2025年7月18日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish」


まずは前提として、先週に引き続き「饗宴2025/eureka (revisited)」の話をもうすこしだけしておきましょう。

饗宴2025/eureka (revisited)」は僕としても胸を張れる作品のひとつですが、書き手の視点からするとこれは基本的というかごくごくオーソドックスな手順で書かれています。

書かれたテキストは最初から最後まで一貫して、1小節につき1行が目安です。小節の最後に句点「。」がつくイメージですね。

それはもう本当にシンプルで、人にも伝授できます。基本的とはそういう意味です。基本も何も当時の僕にはそれしかやりようがなかったという身も蓋もない事情はひとまず投げ捨てておきましょう。

対して「魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish」は、この目安がないというか、小節をほとんど意識していません。きっちり収めようとして書いたのは脚韻を踏むフックだけです。

とはいえ段落としての区切りはほしいので、だいたい8小節くらいに収まるテキスト量をなんとなく意識してはいましたが、それが実際に収まるかどうかは書いている段階ではぜんぜんわかりませんでした。とにかく描きたい情景を書きたいように書くことを優先しています。句点が小節の最後に置かれず、あちこちに散らばっているのはそのためです。

つまり、ビートが前提のリリックではなく、テキストを書いたあとでそれをどうビートに乗せるか、という手順になっているわけですね。

小節単位の基本的な手順であれば、書いてすぐ録音することができます。何しろ書く段階ですでにどう乗せるかのイメージが概ね確定しているのだから当然です。

しかしビートを踏まえず好きに書き散らかしたものを乗せるとなると、さらに一手間増えることになります。そもそも一文の区切りがどこにくるのかさえ、この段階ではわかっていません。フレーズごとに配置を決めながら、文意を損なうことなく、盆栽のように細部をちょきちょき整えていく工程が必要になります。

そんなに面倒ならやらなきゃいいのにと僕も思いますが、それでもやるのはこれがラップと違って明確にリーディングでしかできないことだからです。

それを端的に象徴するというか、僕自身ビートに乗せる段になって驚いた部分が、5段落目にあります。

「夢を見ていた。1匹の魚として、気の向くままに泳ぐ……はずが、どこかに囚われている。水槽?にしてはすこし狭すぎる。浴槽?にしては熱すぎる。むしろご馳走……つまりスープらしいと気づいた。誰かの投げた匙で今まさに食われようとしているところ。」という部分です。

ここでは「水槽」「浴槽」「ご馳走」で語尾を揃えています。もし初めからビートと押韻を意識していたなら、小節の最後=脚韻として書いたはずですが、実際には小節の頭に跨って、音的にはむしろ頭韻になっているのです。なんなら水槽という2文字すら前後で小節に跨っている

どう考えても、小節を意識していたら踏めない韻がここにあります。そして僕がラップと言わずにリーディングと言い張り続ける理由のひとつもまた、ここにある。

結果論なので毎回これを意識するとまた話が変わってくるけど、少なくともリーディングならこんなこともできるという一例に、この作品はなっているのです。


それからフックにある「パパラッチもどさくさに紛れてスクープ」というラインについても、せっかくなので注釈を加えておきましょう。スクープはもちろん英語で “scoop” なわけですが、じつはこれ元来は掬うという意味があります。

音も意味も「掬う」とほぼ同じです。

ただ日本語の「掬う」は小さじであっても「掬う」である一方、英語の "scoop" は塊というか、ある程度のまとまりに限定されます。アイスとか土とか、ごそっとラフに抉るようなイメージです。コンソメスープには適さないけど、具沢山の豚汁とかならscoopでもOKというかんじ。たぶんオランダ由来の「スコップ」と同根じゃないかとおもう。

ここから僕らもよく知る「スクープ=特ダネ」に転じたわけですね。

つまりここでは、パパラッチが晩餐会の様子を激写していると同時に、じつは一緒になってスープを食っているというダブルミーニングになっているのです。

突拍子もないように見えて、どいつもこいつもスープに手を伸ばすような状況においてはむしろ彼こそ必要な存在だったと申せましょう。そしてscoopというからにはかなりがっつり食っているはずです。


