2020年12月31日木曜日

エンドロールのクレジットのみで紡ぐここだけの物語

気候の大きな変動と生態系の絶え間ない破壊と消失、目に見えない最凶の厄災に見舞われたすべての人類を除けば、今年も地球はおおむね健康、もしくはせいぜいちょっと体調を崩したくらいであったと申せましょう。太陽なんか体調どころか、何があろうと常に同じ顔で「おっすおっす」と毎朝のんきに昇ります。われわれはまったく、じつに小さい。

今年、個人的に最も大きな教訓として心に留めておきたい自分の変化は、黒いマスクを抵抗なく着けるようになったことです。かつては街中で見かけるたびにギクリとさせられるところがあったので、そのころの自分にどれだけ言葉を尽くして説得しても絶対に信じますまい。

こうあるべきと日々疑いなく信じていることは、じぶんがおもうほど強固なものではないかもしれないばかりか、驚くほど簡単にひっくり返るものかもしれない。頭が硬化しがちな中年にはとりわけ大きな教訓です。

それは拡張すれば、「正しい側にいると考えるわたしたちは、果たして本当に正しい側にいるんだろうか?」と自らの日々を根底から問い直すことにもつながります。そして僕らは日頃、びっくりするほど本当にそれを疑いません。「そうあって当然」という視点は、イエスとノーのどちらであっても同じくらい心細い。

少なくとも何度となく立ち止まって、そうだよな、ちがうかもしれないよな、と受け止める機会の多い年であったことは確かです。

常にがらんとしてとくに語ることがない僕の日々からすると、今年はよりがらんとしてすっからかんになってもよさそうなものですけれども、というようなことを数十年繰り返しているある種のプロフェッショナルなわけですけれども、そういえばそれでもふたつみっつはお知らせもありました。

純平さん、カズタケさんとの solo solo solo TOUR から生まれたアルバム「the 3」のサブスク解禁、タカツキをフィーチャーした「化野/ADASHINO of the dead」の公開、それから小林大吾のアルバム4枚が満を持してすべてサブスク解禁になったことです。さすがに今年はライブのない年になるとおもったら、アフター6ジャンクションスタジオライブもやらせてもらいました。あらためて振り返るとかろうじてそれっぽいことをした気がする一方、現時点でできそうなことは全部やってしまったのであとはもう何も出ないという、さよなら感が募ります。
しかしまあ、僕の人生には常にエンドロールが流れているので、いつも通りと言えばいつも通りです。本編を観た記憶がないけど、いったいいつどこで上映していたのか、責任者出てこいと言いたい。

きっとまた来年も、同じエンドロールが流れています。そしてそこに記されているクレジットには、あなたの名前も含まれています。いつ途切れてもおかしくないのになぜか細々とせせらぎのように今も流れつづけているのは、そのおかげです。静かで目立たないけどあなたがいてくれるから今も終わらない、エンドロールで紡ぐひとつのささやかな物語がここにあります。出演してくれてありがとう。

あ、そうだインスタも始めたんだった。それはニュースだ。

来年は、そうですねえ、お目にかかる機会がまた巡ってくればとおそるおそるおもいます。せめて来年末も今観ているのと同じエンドロールが変わらず流れていますようにと他人事のように願うばかりです。あとそうだ、面倒なことこの上ないので、ブログへのアクセス不可をどうにかしたい。

それはまあそれとして、よいお年をという感じでもないし、どのみち数日たてば新年なのでまたすぐお目にかかりましょう。

よし、解散!風呂入れよ!そしてゆめゆめ油断召されるな!


2020年12月26日土曜日

2枚のタイルは慰安旅行の夢を見るか?

ソーシャルディスタンスの図

2020年はなんというかまあ、人類史上稀に見るレベルでいろいろあった、まさしくそのためにどこもかしこもいろいろなかったというか地球規模でぜんぶ丸ごと水泡に帰した1年であり、それどころか今なおその渦中で解決の糸口がまったくと言っていいほど見えていないわけですけれども、それでもしいて言えば安田タイル工業的にはひとつ、わりと大きなニュースがありました。

去年の秋ごろ完成した安田タイル工業待望の支社ビルに先月だかいつだったか、弊社専務がとうとう視察にやってきたのです。 




 遅えよ。できたの去年だぞ。
 
世界に向けて遠吠えを! 

何年たってもスタートアップなルームランナー的足踏み先進企業、安田タイル工業がパーッと派手にあれこれやってやった気になる季節が今年も巡ってきた!2019年12月以来となる今回も、専務と社員、総勢2名の大所帯で

 繰り出せるはずもありません。 

世界各地で移動を制限される大禍の、今がまさにど真ん中です。謹慎という単語が辞書にない安田タイル工業でさえこの状況下における「いいからパーッとやろうぜ」な姿勢が不謹慎きわまりないことくらいさすがにわかります。鼻歌まじりで慰安旅行など、常識的に考えてとてもできるわけがありません。 

※これまでの年末興行については以下をご参照ください。
2010年
2011年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年 前編
2018年 後編
2019年

実際のところ弊社の慰安旅行は観光地どころか人類との接触を極力避ける傾向があるし、会食に見えて専務と主任がふたりとくに話すこともないまま黙々と箸を口に運ぶだけだし、旅行というよりむしろ唯一にして無二と言えなくもないくらい全集中の呼吸、じゃなかった全事業中のウェイトをほぼこれだけで占めるほど重要かつ空虚な業務です。だいたい思い返してみればハッピーだったためしもついぞありません。

