2024年7月26日金曜日

アグロー案内VOL.7 解説「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」


ある昼行灯の問題/still on the table」と「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」のテキストをプルクワパ霊苑に埋葬してあります。よかったら読んでみてください。


僕は昔から「それ以外の選択肢」に心を寄せる傾向があります。それ以外というのはつまり、多くの人が選ぶわけではないし目立たないけれども、確かにあって手を伸ばすことができる選択肢のことです。

どちらかといえば僕自身が「それ以外の選択肢」に属している自覚もあって、それを選択することはそのまま自分自身を肯定することにつながっているのかもしれません。

思えばリーディングというスタイルからしてそうだったし、それによって生まれたアルバム群もまた当然そこに連なります。

また、アルバムとしてだけでなく、収録された作品にも「それ以外の選択肢」はあるわけだから、これはもうある種のフラクタルと言っていいでしょう。

フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」は、おそらく「紙芝居を安全に楽しむために /you may be the last to carry on」と並んでその極北、でなければ辺縁ギリギリに位置する一編です。何を言ってるのかわからないかもしれないけど、これ以上の「それ以外」にはなかなかお目にかかれないんじゃないかとおもう。深海魚みたいですね。

タケウチカズタケの才能をこんな得体の知れない深海魚の調理に浪費させてしまっていいのかという後ろめたさや自責の念はもちろんあります。もちろんあるけど、アグロー案内なので仕方がありません。びっくりするほど美味しいスペシャリテに仕上げてもらった以上、僕としては次の深海魚を狩るべくしれっとまた海に潜るだけです。

テキストはもともと、朗読の練習のために書いた記憶があります。ただ、なぜパイナップルなのかは全然おぼえていない。最初はむしろフィボナッチに焦点を当てていたような気もするから、たぶん書いているうちにピントがずれていったんじゃないかと思う。出口に辿り着ける迷宮よりも、一向に辿り着かない迷宮で快適に過ごそうとする性分なので、これも仕方がありません。

この性分はまた、わかることよりもわからないことのほうに重きを置いている、と言い換えることができます。わからないほうがいい、ではなく、わからなくてもいいに近いニュアンスです。

何であれ大切なのは考えつづけることであって、答えではない、と僕はつねづね胸に刻んでいるところがあります。イージーな答えはそこで思考が止まってしまうという点で、いつも危うい。わからないものは無理にわかろうとせずに、わからないまま置いておけばいい。必要ならまた考えるときが来る。

そうした向き合い方を知るひとつの端緒として、最初から最後まで何ひとつわからないゴリッとした異物がさも意味ありげに存在していることはそれだけでたしかな意味があると、僕は思うのです。それこそモノリスのように。

2024年7月19日金曜日

アグロー案内 VOL.7解説「ある昼行灯の問題/still on the table」



各地で話題が沸騰したあげく吹きこぼれて空焚きして炎上して焼け落ちてもなお鎮火せずに延焼中!とかじゃなくてよかったじゃないか、火の気がないのが一番だよ、と夜中にひとりアンニュイな面持ちでグラスを傾けながらしんみり夢みる人生をみごとに体現した噂の アグロー案内 VOL.7、今週は2曲目「ある昼行灯の問題/still on the table」について語ります。DON’T MISS IT!!!!

♪ズッチャッズッチャッ(ジングル)

この番組は、いつも心にぷくぷく泡を、泡ぷくぷくコーポレーションの提供でお送りします。


さて、というわけで今回は神奈川県町田市にお住まいのペンネームたらちゃんから前回いただいた「グレープフルーツからフルーツを取るとなぜブドウになってしまうのですか」という質問について、ひょっとしたら何かのヒントになるかもしれないので、まずは「ある昼行灯の問題/still on the table」のお話をしてみましょう。

(間)

失礼しました。町田市は東京都です。訂正の上、つつしんでお詫び申し上げます。

お伝えし忘れていましたが、アグロー案内の片割れであるタケウチカズタケからみた VOL.7 徹底解説がすでに全曲分、まとめて公開されております。僕自身も知らなかったことがてんこ盛りなのでぜひそちらも併せてお楽しみください。


ある昼行灯の問題/still on the table」は、これはもう、完全にタケウチカズタケのビートを活かすつもりで書いた一編です。一聴するとリーディングに合わせてビートを構成したようにも思われるかもしれませんが、実際には逆で、テキストは100%、初めから組まれていた構成に沿って書いています。

たとえば「ピンポーン」というインターホンの音から始まる緩やかなパートは、テキストに合わせて音を足してもらったわけではなく、僕が元からビートにあったその音をインターホンみたいだな、と解釈してテキストをこしらえたわけですね。

なのでカズタケさんの解説にもあったように「うわっ音に合わせてきた!」と気づいてもらえたのはすごくうれしかった。聴くぶんには気にもならないと思うけど、この部分はこのプロジェクトがお互いに全力の応酬であることを明確に象徴する、ささやかなハイライトのひとつです。

また、この曲ではメッセージ性やストーリー性よりも、言葉遊びに重点が置かれています。というのも、届いたビートを聴いてまず思い浮かべたのが「永遠に繰り返されるある一日」だったからです。あれこれ考えて、さんざん悩み抜いた結果、振り出しに戻る感じ。どのみちこの先も懲りず繰り返されるわけだから、生半なパンチラインよりもむしろ言葉遊びにうってつけのテーマと言えるでしょう。

言葉の置き方としてぼんやりイメージしていたのは Common の “Come Close” ですが、できてみると全然ちがいますね。ただなんというか、テーマと同じように言葉も同じ音を繰り返して、歩くというよりはその場で足踏みをするような形にしたかったので、それはクリアできてよかった。

英題の「still on the table」は、もちろんテキストの「まだテーブルの上にある」に対応しているわけですが、on the table はそのまま検討中という意味の慣用句でもあります。裏を返せば本当にテーブルの上に置いてあるわけではないことを、このフレーズが示しているのです。英題を添えているのはこういう、視点としてのちょっとしたギミックを仕込めるからでもあります。われながら野暮な気もするけど、このブログもこの先はすべてが遺言みたいなものなので、遺言じゃ仕方ねーなと大らかに受け止めてください。

次回はVOL.7に収録された曲のうち最も難解だが書いた当人含めてべつに誰も解く気はない「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」についてです。


2024年7月12日金曜日

アグロー案内 VOL.7解説「名探偵は2度起きる/the return of you-know-who」


さてみなさま、アグロー案内 VOL.7 はお聴きいただいていますでしょうか。

わたくしもリリースされてからというもの、各種メディアの取材依頼が殺到したり何らかのパーティーに引っ張りだこの夢にうなされて朝もおちおち起きられず、町を歩けばファンと思しき散歩中の犬に吠えられたりとたいへん忙しい日々を送っております。

何と言っても数字の大きさからしてアグロー案内史上最高峰との呼び声も高いVOL.7です。本来であればタケウチカズタケの音楽におけるかなり明確な変化と深化についてお話ししたいところですが、正直あまりに高度すぎるのでそれは御大自身の発信を待つとして、これからしばらくはほとぼりをなるべく維持するためにも、KBDG視点による楽曲解説をしてまいりましょう。


え、山本和男が1曲目なん?とカズタケさんはギョッとしていましたが、これはもう、迷うことなくそうあるべきでしょう。

VOL.5で滝壺からの予期せぬ滑落を描いた「名探偵の死/the final problem」、そしてそこからシーズン1のエンディングテーマとも言うべきVOL.6の「名探偵は眠らない/to be continued…」を踏まえてのシーズン2、VOL.7です。その華々しい新たなオープニングテーマを1曲目以外に置く選択肢などありません。

このビートが届いたのは、たしか3月の頭です。この時点ではふたりとも、例によって何らかのセリフを乗せるつもりでしたが


待てよ、これ曲の盛り上がりを煽るような詞のほうがいいんじゃないのか…?と僕が勝手に言葉数を増やし、そのまま採用されています。

カズタケさんには話していなかった気がするけれど、もともと僕はインストで遊ぶだけでなく、いずれちゃんと名探偵山本和男の詞を書くべき必要性を感じていたので、書くとしたらこんなことだよなとかねてから若干のテキストを温めておいたのです。まさかこんな熱量の高いニュージャックスウィングに乗せることになるとは想像もしてなかったけど、どう考えてもめちゃめちゃカッコいいし、どう考えても使うなら今しかないということで、お互いに想定外の着地と相成りました。結果として初めからそういう予定だったように感じるほど新オープニングテーマに相応しい仕上がりになっています。われながら完璧な判断です。えらい。

具体的なことは何ひとつ語られていないのに、背後にあるストーリーとその奥行きを想像せずにはいられない、これが創造性でなくてなんだろう!そういえばそういうことをやりたい人生だったと気づいたら改めて実感させてくれている、それが名探偵山本和男シリーズです。

タイトルについても触れておきましょう。

言うまでもなくこれは前回VOL.6に収録の「名探偵は眠らない/to be continued…」に対するカウンターとしてのタイトルです。もちろん前回はあくまで山本和男の物語は終わらないという意味での「眠らない」だったわけですが、これを字義通りに解釈して、「寝てんじゃねーか」というツッコミになっています。しかも2度起きているので、二度寝です。めっちゃ寝てるやん。

そしてもちろん、タケウチカズタケが敬愛する映画007の5作目「007は二度死ぬ」のオマージュでもあります。

とはいえ山本和男はシャーロック・ホームズへの偏愛から生まれた探偵です。ホームズシリーズ「最後の事件」に酷似する前回の状況からしても今作は「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」に当たります。なのでそれがそのまま、英題に反映されているわけですね。

ただ「The Return of Yamamoto Kazuo」ではちょっとあざとすぎるし、何ごともなかったかのようにというか実際何ごともなかったはずなので、しれっと再開するために「you-know-who(あの人)」とお茶を濁しています。たぶんカズタケさんも気づいてないとおもうけど、これはハリー・ポッターの宿敵ヴォルデモート卿の通名からの拝借です。山本和男をヴォルデモート扱いすんなよ!と盛大に叩かれたい、そんなささやかな願いがこめられています。

次回は新曲、「ある昼行灯の問題/still on the table」についてです。

2024年7月5日金曜日

まだ公開されていない体で公開されるトラックリスト

アグロー案内 VOL.7
2024年7月7日(日)配信開始

勿体ぶるつもりもないんだけれど、ほっとくと川面の葉っぱのようにスイーと流れていってしまうので、それをこう、ちょっとでも引き止めるべく、小分けにできそうな情報を個包装にしてリリースまでの日々を維持しなくてはいけないのです。何しろリリースの確定から配信まで10日しかない最短級のスケジュールでありながら、早くも特に言えそうなことがありません。

そこでトラックリストです。何と言っても今回はVOL.6の2倍の曲数を収録しています。CD時代で言ったら2枚組に匹敵すると言っても過言ではありません。さらにタイトルの文字数だけなら3.3倍という脅威のボリュームです。ここぞとばかりにアピールする甲斐はあると言うべきでしょう。

