2014年11月29日土曜日

100円玉に見る粋な職人の存在、もしくはかなしいその不在について


れっきとした仕事上の理由から、百円玉を隅から隅までじっくりと睨め回していたのです。

ヒマだったんでしょと眼光するどく指摘される方もおりましょうが、そんなことはありません。たしかに僕の場合はそれも大いにありうるし、仮にそうだったとしてとくに不都合が生じる話でもないから別にいいっちゃいいんだけれど、実際にはちがいます。なんかむらむらしたとか食べちゃいたいとかそういうフェティッシュな下心でもありません。仮にそうだったからといって憚る理由もないけれど、今回にかぎってはあくまで必要に迫られてのことです。いったい何をどうすると銀色の硬貨を睨め回すようなことになるのかというその必要についてはまた別に一席設けられそうな話でもあるから、ひとまず置いておきましょう。しかしまあ、数十年も生きているといろいろな必要に迫られるものです。

手元にあった5つの百円玉を並べたり、並べ直したり、指でつついたり、ピンと弾いたり、アンニュイなため息をつきながら眼鏡を外して至近距離でためつすがめつしていると、ふとあることに気がつきました。


僕はこれを見て「あれ?」とおもったんだけど、他のと比べたらよりはっきりしたので並べてみましょう。


ポイントはここです。



文字間が妙なことになっています。

字数が同じなのだから、ふつうに考えればそのまま文字を置き換えれば済むはずです。でもそうはなっていません。ひょっとしたらたまたま手に取った1枚だけのイレギュラーかもしれないとおもって手元の5枚を確かめてみると、昭和の年度表記はきちんと整えられています。どうやら「平成」以降の硬貨が(全部ではないにせよ)いささか安定感に欠けるようです。

まさか文字をひとつずつピンセットでつまんで配置しているわけでもないだろうけれど、それにしたって解せません。昔よりも現在のほうがきれいに整っている、というならまだわかります。システムだって50年前に比べたらおそらく一新、すくなくとも改良はされているはずです。でも実際には逆だし、言ってしまえば明らかに硬貨としての完成度が下がっています。そんなことってあるだろうか?

ここからなんとなく察せられるのは、これがピッピッと入力すれば更新される単純かつ機械的な工程ではなく、数十年前と同じく今もなお人の手で直に調整される部分であり、かつその結果は技術に大きく左右されるものらしい、ということです。いくらなんでもたったこれだけの作業に未だ機械化が及んでいないのはちょっと考えにくい気もするけれど、そうでもないと説明がつきません。

もちろん、システムが変わっただけという可能性もあります。昔も今もただ年度を機械に入力するだけなのかもしれない。ただタイプライターだってワープロだって打てばそれなりに整うのに、ぐっと高度に洗練されたはずのシステムが部分的にであれ過去に劣るのだとしたら、それは果たして改良と言えるんだろうか?

また、硬貨の鋳造において毎年更新されるのはこの「年度表記」のみです。ここを書き換えるのにそれほどの時間と労力を要するとはどうしてもおもわれません。仮に文字をピンセットでつまんでゼロから配置し直したとしても、10分あれば事足りるはずです。何もミクロン単位で厳密に調整する必要はないし、おおよその感覚でもそれなりには整います。実際、それでいいとおもう。にもかかわらず結果としてアウトプットがこれなのだから、ふーむと口をへの字にしたくなるのも無理はありますまい。

そうしてなにげなく昭和の百円玉に目を移すと、逆にハッとさせられるのです。今までずっとそれが普通で当たり前だとおもっていたけれど、昭和における硬貨の年度表記とその配置がきちんと整っているのは機械の設定だったからではなく、ひょっとしてアノニマスな職人によるささやかだけれど丁寧な仕事ぶりによるものだったんじゃないだろうか?

平成の百円玉を見るかぎり、可否があるのはおそらく読めるかどうかという視認性のみです。さすがに文字間まで事細かに示したマニュアルがあるわけではないだろうし、とすれば当然チェックもされません。にもかかわらずきちんと美しく整えられているということは、硬貨における年度表記とその配置はこれまでただただ純粋に職人もしくは職員たちが継いできた極小の美意識によってのみ、なされてきたものなのではないか?

「技術を技術たらしめないことこそ技術である」という古いラテン語の格言を思い出します。どちらかといえば意図や技術をいちいちひけらかそうとする悪癖がある僕にとって、この格言はだいじな戒めのひとつとして一応いつも胸に置いているつもりなのだけれど、それをまさか百円玉に改めて教えられようとはまったく、これを胸アツと言わずに何と言いましょう。身近すぎて誰も気に留めないような、これほどちいさな部分にたしかな矜持と美意識がこめられているのだとしたら、そりゃ誰だって居住まいを正さずにはいられないというものじゃありませんか。ヒゲもじゃでガタイのいい職人気質の親父に「これが仕事というものだ」と横っ面をはたかれたような思いです。

やだ……カッコイイ……。

ついていきたい……。


ぜんぶ妄想でしかないかもしれないですけど。

3 件のコメント:

赤舌 さんのコメント...

僕は何故か子供の頃から、硬貨の方が紙幣より価値があるような印象を持っています。
具体的にいうと、同じ千円なら、千円札一枚より五百円玉二枚の方が断然高価な気がするという錯覚を覚えます。
今までそれが何故なのか判然としていませんでしたが、もしかしたら、子供ながらにそういう技術的な価値、工芸品としての価値を見出していたのかもしれません。
もしくは「紙のおかねより玉のおかねのほうが重いからつよい」くらいの理由だったような気もしますが、ぼくもう大人なので前者にしときます。

いくらのよしは さんのコメント...

つまらないことを申し上げますが、ひょっとして偽装防止のためにわざとずらすようになったのでは?
(整ったものより乱れているもののほうが真似るのがむずかしいとおもうのです)

余談になりますが、わたしは紙幣を眺めるのが好きです。
偽装防止のために施された細かい工夫に目を凝らしていると、図らずも溜め息が漏れます。
千円札の裏の右上にある「YEN」の文字のなかに「NIPPONGINKO」と書かれているのとか、たまりません。
(ちなみに肉眼で読めるのがちょっと自慢です)

ピス田助手 さんのコメント...

> 赤舌さん

工芸品としてはおそらく紙幣のほうが
超絶技巧のオンパレードですが、
「重くて固いからつよい」というのも
ひとつの真理だと僕はおもいます。

貧しい僕が一時期メダルゲームにのめりこんでいたのも
たぶんそれと無関係ではないはずです。


> いくらのよしはさん

ふふふ。偽造防止、そうだといいですね。

僕が紙幣の秘密を知ったのはたしか千円札が
夏目漱石のときだったとおもいますが、
やっぱり少なからず興奮したものです。
うっとりしますよね。

思い出すとき手元にあるのはいつも千円札ばかりで
一万円札を眺める機会があんまりないのがアレですけども。