2017年2月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その261


アンドロメダ成分さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)


Q: 相手の言い分も自分の言い分も間違ってはいない時、自分はお互い様だと思うのですが、相手は相手の言い分を押し通そうとしてきます。自分が折れるべきなのでしょうか?


どこにでも転がっているわりに、これは考え出すとなかなか奥の深い問題です。

が、ここはひとまず「折れる必要はまったくない」とさきに結論を申しておきましょう。折れるべきではない、という意味ではありません。あくまで、その必要はないというだけです。それじゃ答えになってないよ、結局どうすべきなのとお思いでしょうが、僕が考える奥の深さとはまさしくここにあります。なんとなればこの問題は、1本の糸ではなく何本かが同時に絡まり合っているからです。

完全に等価といえる、2つの意見がここにあったとしましょう。どちらも間違っていないということは、つまりどちらにも納得できる理があるということです。どちらにも同じくらいの理があるとすれば、当然どちらを選んでもいいことになります。どちらを選んでもいいのであれば、相手に譲ったところで何ひとつ問題はないはずです。

しかし現実はこう単純にはいきません。というのも多くの場合、じぶんの意見のほうがよりベターであると信じているか、もしくは単純に相手に譲りたくないという気持ちが働くからです。そしてここには早くも色の異なる2本の糸が混在しています。言うなれば理性とエゴの2本ですね。絡まり合っていると先に書いたのは、理性に見せかけた無自覚のエゴである場合もまた、往々にしてあるからです。じぶんでじぶんをひっぱたくようなことを書いているような気もしますが、湿布でも貼りながらつづけましょう。

ちかごろは正しさということについてよく考えます。2つの意見があってどちらも間違っていないとき、それは言い換えればどちらも正しいということです。ですよね?どちらも等しく正しいのだとしたら、その選択は最終的に正しさ以外の理由によって決まるということです。はて、そうすると正しさとはいったい何だろう?どちらかというとそれは対立を前提とした武器や防具のひとつにすぎないのではないか?これが3本目の糸です。

理屈っぽいと昔からさんざん舌打ちされてきた僕が言うのもなんですが、どんな対立でもだいじなのは互いの気が済むにはどうしたらいいかであって、どちらに理があるかではありません。数多の異なる意見が混在する世界にあって一面的な正しさなどクソの役にも立たないし、それが理性を装ったエゴならなおさらです。というより、互いに妥協点を探り合ってどうにかこうにか辿り着いた地点こそ、間違っていないと断言できる唯一の答えであり、正しさと呼ぶにやぶさかでない何かだと僕はおもいます。

こうすべき、という考え方は言うまでもなく「正しさ」が前提です。しかし先にも書いたように正しさなどネット上で見かける「あなたは18歳以上ですか?YES/NO」ボタンと同じ程度の力しか持ちません。折れるべきではないと書かなかったのはそのためです。

冒頭の結論をもうすこし敷衍すると、「あなたの言い分はわかる。一方でわたしはこうおもう。ふたりがしぶしぶ認められる妥協点があるとすればどこだろう?」ということになるとおもいますが、とはいえ現実的にそんなまどろっこしいことはそうそうできません。したがってまずは絶対に譲りたくない部分をじぶんのなかではっきりさせておきましょう。その上で、いくつかのパターンを状況に応じて組み合わせるのがよいとおもいます。

1. あっさり折れる
2. とことんまでやり合う
3. ムチで打つ

つねに言い分を押し通してくる人というのは、じぶんの意見が通って当たり前だと考えているようなところがあります。したがってつねに折れるのではなく、ときに相手を立て、ときに問答無用でしなやかな一撃を喰らわし、硬軟を織り交ぜるのが肝心です。鞭は9本の革ひもを束ねたいわゆる九尾鞭(Cat o'Nine Tails)なんかがよいでしょう。

少なくとも1回ムチで打っておけば、その後はある程度の抑止力になります。「あ、これ以上はムチが飛んでくるな」と相手に思わせられるようになったらしめたものです。うまくするとある種の性的嗜好に目覚めて、より従順になってくれるかもしれません。


A: 引いたり押したりぶったりしてみることです。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その262につづく!

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