2025年3月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その445

うまく描けた

ドンキー昆布さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. グーフィーとプルートの差って何でしょうか?


その気持ちはよくわかります。昔は僕もどっちがどっちだっけ?と首を傾げていたものです。そしてそれゆえに、明確な答えも知っています。さらにその答えは、下手にひねった回答よりも圧倒的におもしろいと断言してよいでしょう。何しろここには、ひょっとすると今もあまり多くの人には気づかれていないかもしれない、ディズニーキャラクター史上最大のミステリーがあるからです。

おそらく多くの人はグーフィーとプルートを似たような犬キャラの色違いと認識していると思われます。黒いのがグーフィー、黄色いのがプルートなので、色が違うのは実際そのとおりです。

しかしぶっちゃけ、それどころではありません。この2体には、完全かつ根本からして決定的に異なる点があります。具体的に言うと、グーフィーが「擬人化された犬」であるのに対し、そもそもプルートは100%「犬」です。言い換えるならグーフィーは二足歩行で喋る一方、プルートは四足歩行で喋りません。プルートは徹頭徹尾、愛玩動物であり、飼われる側であり、初期の設定ではミッキーマウスのペットです。それに対してグーフィーは人と同じく飼う側であり、実際、グーフィーがプルートを散歩させるシーンもあります。


ミッキーマウスが擬人化されたネズミである以上、登場するキャラとして自然なのはむしろグーフィーです。そしてその世界観からすると、なぜか擬人化されずに犬のままであるプルートこそ、特異にして尋常ならざる不可解な存在であると言わざるを得ません。心から深く愛されているとはいえ、突き詰めるとそれは「家畜人ヤプー」みたいなことではないのか…?

さらにこの複雑な設定を混濁せしめるのが、ディズニーランドです。

ディズニーランドでは当然、キャラクターたちがまるで現実に存在するかのようにふるまってくれるわけですが、そこにはレギュラーメンバーとして当然、プルートが含まれています。

当たり前というか何というかこれはもうどうしたって仕方のないことだけれど、ランドにおける実体化されたプルートは二足歩行です。またその他のキャラも現実世界ではまず喋らないので、先に挙げたグーフィーとプルートの決定的な違い(二足歩行/四足歩行、喋る/喋らない)が、ここでは見事に雲散霧消することになります。別にいいじゃんと思うでしょうが、この状況を反転すると、犬の群れに四つん這いで歩く人間が混じっているのと同じであることに注意していただきたい。

犬が犬をペットとして連れ歩くシュールな世界観もさることながら、その世界観をディズニー自らぶち壊し、それでいて多くの人が疑問に感じずウェルカムと受け入れるこの奇妙な状況を、ミステリーと言わずに何と言おう。

そんなわけでもうお気づきとは思いますが、僕がディズニーキャラの中で最も好きなのは、プルートです。その世界ではどう考えても理外の存在であるプルートが当たり前にいる、それだけでなんだか心丈夫なところがあります。


A. グーフィーはほぼ人ですが、プルートは100%犬です。




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その446につづく!

2025年3月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その444


カピバラ課長さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 300年後の日本語は今と変化ないと思いますか?


いいですね。僕はこういうことを考えるのが大好きです。

まず大前提として、言葉は日々刻々と変化し続けています。変化が激しいのは主に俗語だけれど、たとえば僕が子どものころは「とりま」という言葉はありませんでした。初めて聞いたときは「『って何?」と困惑したし、ぶっちゃけ今も気になっています。でもこれはたぶん、遠からず辞書に載ることになるとおもう。あるいはもう載ってるんだろうか?