 しかしそれでもやはり躊躇われるものがあります。また良識ある大人としてもそうあるべきです。何と言ってもわれわれは世界中のタイルを導くための規範、ロールモデルであらねばならないという、忽せにできない重い責務を負っているのです。

急かずともそう遠くない未来にはまた大手を振って旅することになるでしょう。明日も必ず日は昇ります。われわれはただ目を閉じて、その日が来るのを夢見ていればよいのです。

旅する夢を見ています

焼きスパムの夢を見ています
(注:写真はイメージです)

まだ焼いています
(注:写真はイメージです)

ちょっと燃えすぎた夢を見ています
(注:写真はイメージです)

レアな交通系ICカードの夢を見ています
(注:写真はイメージです)

不可視トイレの夢を見ています
(注:写真はイメージです)

用が足せるバイクの夢を見ています
(注:写真はイメージです)

自転車の夢を見ています
(注:写真はイメージです)

モテそうな夢を見ています
(注:写真はイメージです)

鮮烈な夕焼けの夢を見ています
(注:写真はイメージです)

全社員が集結する夢を見ています
(注:写真はイメージです)

ソーシャルディスタンス

ソーシャルディスタンス

海峡の夢を見ています
(注:写真はイメージです)

電話する夢を見ています
(注:写真はイメージです)

海中トンネルの夢を見ています
(注:写真はイメージです)

ある県境の夢を見ています
(注:写真はイメージです)

乗客がわれわれしかいない船に乗る夢を見ています
(注:写真はイメージです)

星の王子様になる夢を見ています



日本海の夢を見ています
(注:写真はイメージです)

雪が融け残る夢を見ています
(注:写真はイメージです)




♪パ〜パラララ〜(エンディングテーマ)


飽くなき探究心と情熱を胸に、安田タイル工業は今後も逆風に向かって力強く邁進してまいります。ご期待ください。

安田タイル工業プレゼンツ「慰安旅行に行ったような気になる話、もしくは夢」 終わり

2020年12月25日金曜日

下劣な思いつきを新鮮に見せる低温殺菌アプローチ


それにつけても本当にしみじみとありがたいのは、今もフォロワーがそばにいてくれることです。数えるまでもないくらいほんのわずかであっても、たとえそのうち半分が案山子やマネキンであっても、あるいはモグラやカエルであっても、何なら草とか苔であっても、これに勝るものはありません。どう考えてもあるとおもうけど、ここでないと言いきることこそ……何があって何がないのか今ちょっと忘れてしまいましたが、とにかくこの広い宇宙に対していろいろどうもありがとうということです。

そう、こうして実際ほとんど何もしていないのにさも忙しそうに活動しているかのように受け止めてくれるからこそ、僕もさも連日忙しそうに活動しまくっているかのような顔をして流れてもいない額の汗を拭いつつ「体がふたつあればなあ!」とか言ったりして体ひとつでもむしろ余る現実を忘れていられるのです。はい、そこのカエル、気ままに飛び跳ねない。ほらカラスも案山子をつつくのをやめる。おとなしく人の話を聞きなさい。もしくは人を連れてきなさい!

さればこそ僕もその気持ちに応えなくてはなりません。そんなわけで始まった、わけではなかった気もするけど気づいたらだいたいそういうことになっていた、当ブログにおける転売屋殺到の超絶大ヒット御礼企画でもないことを錯覚でスマートにカバーする恒例の年賀状キャンペーンを、冷える夜更けの街道沿いにぽつりと明かりを灯す屋台的な立ち位置で今年もお送りいたします。


ご希望のかたは例によって例のごとく、件名に「牛にやさしいハッピー牛乳」と記入し、

1. 氏名
2. 住所
3. わりとどうでもいい質問をひとつ

上記の3点をもれなくお書き添えの上、dr.moule*gmail.com(*を@に替えてね)までメールでご応募ください。

締め切りは12月29日の火曜日です。

応募多数の場合は抽選となります。ただし、みんながおもうほど多数だったことはありません。「みんながおもうほど」というのは「周りに知ってる人もいないし、仮にいたとしてもブログまで見てる人はさすがにごく一部だろうからなあ……でも、ちょっとはいるかな?くらいのことであり、ありていに言ってそれよりも多くはないという意味です。ふるってご応募くださいませ。

今年もありがとうー!

2020年12月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その306


ブログにアクセスできない問題がいまだに放置のままなので、今回も共通の知人に間を取り持ってもらうような形でこれを書いています。いいかげんどうにかしたいのですが、人生において随時更新されるいいかげんどうにかしたいことリストの最下部にあるのでどうにもなりません。このいいかげんどうにかしたいリスト自体、いいかげんどうにかしたい。

あたためマスカットさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)


Q. 私は思い込みかもしれないけれど確かめる術もない前世の記憶があります。ダイゴさんには前世の記憶みたいなもの、おありですか?もしあれば、その記憶とどう付き合っておられますか。私はその記憶に時々話しかけています。


ふむふむなるほど、これはなかなか興味深い質問です。そして肝心の、前世の記憶については何も記されていないと……なるほど……。

いやいやいやいや、そこじゃないですか!一番気になって知りたいのはそこですよ!