そう思っていそいそと心の準備をしていたところ、数日前に御大がトラックリストをあっさり放流しており、まさしく川面の葉っぱのようにタイムラインをスイーと流れていきました。

流れ去る葉っぱを川べりでひとり見送るわたくし。

蓋し、人生とはそういうものです。気づけば色とりどりの種々様々な葉っぱが、日々という名の川を流れていきます。ここに小さな葉っぱをもう1枚、流したところでバチは当たりますまい。


VOL.6と並べてもらえるとわかりますが、眠らないはずの男が早くも二度寝をしていることがわかります。アグロー案内のシーズン2は、タイトルからすでに始まっているのです。

配信まであと2日です。都民のみなさまは都知事選の投票用紙にうっかり「山本和男」と書いてしまわないように気をつけてください。 

2024年6月28日金曜日

アグロー案内 VOL.7 リリースのお知らせ

さて、ぶっちゃけアグローどころではないほど多忙を極める御大が、超人的なバイタリティでナノレベルの微細な隙を縫いに縫いまくり最後の最後まで心血を注ぎ続けたアグロー案内 VOL.7がとうとう満を持してリリースの運びと相成りました。

シーズン2の開幕を祝して、シリーズジャケも一新しています。


しかももはや情報を小出しにする暇もありません。配信日は七夕の7月7日(日)です。

10日後。

告知からリリースまで最低でも3ヶ月を要していた時代とはしみじみ隔世の感があります。

よく考えたら都知事選の当日で声を枯らしてリリースを叫んでもあっさりかき消されそうなことに昼ごろ気づきましたが、いざとなれば「選挙がなかったらめちゃめちゃ話題になってたはずなのに!」とさも確定していた未来を失ったかのように地団駄を踏むことはできるので、それはそれでよしとしましょう。

ともあれ、どう考えてもリーディングを乗せるようなビートではない、という点に限ればアグロー案内史上おそらく最高、それでいていつになくリーディングとビートが互いに不可欠な要素としてがっちり噛み合っている、シーズン2の始まりに相応しいというか片割れの僕としてはこれが遺作でも異存ない作品です。

トラックリストやそれぞれの曲については来週以降にくどくどと書き連ねるとして、兎にも角にもサウンドの進化にひっくり返ってほしい。何ひとつしがらみのないプロジェクトなので、タケウチカズタケのサウンド実験室として存分に有効活用してもらえたらとは当初から考えていましたが、結果的にそのへんの作品を余裕で蹴散らす完成度に達してしまっています。現代の名工に数えられる和菓子職人が本気で駄菓子に取り組むような、そんな趣さえ感じられる仕上がりです。やめずにいてよかった…!

そんなわけで、いつになく刮目してお待ちあそばせ!

あ、忘れてた

前回は2曲でちょっとしたスナック感覚でしたが、今回は4曲あるので、わりとお腹もふくれます!

2024年6月20日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その430


セロ弾きの喪主さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんの好きな香りがあれば知りたいです。また、香りによって昔の記憶を思い出す事はありますか?


パッと思いつくのは挽きたてのコーヒー豆、柑橘、檜あたりですかねえ。あと香りと言っていいのかわからないけど、草いきれとか土の匂いも好きです。茂みの中で茣蓙にくるまって息を潜めるのが好きな子どもだったので、そのころのわくわくするような気持ちと結びついているところがあります。土の匂いは、死んだらそのまま穴を掘って埋めてもらって微生物に分解してほしいくらい好きなんだけど、これはもういろんな現実的な理由から、実際には叶わぬ願いでしょうねえ。

個人的に香り(というか嗅覚)は、他の五感よりも圧倒的に記憶と結びつきやすい印象です。上に書いた「茂みの中で茣蓙にくるまって息を潜めていた記憶」もそうだし、プルースト「失われた時を求めて」で過去の記憶を呼び覚ます「紅茶に浸したマドレーヌ」も本文ではたしか味覚を強調していた気がするけど、あれも実際には味覚というより鼻に抜ける香りだったんじゃないかなとおもいます。

見たことある、聞いたことある、食べたことある、触ったことある、は普通にあるけれど、どれも嗅覚ほど唐突に記憶が強制再生されるほど強烈なトリガーにはなりません。なぜでしょうね?香りと結びつく記憶の話は、僕も他の人に尋ねてまわりたいことのひとつです。

僕にもそういう香りがあります。どんな香りと言われても説明できないのが本当にもどかしいんだけど、小4くらいのころ、クラスの女子にもらった手紙についていた香りです。思い返してみると、そういえば女子から手紙をもらうなんて人生でこの時くらいしかなかった気がするな…としんみりしないでもありません。しかしもういい年こいたおっさんなのでそれはまあどうでもよろしい。

率直に言って、この同級生女子についてはほとんど何も覚えていません。名前は覚えているけれど、顔はぜんぜん思い出せない。他に覚えているのは走り方がちょっと独特だったことと、彼女の家の庭に金柑の木があったことくらいです。どんな話をしていたのか、なぜ手紙をもらったのか、そもそも仲が良かったのかどうかもまったく覚えていない。逆にリアルですね。

ただ、もらった手紙についていた香りだけは、いまだに、この年になっても、嗅いだとたんに瞬時かつ強制的に記憶の引き出しを全開にさせられます。甘酸っぱい青春の思い出とかそういう感じならまだしも、本当に「あ、あの手紙の」となるだけです。今さら小学生のころのイメージを持ち出されても困るので、むしろ記憶を抹消したいんだけども、条件反射とか不随意運動に近いものがあって本当にどうにもなりません。嗅覚がいかに記憶と強く結びつくかという、まさに典型例であると申せましょう。

頻度で言うと、数年に1度もありません。10年に1度くらいはあるような気がするけど、5年に1度はない気がする。でもあると言えば、今も確実にあります。忘れたころに不意打ちを喰らっては些細なダメージを負う人生です。

もちろん嫌な記憶ではありません。言うまでもなく、これはどちらかといえば甘酸っぱい、キュンとするはずの思い出です。でも正直、いい年ぶっこいたおっさんになってまで、小学生のころの記憶にキュンとなんかしたくない。何十年前の話だとおもってんだ!その後の人生に大きな影響を与えたわけでもなし、爺さんになってまでその些細な記憶を保持する意味なんてないだろうが!もし死んだ直後にこの香りが漂ってきたらブチギレて生き返るぞ!!!!

そんな香りです。本当に勘弁してほしい。


A. 小学生のころ女子にもらった手紙を思い出す香りがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その431につづく!


2024年6月14日金曜日

新たなリリースに必要なすべてのデータが出揃ったこと


さて、アグロー案内 VOL.6から9ヶ月…ようやくVOL.7の準備が整いました。時間がかかったというよりも、この先もできるだけ長く続けていきたいプロジェクトなので、急がず焦らず、無理なくリリースできるタイミングがたまたまこのあたりだっただけ、と申せましょう。僕はともかく、片割れである御大はこのところ本当に大忙しなので、その隙を縫って戻ってきてくれるだけでも御の字です。

リリース日が確定した暁にはまた改めて鼻息荒くお知らせしますけれども、VOL.7はこれまでのシリーズと明らかに一線を画します。前作 VOL.6 で名探偵山本和男が滝壺に転落した気がしないでもないと言い切れなくもなくはなかった劇的な展開もあり、われわれも今作からはシーズン2という位置付けです。

個人的にはあくまで気持ちの問題だとばかりおもっていましたが、蓋を開ければさにあらず、サウンドが明らかに異なっています。今に至るまで進化もくそもないガラパゴス的立ち位置に甘んじる僕にしてみれば青天の霹靂で感電死と言うほかありません。第一線で活躍し続けるミュージシャンにとって9ヶ月とはかくも大きな変化をもたらすものなのかと、人知れず戦慄したくらいです。

ここに至っては気持ちの問題だけでなく、名実ともにシーズン2と呼ぶにふさわしい仕上がりに相なったと申せましょう。

そうなると僕としても認識を改めざるを得ません。中身の印象がこれだけ違うのに、ジャケットが今までと同じで本当にいいのか?内容だけでなく、むしろロゴやジャケットを一新することでもフェーズの遷移を示すべきではないのか?

そんなわけで、冒頭の画像にもあるように、タイトルロゴが一新されました。

そしてもちろん、シリーズジャケも更新されます。

歩幅が小さい、数曲ずつのEPリリースだからこそ、そしてリアルタイムで対応できる配信ならではの醍醐味ここに極まれりです。こんなふうに展開していくことになるなんて当人たちですら予想していなかったのだから、ちょっとした感慨があります。まだまだいろいろと遊べそうだなあ。

刮目してお待ちあそばせ!

2024年6月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その429


ジャングルジム大帝さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 毎日夢に出る猫がいつまで経ってもなつかないときどうすればいいのでしょうか。


夢に出る、というのがいいですね。現実だったらなつかなくても不思議はないけど、夢となると話がちょっと変わってきます。その猫の存在やなつかないことに意味はあるんだろうか?それともないんだろうか?

質問に深い意味はないとおもうし、深掘りしなくてもよさそうなものですが、しなくていい深掘りをして無駄に大きな穴を空けるのがこの質問箱の骨頂でもあるので、ここはやはり真剣に悩んでいて夜も眠れず、気づけば毎日夢に出るどころか眠れていないので最後に見た夢の記憶すら定かではなく、しかしそうすると悩む理由がないので眠れない理由もないという、Excelで言うところの不毛な参照循環に陥っていることを前提に考えてみましょう。前提の時点ですでにある種の解決を示唆しているように見えなくもないですが、そう見なければいいだけの話です。

個人的に気になるのは、「なついていいのか」という点ですね。

なつかなかった猫がなつくとすれば、それは明らかに劇的な変化です。考えようによっては無から有に転じたとも言えるのだから、天地創造に比肩すると見なすこともできるでしょう。現実世界ならそのままハッピーな日々がつづくと考えてよさそうですけれども、夢となるとそうはいきません。なんとなれば夢の中では、その猫が何らかの象徴である可能性も否定できないからです。以前と以後で何かが決定的に変わってしまうかもしれないことを肝に銘じる必要があります。

たとえば夢の中の猫が平穏の象徴であったとしましょう。それならなおのこと、なつくほうがよっぽど平穏に思われるかもしれませんが、逆になつかないことのほうが変化がない点でむしろ平穏を意味しているかもしれないのです。

また一度なついた猫は、こちらが適切な愛情をもって接するかぎり、以前と同じ距離まで退くことはありません。とすればそれは不可逆の変化です。人生にも不可逆の変化はいろいろありますが、以前と以後で決定的に変わって二度とは戻らない、その最たる変化が死であることを考えると、夢の中の猫がなつくことを無条件に受け入れていいものだろうか?

