2024年11月29日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」


人でない何かが決定権を持つ時代に向けて、いよいよ土壌が整ってきたなあ、と最近はよくおもうのです。人ではない何かとは、昔ならコンピュータで、今ならAI、たぶんまた新たなフェーズに移行して呼び名も変わるだろうけど、とにかく人工的な知能、もしくは少なくともそう見えるものを指しています。

今がその時代であるとはまだ全然おもいません。土壌が整ってきたと表現したのは、そのためです。ひょっとしたらまだ種すら蒔かれていないかもしれない。でも蒔けば自然と芽が出る、そんな土壌はもうできつつあるとおもう。

形あるものにしろ、形なきものにしろ、あらゆるものがネットワークで結ばれている状態がデフォルトになれば、次にくるのは端末の最適化です。アクセスする側の特性に合わせて、どんどん使い勝手が良くなっていきます。使い勝手が良くなればなるほど、それがないことを不便と感じるようになるでしょう。現時点ですでにそう感じている人も、たぶんいますよね。

膨大な情報が外からも内からも端末に蓄積されていき、それを元に今度はこちらが操作しているはずの端末側から別の選択肢を提示できるようになります。あなたはこれも好き「かも」から、あなたはこれが好きな「はず」になり、いずれ最終的には「あなたはこれが好き」と断言されるようになっても、全然おかしくない。

今というよりも、すこし先の、未来の話です。

人はみな誰でも、自分で考えて、正しく判断できると信じています。ただしその根拠は僕らが自分で感じるほど盤石ではありません。そしてそのことが人類の、高度なテクノロジー社会における致命的な弱点でもあるとおもう。本当に自分で判断しているのか、それともそう判断するように仕向けられているのか、僕らはその違いを区別することができるだろうか?

たぶんできないな、というのが僕の考えです。仕向けられている自覚がないなら、そりゃいつだって自分が自分の意志で判断しているとしか認識できないわけだから。

つまり僕ら人類は結果として、いずれ外からコントロールされるための土壌を自らせっせと耕している、とも言えるのです。

批判ではありません(←重要)。良し悪しでもなく、むしろこれは自然で不可逆な流れです。人が好ましいと感じるごくごく些細なことの積み重ねとその結果でしかない。仮に時間を100年巻き戻してもやっぱり同じ未来を迎える気がするし、そういうもんなんだろうなとおもう。進歩の副次的な作用、と言ってもいいのかもしれません。

一方で、そうした流れに抗う人は未来にもたぶんいっぱいいて、それもまたごく自然なことだと僕は考えています。希望とか絶望の話ではなくて、もっと単純に、自然な作用には自然な反作用があるはずだ、みたいなことですね。


例によって前置きが長くなってしまったけれど、「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」はそんなあれこれから生まれた作品です。

こうありたいとか、こうあるべきという強い意志では全然なくて、ただふとそんな選択をしてみる気になったこと、今までそんなこと考えもしなかったから足がすくむし、不安にもなること、でもそれはすごく自然なこと。

先の作用と反作用で言うなら、蛾の羽の「舞い上がるためにある」が作用で、「舞い降りるためにある」が反作用にあたります。

その選択が正しかったかどうかは誰にもわからないし、それを知る必要もありません。ただ彼女はそうした、というだけです。ふわりと着地して何ごともなかったようにそのまま立ち去る、その後ろ姿はなんとなく、以前よりも凛として見えます。そこに美しさがあるならそれでいいなと、僕はおもうのです。

できればその後ろ姿を、見えなくなるまで見送りたい、そんな気持ちもあって曲の余韻をたっぷりとれたらうれしいな、と考えていたところにカズタケさんの思惑もぴたりと重なって、最終的にこの曲は最初からそう意図していたように感じるほど、理想的な形に昇華されています。感無量というほかありません。

僕のイメージが「彼女の後ろ姿が見えなくなるまで」だとしたら、カズタケさん主体の Part2 はそこから視点がゆっくりと空へと移り、大気圏を突き抜けて、宇宙へと向かっていくイメージです。ソロになることでふくらむ浮遊感がとにかく良いんですよね…。とりわけ Part1 の終盤からそっと顔を出し始めるリフがもう!も〜〜〜〜!そりゃ体もプカッとなってフワフワ〜ッてなるじゃん!(語彙)

そんな浮遊感に身を委ねながら、広大無辺をふわふわ、ぷかぷか、くるくる遊泳してもらえたらとおもいます。 

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