たとえばですね、「わたし脱いだらすごいんです」って言われたらそりゃもうどれどれちょっとそこで脱いでごらんなさいって話になるじゃないですか?そんで実際に確かめてみて、ワーオってなるわけじゃないですか?そうでないならそれ以上踏み込みようがないし「ほう……」としか言いようがないわけですよ!バーでたまたま隣り合わせて、どちらからとなく会話を交わしたりして、そこからワンナイトアフェア的なめくるめくアレへと歩みを進めるためにはやはりどうしたってもうひとふんばり必要であると、カウンターを拳でドンと叩きながらひとり取り残されたわたしは言いたい。

いや、待てよ……これはつまり「気になる?じゃこの続きはわたしの部屋で……」みたいなことなのか?それならそれで、うむ、なるほど、そうですな、ふふふ……わるくない。たしかに全然、わるくない。

これが質問箱でなければの話ですけども。

あと僕下戸なのでバーとか行かないですけど。

前世の記憶については、そうですね、そういうこともあるだろう、とわりとストレートに受け止めているほうです。物心がつく前にそういう、かつて存在した当人しか知らないような話をして周囲を不思議がらせながらも、成長するにつれて次第にその記憶を失っていく子どもたちがいると聞いたことがあります。とすれば大人になっても忘れずにいる人がいても全然おかしくはない。ただまあ、前世というとどうしてもスピリチュアルな響きを伴ってしまうので、個人的には「生まれる前にいた自分」くらいの受け止め方ですね。あっていいし、むしろあってほしいとさえおもっているところがあります。

僕自身は、たとえば目にした情景を伴うような、そういう記憶はありません。ただ、前世の名残と言われれば納得してしまうような、不可解な習性なら今もあります。

昔から誰に話しても意味がわからないという顔をされますが、40℃から41℃の風呂に異常な不安を抱く、というものです。それくらいの温度の湯につかると、恐怖に近い不安を抱いて目が泳ぎ始めます。なぜと言われてもまったくわからないし、矯正できるものならそうしたい。でも未だに変わらずです。

具体的には「このまま素っ裸で外に出なくちゃいけなくなったらどうしよう」という不安です。何言ってんだと僕自身もおもいますが、なぜか必ずそう苛まれます。昔は温泉とか銭湯をそれが理由で避けていたくらいです(今はだいぶ平常心で入れるようになりました)。

とにかく解せないのでかつて実験してみた結果、42℃を超えると不安が消えることはわかっています。それはただ熱いだけで、怖くはない。もしかしたらもっと絞れるかもしれないけど、不安をもたらすのがかなり限られた範囲の温度であることは確かです。すくなくとも何者かの手で煮えたぎる湯にぶち込まれた経験からくる防衛反応ではないとおもわれます。

もちろん、物心つく前の何らかの記憶が歪んだ形でこびりついている可能性もあります。でも、なんだろう、冬場に濡れたまま体も拭けず裸で外にいて震えるイメージなんですよね。

なのでたぶん、生まれる前に火事かなんかで風呂屋から逃げたとか、もしくはそれで命を落としたとか、そんなとこかもしれないな、とひとまず結論づけています。

前世っぽいでしょ?

どちらかというとフィジカルな記憶なので付き合い方と言ったらなるべく避けるくらいしかできないですが、話しかけられる記憶はちょっといいですね。背中を撫でるようなかんじでね。

というかまじで何が何だかさっぱりわからない上に気になって夜もいつも通りしか眠れないので、僕がときどき店番をしている古書店アルスクモノイでコーヒーなんか飲みつつぜんぶ洗いざらい話しに来てください。


A. つかると恐怖に苛まれる風呂の温度があります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その307につづく!

2020年11月26日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その305



きもちのやりば(無限列車編)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)


Q. あれからもう9年近くも経つのですね。そう考えると、せっかくなので あと13ヶ月待って『ちょうど10年経ちましたが…』と切り出したい気もしますが『気づいたら11年目でまたもや中途半端!』なんて事になりかねないので お伺いします。

【重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなもの】通称『鈍器のようなモノ』は もう召し上がりましたか?できれば硬さや味の感想などお教えください。ヨロシクお願いします。



たしかに気が遠くなるような、長い年月が過ぎました。「鈍器のようなもの」からさえもう9年、このブログにおける最後の更新からも5ヶ月、そもそもこのブログを立ち上げてから十数年……今こそ問い直さなくてはならない時がきているようにおもうのです。このブログは一体何のために存在するのか?

しかしこれは「人はどこから来て、どこへ行くのか」と問うのにも似た、哲学的な問題です。ひょっとすると太古の昔にははっきりとした意図や目的があったかもしれませんが、今となっては知る由もありません。おそらく答えは永遠に見つからない。人はただ、どこからかやってきて、またどこかへ去るのみです。ここにこのブログがぽつねんと残されている意味など、世界にただ1人の管理人である僕が知らないのだから他の誰が知りましょう。

振り返ってみればこのブログは放置していたことへの弁解が大半を占めています。まず初めに放置があり、次に弁解がつづき、そしてまた放置という、非常に安定したサイクルです。ごくたまにそうでない時期もありますが、言ってみればそれは雨期みたいなものであって、全体としてみれば砂嵐がないだけマシの、おおむね砂漠です。かつて栄華を誇り、今でもときどきアクセスのある(らしい)目玉焼きの記事なんかはこの広大な砂漠にかろうじて残されたピラミッド、もしくはスフィンクスであると申せましょう。どう考えても目玉焼きのために立ち上げたブログではなかったとおもいますが、歴史においてはどうあれ結果がすべてです。

放置と弁解を繰り返しながら縁切りを免れているのも、これがブログだからこそです。相手が人で僕がその恋人なら、とっくに愛想を尽かされています。また仮に僕が第三者であっても「別れなよ」と言うでしょう。こんなことならいっそ捨ててもらいたいとさえおもわれてきます。こちらから別れを切り出すことができないのだから、ブログのほうから見切りをつけてもらうほかないじゃないか?

