2013年8月17日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その168、あるいはトンカチで叩いて直す心の話



僕はメダルゲームが好きです。

かつて仕事が終わるとゲームセンターに向かい、日暮れから真夜中の閉店まで、煙草と缶コーヒーとカップ1杯のメダルを手元に置いて、勝つでもなく負けるでもなくただ無為にチャリンチャリンとひとりゲームに興じた、あのしょうもない日々がなつかしくおもいだされます。なんとなくお天道様に顔向けできないような後ろめたさをのぞけば、湖面に釣り糸を垂らすのに似ているかもしれません。パチンコはひと月の負けが10万ちかくなったときふと我に返ってすっぱり足を洗ったけれど、メダルはそんなことになりようがなかったから、とにかくしょっちゅう入り浸ってはひたすら時間を浪費していたものです。身を持ち崩すことがない代わりに、のちのち糧になりそうな教訓を得ることもない、したがって精神的にもすっからかんで何ひとつ身につかない、あの背徳的な心地よさといったらなかった。

今はもう通いません。通うどころか、足を運ぶこともなくなりました。なぜといって考えたこともないけれど、おそらくこの年になるとさすがにシャレでは済まなくなるからです。ひとりではもう10年以上行ってないとおもう。

それが先日、どういうわけか通りがかりにふと魔が差しました。池袋には見上げるくらい大きなゲームセンターがいくつかあって、その前を行き過ぎようとしていたのです。あのぐずぐずとして煮え切らない、それでいてガムシロップみたいに甘やかな日々がふわりと胸をよぎります。

しかしこんな僕にも面目はあって、やはり一瞬は立ち止まらないわけにはいきません。いい年したおっさんが平日の真っ昼間からゲーセンでぐだぐだするさまを想像してご覧なさい。と、じぶんをたしなめるつもりで脳内シミュレーションをしてみると、ふしぎなことにちっとも違和感がない。むしろその姿が自然にさえおもわれます。すこしは大人になったかとおもったら、別段そうでもなかったらしい。

そんなわけですっかりその気になり、意気揚々と足を踏み入れたのです。薄暗い店内に派手な蛍光色が氾濫する、この疑似近未来感!ポーカーにスロット、競馬にビンゴ、それにメダル落としと品揃えも昔とほぼ同じラインナップです。変わったのは機種くらいで、何年もこの淀んだ空気にずぶずぶ浸かっていた身からすれば、何もかもがなつかしい。

とおもったらここで、あることに気づきました。全体としてはかなりのにぎわいを見せているにもかかわらず、独り身が見当たらないのです。店内をくまなく見て歩いても、腰掛けているのはうら若き男女のつがいばかりで、どいつもこいつも肩を並べてウフフと顔をほころばせながらメダルを投入しています。

誤解のなきよう申し上げておくと、仲睦まじいふたりに目くじらを立てる年でもありません。どちらかといえば僕はこうした光景に目を細めて温かく見守るタイプです。誰かが楽しそうにしているのを見るのは、僕も楽しい。考えてみれば夏休みなのだし、そりゃそうかという気もする。けっこう、けっこう。気の済むまで愛を育んだらよろしい。おじちゃんはそんなこと一向意に介さない。

問題は僕と似た境遇のご同輩がひとりもいないということです。言い方を変えれば、そんな了見で来ている馬鹿は僕ひとりしかない、ということです。

誰が気にするわけでなし、かまわず堂々と乗りこめばいいようなものだけれど、それまでまったく心に留めていなかった、あるいは意図的に目を背けていた落伍感というか社会のつまはじき感みたいなものが、ここにきてゆくりなく頭をもたげます。背徳という意味ではいっそ望むところであると鼻息を荒くしてもおかしくないのに、どうも気後れして踏み出せない。というか、このためらいをうっちゃってしまったら、二度と現実には帰れなくなってしまう気がする。

けっきょく、蛍光色あふれるこの花園には入れないとあきらめて、踵を返しました。結果としてみれば開けなくていいパンドラの箱に手をふれずにすんだわけだし、どう考えても正しい決断を下して帰還したはずなのに、なぜこんなに打ちのめされたようなきもちになっているのか、よくわからない。

まさかこの年になってこんな折られかたをするとは思わなかった心をトンカチで叩いて直しながら、じりじりとベランダで日焼けする夏です。

*


胞子の王子様さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. おせち料理の黒豆と白豆、どちらがお好きですか。


A. 黒豆です。


*


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その169につづく!


