2022年3月23日水曜日

人にやさしくするということ


もうかれこれ長いこと、木の枝にぶら下がるシャツの切れ端よろしくずっと心に引っかかっている、カート・ヴォネガットの言葉があります。人にやさしくしろ!(You've got to be kind!)」というシンプル極まりない、こう言ってよければちょっと当たり前すぎておもしろくもなんともないように聞こえる一言です。

これを目にしたのは「国のない男」という随想集で、ヴォネガットの生涯における最後の一冊ということになっています。その中のある一節で、「ぼくたち、大丈夫ですよね」と不安そうに問いかける若者に対して、ヴォネガットがこう答えるのです。

「わたしが知っている決まりはたったひとつだ。ジョー、人にやさしくしろ!

原文はこうです。

"There's only one rule that I know of: Goddamn it, Joe, you've got to be kind!"

翻訳の違いもあって当時はピンと来ていなかったのだけれど、だいぶ後になってこれはヴォネガットの代表作のひとつである「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」中の一節だったことに気がつきました。

小説ではこれから洗礼を受ける赤ん坊への祝福の言葉として出てきます。訳文はこうです。

「ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ。いいかいーーなんてったって、親切でなきゃいけないよ

だいぶ印象が違いますね。でも原文を見るとほぼ同じです。

“There's only one rule that I know of, babies—God damn it, you've got to be kind.

個人的には、またとりわけ皮肉家のヴォネガットにおいては「God damn it」が不可欠な要素に思われるのであえてそこを汲むと「やさしくしやがれ!」というニュアンスになるでしょうか。


いずれにしてもはっきりしているのはヴォネガットがこの星におけるただ一つのルールとして「人にやさしくあれ」を挙げていたことです。小説が60年代で随想集が2000年代だから、生涯を通じてそうだった、と考えてよい気がします。

単に小説中の一節だったら、僕も実際忘れていたし、それほど気にはなっていません。それから数十年のち、現実に不安を抱えた若者に対してもこのフレーズで応えたから引っかかり続けているのです。

ヴォネガットは第二次世界大戦に兵士として従軍し、捕虜となってドイツに連れて行かれ、そこであのドレスデン爆撃を経験しています。人間の見たくない部分をぜんぶ見せられた世代です。

それもあってか根っからの皮肉家で、徹底した懐疑論者で、厭世的とまでは言わないけれど、ポッケに小さな希望を入れて持ち歩く悲観論者みたいな印象があります。

そのヴォネガットが、不安を抱える現代の若者に人にやさしくしろ(you've got to be kind)」という、これ以上ないくらい、誰でも言えそうな単純な一言をポンと手渡すから、引っかかったのです。

しかし木の枝のシャツの切れ端みたいにこの言葉が引っかかってから15年以上がたち、多くの国が慄然とせざるを得ない状況にある2022年の今、すこしだけ飲みこめたような気がしています。

「人にやさしくあること」、それは結局のところ何もかも、本当にすべてが集約されている一言なのではないか?


僕らの大多数はいつでも戦争に反対し、いつでもそれを止められない無力感に苛まれます。戦争を仕掛ける張本人ですら「戦争などしたくないしするつもりもない、ただ守るべきものは守る必要がある」と言ってまた戦争が起こります。現実はその繰り返しです。

戦地に赴き、血を流し、捕虜となり、爆撃を受け、そこで経験したすべてを礎としたヴォネガットがなぜ赤ん坊や若者に「戦争だけはいけない」と言わずに「やさしくあれ」と言ったのか、ひょっとするとこれから未来を紡ぐすべての人がそれを胸に刻めばそもそも戦争という概念すら失せるのではないか、つまり流す必要のない血を流さないために、誰にでもできて、今すぐにできて、この先もずっと続けられるシンプルなルールこそ「人にやさしくあること」に尽きるのではないか?

そう考えると、それまで心に引っかかっていたシャツの切れ端が急に重みを帯びて大きな岩に変わり、ずしんとのしかかってくるのです。

穿ちすぎかもしれません。でも実際にそうなのかもしれない。少なくとも今の僕には、これ以上はありえないほど大きな教訓として、心にガンガン響いています。しつこいようだけれど、本当にこれに尽きるんじゃないかと思う。どれだけ些細に見えても、人間の醜悪な側面を嫌というほど味わわされた上での一言である以上、ここには唯一無二の圧倒的な説得力があるし、引っかかるばかりでなかなか飲みこめずにいたじぶんが今となっては恥ずかしくも思われます。

今日も明日も明後日も、誰にでもできて、今すぐにできて、この先もずっと続けられること。胸に刻んで、機会があれば次の世代やその次の世代にもこの一言を手渡せるように努めること。

"Goddamn it, you've got to be kind!" 


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