2007年10月15日月曜日
空焚き、あるいは裁判における石川五エ門 VS こんにゃく
まいにち気圧が低くて困ります。空腹と低気圧は、僕の機嫌を劇的に悪化させる二大要因らしいのだけれど(自覚がないのです)、後者はそれに加えて伸びきったゴムみたいにやる気までなくなるから始末におえません。こうなるともうしかたがないからひたすらじっとして、ぶ厚い雨雲に長い棒をつっこんでぐるぐるかき回したら晴れるだろうかとか、がんばるガンバリ事務総長特別顧問のこととか、まあだいたいそんなことばっかり考えています。伸びきったゴムしかない世界だったらイチロー的な立ち位置でスター街道まっしぐらだろうに、そう考えるとなんだかもったいない。あるいは太陽発電みたいにこのやる気のなさをエネルギーに変換できたら、ずいぶん環境に貢献できるのにともおもう。そうしてありもしない敵に歯ぎしりするような、不毛にして非生産的な行為をこりずくり返すうちに、ふかぶかと日は暮れてゆくのです。僕の辞書ではこれを「空焚き」と呼びます。暮れるも何も、日なんか出てない!といってまた腹を立てたりね。
しかしひとびとが輝ける未来を見据えてせっせと汗水たらしているなか、あほみたいに空焚きばかりしているのもさすがに気が引けるので、よしここはひとつアルバム発売に向けて何かしら実のあることをしようと立ち上がってふと足元をみると、あらすてきな装丁の本がある。ちょっとこれいい風合いじゃないの、貸してちょうだい。(拾う)おや昭和26年初版?この時代の装丁ってほんとたまらないものがあるのよねぇ(ためいき)。物思う秋、深まるアンニュイなムードに包まれながら、知の泉に素足をひたす乙女はひとりこう、ページをめくる…。するとそこへ通りがかった精悍な顔つきの青年が思わず声をかけて…「奇遇だな、その本なら僕もちょうど今…」キャー!やーねぇ。あらあら、ふむふむ(読む)。おせんべいまだあったかしらね?
(ばりばり)
(もぐもぐ)
チャタレイ夫人の恋人 公判ノート
小説のくせに一部が伏せ字になって発売されるというある意味ミもフタもない結末を招いたチャタレイ裁判、その公判の全容を余すところなく収めた速記録ですね。非常に高度な知性の応酬でもって縦横無尽に語り尽くしながら、けっきょくのところその論点は「これちょっとエッチすぎるんじゃないの」というところに落ち着く、そのおそるべき落差に慄然とする一冊です。石川五エ門 VS こんにゃくの対決を見ているようで、いたたまれない。何が五エ門で何がこんにゃくか、視点によって切り替わるあたり、しみじみ奥の深い話だとおもう。体裁とか形式だけ見たらほんとうに無味乾燥な公判記録でしかないはずなのに、もっとも重要な部分イコールもっとも口に出すのがはばかられる部分、というジレンマに彩られた意見陳述と証言が、スリル満点でひきこまれます。おもしろい!下された判決も今からするとやっぱり意外だし、シニカルです。
こんなの問題にならないよ、と言い切れる今の感覚を当たり前と感じているのなら、腹を抱えて笑ってもおかしくはない。じっさい記録のなかにも(場内失笑)みたいな但し書きがあったりするくらいなので、鹿爪らしい顔をして読むのもへんな話です。でもいっぽうで笑えるその根拠ってなんだろう、ともふと思うのです。考えかたが古いと言ってしまえばそれまでだけれど、新しいというのは今までになかったというただそれだけのことでしかないし、50年後には僕らが笑われる番なのかもしれないのだ。
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ちなみにこの本を手に取ったのは例によってフライングブックスですが、手に取るそばでなぜかテレビカメラが回っておりました。というか、撮りながら「なんか手に取ってください」って言われて取ったのがこの本だったのです。たまたまとはいえ、いい本と出会えてよかった。
流派Rに出るらしいぜ!
だいじょうぶ、たしかにここは、笑うところです。
それこそいたたまれなくて、僕ァとてもじゃないが観られません。
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