死ほど極端ではないにせよ、「なつかない=失いたくない」、「なつく=失う」に置き換えるだけで背筋を冷たいものが伝います。そう考えるとむしろこれはどんな手を使ってでも絶対になつかせてはいけないミッションであるかもしれないのです。愛らしいネコチャンを使って失いたくないものを失わせるなんて、狡猾にもほどがある。

もちろん、実際にはなつかせることができれば、決定的な不可逆の変化として、その後の人生は薔薇色が保証される可能性もあります。その対極が死である以上、一か八かで賭けるにはちょっと心理的コストが高すぎる気もしますが、そもそも日々が地獄みたいなものなのであまり気にならない、もしくは死とは竹馬の友なので、夢の中の猫をなつかせることにはどう転んでもメリットしかない、という人もいるでしょう。

ただその場合、問題になってくるのは、なつかせるために駆使したい諸々のアイテムを夢の中に持ちこむことができない、という点です。また覚醒時にいいアイデアが閃いても、それを夢の中の自分が引き継ぐとはかぎりません。

なので僕としては、蕎麦殻の枕を木天蓼の実と入れ替えることをおすすめします。枕だけでなくパジャマを木天蓼柄にするなど、寝具とベッドを木天蓼一色に染めてしまいましょう。夢の中でも木天蓼にうなされるくらいになれば、なつくかどうかを考えるよりも先に、猫がゴロゴロと喉を鳴らして近づいてくるはずです。また仮にそれでも近づいてこないとすれば、それは猫ではありません。猫の形をした別の何かであって、距離を縮める必要のないことがはっきりします。一石二鳥です。試す価値はあるでしょう。

ただし、その結果起きるかもしれない不可逆の変化については責任を負いかねます。がんばってください。


A. 木天蓼に埋もれて寝てみましょう。




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その430につづく!

2024年5月31日金曜日

音吐朗々を体現する数少ない朗読詩人のこと

画像はイメージです

音吐朗々という言葉があります。ハリがあって伸びやかでどこまで行き渡るような発声、というような意味です。主に豊かな朗読を指して使われる言葉ですが、たぶんプレゼンとか演説なんかにも当てはまります。

これまでに細々と続けてきた僕自身の発声表現に音吐朗々という言葉を当てることはとてもできないけれど、それでもまだどうにかこうにか続けられているのは、例えばここ数年は「アグロー案内」のパートナーでもある御大タケウチカズタケのおかげによるところが大きい。誰であれ、人生にはこの人がいなければその後が大きく違っていたと感じる、有意な縁がいくつもあるものです。

こうした分水嶺とも言える出会いをいくつか遡っていくと、現在の僕の歩みを決定づけたそもそもの端緒、濫觴として、どう考えても不可欠なひとりの人物に行き当たります。出会いというよりもむしろその存在が、と言い換える方が正確かもしれません。

それがさいとういんこ女史です。

いんこさんはかつて僕が初めて人前で朗読を披露したイベントの主催者です。この形でなら一度はトライしてみたいと思える、今も昔も唯一のイベントだったので、彼女がいなかったら詩は書いても朗読は今もしていなかった可能性がめちゃめちゃ高い。

そして彼女自身、音吐朗々を体現する数少ない朗読詩人のひとりでもあります。

じつを言うと僕もそれ以外のことをあまりよく知りません。知っているのはローリング・ストーンズとマクドナルドが大好きで、その昔バンドでメジャーデビューをしたボーカリストだったことくらいです(レコード屋でソロ時代のEPを見つけたので本人にプレゼントしたことがあります)。あと、気に入らないやつの車の助手席にシェイクをぶちまけたことがあると話していた気がする。

でもこれだけで十分にその女傑ぶり、ひいては朗読の朗々っぷりを想像してもらえる気もします。初めていんこさんの朗読を聴いたときの凛とした空気と澄んだ声音は、僕にとっても忘れられない記憶のひとつです。

そんな彼女を中心とした、稀有な朗読イベントが6月にございます。


2024年6月16日(日)
Splash Words presents
「SPOKEN WORDS SICK 5
さいとういんこ『ハンバーガー関係の数編の詩と、その他の詩』出版記念」

出演:さいとういんこ、長沢哲夫、カワグチタケシ、小林大吾
時間:19:00open 19:30start
会場:Flying Books(東京都渋谷区道玄坂1-6-3 2F)
料金:¥2,000(1ドリンク付 限定40名様)
チケット:Yahoo!パスマーケットにて (5月5日正午受付スタート)
(残席がある場合のみ、当日券を発行させていただきます。)


断腸の思いで割愛したけれど、ナーガやカワグチタケシさんも、このお二方だけで界隈がざわつくレジェンドと大ベテランです。そこにしれっと僕も紛れこんでいて恐悦至極というか心苦しいかぎりですが、せっかくなので僕もアグロー案内に収録予定の新作なんかを、ビートなしで朗読するつもりです。

よかったらいらしてね。

2024年5月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その428


ハルマゲ丼さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. いつも行くお店(例えば大阪王将)で新しいメニューを頼もうと思ってお店に入ってもいつも同じものを頼んでしまう現象の解決方法をご教示ください。


これ、僕も完全に同じですね。というか僕はそもそも同じメニューを毎日食べ続けてもさほど飽きない体質なのでいっしょにしていいのかちょっとためらいますが、しかしまあ誤差の範囲でしょう。行き慣れている店では95%くらいの確率でいつも同じものを頼みます。のこりの5%は稀に起きるエラーです。なぜエラーが起きるのかは僕もよくわからない。

しかしなぜいつも同じではいけないのか、と僕なんかは切におもいます。そりゃ毎日ラーメンとか牛丼となったらいろいろと支障もあるでしょうが、そういう話ではありません。この店に来たらこれを頼むというだけです。普通じゃないですか?

いつも同じものを頼むのは、それが美味いと知っているからです。コストに対して100%の見返りが得られると言い換えてもいいでしょう。一方で今までに頼んだことのないメニューはその見返りが未知数です。いつも頼むメニューよりも見返りが大きい可能性はもちろんありますが、大幅に損なう可能性も同じくらいあります。上回るか下回るかだけで見ればその確率は五分五分です。確実に得られる最大値を取るか、50%の確率で100%以上を期待するか、人としてどちらがいいとは言えないけれども、生物としてはリスクなしに最大値を得るほうが普通なのは間違いありません。何となれば50%の確率というのはあくまでも賭けであり、賭けに負けた場合は死に直結することもあり得るからです。いつものあの店で毎回チャーハンを食うことの一体何がいけないのか、むしろわざわざいつもと違うメニューに挑むギャンブル体質こそ是非を問われていいはずだぞ、ドン!と握り拳をテーブルに叩きつけながら僕は言いたい。

さて、自身の正当化と理論武装はこれくらいにしてもう少し客観的に考えてみると、まずこれ、じつは前提からおかしなことになっています。

考えてもみてください。ある店にいつも行くとすれば、理由はもちろん、その店が好きだからです。それが飲食店だった場合、好きなのはそこに美味いものがあると知っているからです。そしてなぜ美味いと知っているのかといえば、もちろんそれを食べたことがあるからです。もし毎回違うメニューを選べているのなら、そもそもいつも行く店にはなっていないことを自覚する必要があります。いつも同じものを頼むからこそ、いつも行く店になっているのです。

もちろん好きになったからこそ他のメニューも頼んでみたい、ということはあるだろうし、それは僕もよくわかります。実際、僕ですらそういう店はある。でも毎回同じもの、たとえばふわとろ天津炒飯と焼餃子を頼んでしまうとすれば、それがまさしく大阪王将を好きな理由だからです。

ふわとろ天津炒飯がこれだけ美味いのだから他のだってきっと美味いはずだ、と考えるのは当然だし、確率的にも理にかなっています。初めての店に行くよりも美味いと感じる確率は高い。しかし行ったら行ったでやっぱりふわとろ天津炒飯と餃子が食いたくなるので、成功率で言ったらむしろグッと低くなります。同じ理由で2つの確率を相殺しているわけですね。

いつも行く店に足を運んだ時点で勝敗は決しています。その上でなぜわざわざ新しいメニューに挑む必要があるのか、もう一度よく考えてみましょう。選ぶことができれば他の店よりもわりと高めの確率で見返りを得られるのは確かですが、行為それ自体の成功率はむしろ低い。となれば解決法はやはりひとつしかありません。


A. 行ったことのない別の店に行きましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その429につづく!

 

2024年5月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その427


たけのこの佐藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もし地獄に行くことになったら楽しみなことと、逆に天国に行くことになったら不安なことはなんですか?


天国に対する不安はともかく、地獄の楽しみとはまた難儀な質問です。何であれ楽しみにされたら地獄もたまったものではありません。まんじゅうこわいが通用するほどのんきな場所でもなさそうだし、楽しみがあると知られたとたんにそれを潰しにかかるか、逆手に取ろうとするでしょう。

昔から気になっているのは「そこにヒト以外の動物はいるのか?」という点です。天国にはいるような気もするけど、地獄にはそういうイメージがありません。少なくとも僕が鞭で打たれているその隣で、同じように鞭で打たれるウサギがいるとは思えない。ですよね?

もちろんヒト以外の動物に罪はありません。罪はあくまで人間が社会を維持するために生み出した概念です。しかしそうなると、なぜ人間由来の概念が人知など遠く及ばないはずの地獄で同じように適用されているのかというわりとシンプルな疑問が生まれます。

人間社会において、たとえば窃盗や殺害は明確に罪ですが、ヒト以外の生物社会においては当てはまりません。それとも僕らが知らないだけで、鹿とかライオンもそれぞれの地獄で責め苛まれたりするんだろうか?だとすると「それぞれの地獄」とわざわざ区分けする必要はどこにもなさそうだし、僕らのいる地獄にも悪いサルとか悪いカメとか悪いカタツムリがいてもおかしくないことになります。

しかしいくら極悪だとしても、そのために1匹のカタツムリが責め苛まれるとしたらそれは虐待には当たらないんだろうか?いや、これは虐待ではないのだ、報いなのだ、と言って納得できる人がいるだろうか?