しかしまあ、そんなことを言っても始まりません。何かが始まるという目映い期待を抱いてかれこれ小学生が社会人になるくらいの月日が経過した今も何かが始まった印象は特にないわけですけれども、とにかくキーを差し込んでエンジンをかけないことには発進もできないのだから、進むにせよ進まないにせよせめてエンジンだけはときどきかけてみなくてはなりません。

そうおもって数ヶ月ぶりにブログにアクセスしたのです。


アクセスできなくなっていた。

そんなわけで僕は今、未練がましくも共通の知人に間を取り持ってもらうような形でこれを書いています。真夏の浜辺できらめく波と戯れるような、美しい思い出に彩られていた気がしないでもないあの日々を、このブログが思い出してくれることはあるだろうか……?


さて肝心の質問ですが、これは僕もよく覚えています。9年もたったなんてとても信じられないし、信じたくないし、なんなら信じません。受け入れたくないことを受け入れる必要はまったくないとトランプ大統領やその支持者たちも教えてくれています。

ただし覚えているのは「重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなものがかつて家にあったこと」であり、その先はまったく記憶にありません。ひょっとすると僕自身、「重くて固い上に、表面もゴツゴツしていて岩みたいな、たぶん乾燥した無花果を押し固めたようなもの」のことをこのブログで知ったのではないかと思われるほどです。

なんとなくこう、薄く切って食べたような気もするんだけど、「こういうのは薄く切って食べるものだろう」という経験的な想像が生み出した偽りの記憶である可能性も否定できません。何しろ切った記憶がない。

現時点ではっきりしていることがあるとすれば、この鈍器のようなものがすでに手元にはないこと、それ以上に重要なのが僕はまだ逮捕されたことがないという事実です。

逮捕されていないというのはつまりこの鈍器のようなもので誰かを死に至らしめたりはしていないことを意味しています。そして人を死に至らしめたか否かという問題に比べれば、味なんかはもう、これは誰がどう考えたって二の次です。ですよね?

実際のところ、ほぼ鈍器であると言わねばならないこの不可解な食物への問いに対して、これ以上安心できる回答はまず他にありません。何しろ誰も死んではいないのです。殴りつけるくらいはしたかもしれないですけど。


A. 誰も死んでいないので大丈夫です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その306につづく!

2020年7月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その304


そういえば小林大吾の全アルバムが7月からサブスク解禁になるというお知らせを例によってまったくしていなかったので、いつものように事後報告としてここに記しておくつもりだったのですけれども、どうしても今答えておかなくてはいけない火急の質問をいただいてしまったので、サブスクのほうはどのみち事後報告なことでもあるしひとまず脇に置いておき、こちらを優先してお答えします。

さみだれチキンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)

Q. 先日、友人と話していたら同時に喋り出そうとして言いとどまるという一連のあれやこれやを連続で3回経験し、実は生き別れた双子かそれともわざとなのか、と悶々としながらも笑い合ったのですが、これは偶然なのでしょうか?それとも生き別れた双子なのでしょうか?歯の間に引っかかった魚の小骨ほどに気になって仕方ありません。

何を隠そう、僕は間野わる夫という二つ名を持つくらい、間の悪い男です。家を出るタイミングをぴったり見計らって雨が降り始めたり、バイクで走っているとかなりの頻度で死角から自転車が飛び出したり(いつもそうですが自転車の前後100メートルには誰もいません)、ベランダに出たそばから向かいの部屋の住人もベランダに出てきたり(向こうからしたら僕は常時ベランダにいる変質的な中年男性という認識になっているはずです)、トイレに入ってうんこをひねり出した瞬間に宅急便が来たり(これは本当にしょっちゅうです)と、枚挙にいとまがありません。

いいじゃないかそれくらいとお思いでしょうが、これがあなた、三度四度の話ではないのです。しかも例えば、む、便意が来た、でもたぶん今行くと呼び鈴が鳴りそうな気がするから10分待ってからにしよう、と先手を打って10分待ち、満を持してうんこをひねり出すと見事にそのタイミングで呼び鈴が鳴ります。すべてを録画していたら、本当にコントみたいなことになっているはずです。宅急便の人に罪はありませんが、この……このうんこ野郎……!と溜めに溜めて罵ってやりたい、いえもちろんうんこ野郎なのはその時まさにうんこをしている僕のほうなわけですけれども、言ってやらないと気が済まない。現実に言ったことはないけれども、すごく言いたい。今やうんこをするのにもいちいち二の足を踏むレベルです。だって宅急便がくるんだもの。宅急便の便はあれか、ひねり出すほうの便なのか?

さて、質問に対する答えですが、その程度で生き別れた双子ということになるのなら、僕のうんこと宅急便は疑いの余地なく生き別れた双子ということになります。人どころか生物ですらないのだから、前世からと言ってもいいほど深い縁、もしくは業であるとみてまず間違いありません。生まれ変わったら一緒になろうね、と見つめ合い固く誓い合ったその来世がうんこと宅急便であり、しかもそのせいで毎回受け取り損ねるのだから、気の毒すぎて言葉を失います。そんなことがあっていいものだろうか?