2013年8月13日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その167



続・猿の剥製さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)続というからには1匹目がヒットしたんでしょうね。


Q. 私はとても汗かきです、夏場に外出でもしようものなら大惨事になってしまいます。10代のころはそんな自分が嫌で周りの目を気にして、余計汗をかいていたのですが、20代も半ば近くになり、それも個性だと、匂いさえ気をつければいいか、とあまり気にしなくなってきました。ですが、それでも汗なんてものは必要以上にかかない方が良いに決まっております(服屋で服が試着できない…。)少しでも減ってくれればいいんですが…、どうしたらいいでしょうか?


僕も先日滝のような汗を流しておもいましたが、この状態が日ごろからさほど珍しくないのだとしたら、その難儀は察するに余りあります。ふつうの夏でもそうなのに、とくに今年のような歴史を塗り替える超暑となったらまったくやりきれますまい。

これがもし体質とバッサリ縁を切りたいといった主旨の法外なお話ならば、切り捨て御免でうっちゃっておいてもよさそうなところなのですが、さにあらず、何しろ大部分はご自身できちんと折り合いをつけておられます。受け入れた上でほんの少しの改善を願うささやかなきもちを、いったいどうして無碍にできましょう?いくらかでも力になれるものならば、よろこんで力になりたい。

僕はあまり汗をかかないと前に書きましたが、生まれつきかというとじつはそうではありません。十代のころはわりとかいてました。ではなぜそれほどかかなくなったかというと、さすがにそれが直接の原因ではないにせよ、ひとつ思い当たることがあります。暑い暑いとおもいながら溶け出しそうな顔でうだうだと歩いていたあるとき、ひとりのご婦人をみかけたのです。

着物をきっちりと身につけ、右手に日傘、左手に扇子で、じつにすずやかな顔をしています。どう考えても僕なんかより断然、厚着です。暑くないわけがない。でもぜんぜん、そんなふうに見えない。すくなくとも、顔に出ていない。

そのぱりっとして乱れのない立ち居振る舞いには、ハッとさせられるものがありました。ひょっとして僕は暑いというきもちを辺りかまわず撒き散らしすぎていたのではないか?それで涼しくなるなら格別、却って暑さをみずから増長させてしまっていたのではないのか?四六時中真夏日に対する非難を垂れ流す自分のような人のそばにいるより、あのご婦人のそばにいるほうが同じ暑さでもよほど涼しく感じられそうじゃないか!

そうおもったら今にもでろでろと溶け出しそうなじぶんの顔が途端に恥ずかしくなってきたのです。どのみち暑さが変わらないのなら、そんな顔はしてもしなくても同じです。それならあのご婦人のように何でもない顔をしているほうがずっとさわやかでうつくしい。要は気の持ちようで顔に出さなければいいのだから、真似してできないようなことでは全然ありません。猿真似だろうとなんだろうと、あのたたずまいに近づけるものならちょっとでも近づきたい。

それ以来、僕はなるべく暑さを口にしないようにしています。たとえどんなに厳しくてもです。いえもちろん、さすがにこりゃ参るなとおもうときはあります。とりわけ今年はその頻度が異常に高い。でも顔には出しません。出そうとするとあのご婦人の姿が脳裏をよぎります。

見よう見まねで実践してみてわかったのは、顔と口に出さないだけで、感じる暑さはがらりと変わる、ということです。そして感じかたが変わると、汗のかきかたも変わります。こんなことで汗をかかなくなるなら世話はないし、実際かくにはかくんだけど、身体が意に反して暴走しないよう手綱をしっかりにぎっているような印象があるのです。

……


これ…

僕はそのとおりにしてびっくりするくらい効果があったし、たしかにあると信じてるんだけれど、冷静に読み返してみるとマジかよという気になってくるのはなぜでしょうね?書き方がマズいのか?