そして最後にどうでもいいと言えばどうでもいいことこの上ない話ですが、この作品、「手漕ぎボート/helmsman says」、「象を一撃でたおす文章の書きかた/giant leap method」、「ダイヤモンド鉱/hot water pressure washer」からなるカッコいい靴三部作」第四部です。

そもそもそんなシリーズが存在したことすらご存知ないほうが当然なので、えっどういうこと…?という人はよーく聴くと同じキーワードが含まれているので、この機会に聴き返してみてね。

基本スキルによる最高峰のひとつと20年を経た応用スキルがひとつにパッケージングされているばかりか、過去ともつながる VOL.9 は個人的にも胸に染み入るものがあります。じーん。

2025年7月11日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「饗宴2025/eureka (revisited)」


さて、アグロー案内シリーズでは恒例とも言える過去作品のリメイクですが、今回の「饗宴2025/eureka (revisited)」はすこし意外な形に仕上がりました。

何しろオリジナルにはなかった詞が追加されています。20年近い年月の経過を表していると言えなくもない、いつになく美しいリメイクです。

ただ詞の追加については、初めから意図していたわけでは全然ありません。どちらかといえば、そうせざるを得なかった、というかんじです。

御大タケウチカズタケの手になるリメイクビートはオリジナルにかなり忠実でありながら隅から隅まで超絶アップデートが施されてとんでもないことになっているわけですが、カズタケさんのソロとは別に、オリジナルと異なる構成がありました。

それが後半のフックです。

具体的には「どうぞよりも先に『どうも!』ってあら?イントロでもう負け?まあいいや、あれもこれももらう前にふるまえ!宝箱とまちがえてパンドラの箱を山分け……?マズい、そいつだけはヤバい!ふたを閉めて逃げろ、来るぞ!」の決め台詞みたいな部分ですね。

この部分、オリジナルではバースにつき1度しか出てきません。

というのも、「ヤバい逃げろ来るぞ」というフレーズは、その時点でみんながパーッと散り去るイメージであり、繰り返すものではないと考えていたからです。そういうイメージでなければむしろ僕もフックは繰り返したかった。でもこれはちょっとリフレインには不向きだなと感じたので、やむを得ずというかなんというか、オリジナルでは繰り返さずに1度で止めていたのです。

カズタケさんから送られてくるビートは、あくまで目安であってその尺、構成に従わないといけないわけでは全然ありません。実際、好きに受け止めてもらっていいと僕も言われています。詞に合わせて尺を縮めたり伸ばしたり、カットしたりしても別に怒られたりはしない。

ただ僕としても2人でやっている以上、こう来るならそれに応えたいという思いがあります。オリジナルと構成が異なっていても「むりです!」ではなく「むむ、繰り返すならどう応えようか」とできれば受け止めたいのです。

この曲に関してはとにかく「逃げろ、くるぞ!」を最後にすることが最優先だったので、その前に新たな4小節を足す選択肢もありました。ただやっぱり導入は同じほうがいいよなあと思い直し、元の4小節を2つに分けて、新たな4小節を挟みこんでいます。

その結果、かつてと同じ宴の再現に見えて、実は過去にもこんな宴があった(=以前と同じ宴ではない)と終盤で全体の時間軸がシフトする着地になったのです。オリジナルを知らなくても問題ないけど、知っていれば別の意味合いを持つというテクニカルな帰結には、ほんとにもう、続けててよかった…としか言いようがありません。個人的に作り直したとしても、絶対にこの着地にはなっていなかったはずなので、このリメイクを気に入ってもらえるとしたらそれは100%、カズタケさんのおかげです。

全編を貫くギターのカッティング、バース後のカズタケソロも失禁レベルで超ステキだし、総じて非の打ちどころのない、完璧な一編である、と改めて断言できます。

また、タイアップとなったアポロニカ学習帳はそもそも神々の育成を謳うチート級のノートであり、神々について語られる「饗宴」ほどうってつけの楽曲はない、と言ってよいでしょう。むしろこの曲のために商品が企画開発されたと考えるほうが妥当なのではないか……?と勘繰ってしまうくらいです。

作品としての強度、恒久性もある……気がするんだけど、ずっと下の世代の誰かに届くことはあるだろうか……?


