2024年11月15日金曜日

空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates



どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな
夜がそこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は
電源を切った

張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
こうして彼女は
電源を切った

あるときレンガ塀に
羽を広げてくつろぐ
一羽の蛾を見た
行きも帰りも
おなじ塀におなじ姿で
鳴りをひそめて微動だにしない
明けても暮れても
変わらずそこにいて
その位置だけがときどき移ろう
こんな時期に花の蜜はあるだろうか?
彼女はその蛾をソクラテスと名づけた

彼女はその姿に哲学者を見た
煉瓦はそれぞれが問いにも見えた
気品と
威厳と
深慮と
孤独と
しなやかな強さと
儚げな脆さと
どうしたらそう泰然自若として
いられるの?
得られるの?
あるいは選べるの?
その目に映る風景を訪ねたくて
彼女は電源を切った

張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
そのひとつひとつが
ゆらめいて瞬く

消えたのは重力
残ったのは余白
寄り添うのは初めて知るやさしい孤独
こんなに余白があるなら
絵を描こうか?
お湯を沸かして
紅茶を淹れようか?
茶葉はほぐれて踊るように開く
みるみる紅く染まり取り巻く
ひと口ごとにつく息は深く
おかえりと呟く
誰にともなく

どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな夜が
そこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は電源を切った

レンガ塀の哲学者を
思い浮かべる
あの繊細な羽を
思い浮かべる
舞い上がるためにある
と見えてむしろあれは
舞い降りるためにこそ
あるんだろうと
損なうことなく
足はいずれ地につく
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ
ひと思いにと手放すつもりで
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ

空に身を投げて
ふわりと降り立つ
空に身を投げて
ふわりと降り立つ

2024年11月8日金曜日

アグロー案内 VOL.7 リリースのお知らせ

今年中にできたらいいな〜とはもちろん夢見ておりましたけれども、なにぶんいろいろとタイミングというものがあります。その点に拘泥しないことこそが、細くとも長く続ける秘訣のひとつである、と大らかに構えていたらここにきて急転直下の展開です。

シリーズも早8作目となるアグロー案内 VOL.8 が、年に一度もあるとは断言しきれない稀有な実演会アグローと夜(おかげさまでチケットは完売です!)を前に、まさかのリリース決定と相成りました。


前回のVOL.7では「告知から配信まで10日しかない」と右往左往していましたが、あれくらいはなんでもなかったと今なら申せましょう。ぶっちゃけ今回はその比ではありません。何しろ配信日は11月15日(金)です。

7日後。

そして年に一度もあるとは言えないアグローと夜7日前です。

また改めて書くつもりでいるけれど、収録される新作は、詩を書いたりそれを詠んだりしていたときよりも、すこし日がたって聴く今のほうが思い入れが深い、そんな仕上がりになっています。

制作過程のキャッチボールによって着地がここまで変わる、という意味ではシリーズ随一と言っても過言ではありません。僕がイメージしていたよりもはるかに高みに連れていってくれたというか、コップに入れた塩水をカズタケさんに預けたら海になって返ってきたようなものです。海水じゃなくて、海ですよ。嘘偽りなく、この曲は言葉を聴き終えてからが真骨頂であって、そりゃ目ん玉もスポンと転げ落ちましょう。

そしておなじみ、名探偵山本和男の新しいテーマでは、前代未聞の事件が起こります。

何しろ楽曲そのものが事件の現場になっているのです。

事件を描写しているわけではありません。曲それ自体が事件です。正直、まさかそんな着地をすることになるとは制作過程で想像もしていなかったし、当の僕らでさえ面食らっているところがあります。果たしてこれは解決するのか、しないのか、それとも新たな謎へと展開するのか、いずれにしても「そんなことある!?!?!?」という、他所ではまずお目にかからない、現実的にはほぼほぼ無理なアプローチになっているとおもうので、楽しみにしていてください。

いやーすごいわ、ほんと、いろんなことができるもんだなあ…(しみじみ)

2024年11月1日金曜日

アグローと夜2024では会場限定販売となるCDがあること


SNSでさんざんわめき散らしたのでここに明記しておくのをすっかり忘れていましたが、11月22日(金)に予定されている「アグローと夜2024」では会場限定販売となるCDがございます。去年もあったのでだいたい同じような感じかな、と思いきやさにあらず、今回はアグロー案内シリーズとしてリリースされた楽曲のインストやアカペラはもちろん、わざわざこのためだけに制作されたCMが多く収録されているのです。