まあよろしい。こんな向き合いかたも時としてばっちり功を奏することがある、くらいに受け止めてください。


A. 「待て。待て。まだ汗の出る幕じゃねえ」と啖呵を切れば、汗もそのうち「そういうものかな」という気になってくるとおもいます。


そしてまあそれはそれとして、年を取ったり、赤ん坊が泣くのと同じで、汗はやはりかくものです。その程度が甚だしいからやりきれなくもなるわけですが、でもそんなご自身の性質を否定せず、どうにかこうにか折り合いをつけながら前を向く続・猿の剥製さんが、僕は好きです。その上でできればもうちょっとお手柔らかに、と願うのも当然ゆるされて然るべきだとおもうし、またその控えめな姿勢が、いかに気立ての良さや信頼できる人物であることを表しているかも、僕にはしみじみと伝わってきます。同じきもちを抱える人にとっては、続・猿の剥製さんほど正面から受け止めてくれる心強い味方は他にありません。

それもひとつの器量だとおもいませんか?


*


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その168につづく!


2013年8月10日土曜日

人体の神秘と真夏の夜の夢であってほしい話



エアコンのない密室で半裸になりながら、死を覚悟でレコーディングしていたのです。僕はもともと汗をかきにくくて、あまり代謝が良くないほうなのだけれど、この日はさすがに大汗をかきました。頭のてっぺんから爪先まで、大げさでも何でもなくバケツの水をかぶったような状態で、腕を下ろすと指からぽとぽと滴る始末です。肉体労働に明け暮れていたころを思い返しても、これほどずぶ濡れになった記憶はないから、さすがにこれは尋常ならざる事態と言わねばなりますまい。ふだんの汗腺が森田童子の「ぼくたちの失敗」だとすると、この日の汗腺はスチャダラパーの「ジゴロ7」です。何もムリにそんなたとえかたをしなくたっていいようなものだけど、ギャップの大きさはわかってもらえるだろうか?

でもつらいかと言ったらこれが逆で、ぜんぜん暑くない。というのは言いすぎですが、でもどちらかといえばさわやかです。きもちがいい、と言ってもいい。何しろ全身ずぶ濡れだから、ただ動くだけでもずいぶんすずしく感じられます。たぶん、サウナみたいな状態になってたんだとおもう。人体の神秘ここに極まれりです。死ぬどころか、かえって生き返ってしまった。アルバムの進捗状況については目をそらしておきましょう。

*

それでおもいだした怖い話がひとつあります。つい最近のできごとです。

夜中の2時だか3時だったとおもうけど、マンションの屋上で一服していたのです。丑三つ時もとうにすぎて、街はしずまり返っています。睡魔もひと仕事終えて、ヒマになるような時間帯です。

そこへとつぜん、バフンバフンと何かをはたくような音がひびきます。座布団とか、そんなものかもしれません。昼間にベランダから聞こえるような、そんな音ですがしかし真夜中であることを考えるといささか胡散です。しかも遠慮がちというより、八つ当たりにちかいような激しさが感じられます。おまけに始まったとおもったら延々つづいて、一向にやむ気配がない。

夜にしか家事のできない人もいるから、多少の物音に首をかしげるつもりはありません。でもそれにしては長いし、聞いていてつい「大丈夫ですか?」と声をかけたくなるくらい、勢いというか雰囲気が剣呑です。すくなくとも夜中の3時というのは全力で布団をはたく時間帯ではない。

音はマンションの東側から聞こえてきます。東側にはベランダがあって、隣接したらせん状の外階段を降りると部分的にその様子をうかがえる角度があります。この階段をいけば音にも近づきそうだし、ひょっとしたら何かわかるかもしれない。

そうおもって外階段に通じる扉をあけると、いきなり音が大きくなりました。じっさいに大きくなったというより、音にぐっと近づいたらしい。疑う余地はありません。音の出所はひとつ階下のベランダです。しかし最初に気づいてからもうだいぶたつというのに、まだはたきつづけているのだから根気のいいことだとおもう。

そしてよくよく考えてみたら、この階の住人は顔を知っています。名前までは知らないけど、日ごろから挨拶を交わすことはある男性です。ああなんだ、あの人が座布団を、そうか、そんならべつに気にすることもないか。真夜中だけど。とそれまで何だかよくわからなかった不安の解消に胸を撫で下ろし、階段からなにげなくベランダのほうに目をやると、思いもよらない光景が目に飛びこんできて心臓が止まりそうになりました。一瞬気がゆるんだぶん、却ってダメージが大きくなったんだとおもう。あんまりびっくりして僕もいきおい階段に伏せるような格好になりました。

