2015年8月15日土曜日

「わからない」と言った彼のきもちが今になってわかったこと


僕がまだかろうじて十代だったころ、一回りほども年の離れた男性と親しくしていたことがあります。寡黙ではないけれど、丁寧に言葉をえらびながら話す人で、脚本家になる夢をあきらめたと言っていました。きっと心をぎりぎりと絞られるような苦渋があったろうことも今ならなんとなくわかるし、むしろそれを打ち明けてくれたことのほうこそ真摯に受け止めるべきだったとおもうけど、そういうことが当時はぜんぜん理解できずにいた気がします。「あきらめる必要なんてない」と無責任に焚き付ける僕に対して、彼はいつも「いや、もうやめたんだ」とだけ返しました。そう言わせてしまうことの罪深さを考えると、身が竦みます。でも彼の口からあきらめたと聞くのはやっぱりかなしかった。

フェデリコ・フェリーニの「道」という映画を観るよう僕に勧めたのも彼です。なぜ彼はこれを僕に勧めたんだろう?今もこれを観るといろいろな感情がないまぜになって胸が締めつけられます。レンタル屋でタイトルを見かけるたびにどきっとするくらいです。でもあのとき、なんだかよくわからないままにビデオで借りて(ビデオでしたね)観ておいてよかったとしみじみおもう。言葉にするのはちょっと難しいけれど、何かすごくだいじなものを受け取ったのはまちがいありません。

そんな彼とのやりとりで、いちばん忘れられないのは「『責任』の意味がわからないんだ」という一言です。それを聞いたとき、「ええ!?」と耳を疑いましたが、もちろん考えなしにそんなことを口走るような人ではありません。ないんだけど、それにしてはあまりにわかりきったことのようにおもえたので、唖然としたのです。

「責任て……たとえばどういう状況ですか?」
「全部だよ、もちろん。どんな状況でも」
「???何がわからないんですか?」
「責任を持つってどういうことだろう」
「えーと……何かあったら責めを負うってことですよね?」
「具体的には?」
「仕事でミスしたら降格するとか……」
「ふむ」
「恋愛のもつれで結婚するとか……」
「まあ、責任を取るってそういうことだよね」
「ちがうんですか?」
「いや、だからこそわからないんだ
「代償を払うって考えたらどうですか?」
「そういう感じなんだろうな、とはおもってるよ」
「???え、すごいはっきりしてません?」
「うーん……」

とまあこんな具合で、当時は彼を説得できないまま、話が終わっています。そもそも彼がいったいどこに疑問を抱いているのかもさっぱりわからなかった。なぜ20年ちかくたった今になってこんなことを思い出しているのかというと、今の僕が当時の彼とまったく同じ疑問を抱いているからです。

当時の彼が今の僕と同じきもちでいたかどうかはたしかめようがないけれど、すくなくとも上の説明ではとても納得できないという点では同じです。彼が言葉を濁していたのは、おもったよりシンプルな疑問ではないこと、そして何より誰にも答えようがないことをわかっていたからかもしれません。

「仕事の芳しくない結果のために降格」というわりとわかりやすいケースを例にとってみましょう。これは責任を取った場合の話ですね。ここで考えたいのは、なぜこれで責任を取ったことになるのか、という点です。

たとえば大きなプロジェクトを任せてもらえなくなるとか、もっとダイレクトに減棒とかでもいいけれど、決して望ましくない状況を受け入れることがある種の代償になっていることはわかります。でも「誰かが痛い目に遭うことが全体にとって何になるのか」という部分がいまいちピンとこないのです。しいて言えばそれは、誰かの気が済むだけなのではないのか。だとすると責任というのは、誰かの溜飲を下げるためのものでしかないんだろうか?

「他の人が不利益を被らないようにする」という考え方もあるでしょう。ひょっとするとこれが責任という言葉が持つ本来のありかたかもしれません。しかしだとすると必ずしも代償は必要ないことになります。周りに不利益が及ばなければいいわけだから、すくなくとも条件としては含まれないはずです。有形無形を問わず、失われたものがあって何らかの手打ちが必要なときのみ、代償という側面が表れます。

では代償とはなんだろう?単純に考えればそれは、「埋め合わせ」です。しかしまったく同じものをそっくりそのまま返した場合を除き、それが本当に埋め合わせになっているのかどうかは誰にも証明できません。なぜ埋め合わせになるのか、説明されることもほとんどない。

それが顕著に表れるのは、「社会的立場の高い人が責任を取ってある役職を辞任する場合」です。ある役職を下りることが、果たして代償になっているだろうか?それはせいぜい、「これ以上みんなが不利益を被ることを防ぐために、誰かと交代します」ということでしかないのではないか?周りが不利益を被ったからこそそういう話になっているのに、すでに被った不利益についてはうやむやのままです。その代償は誰が払うんだろう?辞任した彼だろうか?「責任を取って辞任」したはずの彼が、どうやって?

