2012年5月24日木曜日

ピス田助手の手記 21: スピーディ・ゴンザレス登場







イゴールのハンドル捌きはちょっとした見物だった。どこで身につけたのか、その華麗なドライビングテクニックのおかげでわたしたちは、ブレーキが単なるアクセサリーにしか見えなくなるくらいぶっとばして道を急ぎながら、それでいて至極快適なピクニックを心から満喫することができたと言っていいだろう。ブッチとみふゆにいたっては後部座席で「オブラディ・オブラダ」を気持ちよさそうに合唱していたほどだ。ランチボックスを用意せずに来たのは失敗だった。

そして賢いハンス号だ。あとでイゴールから聞いたところによれば、この名前は19世紀に実在した馬にあやかったものらしい。言語を解するばかりか、あまつさえ簡単な数の計算までこなすことでかつて世間の耳目をあつめたこの馬は、実際には周囲の空気を敏感に察知することに長けていただけだったという解釈で、今では決着がついている。

「数の計算ができること」と「空気を読むこと」、現代社会においてどちらがより賢いかは推して知るべしという感じがするが、いずれにしても特筆すべき能力をもっていたことはまちがいない。1頭の馬が飲み会で空いたグラスをみつけてさりげなくビールを注いだり、何となく全員賛成っぽいという理由で反対を差し控えたりすることができるのだとしたら、それはやはり驚くべきことだとわたしもおもう。

利口な馬ハンスは空気を読むことができた。この車がその名を冠しているのは、つまりハンスとまったく同じ能力を有しているからだ。

具体的に言うと、たとえば賢いハンス号はみずからウィンカーを出すことができた。必ずしも自動というわけではない。ちょっと出すのが遅いなと感じられたときだけ、素知らぬふりで点滅を始めるのだ。オートマチックというよりは気配りにちかい。

ついでに言うと、バナナの皮や犬のフンを避けて走ることもできた。歩道ならともかくなぜ車道にバナナの皮や犬のフンが落ちているのかという点については議論の余地がありそうな気もするが、しかしまあこれは純粋に気分的なものだろう。踏むとわかりきっているものをみすみす踏むのはわたしだって馬鹿馬鹿しい。

とはいえまさか、その特性がここで存分に発揮されるとはわたしも予想していなかった。というのも15分ばかりの愉快なピクニックもそろそろ終わりというあたりで、お目当ての肉屋が見えたとおもうが早いか、矢のような飛行物体がこちらに向けて迷いなくまっすぐ飛んできたからだ。

当然、賢いハンス号はその危険を敏感に嗅ぎ取って、あわや射抜かれるとおもわれた直前に車体の鼻先を如才なく逸らした。イゴールもそれに合わせてハンドルを切り、片輪走行でバランスをとりながらもすぐに体勢を立て直してくるりと方向転換した。
「おいおいおい」
「旦那、嬢ちゃんが!」
振り返ると、みふゆが脇差しをもってブッチの膝から往来に飛び出し、放たれた矢を軌道上でまっぷたつにしていた。
「まるで石川五ェ門だ」
「さすがにみふゆさまです」
「しかしあれじゃまた嬢ちゃんが標的にされちまいますよ!」
イゴールと賢いハンス号のコンビはふたたび進行方向を元に戻した。肉屋からはすでに2本目が放たれて、こちらに向かっているのが見える。ブッチは手を伸ばしてみふゆの襟首をつかむと、あっという間に座席へと引き上げた。

ぴゅんぴゅん飛んでくる何だかよくわからないものをかいくぐりながら、それでもなお肉屋へ突進するか、それともとっとと予定を変更してフォーエバー21に向かうか、ここでの選択肢は2つに1つしかない。しかしそもそもなぜわたしたちは命を賭してまで肉屋の門戸を叩かなくてはならないのか、そのあたりがどうも全体的にボンヤリしていた。行く理由はある。ただ服を着替えるのに遺書を用意しなくてはいけない理由が全然ないのだ。

たとえばこのまま家に帰ってパックの刺身をつつきつつ、楽しみにしていたドラマの思わぬ展開にがっかりする一日の終わりを想像してみよう。どこにも問題はなさそうじゃないか?それどころか、ハードな日々をストレスなく送るためにはむしろ積極的にそうすべきだという気さえしてくる。これまでの流れをぜんぶチャラにしたところで、自分を中心とした半径15メートルくらいの範囲なら、世界はおおむね平和なままなのだ。という論理的な思考の流れを一言で要約すると、わたしはもう帰りたかった。

したがって言葉は交わさずとも、めんどくさいのはどう考えてもご免だという点において、わたしたち4人と1羽は意見の一致をみた。賢いハンス号はさらにもう一度くるりと方向を変えてゴール(だったはずの肉屋)から背を向けた。話の通じそうにない直情的な飛行物体については、ブッチに抱えられながら後ろ向きに立ったみふゆが今度も難なく縦ふたつに割って退けた。

「おみごとすぎて言葉もない」尻尾を巻いて逃げる賢いハンス号の上で、わたしは背もたれにしがみつきながらイゴールに言った。「お友だちは待ちくたびれて早くもご立腹らしいぞ」
「わたくしにもすこし状況がのみこめてきました」とイゴールはハンドルを握る手に力をこめて言った。「あれはスピーディ・ゴンザレスです」
「スピーディ・ゴンザレス?」
「たしかにせっかちそうな名前ではありますな」
「ちらっと見たところじゃセーラー服を着たアヒルって感じだったけどね」
「関わり合いにならずにすむならそれにこしたことはないのですが……」
「挨拶代わりに攻撃してくるような奴とは誰だって関わり合いになりたくないだろうな」とわたしはムール貝博士のことを棚に上げながら言った。「誰なんだ一体?」
「スピーディ・ゴンザレスは」とイゴールはためらいがちにつづけた。「シュガーヒル・ギャングの用心棒です」





<ピス田助手の手記 22: 甘く乱暴なシュガーヒル・ギャング>につづく!

1 件のコメント:

ぽいこ さんのコメント...

スナークじゃなかった!

3日に一度の更新、ありがとうございます。
待ちわびずに済むのは大変ありがたいです。