何しろ、彼は全裸だったのです。

たまたまこっちに尻を向けていたから鉢合わせという最悪の結果はまぬがれたけれども、それにしてもこんなにばつの悪い思いをしたのはかつて覚えがありません。トカゲのように這いつくばったまま、息を止めてこっそりと外階段からマンションの屋内へと逃げ戻るわたくしをよそに、バフンバフンという例の物音はまだあたりに響いています。はたいていたのが何だったのかも結局わからずじまいです。とにかく見てはいけないものを見てしまった後ろめたさと、情けなさと申し訳なさみたいなきもちが渾然としてそれどころではありません。

怖くない?

ふむ、たしかにおっしゃるとおりです。でもちょっと視点を切り替えてみてください。とっぷりと更けた夜中の3時、だれもいないと安心して全裸のままベランダに出ているとき、それをすぐそばで見ているふたつの目があったとしたら?


ギャアアア!


いや、そのふたつの目は僕なんですけども。

もし彼が気づいていたら叫び出さずにはいられないくらい怖かっただろう、という話です。


教訓:真夜中に布団をはたくときはなるべく控えめに、かつ短時間ですませましょう。そして全裸は部屋のなか限定でおねがいします。


それにしてもなんか全体的にいろいろとギリギリな話だとおもう。


2013年8月3日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その166と1/2


「えー、相州は大磯の定吉さんから質問です」
「ちょっと待て。いろいろ待て」
「なんですか博士」
「これは何だ」
「今夜のゲストはムール貝博士です」
「おい」
「なんですか。うるさいな」
「今うるさいと言ったな」
「言ってません。なんですか」
「これは何だ」
「マイクですよ」
「この耳に当ててるのは」
「ヘッドホンですね」
「この部屋は何だ」
「ラジオブースです」
「うむ、いちばん解せないのはそこだ」
「何ですか」
「なぜラジオ形式なんだ」
「なぜってそりゃ自作自演ですから」
「いつもそうだろ」
「いつものはちがいますよ!」
「まあいい」
「あらぬ疑いをかけたまま投げっぱなしはやめてください」
「よし、ここでCMだ」
「まだ質問も読んでないのに!」
「だいたいわかった」
「わかるんですか?読まなくても?」
「まあ、あまり気にしないことだ」
「もう答えてる!」
「CMいこう」
「どんな質問だったかわかるんですか」
「何か気になることがあるんだろう」
「そうですね…」
「だから気にしないことだ」
「そう言われるとぐうの音も出ないですけど…」
「じゃあまた来週」
「まだ質問も読んでないのに!」
「解決しただろ」
「解決がすべてだとおもったらおおまちがいです」
「どう考えたって解決がすべてだよ」
「犯人はお前だ!って先に言ったら意味ないでしょ」
「なんだ、犯罪なのかこれは」
「もののたとえです!」
「意味はある」
「だって事のあらましもまだ出てないのに」
「だから聞かなくて済むだろ、それを」
「ペンネームについての質問です」
「ふん、場慣れしおって」


Q. パンドラ的質問箱 その165でムール貝博士は質問者さんに「そして誰もいらなくなった」というペンネームを付与されましたが、その136でもそれに似た「そして誰もいななかなくなった」というペンネームを付与されています。


「ぎくり」
「これは由々しき事態ですよ」
「なにが由々しいんだ」
「だってほとんど重複ですよ」
「重複はしてない」
「元ネタは同じです」
「にもかかわらず重複してないからいいんだ」
「だって、いいんですか?」
「何がだ」
「底が知れますよ」
「一向にかまわんね」
「海のように深くて広い知識をお持ちだとおもっていたのに」
「深いとおもうのはそっちの勝手だ」
「そのじつ意外と遠浅だったなんて」
「潮干狩りにはうってつけだろ」
「アサリでもほじくるって言うんですか?」
「そうとも。アサリ、けっこうじゃないか」
「ムール貝のくせに!」


ピー

しばらくお待ちください


「失言でした」
「わかればいいんだ」
「じつはまだつづきがあるんです」
「何の?」
「質問のです」
「ああ、与太吉のな」
「定吉です」
「どっちでもいい」
「質問はこうです」


