思い返してみればそれはもうずっと、そこにあったのです。ただいつからあったのかは判然としません。10年前にはなかったはずだけれど、といって新しい店ができたという記憶もありません。どういうわけか大昔からずっとあるような顔をして、気づいたらそこにあったのです。
駅から近いわけでもなく、人通りが多いわけでもなく、2車線道路の北と南にある歩行者ゾーンのうち、あまり人が歩かない南側にあるので、道路の対岸から目に入る機会はわりとちょいちょいあるけれども、至近距離ではまず見ることなく日々が過ぎていきます。ここを通るのはたぶん人よりも車、そして車よりも自転車が多い。通り過ぎる所以です。すくなくともたまたま所用でこの町を訪れた人が通りがかって足を止めるような立地では全然ない、と断言してよいでしょう。
目を留めたとしても、昭和から続く引き戸の居酒屋にも似たとても控えめな佇まいで、ちょっとのぞいてみようかなと思わせるほどの強い印象はありません。立地が立地だけに、お昼どきになると人がどんどん吸い込まれていくようなこともない。そんな店が自宅から徒歩3分足らずの至近距離にあります。
ところがふとしたことから、その店が80年代から続く老舗町中華の移転先で、そこにしかないメニューを要することからちょっと知られた穴場のひとつであると小耳に挟んでひっくり返ったのです。
何しろ今の僕が知るかぎり、ググると一発でその店がヒットするメニューが3つあります。どう考えてもただごとではない。
サンダルでちょっと行ってこれる近所でもあるし、半信半疑で改めて店を遠目から伺ってみても、やっぱりそうは見えません。本当に営業しているのか、何ならちょっと心配になるくらいです。そして今さらながら暖簾にラーメンとはっきり書いてあったことに気づきます。昼2時間、夜2時間くらいの超ささやかな営業なので、ひょっとしたら暖簾が出ているタイミングで通りがかったことがあまりなかったのかもしれません。
しかし今や僕にとってその店は異世界への入り口にさえ見えています。クローゼットの中の服をかき分けて奥まで進むとナルニア国に出るという、世界でいちばん有名なあのクローゼットみたいなものです。
後戻りをする理由は皆無です。意を決して入店します。調理場にいるのはおそらく70代と思われるご夫婦です。おそるおそる、耳慣れないメニューのうちのひとつを注文します。運ばれてきた一皿を前に、これがナルニア国か…と混線した感慨に耽りつつ、ぱくりと頬張るわたくし。
美味い……。
えっうそでしょまじかよもっとはやくしりたかったなんでだれもおしえてくれないの!!!!!と脳内が暴動に発展しかけます。しかしひとりでもぐもぐしてるだけなので必死に自分を宥めるほかありません。きれいに完食し、お会計をすませ、ごちそうさまでしたと声をかけ、店を後にします。
なぜこんなことを思わせぶりに延々書き連ねているかといえば、店の話をしたいのではなく、さんざん見慣れた、もっと言えば見飽きたと感じる日常でさえ、自分が信じるほどにはぜんぜん見ていないことを、この一件で心底思い知らされたからです。
見たいものを見る、あるいは意識に引っ掛かるものだけが認識されるというのは、人間における認知の基本だと理屈のうえでは昔からわかっているつもりだけに、目と鼻の先にナルニア国への入り口があったという事実にはやんなるほど反省させられるものがあります。
それは敷衍すれば、どれだけ知識と経験を積み重ねたところで、見たいものだけを見て結論を引き出している可能性が常に(常にです)あるということでもあるからです。
世界は広い。もちろんそうです。異論を挟む人もいますまい。でも同じ繰り返しに感じる日常の行動範囲内でさえ、自分が認識しているよりもじつはもっともっとはるかに広いかもしれません。

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