2024年9月13日金曜日

気がつくと脛にキズのある男の話


内容的には本当にたった一言で済む話だし、わざわざ言葉を尽くすようなことでもないからそれこそ言いたきゃ川面の葉っぱのようにSNSに流してしまえばいいというか実際にそうした気もしつつ、いまだに収束する気配がないので改めて記しますけれども、脛に傷があるのです。

やましいことがある、という意味の慣用句ではありません。現実に肉体としての脛が傷を負っている、という完全に文字通りの意味です。もちろんやましいことはいろいろあります。でもそういう話ではない。

脛のどこかにちょっと傷ができるくらいで一体何をそんなに騒ぐのか、とお思いになるのも無理はありません。本人である僕自身が長いこと気にしていなかったくらいです。しかしある時また傷があることに気づいてから、どうもおかしいと印象が変わり始めました。何となれば位置は毎回すこしずつ違うけれども、ちょいちょいできるこの傷の原因を僕は今も特定できていないのです。ぶつけたとか擦ったとか、そんな記憶も一切ない。

大した傷ではありません。例外的に足の甲まで血が流れていたケースもあるけれど、基本的にはどこかにちょっとぶつけたような、どこかでちょっと擦ったような、そして大体シャワーを浴びたときに気づくような、その程度の傷です。ほっといたって別に支障はないし、早ければ数日で治ります。ただその頻度がちょっと尋常ではない。いつもとか常には言い過ぎだとしても、脛の傷なしで1ヶ月を過ごしたことはないんじゃなかろうか、と考えるくらいには多いのです。

それでいて、傷が生じる決定的瞬間を捕捉できたことはかつて一度もありません。この状況を認識してからもう何年もたつのに、いつも気づいたら傷ができています。傷ができる瞬間にちょっとでも痛みがあれば容易に原因が特定できるはずなのに、それもない。

同じ位置ではないにせよ、頻度からして傷が生じる状況はおそらく同じである、と言えそうな気はしています。たぶん毎回、同じような状況で傷を負っている。でもその状況がわからない。日ごろから注意深く観察していても、傷のできた日の行動をていねいに辿ってみても、脛に衝撃を与えるような状況にはいつも思い当たらない。視認できない小人が隙を見てバールでぽかりと殴っている、と言われたほうが現状ではよほど納得できる気がします。

僕は昔からわりとオカルトを好むたちなので、超常現象そのものは大歓迎です。でも根拠なしにそう思いこむほど純朴でもない。にもかかわらず聖痕かもと疑ってしまうくらいには、頻度が高い上に何もかもが謎すぎます。あるいは取り返しのつかない大きな病の兆候かもしれないし、それならそれでやはり後世のためにきちんと書き残しておく必要があるだろう、というのが一見どうでもよさそうな、あるいは実際にどうでもいいとしか言いようのない話をここでこうしてつらつらと書き連ねている所以です。

何よりも業腹なのは、この絶え間なく生じる傷のせいで、グラビアでヌードを披露できる美しい肉体ではなくなっていることです。年齢にしては腹も引っ込んでるし骨格だけはイケメンとして胸を張れる矜持を持っているのに、この不可解な脛の傷のせいですべてが水泡に帰しています。きれいに消えた傷もあるけれど、痕として残るものもちょいちょいあって、これらはおそらくこの先もう消えることはないでしょう。

とはいえ、傷がなければ今ごろめちゃイケてる骨格モデルとして…と夢見る年でもありません。原因がはっきりしていて、そりゃ傷にもなるわなあ、と納得できるならそれで十分です。七夕の短冊や流れ星や神仏に頼るまでもない、ごくごく控えめな願いごとじゃないですか?こうまで徹底して本人に気づかせないよう脛に傷をつくらなくてはいけない理由が一体どこにあるというのか?

ちなみに今もひとつあります。

そういや同時にふたつできたことはないな…

何なんだろうまじで 

2024年9月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その431

 


時間差トーマスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子供みたいなんですがいまだに「いつか自分が死ぬ」ことが受け入れられません。たまに考えて焦るし怖いです。自分が死ぬことをどうやって受け入れたらいいですか?


なるほど、たしかに受け入れることができたらすこしは気が楽になるかもしれないですよね。

ただ、僕としては受け入れる必要性をあまり感じません。なんとなれば最後の最後まで絶っっっ対にイヤだ!!!!と暴れまくって頑強に抵抗したとしても、死がそうした情状を酌量してくれるわけでは当然ないからです。であれば何があろうと頑なに受け入れない姿勢を貫き通すのもまた、ひとつの心のあり方である、と申せましょう。

今よりもずっとお化けが怖かったころ、ふと、なんでこんな気持ちに苛まれなくちゃいけないんだ、お化けにはお化けの理由があるのかもしれないけど、だからといって一方的に怖がらせていいわけないだろ、ちょっとでも危害を加えてみろ、こっちはこっちで絶対にゆるさんぞ!!と腹を立てたら急に気が楽になったことがありますが、それにちょっと近いものがあります。

そもそも望んでもいない未来の死に脅かされるのはお化けにちょっかいを出されるのと同じくらい理不尽なことなのだから、基本的には同じ姿勢でオーケーです。

いつか死ぬことをなぜ受け入れられないかと言えば、それはご自身の人生を絶望よりも希望が多く占めているからです。シンプルだけれど見過ごされがちなこの事実を、改めて見つめ直すのもアリという気がします。いつかくる死を受け入れられないということは、それ自体が人生におけるかけがえのない、光のひとつでもあるのです。どちらかといえば僕は、その光を持たない側にいます。何度もマッチを擦りながら、ときどき火が点いてはあっという間に消えてしまう、そんな日々もまた、この世界には厳然とあります。灯す必要のない光をすでにお持ちなら、それを大切にしなくてはいけません。

さらに、これはまあ、ここだけの話に留めておきたいところですが、実際に死なない可能性もあります。少なくとも死の可能性が限りなく100%に近いとはいえ100%では絶対にない点には留意しておく必要があるでしょう。仮にこれまで100億人近い人類が例外なく死んでいるとしても、だからといって自分もまた100%確実に死を迎えるということにはなりません。

たとえば地球における脊椎動物の中で最も長寿と言われるニシオンデンザメは今のところ最長で500年以上(!)の寿命が確認されていますが、何らかのエラーでこのサメみたいな体質をうっかり獲得してしまい、数百年から数千年、有形なり無形なりで今も生き続けている誰かがどこかにいないとは、誰も全人類の動向を把握していない以上、誰にも言えないのです。生物であればヒトであれクマムシであれ確実に寿命があっていずれ必ず死を迎える、とは言っていいと思いますが、それは自分がその例外的存在ではないという理由にはならない。ですよね?

ひょっとしたら自分がその例外中の例外かもしれない。そしてその可能性はほぼゼロではあるけど絶っっっ対にゼロではない。でも仮に死ななかったとして、それこそ本当に、心から受け入れられることだろうか?


A. 死なない可能性もゼロではありません。




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その432につづく!