Q. 元ネタは言うまでもなくアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」ですが、これが2回も出てくるということはやはり女史の作品が相当お好きなんでしょうか?


「なるほど」
「どうですか」
「好きだよ」
「あ、やっぱり」
「ポアロ物以外」
「ほう……え?」
「とりわけ小煩いおばちゃんの描写で女史にかなう人はいまい」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「ポアロ物以外って言いました?」
「言ったよ」
「アガサ・クリスティの作品は大半がポアロ物ですよ!」
「ポアロときくとなぜかテリー・ジョーンズの顔が思い浮かぶんだ」
「それはモンティ・パイソンです」
「そんなことはわかっとる」
「女史の作品の半分は読んでないってことですよね?」
「ちがう。半分は読んでるってことだ」
「同じじゃないですか」
「ぜんぜんちがう。たわけたことを言うな」
「でも半分ですよ」
「そうとも。だからなんだ」
「それは好きと言えるんですか?」
「スティーヴィー・ワンダーのファンはこれまでにリリースされた30枚のアルバムをぜんぶ持ってるべきだって言いたいのか?」
「むむ」
「カボチャを好きなやつはその調理法を何十も知ってなくちゃいけないのか?」
「そんなことは…ないですね」
「愛するとなったら何もかも知ってなくちゃならんのか!」
「ガーン!」
「まったく、ばかばかしい」
「博士に愛を説かれた!」
「造詣の深さで愛情を計るなんてつまらんことだ」
「さっきの遠浅の話が急に説得力を帯びてきますね」
「海水浴と潮干狩りができてその上何を望むと言うんだ」
「こんな真っ当なことを言う博士はじめて見た」
「まず足下のアサリをよく味わえ」
「ムール貝なのに…」


ピー

しばらくお待ちください


*


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その167につづく!


2013年7月31日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その166


このところ毎晩のように、姿をあらわすものがあるのです。昼間はいません。夜になるとドアの向こうに音もなくあらわれて、何をするでもなくうろうろと長いことそこにいます。うっちゃっておけばいいようなことだけれど、前を横切ればどうしたってつい目をやらずにはいられません。話が通じそうな相手なら、「もしお前さん、どうかしましたかえ」と声をかけているところです。人目をはばかる様子もないから、客ではなく一種の住人であるとおもわれます。あるいは知らずにいただけで、よほどの古株かもしれません。それにしては挙動がいちいちためつすがめつで、どうも胡乱なのだけど。よくよく見ると、忘れっぽいような顔をしている。


「あれ?」


「これどこから入るんだっけ?」


*


うれしはずかしこむら返りさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. はじめましてこんにちは。今私のお腹にはもう一人人間が入っています。お腹から出てくるのはまだまだ先なんですが、今から頭を悩ませているのは名付けの事です。そこでアンジェリカやスワロフスキ、甘鯛のポワレ教授など可愛らしくともインパクトのある名前の名付け親、大吾さんに名付けの極意を教えていただきたいです。ちなみに出産予定日は終戦記念日です。


こんにちは。あたらしい家族を迎えることになる親御さんにとって、名前を付けることは生むより先にくる最初の大事業ですよね。かく言う僕もまだ子はありませんが、これはという言葉に出会うと何となく参考に書き留めておくことがあります。とくに古くからある日本語は人の名としてもうつくしくて魅力的な響きがいっぱいあるので、そんな趣をふくめて贈ることができたらいいなあとおもう。8月生まれなら「葉月」とかね。実際そんな名前の女の子がいました。

「ネーミングセンスを磨くにはどうしたらよいか」ということについては、じつは5年くらい前にも一度お答えしたことがあります。名付けにかぎらずセンスの良い人というのは「じつのところ必ずしも百発百中のヒットメーカーではない」こと、そして「とにかく数をこなしている」ことを、このときは要旨として挙げました。でもこれから生まれてくる子の名となるとそんなにぽいぽい付けられるものでもないし、重みがぜんぜんちがいます。いくら可愛くても我が子にアンジェリカとかスワロフスキ、ましてや「甘鯛のポワレ」とつけるのはさすがにちょっと憚られる気がする。仮に人ではなく甘鯛が生まれてきたとしてもです。