したがって、僕の答えは「偶然」です。でないと僕のうんこが報われません。おふたりでひとしきり笑い合えるだけマシだと受け止めてください。僕のうんこと宅急便はいまだかつて一度も笑い合えたことがないし、百歩譲って笑い合えたとしても、所詮うんこと宅急便でしかないのです。お互いに人であり、気の置けない友人であり、100%ハッピーであることに心から感謝しなくてはいけません。


A. 偶然でないと僕が困ります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その305につづく!

2020年5月26日火曜日

数年ぶりに音源を公開した話、あるいは専務ではないタカツキについて



そんなわけで、ものすごく久しぶりとなる新しい一遍が公開になりました。

どうも2016年の「ジョシュア」が最後だったっぽいので、小林大吾の音源としてはじつに4年ぶりということになります。まさかこんな活動をしているとは夢にもおもわずにどこからか流れ着いたフォロワーのみなさまが異常を感知してばたばたとフォローを外していく、そんな年月です。

このタイミングにとくに意味はありません。あったような気もしますが、今となっては思い出せません。だいたい意味のあるタイミングで発信できるような抜け目のないタイプなら、そんなタイミングは今までにいくらでもあったはずなので、仮にあったとしても大した意味はありますまい。

何しろビートができたのは、確認したら2017年の前半です。詩を書いて乗せたのは、2018年の後半です。今が2020年の初夏なので、公開までにかれこれ3年以上を要していることになります。そりゃ「小林大吾を知ってから初めての新曲」という強烈なブローを、腹にも食らおうというものです。まことに面目ありません。見つけてくれてありがとう……!


もともと数少ないライブで披露はしていたものの、あらためて音源として整えるにあたり、新たにタカツキのラップをがっつりフィーチャーしています。言わずと知れた安田タイル工業の専務です。ただ、「小林大吾」の作品に「タカツキ」がラップで参加、というのはおそらく初めてのことであり、僕としてはかつてない大きな事件のひとつであると申せましょう。

聴いてもらえるとわかりますが、凡百のラッパーをしのぐスキルがイヤというほど堪能できます。語彙の選び方、声の使い方、言葉の乗せ方、グルーヴ、どれをとっても無二のスタイルで比較できる人が思い浮かびません。あまり知られていない、もしくはだんだん忘れられつつありますが、そもそもかつてひとりで西陣レコーズ(nrecords)という音楽レーベルを立ち上げ、曲を作るだけでなく当時それほど当たり前ではなかったCDのプレスを自ら手がけ、流通にも関わり、多くの仲間を集めて何枚ものアルバムを世に送り出してきた人です。

アドレスがHotmailだ……

余技ではなくこれこそが本領だとずっと言いたかった、まさにそのラップがここにあります。(ちなみに安田タイル工業は本領とか余技とかそういうアウトプットではなく、むしろ土台となる生き方の問題です)

また、曲中のラップでは陽気なゾンビを演じてくれていますが、これはタカツキ自らの判断で、僕はラップが上がってくるまでまったく知らなかった、ということも書き加えておきましょう。満額回答どころか倍額回答を受け取ったときの驚きは言葉にできません。

おかげで、数年ぶりに公開する音源としては本当に胸を張れる、そしてしみじみ、だいぶ遠くまできたなあとおもえる感慨深い出来映えになりました。

本当にごくごくささやかなものではあるけれど、日々を彩るあれこれの、ちょっとした足しになることを心から願って。

ていうかほとんどタカツキのことしか書いてないな。


2020年5月11日月曜日

化野/ADASHINO of the dead



1
はじまりは古い

ある日ぽとりとひとつそこに落ちて
しずかに降り積もり、ひとつまたひとつ
それが山になった

飴細工みたいにきれいで、骨みたいに軽い
踏みしめるとざりざりと苦い音を立てる
放り入れる籠を背負ってざりざりと歩く

飴細工みたいにきれいで、骨みたいに軽い
それはかつて人が耳を貸したり傾けたりしたもの

昼も陽は当たらず、ただ荒涼として広い
ここはでかい声にかき消された志の半ば
砕け散ってばらまかれた形なきものの墓場


2
墓場ではゾンビがしけもくを吹かしている
その足元で三つ足の猫がまるくなって眠る

魂をもつと昔きかされた文字と音が
フェイクや美辞麗句として捨てられていく
行き着く先がここなら、そのなれの果てがゾンビだ

飴細工みたいにきれいで、骨みたいに軽い
それはかつて人が耳を貸したり傾けたりしたもの

凹んでるとゾンビはポンと肩を叩いて
「生きてりゃいいことがある」と慰めてくる
お前が言うのかよって返すのがお約束
世界はこんなにもグロテスクでやさしい


3
そのうちまた甦る日がくるだろう
歌をうたい、詩をよむときがくるだろう
それは絶やさずにきた埋み火のように
冷えきった朝を温めるだろう

飴細工みたいにきれいで、骨みたいに軽い
それはかつて人が耳を貸したり傾けたりしたもの

スコップで掬い、平らにならし
そこへまた今日もぱらぱらと降る
砕け散ってばらまかれた形なきものの墓場で
その日を待っている

ひどく前向きなあのゾンビが笑いすぎてむせる

その足元で三つ足の猫が、大きく伸びをする


2020年3月1日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その303


新鮮グミさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)幕末に大暴れした浪士たちのおやつですね。


Q. 先日、バーで初めてお会いした男性とお話しした内容です。
しっくりくる表現を探し求めて私や友だち、バーテンダーも巻き込んで4人で考え込んだのですが、お力添えをいただきたくメールしました。

その男性自身も飲食店店主をされていて、そのお店に元交際相手の女性が男性を伴って来店するそうです。
私は女性は見せつけたい気持ちで来店していると思ったのですが、連れの男性も顔見知りで男女の仲を見せつけるようなことでは無いそうです。
店主は最初『なめくじに塩を振るような女性だな』と思ったそうです。意味としては“する必要のない事をする“だそうです。
でも、なめくじは塩をかけないと流しに流しただけではゴミ受けから這い出してくるので“必要のない事”ではないのです。それを言うなら『蟻の巣に砂を入れる小学生』じゃないですかと返すと。
「んー。もっと女性は良かれと思ってやってる感じ」と。