だから、そうですね、地獄にヒト以外の動物がいるのかどうかを確かめてみたいです。それをひとつの楽しみと言ってもいい気がします。ついでに虐待がどうあれ正当化される根拠も訊いてみたい。

だいたいなんで造物主側がジャッジしてんだよ、どういう理屈で被創造物が責任を負うことになるんだ、つくった側も責任とれよ、お菓子に混入物があったら責任とるのはメーカーだろ、エラーとしてのお菓子を地獄に落とすとか責任転嫁もいいとこじゃないか、そもそも造物主なんだからエラーがないようにつくりゃいいだろ、と僕なんかは思わないでもないけど、べつに波風を立てたいわけでもないので、これは僕ひとりの胸に留めておきましょう。

一方天国については正直、不安しかありません。争いがないとか苦痛がない、というのはなんとなくわかるんだけど、それが具体的にどういうことを意味しているのか、それ以上に「僕らはなぜそこにいるのか」があまりにも漠然とし過ぎているからです。

これは地獄もそうなんだけど、永遠という対価が善に対しても悪に対しても大きすぎます。仮に全人類が満場一致で認めた極悪非道な罪人がいるとして、永遠の苦痛はその罪に見合うものだろうか?永遠ですよ!1億年とか1000兆年ですら一瞬に感じられるような圧倒的なスケールの時間です。百歩譲って永遠の苦痛に見合う罪があるとしても、ではその線引きがいったいどこにあるのか、とやはり異議を唱えずにはいられません。そもそも永遠に「結果」は存在しないし、その終わりなき苦痛が何のためにあるのかも、こうなるとさっぱりわからない。そんなことよりむしろ真っ当な善人へと更生させるほうに注力してほしいとおもう。

天国にしても、何ひとつ罪を犯さず、善行を積んで穏やかに一生を終えたからと言って、その対価が永遠はやはりいくらなんでも莫大すぎます。100年問題なかったからもう100年寿命あげるよとか、もう1回人間に生まれ変わっていいよ、くらいのほうがよっぽど納得できる話です。たかだか100年未満の歳月を善人として全うしたからと言って、1000年後に極悪非道に成り果てる可能性がゼロだとなぜ言い切れるのか、100年で永遠がもらえるなら一生に一度ゴキブリを殺さずに逃してやるだけで1000年くらいの天国在留資格を得てもいいんじゃないのか、と考えずにはいられません。

そういう疑問や不安を持たずにすむ場所なのだ、ということもできそうだけど、それはそれで自由意志を奪われているような気もします。しませんか?どんなに些細であれ疑いを抱くことができてこその自由だし、そうでないならそれは誰にも負の影響を及ぼさないというだけで、本質的には洗脳だし、マトリックスの世界と同じです。

だいたい姿形と性格が今の自分のまま永遠に突入することを、みんながみんな喜ぶとは思えないんですよね。亡くなった年齢で永遠が固定されるのもどうかとおもうし、と言って好きな年齢に若返るのも都合が良すぎます。あるがままを受け入れる人だけが在留資格を得るのかもしれないけど、そんならそもそも外見とか性格とか個性とか必要なくない?

そんなわけで天国は実際のところ地獄以上に胡散くさいと僕は考えます。不安しかありません。


A. 地獄で楽しみなのはそこにヒト以外の生物がいるかどうか、天国で不安なのはその存在そのものです。




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その428につづく!

2024年5月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その426


キャプテン米ぬかさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. たまに道端に落ちている石や物を拾って家に持って帰ることがあります…どうしてでしょうか。本当にたまになのですが、お地蔵さんみたいな木彫りの人形を拾って飾ってたりしました。


これはですね、わからない人には本当に言葉を尽くしても絶対にわからない話だとおもいますが、僕はなんとなくわかるような気がします。たぶんそこにある種の分身を見ているのです。

もちろん、分身であると明確に意識しているわけではありません。実際にはかわいいなとかおもしろいなとか、それくらいの認識でしかないはずです。ただおそらくだけど、拾うのはいつも、価値があるかと言ったら全然ないものなんじゃないかと思う。ここで言う価値とは、客観的な価値だけでなく、主観的な価値も含まれます。買うかと言ったらじぶんでも買わない、完全無欠の無価値です。ご自身でも首を傾げてしまうわけだから、この点は間違いないでしょう。

それなりのサイズがないかぎり、そこに価値があろうとなかろうと、人は落ちているものにさほど気を配りません。仮に価値があったとしても、拾われる確率が上がるだけでやっぱりすべての人が目を留めるわけではないし、完全な無価値となったらそりゃもう言わずもがなです。何しろ石ころだったりするわけですからね。

にもかかわらず目を留めて、拾い上げ、持ち帰り、部屋に飾るというのは、ちょっといいなくらいの気持ちだけでは説明しきれません。磁石が砂鉄を吸い寄せるように、そこには何か必然的な力が働いているのではないか。とすれば物それ自体というよりもむしろそこに投影された自身を拾い上げている、と考えるほうがしっくりきます。世界中に散らばっている小さな自分の欠片をこつこつ拾い集めている、と言い換えてもいいでしょう。

それでなくとも誰もが見過ごす日常の差異に気づくわけだから、その感性は繊細です。顧みられないものに対する感度もたぶん人一倍高い。

つまりこの行為は、誰にも語られることなく紡がれる細い細い物語の、目に見えない1ページでもあるのです。

物語はまだこの先も続きます。大事にしてください。


A. 世界中に散らばっている小さな自分の欠片をこつこつ拾い集めているのです。




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その427につづく!
 

2024年5月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その425


ボヨンセさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 初めて1人で作ったプラモデル、覚えていますか?


これはおぼえています。「ロボダッチ」ですね。ネーミングからして昭和後期に属する玩具であることが丸わかりなので、今その名を口にするのはちょっとためらわれるものがあります。

ロボと言ってもリアル志向ではありません。丸っこいしちまちましてるし、ガンダムよりはむしろちいかわに近い。比較したら怒られそうな気もするけど、バトルアニメよりサンリオを好むような男児だったので、そのへんは大目に見てください。ロボということになっているキャラクターたちがみんなでワイワイみたいな、そんな感じのシリーズです。


一つひとつはも手のひらに乗るくらいの小さなものです。昔のプラモデルなので、色もついていません。何なら接着剤が必要だった気もします。組み立てるパーツも少なくて下手すると10個くらいだったし、プラモデルである必要が一体どこにあるのか、そんなことを考えさせられるいじらしさがありました。でもすごいたくさんの種類があって、おもちゃ屋のプラモデルコーナーではかなりのスペースを占めていたはずです。興味のあるものしか目に入ってなかった可能性もありますけど。ていうかそういえばおもちゃ屋ってものがあったよね。

おもえば僕が小学生のころは、ちょうどプラモデルが劇的に進化した時代だったかもしれません。主にロボット系ではあるけれど、接着剤が不要になり、パーツごとに色がついて無塗装でもそれなりの完成度が得られ、関節部分にポリキャップという柔らかい素材が導入されたことで可動域がめちゃめちゃ広がりました。テレビが白黒からフルカラーになるくらい大きな変化だったんじゃないだろうか?

ロボダッチはそのひとつ前の世代です。接着剤はひょっとしたら不要だったかもしれないけど、色なんかついてなかったし、関節という概念もありませんでした。胴体との接続部がくるくる回るだけです。肘とか膝とかそんな高度な機構もなかった。

昔の子どもはプラモデルとかなくてかわいそうだなあと思ってたけど、いま振り返ってみると僕も相当かわいそうな時代に属してた気がしてくるから、不思議なもんですね。

3Dプリンタの登場もあって、もはやプラモデルでできないことはないところまで行き着いたことを考えると、30年後はどうなってるんだろう。プラモデルという概念はまだ存在してるんだろうか。あるいは逆に失われた古代の超技術として語られたりするんだろうか。

この延長線上には生身の人間と同じように自由に動かせるフィギュアがあると思うんだけど、と言って搭乗できる人型ロボットへの憧憬は数十年くらいじゃ尽きない気もするし、それほど遠くない未来が今からちょっと楽しみです。


A. ロボダッチです。




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その426につづく!

2024年4月26日金曜日

儚く散ったちいさな花とその供養のために


さてまたひとつ、供養のために書き残しておきましょう。

本当にやむを得ない、運がなかったとしか言いようがない、誰も責められない状況でお蔵入りとなった案件がありました。電車のマナーポスターです。

マナーポスターには個人的に以前からすこし思うところがありました。これはそもそも誰のためにあるものなんだろうか?

何しろポスターを目にする圧倒的大多数の人はすでにマナーを身につけています。彼らにとってそれはわざわざ言われるまでもなく当たり前のことであり、特に啓発の意味を持ちません。

それでいて、掲げられたメッセージは「ダメ」「NO」「しないで」等々、すべからくネガティブです。マナー向上のためなんだからこれも当たり前と言えば当たり前なんだけど、これではその行為をただ非難しているだけのようにも思われます。できればこうあってほしいということを伝えるのに、非難が必要かと言ったら必ずしもそうではないはずだし、マナーを大切にしている多くの人も目にするわけだから、ポジティブとまでは言わないにしてもネガティブではない、別のアプローチがあってもいいんじゃないだろうか?

とすれば最低限の注意を喚起しつつ、マナー違反を責めない(←重要)、それでいて目を留めた人がちょっと和むようなもののほうがはるかに共有もしやすく、また結果としてメッセージも浸透しやすくなるのではないのか、何ならちょっと意味がわからないくらいのほうがよほど心に残って多くの人の日々を彩るだろうし、全方位にハッピーで丸く収まりそうな気もするのです。

そんなことを考えながらせっせとこしらえ、満を持して提出し、クライアントからもばっちり好感を得ることができ(←これも重要)、ではこれでいきましょうというまさにその絶妙なタイミングでいくつかの不幸な偶然が重なった結果、やむなく白紙となってしまったポスター案がこちらです。








今みてもわるくないし、こんなポスター貼ってあったらいいのにとしんみり思います。どこかが採用してくれてもいいんだぞ。

2024年4月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その424


ジャンヌダルいさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 某猫型ロボットのポケットに新たな道具の開発チームに配属され3つアイデアを出せと上司から命令があったらどんな道具のアイデアにしますか?


無限の夢があって悩む甲斐のあるすてきな質問です。

しかし一方で、今の僕には昔なら考えもしなかったひんやりした現実を突きつけられているような気がしないでもありません。というのも、いい年をしたおっさんはすでに「あんなこといいな、できたらいいな」とはあまり考えなくなっているからです。子どもたちと共有できるほどやわらかな夢を見るにはあまりにも多くの、それができりゃ苦労はしねえんだよ的な苦渋を味わいすぎている。

開発チームに配属されたものの一向にアイデアが出ず、年齢もあって早々にチームのお荷物として腫れ物扱いになり、誰も彼もがひそひそと自分の噂をしているように感じられ、終電を逃した駅のベンチで「こんなことならいっそ…」と思い詰める未来しか見えません。

そんな身も心も重たいリストラ間近の僕が提案したいのは、「絶賛マイク」です。

このマイクを通した発言は、どんなにしょうもないことであっても破壊的な説得力をもち、半径5メートル以内の人を強制的に同意させてしまいます。これさえあればひみつ道具開発チームのお荷物になることなく、すべてのプレゼンが圧倒的大多数の賛意を集め、リストラを回避できること請け合いです。ただあくまで同意させるだけなので、開発チームの生産性が著しく低下したあげく解体されるリスクもなくはないですが、そのへんはまあ、出世コースを邁進する優秀な同僚がどうにかしてくれるでしょう。人生の瀬戸際にある僕が考えることではない。

それからふと思いついてちょっとほしいのは「100年ボックス」です。電子レンジみたいなイメージで、中に入れたものの時間を前後100年まで操作できます。操作後の時間を新たな起点にリセットできるので、根気よく繰り返せばトータル1億年も可能です。たとえば今のスマホが100年後にどんなデバイスになっているのか、あるいはスマホに対応していると言えそうな道具を何年前まで遡れるのか、といったことが確認できます。スマホはちょっと多機能すぎて「機能をひとつに限定してください」みたいなエラーが出そうですけど。

明らかに対応するものが存在しない年代まで到達すると、中に入れたものは消えます。つまり、中に入れたものが歴史に登場する年代をある程度まで特定できるわけですね。特にいま当たり前にある料理なんかは、どこまで遡れるのか見てみたい。国民食であるカレーライスにしても昭和初期と今では作り方も味もぜんぜん違うっぽいし、今でこそおしゃれスイーツみたいなことになってるマカロンも最初は単なるクッキーみたいな菓子だったらしいですよ。

3つ目は「足の小指エアバッグ」です。タンスの角にぶつけても大丈夫、指先タイプと靴下タイプの2種類があります。

唯一の懸念はタンスという家具がこの先いつまで存在するのかという点ですが、仮にタンスが歴史から消え去ったとしても、足の小指はどうあれぶつけるものと相場が決まっているので、タンスに代わる新たな障壁が立ちはだかることになるでしょう。オーバーテクノロジーの粋を集めて、脆弱な足の小指を守ろう。

どれもこれも既出だったらすみません。こうなるとむしろ既出でないものがひとつでもあれば勝ちって感じもするな…。


A. 「絶賛マイク」「100年ボックス」「足の小指エアバッグ」の3点です。




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その425につづく!

