2012年4月15日日曜日

ピス田助手の手記 9: 考慮すべきもうひとつのポイント


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人
ピス田助手の手記 5: キッチンにて
ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する
ピス田助手の手記 7: 小指の欠けた男について
ピス田助手の手記 8: 死体よりも忌々しいこと



謎はもちろん、まだのこる。なぜアンジェリカは黙って屋敷を後にしたのか?大鎌を持って出ていった以上、彼女が無事であることにわたしも異論はない。鋼の心臓を胸にもつ世界でもっとも強い女性のひとりなのだから、その点は断言してもいいだろう。しかしそうなるとなおさら無断が気にかかる。「行ってくる」とひとこと告げていけばいいだけの話じゃないか?イゴールはアンジェリカの忠実な侍従であり、そのダイヤモンドみたいな忠誠心にはわたしも常々敬服している。わたしのムール貝博士に対するそれなど彼に比べたら石ころに等しい。どんな事態であれ共有しておくほうがむしろ万事に都合がいいはずだ。また仮に秘密裡にはこびたかったとしても、それこそ平常を装えばそれで済む。イゴールは違和感をもつかもしれないが、そのために却ってアンジェリカの意を汲もうとするにちがいない。告げて妨げになる理由がいったいどこにあるんだ?


わからなかった。説明している時間がなかった、ということくらいしか思いつかない。一刻を争う事態なんだろうか?できればその点についてもうすこしコンキスタドーレス夫人の見解を拝聴したかった。わたしはこの貴婦人にすっかり心酔していたし、実際これほど心丈夫な味方はあちこち訪ねたってそうは見つからないようにおもえた。炯眼は必要だ……とりわけ、話がとっちらかって収集がつかなくなりそうな場合には。しかし夫人はこの時点ですでに関心を失っていたらしい。


「わたしとしてはこれで詮議を打ち切りたいところね」
「でも、アンジェリカがイゴールに黙って出ていくなんて変ですよ」
「放っておきなさい。じきに帰ってくるでしょう」
「しかし……」
「あとはイゴールの仕事です。帰りますよ、みふゆ」
「みふゆはアイスノンとあそびたいのです」
「あらあら」と夫人は言った。「そうだったわね。ひとりで帰れる?」
「帰れます」
「いいわ、ではイゴール」
「はい、奥さま」
「みふゆをたのみますよ」
「かしこまりました」
「それからアンジェリカが帰ったら田村に鎌を返すよう伝えなさい」
「仰せのとおりにいたします」
「アイスノン?」とわたしはおそるおそる問いをはさんだ。
「お嬢さまの鶏です」
「ふーん」
「たいそう可愛がっていらっしゃいますよ」
「そうそう、それと」と夫人は部屋に背を向けてから振り返った。「電話もしておくことね」
「はい、奥さま」
「電話?110番ですか」
「まさか!」とコンキスタドーレス夫人はここではじめて青空のような笑顔をみせた。「肉屋ですよ」

じつはわたしたちにはもうひとつ、考慮すべき事実があった。それをここに書き加えておこう。言われるまで気づかなかったけれど、見目麗しきコンキスタドーレス夫人の指摘はさすがに如才がなかった。「もしアンジェリカの行方を追うというのなら」と去り際に夫人は言った。「考えてみる必要があるのは、なぜスナークがイゴールも知らないアンジェリカの留守を知っていたのか、という点です。わたしはもう興味がないけれど、すくなくとも先へすすむ糸口にはなるのではないかしら。幸運を祈ります。ごきげんよう、ピス田さん」




<ピス田助手の手記 10: おいしい生ハムの話>につづく!

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

Sからはじまる賞金首=スナーク?ですか?

ピス田助手 さんのコメント...

> 匿名さん

ふふふ。直球ですね。それを確かめてしまうと、スッキリはするかもしれないけれど、一方で世界のひろがりを狭めてしまう、とも言えそうです。「あ、ひょっとしてそうなのかも!」と想像すること、それがいちばん大事だと僕はおもいます。もし別の可能性があるとしたら、何でしょうね?