CM…と侮ってはいけません。そのクオリティたるや驚異的であり、考えようによってはアグロー案内というプロジェクトの真骨頂と言っても過言ではない出来栄えです。うちの人なんかはこれだけを延々とリピートしながらずっと腹を抱えて転げ回っていた、と付け加えてもいいでしょう。

考えてもみてください。ここにいるのはミュージシャンとして第一線で活躍する男と、言葉と声を武器にする男です。何らかのCMを制作するのにこれ以上うってつけの組み合わせはありません。そしてそれは今回の会場限定販売CDで、明確に証明されています。こんなかんじのCMがあってもいいのにな、というふわっとした妄想を見事に軽々と上回る完成度で、当事者である僕らとしても爆笑を禁じ得ません。たとえば僕がこんなアイデアを別の誰かに持ちかけても、タケウチカズタケがいなければここまでのクオリティに達することはないでしょう。もちろん、その逆も然りです。聴けばわかります。そしてまったくその通りだと、完全に納得してもらえるはずです。

僕は元来ライブというのものにめちゃめちゃ及び腰な男ですが、これが販売できるなら喜んでライブをするし、むしろしたい、と本気でおもいます。そういうレベルです。

そうは言ってもなかなかイメージしづらいと思うので、収録される予定のCMとその銘柄をここに記しておきましょう。

・阿具楼本舗「浅利のしぐれ煮」
・ボスコム「アグローミルクチョコレート」
・誘拐代行はおまかせ!キッドナップサービス
・赤毛堂「ピッチピッチチャップス」
・その他数点

これらは当日も会場で流れる予定ですが、一度聴けばもう一度聴きたくなること請け合いです。

そしてそれを聴くためには、ぜひとも会場に足を運んでいただかなくてはなりません。

チケットはおかげさまで多くの方にご購入いただいています。が、まだ若干(数名…?)は購入可能だそうなので、どうかどうか、この機会をお見逃しなく…!

チケットのご購入はこちら!

2024年10月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その434


ジャバザハットたかたさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.一見幸せなようで実は不幸なんじゃないか、と思うことは何ですか。


言わんとするところはよくわかります。それはたとえば、絶世の美男/美女と結婚することと、その美しさゆえに気苦労も絶えないことがカードの表裏になっている、みたいなことですよね?みんなでワイワイと論じたらぜったい楽しいし、僕もその場にいればあーでもないこーでもないと考えるでしょう。

ただ、こうして今、僕ひとりになってみると、同じように考えることはできません。なんとなればこの問題は、「幸不幸は比較によって判断されるもの」という、こうして言葉にしてみたら絶対に誰もそれにイエスとは言わないはずの前提に立っているからです。

絶世の美男/美女と結婚した本人が幸せならそれはもう絶対に幸せであり、逆に本人が気苦労の絶えないことを不幸と言うならこれまた誰がなんと言おうと不幸と結論づけるほかありません。幸福とは徹頭徹尾、本人だけの問題です。重要なのは幸せかどうかであって、幸せに見えるかどうかではない点に注意しましょう。

実際、多くの人は幸せに見えるかどうかを幸せの基準と考えている印象があります。言ってしまえば、人が羨むかどうかです。そしてその幸せは比較によって相対的に決定されるので、ぜんぜん別の尺度を持ち出して比較した途端、不幸に転じて見えたりするわけですね。でもそれはせいぜい比較する第三者の溜飲を下げることにしかならないし、それゆえに却って羨望が日々つきまとうことになります。ですよね?

かくいう僕も、たとえば「良いものを安く買えた」といったことに喜びを感じてしまう男なので、日々反省しきりです。それはそれでまちがいなく幸せではあるんだけど、でもこの幸せはもっと安く買えたと知った途端に色褪せてしまいます。良いものであることには何ら変わりがないにもかかわらずです。こうして文字にすると本当にバカバカしくなるけど、何しろずっとバカなのでしかたがありません。

一方、うちの人なんかはむしろ「良いものを買えた」ことに喜びを見出すタイプです。そこに価格の高低はあまり関係がない。なのでそこで得た幸せはいつまでも色褪せることなく、燦然と輝いているわけですね。ああもう、ほんとにそういうことだよな、といつもおもう。