2025年7月4日金曜日

魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish


夢を見ていた。
さしこむ朝日、小鳥の囀り、花の香りが鼻をくすぐり、熱々のコーヒーとトーストを傍らに新聞をめくる。たったそれだけの、続きも何も、本当にそれだけの、単なる予告編ですらないティーザーだ。クランクアップは永遠にこない。

夢を見ていた。
かっこいい靴を置いていた角の店がもうないのに気づいた途端、どこもかしこも知らない町に見えて、立ち尽くす。たったそれだけの、続きも何も、本当にそれだけの、紙の切れ端みたいな断片……(あるいは立ち去れと促すための)

手は尽くしたと藪医者がスプーンをほうり投げる前に、取り上げて掬う。冷めたスープに死神が口を拭う。そんな連中が頭の片隅に巣食う。目を離したすきに藪医者も食う。パパラッチもどさくさに紛れてスクープ、晩餐会を開いたつもりもないのにこいつらが苦い胸の内を救う……。

夢を見ていた。
どこまでも深く青い海のどこかで、光る魚の巨大な群れが一糸乱れずに舞い踊りながら、壮大な白銀のカーテンを織りなしてひらめく。それを外から取り巻くように、何者でもなくただ傍観者として眺めている。

夢を見ていた。
1匹の魚として、気の向くままに泳ぐ……はずが、どこかに囚われている。水槽?にしてはすこし狭すぎる。浴槽?にしては熱すぎる。むしろご馳走……つまりスープらしいと気づいた。誰かの投げた匙で今まさに食われようとしているところ。

振り払おうとすればするほど、それは亡霊のようにつきまとう。今もまだましな選択がありそうな気がするだろう……だとしても向かう先に待つのはいつだって忌々しいほど悪いか、でなければどうしようもなく悪いかだ。目の前に鏡を置いてよく見ろ(そしてせいぜい笑えるほうを選べ)。

手は尽くしたと藪医者がスプーンをほうり投げる前に、取り上げて掬う。冷めたスープに死神が口を拭う。そんな連中が頭の片隅に巣食う。目を離したすきに藪医者も食う。パパラッチもどさくさに紛れてスクープ、晩餐会を開いたつもりもないのにこいつらが苦い胸の内を救う……。

夢を見ていた。
暮れゆく茜色の空から、通り雨のようにばらばらと魚が降りそそぐ。そのうちの名もなき一匹として、果てしない空の底に沈んで、悠長に流れる時を数えて、やがて干上がる水たまりで遠い海に想いを馳せている。

そこへ誰かが近づいてきて、足を止める。逆光で姿の判然としないその彼に、大きくて力強い手を差し伸べられる。バッジを渡され、陸の上の魚という名の騎士団に迎え入れられ、その末端に名を連ねるよう告げられる。
 
振り払おうとすればするほど、それは亡霊のようにつきまとう。今もまだましな選択がありそうな気がするだろう……だとしても向かう先に待つのはいつだって忌々しいほど悪いか、でなければどうしようもなく悪いかだ。目の前に鏡を置いてよく見ろ(そしてせいぜい笑えるほうを選べ)。

そこで目がさめた。
見覚えのあるシルエット、聞き覚えのある声に首をかしげながら、顔を洗い、シャワーを浴び、まだ着られそうなシャツに着替えて、買っておいたサンドイッチを口に放りこみ、リュックを掴んで部屋を出る。テーブルにはバッジが転がっている

手は尽くしたと藪医者がスプーンをほうり投げる前に取り上げて掬う。冷めたスープに死神が口を拭う。そんな連中が頭の片隅に巣食う。目を離したすきに藪医者も食う。パパラッチもどさくさに紛れてスクープ、晩餐会を開いたつもりもないのにこいつらが苦い胸の内を救う……。


2025年6月27日金曜日

アグロー案内 VOL.9 リリースのお知らせ


さて、十数年ここにいてどこにも行く気配のない僕としては最後の細い命綱と言っても過言ではないアグロー案内ですが、おかげさまでまたひとつ、リリースの運びと相成りました。なんと気付けば VOL.9 です。