それから僕の手元にある30年以上前の、酷使しすぎて「アスパラギン」よりも前のページが失われている古い広辞苑に、「うざい」という言葉は載っていません。たしかその元の形だった「うざったい」もありません。しかしそれだけ古くても「ださい」と「サボる」は載っているので、たぶん「うざい」もとっくに辞書に載っているでしょう。

では現代でもそれなりに使われているこれらの言葉をむりやりつなぎ合わせて「だせえしうぜえし、とりまさぼりで」というせりふを作ってみます。中二病を患った思春期で体育祭なんかやってられるかみたいなことだとおもえば、まあまああり得なくもありません。僕も書いていてヒエッとなるけれども、どうあれ意味が伝わればそれでよろしい。

その上でこの一言を、300年前の江戸中期に持っていってみましょう。何ひとつ伝わらないのは100%明らかです。語感からして外国語というよりも方言かなと感じる可能性は高いですが、いずれにしても通じません。現代の僕らがたとえば「ふめえしなでえし、ほいなかもりで」と言われて感じるような困惑がおそらくあります。なんとなく日本語っぽいなという気はするものの、さっぱりわからないですからね。

もちろんこれは極端すぎる例です。意思の疎通自体はたぶんどうにかはかれるとおもいます。たぶん、と留保して断言できないのは、単語だけでなく発音の問題もあるからです。現代よりも発音のバリエーションがはるかに多かった1000年前の日本語(や行の「い」もわ行の「ゐ」もあ行の「い」と明確に異なっていたようです)は方言どころか完全に外国語に聞こえるだろうと個人的には考えているので、300年後も音の影響がないとは言い切れません。

以上を踏まえると、お互いにしょっちゅう擦り合わせが必要になるものの、意思の疎通は可能である程度には変化してるんではなかろうか、というのが僕の結論です。「ありがとう」ですら、300年前は使われてなかったはずですからね。

ただ言葉の誤用とか美しさに対して現代は300年前に比べれば社会として圧倒的に意識的だし、こうあるべきという圧力も強いので、過去300年よりもその変化はゆるやかかもしれないなという気もします。


A. 変化の有無で言ったら絶句するほど変化しているはずです。




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その445につづく!

2025年3月14日金曜日

生まれて初めて神さまの胸ぐらを掴みたいと考えたこと


僕は昔から、神もしくは造物主のような存在があった場合、それは僕らに対して徹頭徹尾、無慈悲だろうと考えているところがあります。もし慈悲があるなら、そもそも世界の基本設定に食うか食われるかのシステム(=食物連鎖)を導入するはずがないからです。慈悲というのはそれを求める人の問題であって、造物主の問題ではぜんぜんない。

だからというかなんというか、僕は基本的に、神さまを恨むということがありません。願えば届くとも思いません。神社に行ったら真剣にお願いはするけれど、とはいえ気まぐれに聞き入れてもらえることもあるかもしれないな、くらいの気持ちでいます。懸賞とか抽選に近い感覚なのかもしれません。ときどき当選することがあってもいいし、それくらいの希望は持っていたい。

なので人知の及ばぬ事故、病、災害について神さまの胸ぐらを掴むこともまずありません。抗議したところで、知らんがな、とあしらわれるのが関の山です。どう考えても御免こうむりたいし、受け入れたくないし、受け入れられるわけないだろとおもうけど、どうあれ受け止めるほかないとも理解していて、それを常々じぶんに言い聞かせています。ドライだな、と感じる人もいるでしょう。実際そういう側面はあるので否定はできません。

にもかかわらず僕はいま、人生で初めて神さまの胸ぐらを掴みたい気持ちに苛まれています。プロメテウスの受けた不条理な仕打ちを想起せずにはいられないし、殴れるものなら殴ってやりたい。そしてこれほど強い気持ちを抱くことはたぶんこの先ないでしょう。

僕自身の話ではありません。うちの人の話でもない。

とかく人生にはありとあらゆることが起きます。どれだけあり得ないような事態でも、起きることはある。それはもう、身にしみてわかっているつもりです。それでもなお、神さまの胸ぐらを掴まずにはいられません。仕方がないとじぶんを説得できる要素がひと欠片もない。事故ではないし、病でもないし、災害でもない上に誰かのせいにできるような話ならまだ向き合いようがあったかもしれないけれど、そうじゃないから受け止められずにいるのです。死に関わりはあるけれど、怒っているのは死に対してではない。まさか人生の折り返し地点を過ぎて、こんな怒りと悲痛を抱く日が来るとは正直おもってもみなかった。