2024年4月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その423


アタフタヌーンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 好きな食べ物は先に食べる派ですか?後に食べる派ですか?


これはですね、どシンプルに思えるし実際どうでもいいことこの上ない話ではあるんだけど、考え始めるとなかなか奥行きがあります。

先であれ後であれ理由は基本的にどちらも同じです。そのほうが喜びが大きい。ですよね?好きなものを食べることの意味と価値もそっくり同じはずだし、にもかかわらずなぜ人によって着地が真逆になるのかという話にはあんまりなりません。互いにわかり合うことなく「へぇ〜」で終わります。不思議というほかない。

今の僕はどちらかというと先に食べる派です。でも昔は迷わず最後に食べる派でした。どの時点で変わったのか、ぜんぜん記憶にありません。気づいたらそうなっていた。

それを踏まえてつらつら思い返してみると、後で食べるのは食べたらなくなってしまうという気持ちが大きく作用していたような気がします。昔は深く考えなかったし、最後のひと口が好物ってうれしいじゃんくらいにしか思ってなかったけど、突き詰めるとどうも失うことの悲しみを無意識に避けようとしていた節がある。ごはんはまだあるのにいちばん好きなものはもうない、みたいなね。でも最後のひと口なら食事も終わりなので、そんな気持ちになることもない。

とくに子どものころなんかは食事に対する主体性がかなり薄いし、次にいつ食べられるかわからないこともあってなおさら別れを惜しむようなところがあったかもしれません。

翻って今の僕は単純に食事ができることの喜びを、大げさでなく毎日ひしひしと感じています。この心境における好物にはもはやありがたみすら感じるくらいです。もちろん昔ほどたくさん食べなくなったとか、いちばん美味しいタイミングで食べたいとか他のいろんな要素が絡んでくるとはおもうけど、いずれにしても得られることの喜びが大きい。食べたらなくなることよりも、むしろ食べられることのほうに比重が置かれています。

以上のことから考えるに、好きな食べものを先に食べるか後に食べるかを決めるのはおそらく、「失うことの悲しみ」と「得られることの喜び」の天秤です。喜びに傾く場合は先に食べる、悲しみに傾く場合は後に食べる、ということですね。傾きが大きい場合もあれば小さい場合もあるから、白黒というより相対的かつ流動的で、これなら僕が立場を変えたのも頷けます。

そもそもそんなこと聞かれてないので回答としては一言で済むんですけど。


A. 今はわりと先に食べます。




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その424につづく!

2024年4月5日金曜日

あるひとりの女性についての気が遠くなるような長い話


今を去ること12年前、ひとりの女性があるミュージシャンの演奏に釘付けになりました。生で観たのか映像で観たのか失念してしまったけれど、とにかく一目で心奪われて、この人のことをもっと知りたいと思ったそうです。ほぼ恋ですね。

ところがそのミュージシャンはフロントマンではなく、バンドメンバーのひとりだったので、名前を知ることができません。クレジットもなかったと言います。たぶんソロアーティストのサポートで演奏していたんだとおもう。正確には違うかもだけど、そこはあまり重要ではない。

バックバンドとして常に固定されたメンバーならまだ追いようがあります。また、仮にその日たまたまサポートで演奏していた場合でも、ライブ中にメンバーを紹介したりもするでしょう。でも彼女はじぶんの心を奪ったミュージシャンが誰なのかを知ることはできなかった。

というのも、彼女が中国在住の中国人で、惹かれたミュージシャンが日本在住の日本人だったからです。

ググったりSNSでどうにかなりそうじゃんと思うかもしれませんが、ここにも2つの問題があります。12年前というと2010年代初頭であり、SNSも今ほど当たり前ではありません。僕がTwitterを始めたのだってたしか2010年です。すくなくとも「助けてフォロワー!」と叫んでみんなが応えてくれるような世界ではまだ全然なかった。

それ以上に、そもそも中国という国そのものが問題の解決を阻みます。ものすごく控えめに言って、かの地はインターネットにおける情報へのアクセスが日本や欧米諸国ほどオープンではありません。発信はもちろん、受信にも制限があって、ググればいいことにはまったくならないのです。

とはいえ今はその特異な環境について考えたいわけではないので、ここではひとまず知りたいことを自由に好きなだけネットで探れる環境ではないという点だけわかってもらえればよろしい。何しろ「解像度が低くて判別しづらい画像を手がかりに」とか探偵みたいなことを言っていたくらいだから、その苦難は推して知るべしです。

ともあれ彼女はそれから気が遠くなるほど長い年月をかけ、がんじがらめに制限された環境でもどうにか可能なありとあらゆる手を尽くしまくって、最終的に敬愛するミュージシャンへと辿り着きます。それがわりと最近の話です。

最初の一目惚れからゆうに10年以上が経過しています。完全な別人と勘違いしていた時期もあったそうだし、この人で間違いない!!!!と辿り着いたときの超新星爆発みたいな感動を想像するだけで、目頭が熱くなるじゃないですか?

満を持して彼女は文字どおり飛ぶように来日し、その期間中、件のミュージシャンが参加するすべてのライブに毎日、片っ端から通ったそうです。あとで聞いたら日本人である僕がググっても要領を得ないライブまで網羅していたので、その熱意たるや筆舌に尽くしがたいものがあります。よかった…。本当によかった…。

さて

ここまでは国境を越えたある種のラブストーリーみたいなものです。僕とは何の関係もありません。僕がこの話を知っているのは、例のミュージシャンと僕がたまたま長年の友人だったからです。僕はただ、友人から話を聞いて目を潤ませ、チーンと鼻をかんでいた観客のひとりにすぎません。このときはまだ、友人の大ファンである女性が僕の日々に登場する人物だとは想像もしていなかった。

今となってはそりゃまあそうかという気がしないでもないけれど、何しろ10年以上の歳月をかけて名も知らぬ異国のミュージシャンを探し当てた女性です。そこからごくごく細い線で繋がっていると言えなくもない僕にまでうっかり辿り着いてしまうのは、それほど不思議ではないかもしれない。ただ僕と友人のミュージシャンではやっていることがあまりに違いすぎます。たぶん同じステージに立ったのも、それこそ10年以上前に一度くらいしかありません。だいたい同じ日本人でさえ難儀する言葉過多なスタイル(僕のことです)に、日本語を解さない彼女が興味を示すとも思えない。

にもかかわらず彼女は僕に辿り着き、作品を耳にし、それでなくとも厄介な詞の数々を翻訳し(ここがいちばんびっくりした)、大意をつかんだ上でつい先日、巡り巡ってうちの人が営む古書店アルスクモノイで僕が店番をしているときに、訪ねてくれました。なんで???と今でもおもうけど、どうあれ出会ってしまったのだから仕方ありません。

僕がKiva(キワ)という彼女の通名を知ったのはこのときです。キワちゃんの髪がピンクで、背中に天使みたいな翼を背負っていて、全身カラフルで目もあやなファッションに身を包んだ、遠目からでもすぐわかる超キュートな女性であることも、ここで初めて知りました。

僕が今、ここでこうして彼女のことを書き連ねているのは、僕をフォローしてくれたからではありません。どうにかこうにか英語で交わす本当に些細な話の流れで、キワちゃんがピアノを弾く歌い手でもあることを知り、またその作品がどれも彼女の見目からはちょっと想像しづらい、ささやかでやさしい世界観に包まれていて、しかも彼女はそれを自ら語らなかったからです。

キワちゃんはじぶんの歌を聴いてほしいとは一言も口にしてはいません。僕があとで名前を検索して見つけただけです。まさかアルバムまで配信しているとは思わなかったし、ましてやそれがCDになっているなんて考えもしなかった。アピールは本当に全然、微塵もされていない。後日、僕らが聴いたことを知ったキワちゃん自身がびっくりして照れまくっていたくらいです。でもその歌と声は薄いガラスみたいに繊細で儚くて、可愛かった。人に対してはめちゃめちゃ積極的なのに、じぶんのこととなると途端に慎ましい、そのスタンスにキュッと心を掴まれたのです。

僕は目の前に大きなものと小さなものがあったら、小さなものに手を伸ばすタイプです。たぶんキワちゃんもそうだとおもう。でも彼女の歌は、どんなにまっすぐ伸ばしても紆余曲折になってしまうKBDGなんかよりもよほどストレートではるかに多くの人に届いていいはずのものだと、僕は信じて疑いません。

僕の影響力なんてせいぜい数十人に届くくらいのものでしかないかもしれないけれど、それでももしここを訪れてくれる人がいるなら、キワちゃんの歌にも耳を傾けてみてほしい。彼女の視線はいつでも本当にささやかな、僕らと同じ日々の片隅に注がれています。言葉がわからなくても、それだけで心を寄せる甲斐はまちがいなくあるし、しなやかな歌声とメロディで伝わるはずです。彼女の本名である「高宇婧」で検索してみてください(「婧」は正しくは女偏に青です)。


2024年3月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その422


キングオブ混沌さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 通勤するのに往復で2時間、自動車を運転しています。当初は「歌っていればすぐ着くし」と気楽に考えていましたが、毎日2時間うたうには体力が足りませんでした。そんなこんなで運転中(とくに帰路)の眠気が酷くて辛いです。何かよい方法があれば教えてください。


生きることの不条理が凝縮したような質問です。異星人なら脳裏が大量のクエスチョンマークで埋め尽くされることになるでしょう。職場へ瞬時に移動できるとか、100%自動で運転してくれるとか、眠いときにちょっと時間を止めておくとかすればいいじゃないかと高度な文明の価値観からは一蹴されてしまいそうですが、実際のところまだテクノロジーがそこまで到達していない地球においては、それが人生というものです。なぜと言われてもそんなのこっちが聞きたい。