いや、どうでしょうね?アンジェリカくらいなら、ひょっとして受け入れられたりするだろうか?子の名に関しては今や自由というより無法な印象もある時代なので、案外アリなのかもしれません。「天使花」とかてきとうに漢字をみつくろったりしてね。そのへんの情勢はさすがにちょっと判断がつかない。僕の甥は「以蔵」というじつに四角い名を与えられていて渋いなあとおもうんだけど、キラキラネームと呼ばれて今はまださのみ一般的ではない類いのネーミングに魅力を感じる人々からは「古めかしくてあり得ない」と一蹴されるかもしれないし、どこまでがアリでどこからがナシなのかは案外と曖昧なものです。「薄雲」、「桐壺」、「夕顔」といった源氏物語の各帖とか、「高尾」「綾衣(あやぎぬ)」「誰袖(たがそで)」といった往時の花魁の呼び名に良きものをみる僕も、まさかこれを本気でつけるわけにもいくまいなとおもうけれど、いざ子を持ったら制止を振り切ってぺたりと名付けてしまうかもしれない。それにいまはまだ何だかんだ言って漢字が主流ですが、そのうちアルファベットも参戦するようになったら「Snow」を「ゆき」とか、「High」を「たかし」とか読ませる時代が来ないともかぎらないですよ。「KFC」と書いて「けんた」とか。

とまあ、こういうことを考えているとだんだん前後の区別もわからなくなってくるのでひとまず脇に置きましょう。気がつくとどうもこうへんな路地に足を突っ込みがちで面目ないです。

おもしろおかしく愉快なネーミングはさておき、インパクトについてはあまり考えないほうがよいようにおもわれます。一方的に名付けて知らんぷりできるキャラクターとはちがい、現実世界における人の名は店先に掲げる看板というよりむしろお守りのようなものです。肌身離さず身につけて、いずれ苦楽を共にするものです。それをふまえた上でいくらかユニークなコツがあるとすれば、そうですね、人にかぎらず好きな草花とか色とか鳥の名前や言葉、響きのよい音を拾いあつめたりするのは有効かもしれません。せせらぎのように流れゆく日々の言葉のなかには、人の名に当てはめてもしっくりくるようなものもきっと多くあるはずです。以前よくライブに足を運んでくれたご家族の子どもたちはたしか姉が「桔梗(ききょう)」ちゃんで弟が「勇魚(いさな:鯨の古語)」くんと言ったはずだけれど、これなんか日本ならではの響きに風情もあって良い名ですよね、すごく。これで答えになっていますか?


A. 呼んで呼ばれて互いに顔のほころぶような名前がみつかりますように!


*


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その167につづく!


2013年7月27日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その165



そして誰もいらなくなったさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)なげやりな結末が予想される推理小説の金字塔ですね。


Q. ドライフラワーの完成は、どうやって見分けるんでしょうか。少し前に買った薔薇やらなにやらをドライフラワーにしようと思って、ぶら下げているのですが、「ん? いつできるんだ?」という疑問に晒され続けている毎日です。


むむ、なるほど、言われてみればたしかにドライフラワーの完成は、境目がいまいち判然としないですね。「人はいつ大人になるのか」と問うのに近いかもしれません。見分けるだけならまだしも、どの時点からそうなのかということになると、とたんにぼんやりです。僕個人の例で言うと無修正よりモザイクのほうがよほどエロいと感じたときを大人の境目として記憶しています。夢があると言い換えてもいいですが、しかしまあ、それは今どうでもよろしい。

じつはうちにもドライフラワーと呼べそうなものが3輪…というか3本あります。これもバラです。もう何年も前のことでもらってきたのか買ってきたのか、はじめは生花だったのをなんとなく干しといたら、鮮やかな色をとどめながらも腐らずきれいに乾涸びました。元からそのつもりだったわけでもないので、どちらかといえば未必の故意みたいなものです。すっかりミイラになったなあ、とおもったときにはすでに完成していたとおもわれます。こんな質問がくるとわかっていたら観察日記でもつけておいたのに、惜しいことをした。


それで気がついたけれど、いっそドライフラワーを買ってくる、というのもひとつの手です。なるべく似たような種類をえらんで隣り合わせにぶら下げておけば、いずれ遠からず瓜二つの状態になります。なんだか釈然としないようですが、何しろ手本があるわけだから、すくなくとも見誤りようがありません。それでも得心がいかないようなら、あわせてこまかな観察日記をつけましょう。これで次からは手本がなくとも完成を見極めることができるはずです。

ただ一方で、やはり根本的にとんちんかんなことをしているようなかすかな疑念が拭えないとすれば、それもまたやむを得ません。何だって煙にまくにしくはないけれど、率直に言って僕も何かおかしいとおもう。おいしい煮豆をつくるために、おいしい煮豆を買ってくるなら、そりゃ買ってきた煮豆をおいしく食べたらいいじゃないか?なぜ見比べなくてはならないのか?煮豆は食べてこそ煮豆なのではないのか?