この強度のちがいがおわかりだろうか。

以上のことを総合すると、答えは自ずとこうなります。


A. 比較によって得られる幸せすべてです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その435につづく!

2024年10月11日金曜日

ゆで玉子の誤謬について考える


ああ、あのこと書き残しておけばよかったなあ、と思いながらこの世を去り、その未練が原因で成仏できず、怨霊となって下界をうろつくようになっても困るので、今のうちにゆで玉子のことを書き残しておきます。ゆで玉子を手にうろつく怨霊は想像するだけでめちゃめちゃ怖いです。そういう望ましくない未来を断ち切るためだけでも、今回の話にはたいへんな意義があると申せましょう。

僕がここである種の遺言として書き残しておきたいのは、「玉子の殻を剥きやすくする技」のことです。玉子のお尻に穴を開けたり、酢を入れて茹でたりといろいろありますが、技そのものや効果を否定したいわけではありません。率直に言えば、それ以前の問題です。そして僕がこのことに懸念を抱いているのは、それが必ずしも玉子にかぎった話ではないからです。

たとえばここに、殻が剥きやすくなる技を使って、きれいに剥けたゆで玉子があるとします。技のおかげできれいに剥けたと考えるのはごく自然な気もしますが、実はそうとはかぎりません。

なんとなればここには、技を使わなくても殻がきれいに剥けた可能性もあるからです。おわかりだろうか?

もちろん、技のおかげである可能性も同じくらいあります。それを否定したいわけではないと言ったのはそのためです。問題は、それを証明することは誰にもできない、という点です。

それを証明するためには、同じ1つの玉子で「技を使った場合」と「使わなかった場合」の両方を試す必要があります。まったく同じ条件下であっても、別々の玉子であればその時点で証明にならない点に注意しましょう。実際、同じパックの玉子でも剥きやすさが違うことは往々にしてあります。証明するなら、あくまで1つの玉子で2つのやり方を検証しなくてはいけません。

いや、無理じゃん、と思われましょう。そのとおりです。ではなぜその技が有効であると断言できるんだろうか?同じ玉子で技を使わなかった場合を検証していないし、したくてもできないのに?

玉子にかぎった話ではないと先に書きましたが、では玉子抜きで言い換えてみましょう。ここでは、本来であれば2つの結果を比較して初めて証明されるはずのことが、1つの結果のみで証明されたことになっています。

というのも、得られた結果が言ってみれば望んだとおりだったからです。誤謬に気づかない理由がここにある。

具体的すぎる別のケースに置き換えてみましょう。たとえば僕がアルバムのリリース前に全曲試聴を用意したい、と主張したとします。それに対して、全曲試聴はネタバレみたいなもので期待値を下げるし、売り上げを下げることに繋がりかねないから試聴は1、2曲にとどめたい、と反対されたとします。その意見を尤もだと受け止めた僕は、試聴を1、2曲にすることに合意します。アルバムはぶじリリースされ、なかなか好調な滑り出しを見せたとします。ここまではよろしい。問題はその後です。

この状況で、「試聴を1、2曲にとどめて正解だった」と結論づけることは可能だろうか?リリース後の好調な滑り出しは、全曲試聴をしていたらこれ以下の結果にしかならなかったと結論できる根拠になっているだろうか?

なっていません。ですよね?

これを先のゆで玉子に置き換えるなら、「技を使った場合」が「試聴を1、2曲にとどめる」で、「技を使わなかった場合」が「全曲試聴」になります。繰り返すけれど、それはどちらも、同時に検証することができません。

全曲だろうと数曲だろうと試聴が売上にさほど影響しなかった可能性もあれば、全曲試聴が思いのほか功を奏した可能性もある。しかし得られた結果が望んだとおりかそれ以上になると、検証のしようがない他の可能性に蓋をして、判断の正しかったことが証明された、と考えてしまうわけですね。

ゆで玉子くらいなら別に問題でもないけれど、この論理的誤謬が本質的にマズいのは、誤謬と気づかずに証明されたと考えてしまうことがそのまま経験値として次の判断に影響を与えることになるからです。ぶっちゃけ会社組織なんかもう、そんなんばっかなんじゃないかとおもう。

そしてこのゆで玉子の話がめちゃめちゃ教訓的なのは、件の誤謬が例外どころか、ほぼすべての人に適用される可能性を示唆しているからです。これが教訓でなくて何だろう?