眠気の克服に最も効果的なのは、言うまでもなく睡眠です。なのでまず第一に考えられる解決は、勤務時間中にめっちゃ寝ることです。仕事が進まず、クビになるリスクも著しく高まる上にそもそもなぜ車の運転をしているのかもちょっとわからなくなってきますが、少なくとも溌剌として元気いっぱいな帰宅の実現には有効であると言えましょう。

次に考えられるのは、勤務後にさんざん寝てから満を持して帰ることです。帰宅前に6時間も眠っておけば眠気の介入する余地はなくなります。そうなると帰宅とは何かという哲学的な問題が新たに生じないでもないですが、それはまた別の問題なので別の機会に考えたらよろしい。

ただ、これらの方法は言うまでもなく大きな犠牲を伴います。

長時間の運転における最大の問題は、いつ何が起きるかわからないので、運転中どれだけ平穏かつ退屈であっても常に最大限の注意を払い続けなくてはいけない点です。適度な刺激が必要なのに気を取られるわけにはいかないのだから、理不尽なことこの上ありません。

この理不尽に対抗できる策があるとすればそれはラジオをおいて他にないと、僕はおもいます。動画や映画と違って視線を奪われることもないし、会話と違ってリアクションを求められることもない。なんなら聞き流してもべつに困りません。

ひと昔前なら、ちょうどその時間に聞きたい番組がないことも当たり前にあって難渋したものですが、今はちがいます。radikoによって好きな番組を好きな時間に楽しめる時代です。毎日就寝後に流れている番組を、毎日帰宅時に聴くこともできます。それはつまり、すべての民放ラジオ局で最も聴きたい番組をいちばん聴きたいタイミングで気兼ねなく聴けるということであり、妥協どころか日々をより豊かにし得る可能性が高いということでもあるのです。

自分の嗜好にぴったりと合う、ラジオ番組を探しましょう。眠かった帰宅時の運転がめちゃ楽しみになってしまう可能性、あるとおもいます。


A. ラジオがあります。




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その423につづく!

2024年3月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その421


このブログには不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描いていたらよほどマシだったかもしれない本ブログの特性に鑑み2024年当時の表現をあえて使用して投稿していますさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは、眼鏡を外すとどのくらい見えないんですか?


そうですね、たとえばどこからどう見ても幽霊でなんなら全体的にちょっと透けている、白い着物を着た髪の長い女性が恨めしい面持ちでこちらをじっと見つめながら暗い夜道にひとり佇んでいたとしても、メガネを外した僕がこれを幽霊と認識することはできません。ん?とは思うし、何かいることくらいは察知するはずですが、よくわからないので素通りしてしまう可能性が高い。つまり、異形の存在がほとんど意味をなさないくらいの視力です。

これは昔から僕が不思議に思っていることのひとつなんだけど、幽霊にとっては視認されなければ人のかたちで現れる甲斐がありません。気配があって何かがいることはわかるのにぼんやりしていてよくわからない、というのはおそらく幽霊にとって、気配すら感じられないことよりもよほど屈辱的なはずです。僕が幽霊ならこの至近距離で目を細めながら首を傾げてんじゃないよと言いたい。

もちろん、どちらかといえば肉体よりも精神に作用する存在だろうし、視力はぜんぜん関係ない可能性もあります。ド級の近視であっても、幽霊だけはその表情から細部まではっきりくっきり見えるのかもしれない。しかしそうすると視界のすべてが0.01の視力で描き出されているのに、幽霊の輪郭内だけが1.5とか2.0で映されるという気持ちのわるいことになります。度数のちぐはぐな視界ほど気持ちのわるいものはありません。というかその場合は幽霊に対する視力が1.2なのか1.5なのか2.0なのかもはっきりしてほしいし、その度数は何によって決まるんだという新たな問題が生じます。

そうなるとたとえ物質的には存在しない幽霊であっても、近視では家とか道とか電柱と同じようにぼんやりしてよく見えないと考えるのが自然です。見えているかどうかわからないのにとりあえず化けて出てみるというのもいささか非効率すぎるし、僕が幽霊なら夢に出るとか別のアピールを考えます。

いずれにしても幽霊の存在意義を根本から疑ってしまうくらいの視力である、とは申せましょう。どちらかというと僕はオカルトをわりと好むほうなので、そういう意味でもやっぱりメガネは必要だなと思います。疑わなくてすむからね。


A. 幽霊が舌打ちをするくらい見えません。




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その422につづく!


2024年3月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その420


ファイナルファンタグレープさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. これから年末年始を楽しもうという時に財布を失くしてしまいました🥲立ち直るためのアドバイスをいただきたいです🙇


これが3ヶ月前の話であることはさておき、財布の紛失は人生における重大な事故のひとつです。財布には紙幣や硬貨だけでなく身分の証明になるものが含まれていたりするので、自分が何者であるかを客観的に示すことができなくなる恐れもあります。そうなるともはや紛失というよりむしろアイデンティティの喪失に近い。取り乱すのも無理はないし、金額どころの話ではないとも申せましょう。

おまけにタンスの角に足の小指をぶつけるのにも似た精神的苦痛が2週間くらい続きます。治療法といえば近しい人の慰めと時間(流れるだけで特に何かをしてくれるわけではない)くらいであり、残念ながら現代の医学ではどれだけ手を尽くしてもどうにもなりません。運が良ければまるで初めから何ごともなかったかのようにきれいさっぱり完治するし、運が悪ければ心の奥にまたひとつブラックホールができます。そういう病です。

人もまた広大な宇宙と同じく心にいくつかのブラックホールを抱えて生きているわけですが、そのひとつに財布が、ひいてはアイデンティティが秒速1万kmで飲み込まれると考えるのはなかなか趣があります。太陽すら豆つぶ扱いするブラックホールと秒速1万kmという鬼のようなスピードの前では僕らの自己同一性など原子ほどの意味もありません。況や財布についてをやというか、なんならちょっと夢があるような気もしてくるじゃないですか?そんな気はしないと言われたら僕もそうだよねと思いますけど。

しかし一方で、財布がアイデンティティに等しいとするなら、今ここでこうしてキーを叩いている僕はなんなのだという疑問も湧いてきます。たしかに僕らはこの肥溜めみたいな世界を生き抜くために財布の機嫌を伺う必要があるし、それは確かなことだけれども、僕らが僕らであることまで財布に委ねているかといったら断じてそうではありません。どちらかといえば主人は僕らであって、財布の立場は単なる管財人です。僕らが財布を失ったのではなく、財布が職務を放棄したと言うべきでしょう。職務放棄どころか、業務上横領まで含まれます。ふつうに考えたら、財布に対する告訴まで視野に入れるべきです。腕のいい弁護士を探しましょう。そして告訴の準備が整うころには、だいぶ気が紛れていると僕は思います。


A. 財布を告訴しましょう。




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その421につづく!

2024年3月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その419


今夜は麦1パックさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. この世から豆板醤がなくなったとして、大吾さんなら代わりの調味料として何を推しますか?


先にお答えしておくと、僕はこれ、最適解を知っています。なのでいつになくスピーディにサクッと話を終わらせられるはずです。しかし実際にはキーボードに指を置いたまま、かれこれ1時間は逡巡しています。本当に答えていいんだろうかと躊躇わざるを得ません。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。

これは僕にとってあまりに都合が良すぎる質問なのではないか…?

何しろ豆板醤です。醤油や味噌ではありません。甜麺醤やコチュジャンでもなく、ましてやオイスターソースやナンプラーやスイートチリソースでもない。特に意味はないのかもしれないし、実際ないんだろうけど、しかしそれにしてはどうもこう、見えざる何者かに誘導されているような印象があります。何しろ僕は上に挙げた調味料の代用品を知らないのに、豆板醤の代用品だけは知っているのです。そんな自作自演丸出しみたいな話があるだろうか?

率直に言って、自作自演はまだいいのです。他ならぬ僕のブログだし、訪れる人も別にいないし、仮に莫大なアクセスを誇っていても初めからそのつもりで読まれていればどのみち同じことなのだから、今さら誰に憚ることもなく、大いに自作自演を繰り広げたらよろしい。正直そのへんはもうどうでもいいというか、どっちでもいい。

それよりもはるかに剣呑なのは、僕がそう答えるように予め仕組まれている場合です。人生のあらゆる分岐点において、僕らはみな自らの意志でキッパリと選び取っているつもりでいるけれども、実は初めから選ばされている可能性がないとは言い切れないんじゃないだろうか?すべては巷でうわさのディープステートの差金であって、気がついたらドナルドT的な人物の熱烈な支持者になっていたりするのではないのか?よりによってたまたま豆板醤の代用品について尋ねる人がいると同時にたまたま僕がその最適解を知っている、その確率と比べてもそれはあり得ないと果たして断言できるだろうか?

しかしまあ、だから何だという気がしないでもないので、ここはひとつあまり考えすぎずにお答えしておきましょう。


味わってもらえればわかりますが、ほぼ豆板醤です。ほんとに。


A. 富士食品工業の「粗挽きトウガラシ」です。




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その420につづく!

2024年3月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その418


アンハッピーターンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 読みたいな。と思って買った本なのに、どうしてか本棚にしまって読まずじまいのうちに次の本を買ってしまいます。全部の本を読み切るにはどうしたらいいでしょう。


いわゆる積読というやつですね。僕も家にあって読んでない本、結構あります。それでなくとも買うときは読み終わっても売らずに蔵書にしたいかどうかを基準にしているのでかなり厳選しているはずですが、それでもやっぱり積まれます。因果なことですね。

とはいえ原因はわりとはっきりしています。本を買うときは、誰であれ読む時間のことなど考えていないからです。

まだ配信というシステムがなかったころ、僕は月に30枚前後のCDを買っていましたが(よく考えたら1日1枚のペースです)、聴かずに積み上げた記憶はまったくありません。その日のうちにというか帰宅したら即再生していたし、それこそ繰り返し聴いていました。

一方で、これは僕のことではないけれど、プラモデルなんかも本と同じように積まれていくと聞いたことがあります。老後の愉しみにしている人も、まだ多くいるんではなかろうか。

音楽はCDであれレコードであれ、アルバムを聴き終えるのに1時間あればおおむね事足りたし、たとえば料理をしながらとか、散歩しながらとか、武器の手入れをしながらとか、何なら残しておくとまずい証拠を隠滅しながらでも楽しむことができます。

しかし書物やプラモデルはそうもいきません。時間はそのためだけに費やされるし、内容が充実していればしているほど、それに比例して費やされる時間も増えていきます。べつに一度に消化する必要は全然ないのだけれど、どうしてもゴールまでの所要時間を想定して向き合ってしまうわけですね。音楽としてのアルバムが数時間単位だったら、ながら聴きできるとしてもやっぱり本と同じように積まれていたとおもう。

僕が店番を務める古書店にときどき来られるお客さんで、常に数冊の本を持ち歩いている人がいます。聞けば出勤前に必ず勤め先近くの喫茶店で読書の時間を設けているそうですが、それは通勤中の電車で読む本とは別(!)なのだそうです。

これと同じくらい、というのは例えば就寝前のストレッチと同じくらい、読書が日々のルーチンに組み込まれていれば、読める本の数は飛躍的に増えるでしょう。ただそれでもやはり、本は積まれていきます。なんとなればそのぶん書店に通う回数も増えるわけだし、それでいて「買うのは誰でもいつでも一瞬」だからです。

本を買うのに費やす時間と、本を読むのに費やす時間がイコールでないかぎり、積まれた本が減ることはありません。仮にどんな本でも30分で読み切れるスキルを身につけたとしても、購入する冊数が増えるだけでやっぱり積まれていくでしょう。当たり前といえば当たり前という気もするのに、なぜか僕らはいつも首を傾げています。へんですね。

未読の本を読み終えるまで書店に行かなければいいじゃないか、とじつに尤もな、これ以上ない正論をおっしゃる御仁もあるでしょう。しかしそれは本をあまり読まないから言えることである、と僕らは断言できます。本が好きな人はそれを読むのと同じくらい、書店に行くことが好きだからです。書店に行かないということはつまり本を読まないことと同義であり、行かないことが読まないことと同じなら行かないかぎり読まないことになるので、やっぱり本は積まれたままになります。へんですね。

したがって、部屋に積まれた本を読み切ることは未来永劫ありません。

しかしそれは裏を返せば本が部屋に積んであるかぎり書店には通いつづけるということであり、書店に通いつづけるかぎり書物に対する愛情もまた変わらずにあり続けるということでもあります。

突き詰めると何のための何なのかわからなくなってくる気もするけれど、でもそれでいいじゃないですか?よくない理由が果たしてあるだろうか?

