在留資格を得るのかもしれないけど、そんならそもそも外見とか性格とか個性とか必要なくない?

そんなわけで天国は実際のところ地獄以上に胡散くさいと僕は考えます。不安しかありません。


A. 地獄で楽しみなのはそこにヒト以外の生物がいるかどうか、天国で不安なのはその存在そのものです。




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その428につづく!

2024年5月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その426


キャプテン米ぬかさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. たまに道端に落ちている石や物を拾って家に持って帰ることがあります…どうしてでしょうか。本当にたまになのですが、お地蔵さんみたいな木彫りの人形を拾って飾ってたりしました。


これはですね、わからない人には本当に言葉を尽くしても絶対にわからない話だとおもいますが、僕はなんとなくわかるような気がします。たぶんそこにある種の分身を見ているのです。

もちろん、分身であると明確に意識しているわけではありません。実際にはかわいいなとかおもしろいなとか、それくらいの認識でしかないはずです。ただおそらくだけど、拾うのはいつも、価値があるかと言ったら全然ないものなんじゃないかと思う。ここで言う価値とは、客観的な価値だけでなく、主観的な価値も含まれます。買うかと言ったらじぶんでも買わない、完全無欠の無価値です。ご自身でも首を傾げてしまうわけだから、この点は間違いないでしょう。

それなりのサイズがないかぎり、そこに価値があろうとなかろうと、人は落ちているものにさほど気を配りません。仮に価値があったとしても、拾われる確率が上がるだけでやっぱりすべての人が目を留めるわけではないし、完全な無価値となったらそりゃもう言わずもがなです。何しろ石ころだったりするわけですからね。

にもかかわらず目を留めて、拾い上げ、持ち帰り、部屋に飾るというのは、ちょっといいなくらいの気持ちだけでは説明しきれません。磁石が砂鉄を吸い寄せるように、そこには何か必然的な力が働いているのではないか。とすれば物それ自体というよりもむしろそこに投影された自身を拾い上げている、と考えるほうがしっくりきます。世界中に散らばっている小さな自分の欠片をこつこつ拾い集めている、と言い換えてもいいでしょう。

それでなくとも誰もが見過ごす日常の差異に気づくわけだから、その感性は繊細です。顧みられないものに対する感度もたぶん人一倍高い。

つまりこの行為は、誰にも語られることなく紡がれる細い細い物語の、目に見えない1ページでもあるのです。

物語はまだこの先も続きます。大事にしてください。


A. 世界中に散らばっている小さな自分の欠片をこつこつ拾い集めているのです。




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その427につづく!
 

2024年5月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その425


ボヨンセさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 初めて1人で作ったプラモデル、覚えていますか?


これはおぼえています。「ロボダッチ」ですね。ネーミングからして昭和後期に属する玩具であることが丸わかりなので、今その名を口にするのはちょっとためらわれるものがあります。

ロボと言ってもリアル志向ではありません。丸っこいしちまちましてるし、ガンダムよりはむしろちいかわに近い。比較したら怒られそうな気もするけど、バトルアニメよりサンリオを好むような男児だったので、そのへんは大目に見てください。ロボということになっているキャラクターたちがみんなでワイワイみたいな、そんな感じのシリーズです。


一つひとつはも手のひらに乗るくらいの小さなものです。昔のプラモデルなので、色もついていません。何なら接着剤が必要だった気もします。組み立てるパーツも少なくて下手すると10個くらいだったし、プラモデルである必要が一体どこにあるのか、そんなことを考えさせられるいじらしさがありました。でもすごいたくさんの種類があって、おもちゃ屋のプラモデルコーナーではかなりのスペースを占めていたはずです。興味のあるものしか目に入ってなかった可能性もありますけど。ていうかそういえばおもちゃ屋ってものがあったよね。

おもえば僕が小学生のころは、ちょうどプラモデルが劇的に進化した時代だったかもしれません。主にロボット系ではあるけれど、接着剤が不要になり、パーツごとに色がついて無塗装でもそれなりの完成度が得られ、関節部分にポリキャップという柔らかい素材が導入されたことで可動域がめちゃめちゃ広がりました。テレビが白黒からフルカラーになるくらい大きな変化だったんじゃないだろうか?

ロボダッチはそのひとつ前の世代です。接着剤はひょっとしたら不要だったかもしれないけど、色なんかついてなかったし、関節という概念もありませんでした。胴体との接続部がくるくる回るだけです。肘とか膝とかそんな高度な機構もなかった。

昔の子どもはプラモデルとかなくてかわいそうだなあと思ってたけど、いま振り返ってみると僕も相当かわいそうな時代に属してた気がしてくるから、不思議なもんですね。

3Dプリンタの登場もあって、もはやプラモデルでできないことはないところまで行き着いたことを考えると、30年後はどうなってるんだろう。プラモデルという概念はまだ存在してるんだろうか。あるいは逆に失われた古代の超技術として語られたりするんだろうか。

この延長線上には生身の人間と同じように自由に動かせるフィギュアがあると思うんだけど、と言って搭乗できる人型ロボットへの憧憬は数十年くらいじゃ尽きない気もするし、それほど遠くない未来が今からちょっと楽しみです。


A. ロボダッチです。




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その426につづく!

2024年4月26日金曜日

儚く散ったちいさな花とその供養のために


さてまたひとつ、供養のために書き残しておきましょう。

本当にやむを得ない、運がなかったとしか言いようがない、誰も責められない状況でお蔵入りとなった案件がありました。電車のマナーポスターです。

マナーポスターには個人的に以前からすこし思うところがありました。これはそもそも誰のためにあるものなんだろうか?

何しろポスターを目にする圧倒的大多数の人はすでにマナーを身につけています。彼らにとってそれはわざわざ言われるまでもなく当たり前のことであり、特に啓発の意味を持ちません。

それでいて、掲げられたメッセージは「ダメ」「NO」「しないで」等々、すべからくネガティブです。マナー向上のためなんだからこれも当たり前と言えば当たり前なんだけど、これではその行為をただ非難しているだけのようにも思われます。できればこうあってほしいということを伝えるのに、非難が必要かと言ったら必ずしもそうではないはずだし、マナーを大切にしている多くの人も目にするわけだから、ポジティブとまでは言わないにしてもネガティブではない、別のアプローチがあってもいいんじゃないだろうか?

とすれば最低限の注意を喚起しつつ、マナー違反を責めない(←重要)、それでいて目を留めた人がちょっと和むようなもののほうがはるかに共有もしやすく、また結果としてメッセージも浸透しやすくなるのではないのか、何ならちょっと意味がわからないくらいのほうがよほど心に残って多くの人の日々を彩るだろうし、全方位にハッピーで丸く収まりそうな気もするのです。

そんなことを考えながらせっせとこしらえ、満を持して提出し、クライアントからもばっちり好感を得ることができ(←これも重要)、ではこれでいきましょうというまさにその絶妙なタイミングでいくつかの不幸な偶然が重なった結果、やむなく白紙となってしまったポスター案がこちらです。








今みてもわるくないし、こんなポスター貼ってあったらいいのにとしんみり思います。どこかが採用してくれてもいいんだぞ。