2024年10月11日金曜日

ゆで玉子の誤謬について考える


ああ、あのこと書き残しておけばよかったなあ、と思いながらこの世を去り、その未練が原因で成仏できず、怨霊となって下界をうろつくようになっても困るので、今のうちにゆで玉子のことを書き残しておきます。ゆで玉子を手にうろつく怨霊は想像するだけでめちゃめちゃ怖いです。そういう望ましくない未来を断ち切るためだけでも、今回の話にはたいへんな意義があると申せましょう。

僕がここである種の遺言として書き残しておきたいのは、「玉子の殻を剥きやすくする技」のことです。玉子のお尻に穴を開けたり、酢を入れて茹でたりといろいろありますが、技そのものや効果を否定したいわけではありません。率直に言えば、それ以前の問題です。そして僕がこのことに懸念を抱いているのは、それが必ずしも玉子にかぎった話ではないからです。

たとえばここに、殻が剥きやすくなる技を使って、きれいに剥けたゆで玉子があるとします。技のおかげできれいに剥けたと考えるのはごく自然な気もしますが、実はそうとはかぎりません。

なんとなればここには、技を使わなくても殻がきれいに剥けた可能性もあるからです。おわかりだろうか?

もちろん、技のおかげである可能性も同じくらいあります。それを否定したいわけではないと言ったのはそのためです。問題は、それを証明することは誰にもできない、という点です。

それを証明するためには、同じ1つの玉子で「技を使った場合」と「使わなかった場合」の両方を試す必要があります。まったく同じ条件下であっても、別々の玉子であればその時点で証明にならない点に注意しましょう。実際、同じパックの玉子でも剥きやすさが違うことは往々にしてあります。証明するなら、あくまで1つの玉子で2つのやり方を検証しなくてはいけません。

いや、無理じゃん、と思われましょう。そのとおりです。ではなぜその技が有効であると断言できるんだろうか?同じ玉子で技を使わなかった場合を検証していないし、したくてもできないのに?

玉子にかぎった話ではないと先に書きましたが、では玉子抜きで言い換えてみましょう。ここでは、本来であれば2つの結果を比較して初めて証明されるはずのことが、1つの結果のみで証明されたことになっています。

というのも、得られた結果が言ってみれば望んだとおりだったからです。誤謬に気づかない理由がここにある。

具体的すぎる別のケースに置き換えてみましょう。たとえば僕がアルバムのリリース前に全曲試聴を用意したい、と主張したとします。それに対して、全曲試聴はネタバレみたいなもので期待値を下げるし、売り上げを下げることに繋がりかねないから試聴は1、2曲にとどめたい、と反対されたとします。その意見を尤もだと受け止めた僕は、試聴を1、2曲にすることに合意します。アルバムはぶじリリースされ、なかなか好調な滑り出しを見せたとします。ここまではよろしい。問題はその後です。

この状況で、「試聴を1、2曲にとどめて正解だった」と結論づけることは可能だろうか?リリース後の好調な滑り出しは、全曲試聴をしていたらこれ以下の結果にしかならなかったと結論できる根拠になっているだろうか?

なっていません。ですよね?

これを先のゆで玉子に置き換えるなら、「技を使った場合」が「試聴を1、2曲にとどめる」で、「技を使わなかった場合」が「全曲試聴」になります。繰り返すけれど、それはどちらも、同時に検証することができません。

全曲だろうと数曲だろうと試聴が売上にさほど影響しなかった可能性もあれば、全曲試聴が思いのほか功を奏した可能性もある。しかし得られた結果が望んだとおりかそれ以上になると、検証のしようがない他の可能性に蓋をして、判断の正しかったことが証明された、と考えてしまうわけですね。

ゆで玉子くらいなら別に問題でもないけれど、この論理的誤謬が本質的にマズいのは、誤謬と気づかずに証明されたと考えてしまうことがそのまま経験値として次の判断に影響を与えることになるからです。ぶっちゃけ会社組織なんかもう、そんなんばっかなんじゃないかとおもう。

そしてこのゆで玉子の話がめちゃめちゃ教訓的なのは、件の誤謬が例外どころか、ほぼすべての人に適用される可能性を示唆しているからです。これが教訓でなくて何だろう?

そんなわけで、以前はあれこれ試してみたりもしたけれど、今の僕はゆで玉子の殻をきれいに剥くための技を使っていません。経験則としてやっているのは、茹でた直後に水で冷やすこと、あまり新しい玉子を使わないこと、の2つだけです。

うまく剥けないときもあるけど、人生だって似たようなもんですからね。

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