『雨の日に両手とも荷物持ってて、口に駐車券まで咥えてるのに傘を貸してくれる人』
『珍しくて喜ぶだろうと6千円のお釣りを二千円札3枚でくれる店員』
『居酒屋で同席者に聞かずに唐揚げにレモンを絞る女』
という例えが出たところで、時間も時間でお開きになりました。
当の店主は帰宅してしまったので、結局のところこれ以上しっくりくる表現の正解は分からないのですが、この表現を考えるのが楽しくなってしまいました。
長くなりましたが質問です。
他に何かありますか?


あまりにおもしろい話だったので、最後の一行までこれが質問箱宛であることに気づきませんでした。ちょっとした集まりでいっしょに考えてみたくなる、こういう話はいいですね。びっくり箱みたいにたのしい質問をありがとう!

いい具合に焦点がシフトしていく話の流れもさることながら、僕としてはなぜそこがそんなに気になるのか、という点にもそそられます。そこが、というのはつまり、元カノである女性の行動が、ですね。

意図が込められている可能性はもちろん、大いにあります。ありますが、じつは全然ない可能性もあるのです。ただ単に近しい人が営む気安い店をときどき訪ねているだけかもしれません。

連れの男性も店主の知人である点も見逃せません。というのも、とくに何の意図もないことを示すのにこれ以上最適な相手もないからです。考えられる他の連れとしては知人女性、初見の女性、初見の男性の3パターンになるとおもいますが、これらはどれも知人男性とくらべて何らかの意図を勘ぐられる余地が明らかに広くなります。なりませんか?

そして単なる友人として馴染みの店を訪ねているだけの場合、なぜという疑問はそのまま店主に跳ね返ります。なんとなれば、彼らがれっきとした客である以上、する必要も何も店にとっては明らかにプラスで意味があるはずだからです。その点からすると「良かれとおもってるかんじ」もそりゃそうだろうと言わざるを得ません。だってお客さんなんだもの。

したがって僕としては、ある種ウィンウィンの関係と言えなくもないにもかかわらず「する必要がない」と感じてしまう店主のナイーブな心の動きにむしろ興味が湧きます。湧きますが、客観的には僕みたいな人がその場にいなくてよかったです。ほんとに。

*前置きおわり*

さて回答ですが、そういえば僕は「する必要のないことをする」にかけては右に出る者のない権威中の権威を1人知っています。日ごろから返しようのない一言や返しようのない画像を良かれとムダに送りつけてくる安田タイル工業の専務です。

事例1

事例2


事例3

「安田タイル工業の専務みたいなやつ」はもう、これ以上ないくらいぴったりだと僕自身はおもいますが、しかしそれに腹を抱えて笑うのも僕ひとりなので、断腸の思いで別の表現を考えるなら、そうですね、「用を足したあとトイレットペーパーを三角に折る人」あたりになるでしょうか。

「清掃済」であることを示すしるしをなぜわざわざ偽装するのか、そしてなぜ手を洗う前にそれをするのか、さっぱりわかりませんが、こんなときにはうってつけの例だとおもいます。うちの専務ほどじゃないですけど。


A. 「用を足したあとトイレットペーパーを三角に折るような人」です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その304につづく!

2020年2月25日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その302


心頭滅却すれば火もまた吹雪さんからの質問です。(ペンネームはご本人によるものです)


Q. オートロックの賃貸に住んでいるのですが、鍵を持たずにふらりと出かけては締め出しをくらうことが頻繁にあります。何か妙案はないものでしょうか…?



質問をいただいてそういえばと改めて思い出しましたが、僕には以前からずっと不思議に感じていたことがあるのです。そもそも解錠に物理的な鍵が必要なオートロックシステムは本当に意味があるんだろうか?

施錠機能はもちろん完璧です。かけ忘れるということがまず絶対にありません。扉が閉まればすなわちロックです。うむ、たしかにそのとおりだ、しかしだから何なんだという、あまり大きな声では言えそうもない印象を僕は常々抱いています。だって、出るときも入ったあとも、じぶんで鍵をかけたらいいじゃないですか?

というか、少なくとも僕はかつて一度も「ああ、鍵が自動でかかってくれたらいいのになあ」と思ったことがないし、ホテルなんかでお目にかかっても「うおおすげえめっちゃべんりだ!」と感動したこともありません。むしろ部屋を出てから「あっ鍵わすれた」「入れねえ!」という経験とその不便さのほうが確実に身にしみています。質問で仰っている状況もつまり、こういうことですよね?

オートロックなんか不要だ、と言いたいわけではありません。たとえば指紋とか虹彩による認証といった、物理的な鍵を必要とせずに解錠できるのなら、こんなに便利なことはないと僕もおもいます。なんとなればそれは施錠という概念を日常から完全に取り払うことにもなるからです。僕らが意識するのは常に解錠だけということになる。革命と言ってもいいでしょう。やぶさかではない。まったくもってやぶさかではない。

それはまあそれとして、しかし家を出るときに鍵をかける、というのは現在のところごくごく当然の日常的行為だし、ぼーっとしていても無意識に手が動くくらいにはかかるエネルギーも極めて微々たる動作です。そして多くの人にとっては習慣でもあります。たったこれだけのことをわざわざ省くだけの甲斐が一体どこにあるというのだろう?