なのでもう、あまり深く考えずにどんどん積んでいきましょう。積めば積むほど、というか何ならそれゆえにこそ、書物への愛は深まると僕はおもいます。そしてどうあれ最後まで守り抜くべきものが愛であることに、誰も異論はないはずです。


A. むしろ読みきれない状態を維持することこそが愛です。




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その419につづく!

2024年2月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その417


パーリーピーポくんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは宇宙旅行したいですか?私はいつか宇宙へいきっぱなしの旅行をしたいのですが、現代の技術では行けるところが限られています。世界一周もいいけれど、私はこの星より掴めないものや届かないものを知りたいです。


不世出の天才、手塚治虫のライフワークの一つに「火の鳥」があります。僕はこれを小学生の時に月刊マンガ少年の別冊で読んでいて(「ブッダ」もたしか同じ時期に別冊少年ワールドで読んでる)、いいおっさんになってしまった今でも折にふれては思い出すシーンがいくつもあるくらいには脳みそに刻みこまれているのだけれど、「ヤマト編」「鳳凰編」とテーマごとに分かれたシリーズのうち「宇宙編」はもう、とにかく冒頭から結末まで圧倒的に怖くていまだに忘れられません。

とりわけ脳裏に刻みこまれているのは、宇宙船が航行不能になり、数人の乗組員がそれぞれ一人用の脱出ポッドで宇宙を漂流する場面です。

このポッドには人が一人寝そべるだけのスペースしかありません。また航行機能はついていないので、本当にただ漂流するだけです。通信によって他の乗組員たちと会話することはできますが、ポッド同士がお互いに遠ざかるとこれも不可能になります。ポッド内における生命の維持は1年くらいが限度です。つまりこの状況から助かるためには、ポッドの生命維持が機能している間に、居住可能な惑星に辿り着くか、別の誰かに救出してもらうしかありません。そして物語中では、一つ、また一つとポッドが離れていき、それまで交わされていた会話ができなくなっていくのです。

怖すぎる。

四方に島影のない大海原のど真ん中を漂うのだってめちゃめちゃ怖いのに、宇宙ですよ!

おかげで僕は身動きの取れない閉鎖空間がめちゃめちゃ苦手になりました。まだやったことないけど、MRIとかパニックにならずにいられる自信がありません。


宇宙に対する憧れはもちろんあります。ただその憧れは、宇宙の無慈悲に対する恐怖と比べたらささやかなものです。この恐怖を克服するためには、いつでも楽に死ねるという安楽死的選択肢を常に身につけていなくてはなりません。

また、僕らの多くは地球で学んだ知識や物理法則が宇宙でもある程度までは普通に通じると思っているところがありますが、僕自身は地球における何から何までが宇宙においてはむしろ例外中の例外だと考えています。

生命という僕らにとって根源的な概念はもちろん、知能や五感、意識や感情といった感覚も全部ひっくるめて地球用にカスタマイズされているはずだし、そう考えるほうが自然です。宇宙は地球の延長では絶対にない。

さらに宇宙全体に対する地球のサイズ感は、おそらく知識や想像力にも当てはまります

試しにじぶんの身長を100万分の1に縮小してみましょう。これでもまだめちゃめちゃ大きすぎますが、想像する分にはこれくらいでよろしい。その小さな自分を、部屋の真ん中にぽちっと置いてみます。100万分の1なので、10cmが現実世界の100kmに当たります。たとえワンルームであっても、100万分の1の世界では何もない荒野が果てしなく広がるわけですね。そして現実世界の僕らにとっては屁でもない極小サイズのものすべてが脅威です。

宇宙ステーションから眺める地球は写真で見ても美しいですが、これは地上から400km上空の景色なので、これを100万分の1の世界に置き換えると40cmになります。40cmですよ!僕の身長だと膝にも届かない。ちなみに6畳一間のワンルームを横断するとしたら、少なくとも3000km以上は移動することになります。

さて、地球の直径に置き換えても1/4に満たないこのワンルーム宇宙で僕らが得られる驚異と感動は、果たして脅威と退屈の総量を上回るだろうか?

僕個人はむしろ地球のほうがはるかに脅威が少なく、それでいて無数の驚異に今も満ち満ちている気がします。宇宙は僕らが思うよりもずっと広大で、どう考えても虚無のほうが多いと言わざるを得ません。それでなくとも僕らは自分が実際に知る以上に、知っていると思いこみすぎなのです。

核シェルターとしても機能する(!)と言われる古代カッパドキアの不可解すぎる地下都市がいったい何のために作られたのか(礼拝のためと言われているけれど、実際のところ必要性とぜんぜん連動していない)、その全貌もいまだ定かではないというのに宇宙だなんて片腹痛いし、足元のアスファルトに咲く小さな花の名を知るほうがよほど甲斐がある、と僕はおもいます。ほんとに。


A. 500年くらい寿命があったら気晴らしにちょっと行ってみたいですね。




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その418につづく!

2024年2月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その416


てぶくろを解任さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. めんどうな用事はもちろんのこと楽しいであろう用事さえも行くまでが憂鬱で億劫なことが多いです。人間はなぜそのようにできているのでしょうか?


これはですね、まずヒトがいかに特殊で不遜な生物であるかということから始めなくてはなりません。

僕ら人間をのぞいて、およそすべての生物は常に死と隣合わせの日々を送ります。なんとなれば自身を食料とする上位の生物がいるからです。ライオンくらい上位になると捕食される危険性はあまりないですが、その代わりに食料調達のハードルがやたらと高く、ふつうに餓死と隣り合わせです。したがって、生物が生きるためにかかるコストは例外なく死を遠ざけるために費やされます。

このヒリついた環境では、いつもと違うちょっとした行動が命取りになりかねません。ヒトにとっては美点ともされる好奇心も、多くの生物にとってはハイリスクかつ場合によってはリターンどころか即死です。好奇心がないとは言わないし、ものすごく低い確率で莫大なリターンを得ることもあるんだけど、いずれにしてもギャンブルに近い衝動であることは間違いありません。生存に不可欠でない行為はしないに越したことはない、が生物としての不文律であると断言してもよいでしょう。今まさに死に瀕していないかぎり、生物においては事なかれ主義こそが生き延びる上で最上の戦略です。

ではこの視点から「楽しいお出かけ」について考えてみましょう。ヒト以外の生物が予定を組むことはまずないのでこれだけでも十分に異常きわまりないわけですが、これをダンゴムシにもわかる共通の意味に置き換えると「不可欠ではないイレギュラーな行動」になります。先にも述べたように生存戦略的には当然ハイリスクであって、全生物から総スカンを食らう愚行ということになるでしょう。この死にたがりめ!と罵られること請け合いです。

もちろん楽しいお出かけくらいでヒトが死の危険に晒されることはありません。ダンゴムシからどれだけブーイングを浴びようと、楽しく遊んでハッピーに帰ることが高確率で保証されています。それでなくとも本来なら全生物でシェアするはずの資源も浪費し放題だし、特権階級ここに極まれりと言うほかない。

とはいえ何から何まで異端尽くしでわがまますぎる存在であるヒトもまた、元を辿れば原材料はダンゴムシと同じです。ごはんは食べるし、うんこもするし、生殖もします。であれば今もその辺をころころ転がる多くのダンゴムシたちと同じように、先に挙げた生物としての不文律を本能的に保っていても不思議ではありません。生存に直結しない行動に躊躇いを感じるのは至極まっとうなことであると申せましょう。

極論すれば億劫とは、ヒトにかぎらずすべての生物において生存戦略的にきわめて妥当な感覚でもあるのです。だって別に、それをしないからと言って死にはしないんだもの。

七面倒くさい回り道をしながらごちゃごちゃと申してきましたが、ここではっきりと明確に結論づけておきましょう。

億劫とはひとつの真実であり、またある種の正義でもあると。

なので僕も貴重なエネルギーを温存するためにもうすこし寝ます。


A. 生存に不可欠な用事ではないからです。




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その417につづく!