ふと、VOL.6 が5ヶ月ぶりのリリースで告知から配信まで2週間しかなかったことを思い出します。別に気にもしてなかったけど、今回はほとんど8ヶ月ぶりです。いったい何をあんなにあたふたしていたのか、しみじみ大らかになったものだとおもう。

VOL.7 のときは告知から配信までがさらに短くなり、10日しかなかったのだからわれながら驚かされます。

それどころか VOL.8 のときはさらに短くなり、気付けば配信まで7日しかありませんでした。改めて告知を読み返すと「VOL.7の比ではない」みたいなことが書いてあります。さすがにこれ以上短くなることはないだろうとぼんやり考えていましたが、いま思えばまだまだ青かったと反省せざるを得ません。

何しろ VOL.9 の配信日は7月2日(水)です。

5日後。

念のためお断りしておくと、どこまで短縮できるかチャレンジみたいなことは、VOL.6からまったくしていません。気づいた後で毎回のように「あれ!?」と目ん玉が飛び出しています。どうしてこんなことになっているのか、本人たちにもさっぱりわからない。しかしここまでくるとさすがに事実であっても全然そう見えないので、次回は逆に意識するようになるはずです。ただ、ふつうに忘れるからなあ…。

ともあれ VOL.9 です。

もとより告知のない人生なので、本来であればトラックリストの1文字目から公開していきます!最初の文字は「魚」です!とかそんな感じでだらだらと小刻みにいつまでも更新しつづけていたはずですが、そんな猶予もありません。もう一度にぜんぶ出してしまうしかない。

しかしとりわけ今回はリリース前からタイアップの件があったりして目まぐるしかったので(これも計算ではなく結果としてそうなっています)、そのあたりから話し始めるとキリがありません。リリースまでの日数への言及だけですでに投稿の大半を占めています。

なのでそれらはまたのちのち釈明のようにお話しするとして、今日はジャケット、配信開始日、そしてトラックリストでシンプルにまとめておきましょう。


総じて VOL.9 はいつになくアグロー案内的である、と僕はすごく感じています。楽曲以外のもろもろを含めた、すべてがです。ここまでやってきたからこそ成立することのオンパレードであり、誰かと誰かをくっつけてもここまで多くを賄うことはできません。どうかどうか、楽しんでもらえますように!

2025年6月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その456


いきなりステッキさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「こんなに頑張ったのに報われない」と思った時に投げ出さず正気を保つ方法を教えて下さい。


たしかに僕らの日々は、費やした労力に対して報われないことのほうが多いですよね。え、そんなことないよ以前はわたしもそう思ってたけど諦めなければ必ず報われるから!と言う人は初めから恵まれたあちら側にいることに無自覚なので、何をしようと一向に報われない僕らの徒労など知るよしもないでしょう。

しかしがんばれば報われるという期待がそもそも人間特有の感覚であって、多くの生物にとってはそうではありません。

百獣の王たるライオンを例にとってみましょう。

王とて腹は減るので日々狩りに勤しんでいるわけですが、毎回必ず獲物にありつけるわけではありません。本気を出して、全力で向き合って、なんなら普段よりはるかに粘ったにもかかわらず、収穫がゼロの日もあります。王であるにも関わらずです。なぜ王なのに空腹をこらえているのか、王であるならなおのこと、腑に落ちないものがあるでしょう。

しかしライオンにとっては、どうあれいつでも、捕食できるかできないかです。がんばりは関係ありません。こんなにがんばったんだからガゼルの1頭くらい食えたっていいじゃないか、と僕らなら愚痴りそうですが、愚痴る甲斐もないことを、ヒト以外の生物はよく知っています。それで腹が満たされるわけではないからです。

ヒト以外の生物にとって、行動と対価は結ばれていません。望んだ結果になるか、ならないかしかない。ではなぜヒトだけが行動に対価を求めるのかといえば、それは僕らが資本主義にどっぷりと浸かりきっているから、と言うほかありません。報われないという考えかたはまさにその弊害もしくは副作用と言えるでしょう。