僕が神さまの胸ぐらを掴んだ、おそらく人生で唯一の日の話です。

いずれ僕が身罷って神さまに謁見することがあったら、じぶんのことよりもこのことについて釈明を求めたい。ぜったい忘れないからな。

そんなことを考えながら、ライオンを手なずける調教師みたいに、去りがたいきもちをやさしく撫でているのです。


2025年3月7日金曜日

大慌てでひざつき製菓にZINEをお送りすることになった話


これはまあ、やはりどうあっても書き残しておかなくてはなりますまい。去年から僕もふくめてせっせとひざつき製菓のせんべい群(主に「雷光 旨塩味」)を折にふれては周囲に布教してきたうちの人が満を持して先週、同業である古書店主たちを集めて「ひざつき製菓せんべい試食会」を大々的に開催したのです。

※ここまでの経緯は以下の投稿をご覧ください。


その入念な準備といったら仕事のように抜かりなく、10種類以上のせんべいを段ボールに詰め込み、紙皿やお手拭き、お持ち帰り用のジップ付き保存袋まできっちり用意した上で、プレゼンのリハーサルまでする念の入れようです。実際にはピラニアに肉を放るような有様でプレゼンする暇なんかなかったらしいですけど。



それもこれも、主力商品である「城壁」や、うちの激推しである「雷光」が今もなかなか実店舗で手に入りづらいからに他なりません。百聞は一口にしかずです。食べてさえもらえれば絶対にわかってもらえるし、気に入ってもらえれば今後は目撃情報も得られやすくなります。

またこの試食会では、ひざつき製菓についてのZINE、略して「ひざつきZINE」が配布されています。試食会に参加するみなさまにひざつき製菓を知ってもらうための、要はプレゼン資料です。当然というかなんというか、これはうちの人のラフイメージをもとに、僕が試食会の前日にむりやり作っています。よく間に合ったものだとおもう。

ラフイメージ

完成版

ラフイメージ

完成版

そんなこんなで当日うちの人を送り出し、僕は僕でぽつねんと店番をしていたわけですが、某所で試食会が催されているその日その時間、まさにそのタイミングで1人のお客さまが来店し、慎ましやかにこうおっしゃるのです。

「ひざつき製菓と申します」


正直、僕は人生でこれほどひっくり返ったことはありません。

「坊つちやん」について語っていたら夏目漱石が来たようなものだし、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」が好きだ好きだと喧伝していたらジョージ・A・ロメロが来たようなものです。こういうときっていったい何からお話ししたらいいんだろう?じつは正月に御社の工場を参拝で、あっいや今ちょうど、あのうちの人が試食会をあの神保町で、あっZINE、ZINEを作りまして、そうだ全部持ってっちゃったんだしまったー!といい歳ぶっこいた大人にあるまじき狼狽ぶりです。

聞けばうちの人の試食会のこともご存知で、SNSで店の存在を知り、出張の合間を縫ってわざわざお訪ねくださったとの由、インフルエンサーでもなんでもない単なる小市民には身に余ることで本当に言葉もありません。

本家本元のみなさまにお見せできるようなものではありませんがこれも何かの思し召し、必ずZINEをお送りしますとお約束し、試食会から凱旋したうちの人が丁寧な手紙をしたためてその日のうちにZINEを発送したという、これがこの日の顛末です。

僕は今でも「雷光 旨塩味」が1番目、「城壁 白銀の京味」が2番目に愛おしいという揺るぎない気持ちを抱いていますが、一方でセブンやファミマといったPB製品におけるひざつき製菓のアプローチがめちゃ独創的でまちがいなく推す甲斐あると本気で思っています。

インディペンデント精神に溢れ、大手には望むべくもない謙虚な姿勢、他にない大胆なアプローチを躊躇わない闊達ぶり、これがクリエイティブでなくてなんだろう。それでいていちばん美味いのがクラシックな城壁と雷光なんだから、何をか況やです。個人的にも学ぶところがすごく大きい。

せんべいの話をしているとお思いでしょうが、というか実際せんべいの話ですが、違います。せんべいに限らず愛をこめた創造性とはどういうことか、そのヒントがここにはあると、究極的には言いたいのです。

ささやかではあるけれど、まじで人生おもしろすぎる。そんなことを考えて、しみじみと感じ入る2025年です。(パリパリ)