言うまでもなく、締め忘れの可能性はあります。その点をカバーしてくれるのは確かにありがたいと言えるかもしれない。でもですね、締め忘れる可能性について言うのなら、そこには当然鍵そのものを家に置き忘れる可能性だって同じくらいの確率で厳然とあるわけですよ。

物忘れというのはある限られた状況下においてのみ起こるものではありません。ありとあらゆる方面にそれはもう見事なまでに平等に作用するオールラウンダーであって、忘れるときは何であれスコンと忘れるようにできています。

だいたい、「鍵を家に置き忘れないように」と言うのであれば、それは「鍵をかけ忘れないように」と言うのと同じことです。置き忘れずにいられるのであれば、鍵をかけ忘れずにいられるはずです。そして忘れるとすれば、どちらも公平に忘れる可能性があります。じぶんで書きながらなんでこんな当たり前のことを強調しなくちゃならんのだとおもわずにいられません。

然るに、鍵を家に置き忘れることはないけれども、鍵をかけ忘れることはある、という極めて都合のいい環境下においてのみ役に立つ、そんなシステムに意味はあるのか?そこで謳われる安心と安全は、本当に確かなものなのか?ひょっとするとそう思いこんでいるだけで、あるとないの間に実質的な差などないのではないか?

ない、というのが僕の結論です。改めて質問を読み返してみてそういう話じゃなかったことを思い出しましたが、せっかく結論が出たので書き留めておくと、物理的な鍵を必要とするオートロックに意味はありません。かりにあったとしても、大した意味はありません。安心は得られるかもしれませんが、奇妙なことにそれはオートロックでなかったとき以上の安全とセットになっているわけではないのです。

では前置きをおしまいにして回答にまいりましょう。

僕がおもうに、外出に欠かせないものと常にいっしょにしておくのがいちばんです。財布だろうか?外出には大抵のばあい財布が伴います。でも財布はうっかりどこかに置き忘れないとも限らないし、他人の手に渡るリスクも発生するので、と言っても拾ったところでそれがどこの鍵だかわかりゃしないとおもいますが、何となく躊躇われるものがあります。

では靴はどうだろう?靴をどこかに忘れてくることはまずありません。ときどき道に片方だけ落ちている現実もありますが、これはもうどう考えたって落ちているほうがおかしい。人の履いている靴だけを狙う物取りもないだろうし、失くすこともないでしょう。そのときどきで履く靴はちがうとおもいますが、サンダルだろうと革靴だろうとスニーカーだろうとパンプスだろうと、所有する履物すべてに埋めこんでおけば問題ありません。


A. 所有する履物すべてに合鍵を埋めこんでおきましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その303につづく!

2020年2月9日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その301

猥雑な銀座


ずいずいずっころマシンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. おみくじに書かれていたコメントで印象に残っている言葉ってありますか?(私は友達とケンカした直後にたまたま立ち寄った花園神社でひいた「短気をなおしましょう」です。)


こうきれいに見透かされると、おみくじを引く甲斐もあっていいですね。

僕は毎度「ふむふむ」というかんじでほとんど印象にのこっていませんが、単純な結果だけなら昔ミス・スパンコールの引いた「半吉」が今も脳裏に深く刻みこまれています。

 半吉 

凶なら結んで厄払いもできそうだけど、半吉なんかどうしたらいいんだ、むしろ凶のほうが執り成しようもあったじゃないか、どういうきもちで向き合えというんだ、まさか「微吉」とか「塵吉」とか「弱吉」もぶっ込んであるんじゃないだろうな?

と、足下に抛られる小銭めいた忌々しい善意に当時は騒然としたものです。どこの神社だったかなあ、今なら絶対画像にのこしてSNSでシェアしてぶんぶんバズらせもしたのに、もったいないことだとおもいます。僕が引いたわけじゃないのに。



A. コメントじゃないけど、「半吉」です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その302につづく!

2020年2月6日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その300


満を持しての300回です。足かけ10年以上、通算300回という大台に乗りながら、結局のところ今も僕がどこかで生存しているくらいの意味しかないことを考え合わせると、その巨大な蜃気楼ぶりがしみじみと胸にしみ入ります。

それもこれもキャンペーンと称して年賀状と引き換えに質問を取り立てる僕のあこぎなやり方のおかげです。本当にありがとう!

そして栄えある300回目の質問は……ダラララララ(ドラムロール)、これだ!


ヒポポポポポポタマスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)途中でバーストを挟んでしまったカバのことですね。


Q. 好きな四字熟語、ことわざがあれば、教えていただきたいです。


ことわざなら「泥棒を捕らえて縄を綯う」、略して泥縄が好きです。手遅れというその意味がではなく、捕まえた泥棒のそばで「待って、待ってて!」とか言いながらもたもたと縄をなう、その絵面が心に残ります。そんでその捕まえた人がまた不器用で、ちっともうまくいかずに途中でやり直したりして時間ばかりがムダに過ぎ、イライラしてきた泥棒が「じれってえな、ちょっと貸してみろ」とか言って器用にささっと縄を仕上げちゃったりする、そんなイメージが好きです。

ただ個人的には捕まえたあとではなく、今まさに逃亡中の泥棒を捕まえるための縄をもたもた綯うような意味合いで使っているところがあります。なんとなれば僕がそういう人生を送っているからです。

四字熟語なら「青椒肉絲」ですね。


A. 青椒肉絲です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その301につづく!


2020年2月1日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その299


更新する段になってあったいへんだとうとう300回の大台じゃないか、しまった何もしてなかった、せめて、せめて心のこもった祝福的なイラストだけでも!とあわてて描いたらまだ299回でした。

心のこもった祝福的なイラスト


時価アイドルさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今日たった今うっかりミスにより悲しい現実とご対面してしまいました。こんな時はどういう風に気持ちを切り替えるのがおすすめですか?