もちろん、報われる日もあります。それはヒト以外の生物も同じです。しかしそれはがんばったからではありません。必要からくる行動にはいつだって全力でがんばっているのだから、がんばりは理由にならない。なんだかよくわからないがとにかく上手くいった、というだけです。

なので報われると期待することを、まずやめてみましょう。徹頭徹尾、僕らは報われません。報われる人もいるけれど、それは報われる星に生まれついた人であって、僕らではない。人生は不平等と不公平のオンパレードです。もし報われたと感じたなら、がんばったんだから妥当なことだと考えるのではなく、宝くじに当たったようなものとして全身全霊で喜びを表現しましょう。僕らが報われることなど今も昔も、そしてこの先もほとんどないのです。

言うまでもなくここには、悲しみがあります。しかしその悲しみを噛みしめれば噛みしめるほど、人生には味が出るものです。よろしくやってる恵まれた連中には中指を突き立てておけばよろしい。


A. そもそも僕らは報われる星に生まれついてはいないのです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その457につづく!

 

2025年6月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その455



洗濯機フライドチキンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 来年2月に第2子が産まれます。家族で相談した結果なのですが、半年間の育休をとることに罪悪感があり、職場での立場も悪くなりそうだという予感がしています。人事や上司に伝えるときは吐き気がしそうでした。家族との時間を大切にしたいという気持ちも強いのですが、そのような不安に駆られ、育休の間も精神不安定になりそうな気がします。このような状態をどう乗り越えればよいのでしょうか。


なるほど、これは切実な問題です。ご質問にある来年2月とは今年2月のことなので、梅雨入りを果たした今ごろ何言ってやがるとお思いでしょうが、どうあれ考えることはそれだけでとても大事なので、考えてみましょう。

本来であれば1ミリも抱く必要がないはずのこの罪悪感に、よくもわるくも日本らしさがたっぷりと詰まっています。それゆえに育休の取得に二の足を踏む人や、実際に断念する人が今も数えきれないほどいるはずです。

そう考えると勤務先が育休を制度として導入して実際に取得できること、そしていろいろと思うところはありながらも取得を選び、申請した洗濯機フライドチキンさんをまずは全力で讃えるべきだと、僕なんかはおもいます。すごい!

罪悪感については、必要ないと頭では理解していても抱いてしまうのはしかたありません。実際のところ日本人とはそういう民であり、日本とはそういう国です。

だからこそ、洗濯機フライドチキンさんの決断には、計り知れないほどの大きな意味があります。家庭にとっても、勤務先にとっても、そして社会にとってもです。

なんらかの後ろめたさが拭えないのは、それが当たり前の社会では全然ないからです。そして誰もが二の足を踏み、断念するとすれば、永遠に当たり前の社会にはなりません。わざわざ強調するのもバカバカしい気がするけれど、いつでも誰かが一歩を踏み出す必要があるのです。

初めて月面に降り立ったアームストロング船長の有名な一言を思い出してください。

“That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.”(一人としては小さな一歩ですが、人類としては偉大な飛躍です)

これは日本において育休を取得した人にも当てはまります。大袈裟でもなんでもなく、一人が一歩を踏み出すからこそ後につづくことができるのであり、やがてそれが道になるからです。

いずれ育休を取得することが義務にも近いほど当たり前すぎる社会になり、本人にその気がなくとも周囲や会社に「バカ言ってんじゃねえ、他の人が申請しづらくなるほうが迷惑なんだよ、とっとと申請してこい」と蹴り飛ばされるような時代が来る、そのための礎を今まさに築いていることに、胸を張ってください。

もちろん直接的には家族のため、ご自身のためという認識だとおもいますが、実際には数えきれない多くの後進のためになっています。今はまだ他に人がいないような薄暗い道を罪悪感とともに恐る恐る歩いているように見える、その背中はとてつもなく広くて大きい。どれほど誇らしい親御であることか、生まれて間もないお子さんに懇々と言い聞かせたいくらいです。

道を切り開いてくれてありがとう!


A. アームストロング船長と同じ偉業を成したと考えてみてください。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その456につづく!