そんなわけで、以前はあれこれ試してみたりもしたけれど、今の僕はゆで玉子の殻をきれいに剥くための技を使っていません。経験則としてやっているのは、茹でた直後に水で冷やすこと、あまり新しい玉子を使わないこと、の2つだけです。

うまく剥けないときもあるけど、人生だって似たようなもんですからね。

2024年10月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その433


新しい学校のレイダース/失われたアーク(聖櫃)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 夢は叶いますか?


いい質問です。

ただ僕は物心ついたときから「夢は叶う」というフレーズに対して、いくらなんでも大雑把すぎんかと疑義を抱いてきた男であり、人生の折り返し地点を過ぎた今でも、やっぱり大雑把すぎるしそれゆえにそう断言するのは無責任すぎると感じています。

たとえば遠い未来の宇宙空間で戦争があったとしましょう。これから宇宙船で出撃するパイロットは故郷に婚約者がいて、帰還したら結婚する予定です。実際のところ婚約者がいて帰還したら結婚式を挙げることが決まっている宇宙船のパイロットというのはその設定自体が死を意味するものですが、それはまあさておくとして、彼がぶじ帰還できるかどうかは誰にも断言できません。生きて帰るための努力を積み重ねて確率をいくらか上げることはできそうだけれども、それだけでは帰還できる保証になりません。なんとなれば帰還という結果を左右する要素がめちゃめちゃ多くあるからです。なんなら、ここがおれの死に場所だ!と自暴自棄になって突っ込んでいった死にたがりがどういうわけか巡り巡ってあっさり帰還してしまう可能性すらあります。ですよね?

どう考えても結果を左右する要素が本人の意志以外にも多くある以上、希望した結果になると断言することは誰だろうとできないはずです。単純化しすぎで大雑把な上に無責任と考える所以がここにあります。

もちろん、鼓舞することでそれが一種の暗示になり、プラスに働くこともあるでしょう。というか実際、プラスに働くんじゃないかと思う。ただですね、鼓舞というのは結果に影響する他の要素をすべて度外視しているというか、「君次第だ」と問題を極端に単純化してしまうので、仮にうまくいかなかった場合、その理由もまた「才能がなかった」とか「努力が足りなかった」と極端に単純化されてしまうことになります。でも、本当にそうなんだろうか?

その昔、バイト先の社員に大のサッカー好きがいました。たしか当時で26歳だったと思いますが、仕事の合間にちょっと手が空くとリフティングをしていた気がするし、ほぼすべての休日をフットサルに費やしていたばかりか、毎日ドリブルで通勤していたと聞けば、その熱の入れようがおわかりいただけましょう。ドリブルで通勤はさすがに今でもすげえなとおもう。

彼がプロになりたかったのは確かです。でもプロにはならなかった。ではなぜならなかったんだろう?努力が足りなかったんだろうか?才能がなかったんだろうか?少なくとも彼自身はそう考えていたようだったけれど、そんなわけねえだろと僕は声を大にして言いたい。夢を叶えるための条件が本人に帰するなら、それは一握りの天才にしか不可能と言っているのと結果的に同義ではないのか?

また「夢は叶う」というフレーズは、実際に叶えた人にしか言うことができない点にも注意が必要です。自分でも叶ったんだから、他の人だって叶うと考えるのはごく自然なことですが、一方でどれだけ強く望んでも叶わなかった人のほうが圧倒的に多い現実もまた厳然とあります。その現実に蓋をするなら、やはり無責任であると言わざるを得ません。

その上で僕には、誰にでも突出した何らかの才能が絶対にある、という強い確信があり、それはいいおっさんになった今でもまったく揺るぎないばかりか、ますます強固になっています。ただし、その才能が自分の望むものとはかぎりません。たとえば僕は今でも声を使って作品を作ったりデザインをしたりしているけれど、それで名を成したかといったら別に成してないので、なんなら別種の、僕自身ぜんぜん気づいていない才能が今もスヤスヤ眠っている可能性があります。たとえば皿洗いがあまり苦ではない体質が、何らかの才能の片鱗を示しているとか、そんなことはないだろうか?

なので僕にとって夢を叶えた人というのは、望んだ才能と実際の才能がうまく合致した上に、結果に影響する要素の多くがプラスに働いた、もしくはプラスに引き寄せた人です。言うまでもなく、結果に影響する要素の中には、不断の努力も含まれています。そして努力はそれ自体が汎用性の高い、万能な経験値である、とだけは断言されて然るべきでしょう。

そんな僕が、夢は叶うかどうかを問われて答えるとしたら当然こうです。


A. それは誰にもわかりません。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その434につづく!