奇遇なことに僕もたった今冒頭でうっかりミスをしでかしたばかりです。

それはさておきこれは、悲しい現実に直面したとき人はいかにして気持ちを切り替えるか、いわゆる「悲しい現実に直面したとき人はいかにして気持ちを切り替えるか」問題ですね。

浜辺の波打ち際を全力疾走したり、キャベツを一心不乱に刻んだり、空をふわふわ飛んでいくビニール袋を追跡したり、橋という橋に一休さんよろしく「このはし渡るべからず」と立て札を立てたり、1枚でいい写真を狂ったようにバーストしたり、月末のフライデーをプレミアムにしてみたり、コインランドリーで拾った紙くずから世界を巻きこむ恐るべき策略の片棒を担ぐ羽目に陥ったり、本人も半信半疑のまま大統領選に勝利してすったもんだのあげく弾劾裁判に突入したりとじつにさまざまな気持ちの切り替え方がありますが、大統領に当選からの弾劾裁判ルートはそれ自体に気持ちの切り替えが必要になってくるとおもうので、上書きという意味でもおそらくかなりの効果があるはずです。新たに切り替える必要が生じた気持ちについてはまた別の策を講じないといけませんが、すくなくともその時点で最初に切り替えたかった気持ちは忘却の彼方にあるとみて間違いありません。

あとはそうですね。ゴルフボールを垂直に3つ積み重ねるのもおすすめです。2つまではわりとすぐですが、3つとなると思いのほか強靭な集中力が求められます。僕自身が昔よくひまつぶしにやっていたので確かです。絶妙なバランスで3つ積み上がった瞬間の感動はちょっとしたものですよ。じーんとした静かなよろこびのあとにヌッと頭をもたげる虚無感も味わい深いものがあります。


A. 大統領になれる国の永住権を取得する、もしくはとりあえずゴルフショップに行きましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



いよいよ大台です、大台ですがとくにどうなるわけでもない、その300につづく!



2020年1月31日金曜日

爛漫な色彩に満ちた、夜みたいに黒い絵本のこと

ここに一冊の黒い、そしてじつに美しい本があります。

「くろは おうさま」

文・メネナ・コティン
絵・ロサナ・ファリア
訳・うの かずみ
サウザンブックス社

黒い紙に特殊な黒で印刷された、徹頭徹尾、漆黒の本です。


と言いつつ表紙はふつうに銀色で描かれています。テキストも銀色です。でも言うなればこれらは、そのままでは読むことができない人のための気配りです。中面における本文は銀色のテキストの上部にあります。


本文が黒なら絵も黒く、目で見ただけではどこをめくっても黒一色です。黒についての絵本?とおもわれるのも無理はありません。もちろんそういう側面もあるのだけれど、実際のところこれは世界を彩る数多の色について描かれた、色彩の絵本なのです。


美しい本は数あれど、これほど教訓に富んだ美しい本にはそうそうお目にかかれない、と僕はおもいます。なんとなれば文字どおり世界の見え方が一変するし、その驚きたるや打ちのめされるほどです。

はっきりとはどこにも書いていませんが、主人公のトマスは視覚を持たずに生きる少年です。しかし彼は世界が多彩な色に溢れていることを全身で知っています。ここに描かれているのは彼がいる色の世界であり、僕たちもふくむ世界の色であり、そしてまた、漫然と見ているだけでは決してふれることのできない世界です。

トマスは言います。
「あかは イチゴみたいに すっぱくて、スイカみたいに あまい。
だけど すりむいた ひざこぞうから のぞいたときは いたい。」

五感で味わう色彩の話を、僕は以前にも目にしています。いつだったか忘れたけれど朝日新聞に寄せられた投書で、忘れがたく大好きな話です。まさかこんな形で引き合いに出す日がくるとはおもわなかったけど、ここにもまったく同じ、そして別の、それでいてすごくよくわかる「あか」があります。


40年も前の話です。絵本とは時代も国も言語もちがいます。にもかかわらず彼らの色が同じようにぴったり寄り添うものだとしたら、見ているだけではふれることのできない世界がたしかにある、と思わずにはいられません。そうして今一度、立ち止まって省みるに色彩とは、こんなにも活き活きと血の通うものだったろうか?


あらためて念を押しますが、美しい本です。なんかもうぜんぶひっくるめて、そうとしか言いようがないとおもう。絵を指先で感じる仕様になっているので、実際に触れてみないとその真価が伝わらないところもいい。

今まで見ていた色は何だったのか、そもそも色とは何なのか、美しいということの意味も含めて、考えもしなかった問いをドンと置かれて立ち尽くす人は僕と同じようにいっぱいいるはずです。

去年出たばかりの新刊ですが、アルスクモノイ(@arskumonoi)でも扱っているので、ぜひお店で手に取ってみてください。