やりかたを変えましょう。花にかぎらず、わからないことがあれば相手に直接尋ねるのがいちばんです。どうなの、と問うて、まだです、と返ってくるようであれば、これはもう疑いの余地なくまだということになります。

しかしあけすけにどうなのと問うのもちょっと不躾です。あんまりうるさくしすぎて、セクシャルだかパワーだかマタニティだかわかりませんが何らかのハラスメントになって法廷に引きずり出されても困るし、花としても乾くどころか却って毎日泣き濡れるようなことにつながりかねません。

そこで、手紙です。メールも手軽でいいですが、ここは切手を貼ってポストに出す、あの気長で古式ゆかしいやりかたに則りましょう。活字では雰囲気やニュアンス、感情といった目に見えない部分をふくませるために言葉自体をかみくだいたり(離乳食と同じです)、ときとして口語を交えたりする必要に迫られますが、書き文字には初めからそれがふくまれています。しゃっちょこばっていても親しみが損なわれずにすむとすれば、どうしたってこれが最善です。

文面はそうですね、「お変わりありませんか」とか「心待ちにしています」とか、あくまで急かさない程度に、それでいてややウェットな調子がよいようにおもわれます。何ならずっと生花のままだってかまわないんだよ、といたわるように心を砕くのがポイントです。花もまた季節のうつろいなどを織り込みながら情緒豊かな便りを送ってくるでしょう。「既読」に追われることもなし、あせらずにぽつりぽつりと文通をつづけてください。ぜんぜん関係ないけどかつては雑誌の文通コーナーに誰憚ることなく名前と住所の載っていたことがなつかしく思い出されます。

ただしこの場合、目的は愛情や友情をはぐくむことではありません。このささやかなやりとりにはいずれ終わりがきます。いきなりではなくすこしずつ、むこうの返信が短くなっていくはずです。時候の挨拶もそこそこに、事細かな近況がはしょられたりして、文通にあまり気乗りしない印象が見え隠れしはじめます。おそらく最終的には書き文字ですらなく、PCで打ったテキストをプリントアウトしてくることになるでしょう。「ツイッターの相互フォローで良くないですか」と思い切った提案をしてくる可能性もあります。

それまで負けず劣らず感傷的な返事を書いてよこしていたことにくらべたら、きわめてドライな態度と言わねばなりません。とすればつまりここが境目です。数日のラグはあるかもしれませんが、完成のタイミングとしてはかなりの精度でしぼりこめると考えてよいでしょう。読み進めるうちに何の話かわからなくなった人もあるかもしれませんが、ドライフラワーの話です。

ただひょっとすると慕う相手の心変わりをみたような、いらぬさみしさを背負いこむことになるかもしれないので、あんまり思い詰めないようにしてください。


A. とりあえず文通からはじめましょう。


*


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その166につづく!

2013年7月24日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その164



暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 自分は今18なんですが大吾さんが18のときはどんな本を読んでましたか?


僕はもともと気に入った一冊を何度も読み返すタイプなので、読破した数で言ったらそれほど多くはありません。そのせいかどうか、昔好きで読んでいたものはわりとすぐ頭に浮かびます。いくつか挙げてみましょう。

・ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」
・ルイス・キャロル「シルヴィーとブルーノ」
・尾崎翠「第七官界彷徨」
・アンダスン「ワインズバーグ・オハイオ」
・ロートレアモン伯爵「マルドロールの歌」
・ラブレー「パンタグリュエル物語」
・古井由吉「陽気な夜回り」
・ルイ・ポーウェル「超人の午餐」