2024年2月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その415


瓢箪からトマホークさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一人暮らしなのに、つい勢いであまりにも巨大な三浦大根を買ってしまったので、その使い方を教えてください。


何しろ一人暮らしでは誰も止めてくれないので、勢いで巨大な三浦大根を買ってしまうことがよくあります。どうせなら巨大な三浦大知がよかったと枕を濡らす夜もしばしばです。しかしいつまでもめそめそと大知くんを想っていても仕方がないので、ここはやはり目の前にある大根と向き合うことに集中しましょう。

圧倒的かつ順当な用途としては、やはり食べることです。生でもいいし、漬けてもいいし、蒸しても煮ても焼いても美味しくいただけます。食べ切るには大きすぎてちょっと多い場合は、大根を削って箸にしたり、くり抜いて茶碗にするのもよいでしょう。彫刻ができるのも、ほうれん草のような軟弱な連中には真似のできない、大根の大きな強みのひとつです。

大根は半分に切ると、スマートスピーカーによく似ています。テーブルに置いて、ときどき話しかけてみましょう。もちろん大根なので反応はしないはずですが、そうとも言い切れないのが人生のおもしろいところです。当たり前のように話しかけていると、そのうち大根も答えるのが当たり前のような気になるかもしれないし、ならなかったら食べてください。

大根には桂むきという切り方があります。くるくると回転させながら切れないように1本の帯をつくる手法ですが、これを道路の白線として使用するのも一興です。2車線を4車線にしたり、何もないところに停止線を引いたりして遊びましょう。自分が渡りたいときにだけ使うマイ横断歩道なんかも夢があっていいですね。

積もる雪にさわりたいけどちょっと冷たいしな、という時は大根をすりおろすとその代用になります。もちろん雪だるまも作れるし、温めても融けません。これは雪にない最大の長所であり、代用でありながらむしろ雪を凌駕している点でもあります。大量にすりおろせば、ゲレンデとして真夏にスキーやスノーボードを楽しむことも夢ではありません。

もちろん鈍器としても有効です。いけすかないやつの脳天めがけて垂直に振り下ろしましょう。大根が勝つか脳天が勝つか、目にもの見せてやりたいところです。

身長と同じくらいのサイズなら、身代わりの術にも使えます。ここぞというときに素早く入れ替わりましょう。問題があるとすればどうやって持ち歩くかですが、それは持ち歩く人間の問題であって大根の問題ではありません。

もちろん、危機に直面して瞬時に身代わりの術を繰り出せるほど忍術に長けていない人もいます。僕もその一人です。その場合には、夜のお供として抱き枕に転用しましょう。食べてしまいたいという口説き文句がぴったりの素敵なパートナーです。いい夢が見られるのは間違いありません。

大根は水に浮きます。難破時の救命ブイとして使うこともできるでしょう。この場合、大きければ大きいほど功を奏します。あるいはぜんぜん役に立たないかもしれませんが、それはつかまる人間の問題であって、大根の問題ではありません。

この中で一つ選ぶとなったら、僕は鈍器にします。首尾よくぶちのめした後は美味しく食べることもできるし、栄養にもなるし、なおかつ証拠が隠滅できて一石四鳥です。言うことありません。


A. 鈍器として使えます。




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その416につづく!

2024年2月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その414


アラビアンな伊藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.「日本料理」と「和食」の違いはなんでしょうか?


これはなかなか奥の深い質問です。僕も、というには視点が違うのでアレだけれども、このふたつの言葉には昔から関心を寄せています。というのも、そもそも海外視点でないかぎり自国の料理を客観的に表現する必要はないはずだからです。たぶん、もはやそれが基本というより選択肢のひとつにすぎないからだとおもうんだけど、そういう国って他にもあるんだろうか?

本題に戻りましょう。

最大の違いは文字です。漢字にしてもひらがなにしても、見た目と数がぜんぜん違います。読みで言ったらかろうじて「ょ」だけが共通していますが、だからどうしたというほかありません。こと文字に関してはまるっきり違うと断言してよいでしょう。書かれていないひらがなを引き合いに出して「ょ」はどうしたと野暮を宣う御仁もあるでしょうが、折しも明日は節分だし、欲しけりゃくれてやると豆もろとも投げつけてやればよろしい。何しろ小さいので、散らばった豆に紛れたら見分けがつきません。ことによると豆を拾ったつもりでぽりぽり食べてしまう可能性もあります。

そうなればしめたものです。再度「ょ」を問題にするには排泄を待たなくてはなりません。仮にうまいことぷりっと排泄できたとしてもそれを俎上に載せるのはさすがにもうむりでしょう。俎上の俎ってまな板のことですからね。

腸を旅する「ょ」の話はさておき、原則として日本でしかお目にかかれない料理であればそれらはすべからく日本料理で和食です。というか、そうでないと否定することは誰にもできません。その上で、個人的な解釈にすぎないことを踏まえつつあえて区別してみるなら、外国人主体が日本料理、日本人主体が和食です。わりと明快ですね。

これを前提にすると、若干の違いも見えてきます。たとえば海外由来とはいえ独自の発展を遂げたラーメンは今や明確に日本料理と認識されている印象がありますが、和食と認識されることはあまりありません。同じようにカレーライスは最も愛されている国民食のひとつでありながら、日本料理と和食のどちらにも与しない印象があります。海外由来であることが問題になるなら、イタリア料理におけるトマトなんかはそもそも南米由来で、おまけに食用になったのも19世紀以降(!)です。ソースなしには成り立たないたこ焼きや焼きそばはどうだろう?

とまあ、一品一品を検証し出すとキリがないので、このへんにしておきましょう。こうなると和食とは何かということについてアンケートをとってみたくなりますね。何なら伝統とは何かという剣呑な論点にまで足を踏み入れることになってしまいそうです。


A. 外国人主体が日本料理、日本人主体が和食です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その415につづく!


2024年1月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その413


ポンコツ脱退さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)換骨奪胎をもじったつもりなんだけど、変に生々しくて気づいてもらえる気がしないですね…。


Q. 「これはちょっとラッキーだったな」と思ったことはなんですか?


「ちょっとラッキー」というサイズ感がいいですね。人生にはその有無で未来が変わるような得難いラッキーもあるけれど、それは「ちょっと」ではないし、突き詰めると運の強弱みたいなことになりかねないので、話がそれだけで完結してしまいます。できれば河原で拾った変な石くらい他人にとってどうでもいいほうが、語りがいもあるというものです。そういう縛りでみんなとちまちまシェアしながら「最高のちょっとラッキー」を決めたりしたい。

それでいうと、何だろうなあ…

真夜中に職務質問をされた挙句、パトカーでアパートまで送ってもらったことがあります。

当時の僕は風貌のせいかちょいちょい職務質問をされていたのでそれ自体はわりと日常というかどうということもないんだけれど、ふつうは何らかの事件に関わりがないかぎりパトカーなんかに乗ることはないと思うので、何ひとつ事件性がないにも関わらずパトカーに乗ったという点ではちょっとラッキーだったと思います。それをラッキーと呼ぶかどうかは人による気もしますけど、少なくとも僕にとってはいい思い出です。

ただし、警官の善意ではありません。というのも僕はこのとき、カッターナイフを持っていたからです。もちろんそこには明確な理由があるんだけれど、それはあくまで僕にとって明確というだけで、赤の他人、とりわけ警官にとっては不審なことこの上ありません。というか、僕だって客観的に考えたらそんなやつを野放しにするなとおもう。

真夜中にカッターナイフを所持する男があてどなくうろうろしているように見える極めて剣呑な状況をどう釈明してどう乗り切ったのかは覚えていないけれども、「とにかく用がないなら帰りなさい、家はどこなの、送ってあげるから」みたいな流れだったような気がします。僕としては、えっうそ乗せてくれるの、やった!というかんじだったのでいそいそと乗りこんだ次第です。警官にとっては念のために住所を特定しておこうという思惑だったのかもしれません。

僕がそのときそこで何をしていたのかはまた別の話だし、長くなるので割愛しますが、ここで言いたいのは「パトカーでアパートまで送ってもらったことがある」ということです。めちゃめちゃ不審というだけで悪いことをしたわけではないし、する予定も当然なかったことだけは明記しておきましょう。

それで思い出したけど、そのアパートから引っ越すことになって荷物を運び出すためにうちの人がレンタカーで2tトラックを借りてぶいぶい迎えに来てくれたときの話があります。ハンドルがデカくて、ギアもサイドブレーキも普通車とは違う位置にあって、車高が高い、いかにもトラックという感じのトラックです。たぶん普通免許で運転できるいちばん大きな車だったとおもう。

何から何まで勝手が違うのにぶじ荷物を運び終えてすげーなと感心していたら、渋谷の駅前で坂道発進に失敗して後続車にガションと接触してしまいました。軽微とはいえ、はっきりと事故です。

相手の方はたいそうお怒りで、というかそりゃそうなんだけど、レンタカーでよそ様の愛車を傷つけてしまうなんてこれはえらいことになったとハラハラしていたら、ここでちょっとした奇跡が起こります。

というのは、接触した相手の車もまたレンタカーだったのです。

それは一体どれくらいの確率なんだ…。

もちろん相手にとってどう考えても不要な時間を強いてしまったことは確かだしレンタカー会社にも本当に申し訳ないかぎりなんだけれども、事故処理としてはびっくりするほどあっさり済みました。

厳密には僕個人のラッキーではないので忘れていましたが、僕の人生におけるベストオブちょっとラッキーという意味ではたぶんこれになると思います。


A. パトカーでアパートまで送ってもらったことがあります。




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その414につづく!


2024年1月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その412


アウストラロ尾てい骨さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 響きがかっこいいという理由だけで好きな単語を教えてください。私はバケットホイールエクスカベーターと墾田永年私財法が好きです。


これを探し集めるために休日をまるまる費やしたい話です。なんなら広く募って、一定の同意を得た単語をずらりと並べた殿堂入りリストを作りたい。

バケットホイールエクスカベーターは僕も大好きです。名前もかっこいいけど、何と言ってもあの重機版ハウルの動く城とでも言うべき尋常ならざる巨躯がいい。大きすぎてひとつの町くらいの設備は揃ってるんじゃないだろうか。病院とか、スケートリンクとかね。想像すればするほど、夢が広がります。掘削機なんですけどね。

しかしそういう話ではない。

考え始めると1週間たってもまだ考えつづけていそうな気もするので、とりあえず真っ先にパッと思い浮かんだのを挙げるなら、バージェス頁岩ですね。

それが何なのかは僕もよく知らないし、知る気もありません。世界にはそう呼ばれるものが確かにあって、響きがかっこいいというだけで十分です。とにかくそこにあってくれさえすればいいので、超絶推してるアイドルとの距離感に近い気もします。

響きはかわいいのに用途がかっこいいシチュエーションに限定される言葉もあります。猪口才なんかがそれです。たぶん捨て台詞的にしか使えないとおもうんだけど、「ぐぬぬ、おのれ猪口才な」「待って、今チョコって言った?」というかんじで剣呑なムードが一気にホワンと和らぐ印象あります。今となっては日常的に使える言葉ではないし、ホワンとなるのもしょうがないよなとおもう。

特にどうということもないはずだし単語でもないんだけど、昔から胸に刺さって抜けない棘みたいな言葉が、西高東低の気圧配置です。どうあれ耳と記憶に刻まれてしまっているわけだから、初めて聞いたときに気持ちよかったんでしょうね。おっさんと化した今でも西高東低の気圧配置と聞くと、オッと反応してしまいます。われながらちょっと気の毒なことです。

カムチャツカ半島なんかも響きが好きな単語のひとつですね。だいぶ昔から、ムカつくの代わりにカムチャツカを使えないかなと思いつづけていますが、わかってもらえない気がするので言えずにいます。「あいつまじカムチャツカ」って言うほうが自身の傷も浅く済む気がするんだけど、おそらく気のせいであろうことは僕にもなんとなくわかります。

かっこよさの基準を語感とかリズムに置くと、途端に世界が広がります。いま思いつくかぎりでは、グリチルリチン酸ジカリウム日本道路交通情報センター東海道中膝栗毛ノンアルコールビールテイストアンデパンダン展ペンパイナッポーアッポーペン東洲斎写楽なんかが好きです。最後のは単語ですらないけど、それで言ったら名前なのに単語に聞こえる愛新覚羅溥儀もいいですね。


A. バージェス頁岩です。




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その413につづく!