あるいはもう責任を取ったんだからそれ以上は必要ないのかもしれない。でもだとしたら、僕がある日とつぜん社長とか大臣の椅子に座って、考えうるかぎり最悪の判断を下したとしても、辞表を出せばそれでいいってことになるんじゃないのか?むしろ重荷を解かれてありがたい気もするけど、それで責任を取ったことになるわけ?

「責任」の意味がわからない、というのはそういうことです。

たとえば先頭に立って国を率いる人物が「わたしが責任を持つ」と断言するとき、それがいったい何を意味しているのか、僕らは本当に理解しているだろうか?彼が取り返しのつかないあやまちを犯したとき、何をどうすると彼は責任を取ったことになるんだろう?すでに多くのものを手にした者がある立場を交代したからといって、それが失ったものの埋め合わせになるだろうか?

なるわけない、というのが現時点における僕の結論です。結果として取る行動が埋め合わせになるかどうかも定かではないまま責任を口にすることほど無責任なことはない、とさえおもいます。

けっきょく責任を持つとか取るって、どういうことなんだろう?


ユゼくん、おれも20年たって意味がぜんぜん、わからなくなったよ。

5 件のコメント:

いくらのよしは さんのコメント...

責任、というと
「周りに指差されることを受け入れる」
くらいの意味合いで考えていたと思います。
けれどやはりこれでは指差す人々の溜飲を下げる程度にしかならないのですね。
そもそもどうして「責任」なんていう概念が生まれたんでしょうか。

なぜかいま「棘-tweezers-」を思いだして泣いてます。私にとってはこの詩が、いろいろな感情がないまぜになって胸が締めつけられる大事な作品です。

無職投命 さんのコメント...

こんばんは小林大吾さん。無職の暇にかまけて同じ疑問を熟々とこねくりまわしていたので、知っている人が責任についてどう思うかをぶちまけていて嬉しいです。

わたしは責任ちゅうのは、やっちまった人間が罪悪感を抱えすぎて死んでしまわないように、きわめてシステマチックに発行される贖宥状かなって考えるようになりました。

しかし「これで手打ち」の目安が法律によって整備されていることで、
ともすると司法やらなんやらに提示された責任の取りかたに則れば相手はもう怒らないしおれの心は軽くなる、みたいな解釈をする人間が一定数いて、更にはそういう方達にエラい人が多い(きがする)。
そんなんだからなんでもかんでも厳罰化の方向にすすむんじゃないかとも思う。

そんなことを差し置いても、超絶性善説ですが、わたしは一定の納得を得られるので"暫定的には"贖宥状メソッドで考えることにしています。
何年後でもいいので小林大吾さんが、責任がもつ意味にあるていど折り合いがついたら、それをメチャ読んでみたいです。
しかしもやもやするな。なんかなあ。はあ。って感じです。ぐっへっへ!

ピス田助手 さんのコメント...

> いくらのよしはさん

たぶん、最初はもっとシンプルな話だったとおもいます。
使われていくうちに曖昧な部分の
適用範囲が大きくなったんでしょうね。
「棘」もうれしいです。どうもありがとう!


> 無職投命さん

むずかしい問題ですよね。
しかし社会が全体としてそれを受け入れている以上、
何がわるいとかそういう話でもない気がするので
「もやもやする」がいちばん的を射た表現だとおもいます。
それにしても鬼気迫るペンネームですねえ。

匿名 さんのコメント...

"責任"は英語でResponsibility。Response(応答する)+ ability (能力)、つまり「応答する力」のことを責任というのだとおもいます。なにかあってもきちんと応答できるように自分のコトバをもつこと、それがとても大事なことだと思います。「降格」や「結婚」という"代償"をもって相手にわかってもらえるのなら、それはそれでひとつの責任のとり方でしょう。しかしポイントは代償を負うことそれ自体ではなく、そのもう一歩手前の部分にある何かなような気がします。

ピス田助手 さんのコメント...

> 匿名さん

もちろん、ポイントは代償ではないし、
仰るところもよくわかります。
ただ、それだと理論的にはともかく
現実的にほとんど何の意味も持たない
という点について考えたいのです。