さもありなん、というラインナップですね。20代に突入すると、ここからさらにとっ散らかった方面へにょろにょろと触手を伸ばすことになるんだけれど、今の僕につながる根っこの部分という意味ではまずこんなところでまちがいないでしょう。いまだにすらすら出てくるくらいだから、よほど脳裏に深く刻まれてるんだとおもう。ちなみに10代前半は逆にもっとおっさんくさくて、西村京太郎、斎藤栄、内田康夫、勝目梓、笹沢左保、源氏鶏太、田辺聖子、佐藤愛子、あたりの相当偏ったエリアを読みあさってました。そんなのしか手に入らないちょっと気の毒な事情もあったとはいえ、しかたなくというよりわりと好きで読んでましたな。どう考えても身の丈に合わないこの時期の読書体験がその後に影響を及ぼしたかどうかは何とも言えません。

他にはえーと、生物学関係の本が好きでしょっちゅう手に取っていた記憶があります。なかでもローレンツに始まる動物行動学に惹かれるものがあって、「日高敏隆」という名前にはいまだにピクリと反応してしまうくらいです。あ、そういえばNHKの「いきもの地球紀行」はぜんぶ録画したりしてた!そんなに好きだったのに、生半可な知識しか頭に入ってないんだから、ふしぎなことですね。ひょっとしたら「わー」とか「へー」とか言いたかっただけだったのかもしれません。「脳」についての話も好きでした。だんだん思い出してきたけど、日経サイエンス(雑誌)も定期購読してました。ナショナル・ジオグラフィックの日本版が創刊されたときのちょっとした興奮もおぼえてる!

それはまあともかく、生物に関連する書物で今も印象にのこっているものをいくつか挙げると、

・ロバート・トリヴァース「生物の社会進化」
・チャールズ・ダーウィン「ミミズと土」
・ハラルト・シュテュンプケ「鼻行類」

「わー」とか「へー」とか言いながら読んでいたのは「生物の社会進化」です。いまもときどきひっぱり出して読んでます。「ミミズと土」はダーウィン最晩年の著作ですが、本当にまるまる一冊ミミズと土のことしか書いてないのにめちゃおもしろくて度肝を抜かれました。生物学に革命をもたらした歴史的VIPの最後の研究がよりによってミミズですよ!僕は進化論よりもむしろこの本でダーウィン先生が大好きになりました。「鼻行類」は読んでもらえればわかりますが、いかにも僕が好きそうな本です。さいしょに持っていた単行本は女の子に貸したまま戻ってこなかったんだけど、そのあと文庫で出たのをまた買ったり、人からもらったりして今はなぜかバージョン違いが3、4冊あります。

最初に挙げたラインナップに戻ると、このなかでとくに意味があるのは古井由吉の「陽気な夜回り」です。僕にとって「文体の味わい」というものがしみじみと心に行き渡ったのはこれが最初でした。それまでも筒井康隆とか横光利一で「文のおもしろさ」に袖を引かれるような心持ちはあったけれど、極端な話そこに何が描かれていようとこの文さえあればそれで満足とさえおもったのは「陽気な夜回り」を手に取ったときを置いて他にはありません。物語がメロディだとすれば文体はリズムであり、これは僕がヒップホップにおけるいわゆるワンループを好きなことともひょっとしたらつながりを持ってくるんじゃないかとおもわれるくらいです。要はこのままずっと反芻しつづけたいとおもえるものが好きなんですよね。文体もビートも。夏目漱石より内田百閒や中勘助が好きなのも、たぶんそういうことなんだとおもう。

それから、あまりにも豊かな言葉の数々に感銘を受けた「パンタグリュエル物語」も重要です。これはもちろん奇才ラブレーの恐るべき与太話クラシックですが、何と言っても渡辺一夫の翻訳、わけてもその縦横無尽な日本語力に圧倒されます。ルブランに堀口大学がいたように、ブローティガンに藤本和子がいたように、ラブレーに渡辺一夫がいたことを心から感謝しないではいられません。この先どれだけの人が束になってかかろうと、ここまでの高みに達することはまず望めないとおもう。それくらい、この翻訳は偉業です。

10代後半から20代前半というのは、ひらかれた世界に対していちばん貪欲で、また取り込んだものがそのまま血肉になる時期だと僕はおもいます。一生連れ添うことになるような一冊との、劇的な出会いがありますように!


A. 予想外、でもないですよね、おそらく?


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その165につづく!