2026年3月27日金曜日

「ジャクソンマイケル」について考える話


僕らは自覚以上に多くを常識のように刷り込まれている、といい年ぶっこいた大人になってもなお、しみじみ思わされることがいろいろとあるのです。

じぶんにとっての常識が他者にとってそうではないと気づいた最初期の例で言うと、僕は子どものころトマトに砂糖を振りかけて食べるのが好きだったのだけれど、それがぜんぜん当たり前の食べ方ではないことにショックを受け、恥ずかしく感じたことをよくおぼえています。

もちろん今ではわりと多くの人が愛好することを知っているので、恥ずかしいどころかそういう食べ方、愛され方もあるし、なんなら美味しいというだけのことでしかありません。「ふつうはやらない」のまま固定される人もいるでしょう。いずれにしても大多数の人は成長の過程でそうやって少しずつ常識の範囲を、探り探りアップデートしていくわけですね。

ただそれは裏を返すと、機会がなければある認知が常識として疑問を抱くことなくずっと維持されるということでもあります。僕らは自身の認知すべてを自身の意志で心から納得して取捨選択してきたわけではない。そしてそれゆえにおそらく死ぬまで、ふとした折に「あれ?」と気づいて立ち止まることがある。

僕にとってはそのひとつが、姓名の英語表記です。

たとえば山田太郎という姓名を英語表記にしたら、圧倒的大多数の人が「Taro Yamada」とするでしょう。アルファベットに置き換えるのはともかく、姓と名が日本語とは逆になっています。言うまでもなくこれは、英語圏では名が先にくるからです。

ではMichael Jacksonを日本語表記にしてみましょう。圧倒的大多数の人はこれを「マイケル・ジャクソン」とするとおもいますが、その土地の文化に従うという上記のルールに当てはめるとこれは本来「ジャクソンマイケル」になります。なんとなれば日本では姓が先にくるからです。

あれ?と思いませんか?

もし山田太郎が「Taro Yamada」であるべしというなら、Michael Jacksonは「ジャクソンマイケル」になります。

もしMichael Jacksonが「マイケル・ジャクソン」であるべしというなら、山田太郎は「Yamada Taro」になります。

そして今の僕の立場は、明確に後者です。その土地の文化を尊重できるならそれがいちばんいいな、と心からおもう。

最近になってそう思い始めたわけではありません。今から8年前の2018年にリリースされた、椎名純平、タケウチカズタケ、小林大吾によるアルバムthe 3のジャケット画像を見てみてください。


アルファベット表記ですが、姓→名の順になっています。これはつまり、そういう理由からだったのです。

ONE PIECE」は現代日本を代表するマンガのひとつですが、その主人公は「モンキー・D・ルフィ」と言って、明らかに英語圏寄りの名前です。しかし今や世界中に多くいる熱烈なファンたちは「ルフィ」を姓ではなく名であると認識しています。他のキャラクターにしても同様で、その表記が「Monkey D Luffy」であっても、作品世界においてはLuffyが姓ではなく名であることを明確に認識しているのです。先に置かれたMonkeyのほうが名であるべきとは言いません。

この例ひとつとってみても、僕が「小林大吾」を「Daigo Kobayashi」と姓名を逆に表記する必要性など、じつは全然なかったと言わざるを得ません。どうしてもそうあるべきというのであれば、Michael Jacksonもまた日本ではジャクソンマイケルと表記しなければならないということになるでしょう。

正しくはこうあるべきとか、是非を問いたいわけではありません。別に必要ならそれでいいとおもう。ただなんというかこう、日ごろから「ふつうなんてない」と思っているはずの自分のポケットから今もぽろぽろとふつうが転がり出てくることに今も驚くし、呆れてしまうのです。やんなっちゃうよな。

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