2025年5月30日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その454


国破れてパンダありさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 全裸っぽい人と目が合った時に言われて安心する一言を何かお願いします。


とかく人生ではいろんな事態に見舞われます。山が火を噴いたり、空から蛙が降ってきたりすることが現実にあるくらいだから、路傍で仁王立ちの全裸っぽい人と目が合うこともあるでしょう。そんなときに得体の知れない不安に駆られるのも、誰であれ無理からぬことです。

ではもしここでその全裸っぽい人が目の合った人を安心させるために「大丈夫です!心配しないで!」と言ったとしましょう。僕らは安心できるだろうか?

できない、と僕は考えます。なぜなら明らかに、というのは世間的社会的にどう考えても大丈夫な状況ではない上に、全裸っぽい人は自身の装いに他人が不安を抱くことを気遣っているという、極めてアンビバレントな状況に陥るからです。全裸っぽい理由を本人がまったくわかっていない状況よりも、圧倒的に剣呑であると言えるでしょう。安心させるための発言が却って不安を煽る皮肉な構図です。だってぜんぜん大丈夫じゃないもの。

僕らが不安を抱くのは、天災であれスマホがないといった個人的なことであれ、それが日常の想定内に含まれていないからです。規模によってはあっさり解決できることもたくさんあるけれど、解決や受け入れることを要する時点で不安の種になります。ましてや全裸っぽい人は他人です。物理的な被害をもたらさないとはいえ、通り魔と大差ありません。そんな無害な通り魔が何を言えば安心して立ち去ることができるだろう?

いろいろ考え合わせると、月並みだけれど「何見てんだオラァ!」とか「見世物じゃねえぞ!」あたりが結局いちばん効果的なんじゃないかな、と僕はおもいます。なんとなればそれは、全裸っぽい人が見られることを望んでいない(=異常であることを理解している)だけでなく、こちらが何らかのアクションを取る必要がない(=最善の行動は今すぐ立ち去ること)と端的に示してくれるからです。また恫喝的な強い口調は、この状況に抵抗を抱いている、つまり全裸っぽい人が助けを必要とするほど心を折られているわけではないことを示してもいます。総じて「たいへんですね」とか「がんばってください」くらいしか言えないところまで、こちらの印象とそれに伴う不安を一気に弱体化してくれるのです。

重要なのは、全裸っぽい人が心配する必要のない強者であり、かつこちらの日常には何ら関わりがないと認識できることです。そのためには全裸っぽい人自身がとにかく強い口調で追い払うしかありません。もし国破れてパンダありさんが全裸っぽい人になった場合は、この点を心がけてみてください。


A. 「何見てんだオラァ!」がいちばん安心できるとおもいます。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その455につづく!

2025年5月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その453


ときめき都内一等地さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ここのところ、ろくに読めてもいないのに、新しい本を次から次へと買ってしまいます。「積読」より、もう少し響きの良い、言い訳がましくも行為を正当化できるような言い方はありませんか?


たしかに、定期的に言及されてその度に熱狂的な共感の嵐を呼ぶほど、日本の読書家は未読の本が積まれている状態に対して尋常ならざる罪悪感を抱いている印象があります。

僕が昔からずっと不思議なのは、そもそもなぜ罪悪感を抱く必要があるのか(=行為として正当化する必要があるのか)という点です。

きちんと対価を支払っている以上、煮るのも焼くのも自由です。どう考えてもそこに罪はありません。あるのはあくまで罪悪感であって、罪ではない。ではその罪悪感はどこから来るのか?

読まれるために書かれている以上、読まないのは著者に申し訳ない、という理屈は通りません。なぜなら積読は古書にも適用されるのだし、とりわけ古書の場合は著者に何ひとつ還元されるものではないからです。また、どうあれ読まれることは著者にとって光栄ではあるはずだけれども、それは読む側が言うことではないし、エゴに過ぎません。つまりその罪悪感の対象は著者ではなく、書物それ自体に向けられています。

ここでひとつ興味深い事実を指摘しておきましょう。

積読は「tsundoku」として、Cambridge English Dictionary に記載されています。つまり「kawaii」や「emoji」などと同じく日本由来の概念であることが明確に示されているわけですね。

またBBCにも、積読について書かれた海外視点の記事があります。

英語の辞書に掲載されたり、英語の記事になるということは、それが英語圏でも共有できる概念だからです。一方で、積読がtsundokuとしてそのまま英語になるということは、この概念がそれまでなかったということでもあります。

BBCの記事では積読を「本を読みたいという志向と、その結果として思いがけず生まれるコレクション」と定義しています。しかしそれならわざわざ正当化を試みる必要はありません。結果として蔵書になっただけだからです。

同じ記事では別の考え方として「散漫な彼氏」という類推を挙げています。隣に恋人がいるのにすれ違った別の誰かに気を取られる人、ということですね。正当化の必要がある点で、どちらかといえばこちらのほうがしっくりきます。

にもかかわらず英語にはその概念がなかった、というのがポイントです。「人ならともかく、書物のような無機物に罪悪感を抱くことがほとんどなかった」と言い換えることもできるでしょう。ではなぜ日本においては読書家の多くが無機物のありように心を寄せるのか?

これはまさに特有と言っていいと思うけど、日本は実体であれ観念であれ、ありとあらゆるものを擬人化する文化があります。ここ数年でいうと主にトチ狂った天候や寒暖差で言及される「令和ちゃん」なんかがそうですね。

そしてそれは、ありとあらゆるものに神が宿るという日本古来の考え方に通じている気がするのです。付喪神なんかはまさにそうだし、不可解な現象に対する解釈としての妖怪もその延長でしょう。つまり日本では形の有無に関わらず森羅万象に対する敬意、ひいてはある種の強迫観念が他の民族よりも強い、ということです。

本来であれば読まれるべきであるはずなのに読まれず積まれた書物に対する罪悪感、もしくは強迫観念がこれまで他の文化圏になかった理由がここにある、と僕は考えます。僕らは「書物の一冊一冊に宿る神さまに引け目を感じている」のであり、それは形を変えた古い信仰の発露でもあるのです。

だとすれば積読の正当化は「気にしないでいい」という点でむしろ不敬である、と言うことができるかもしれません。必要なのは読みたいという気持ちを放擲せず抱き続けることであって、読まないことの正当化ではない。書物の神さまがどちらに納得するか、考えるまでもないはずです。

したがって僕の回答としては本を読めずに積んでおくことの正当化を不要と断じた上で、こういうことになります。


A. 神棚を作ってそこに買った本を積んでいきましょう。


ちなみに僕も相当な数の本を積んでいますが、これはこれでいいのだと自分を納得させたことはありません。全身全霊で、じぶんの不甲斐なさを受け止めています。でも人生ってそういうもんじゃないですか?




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その454につづく!


2025年5月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その452



世界のお湯割りさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は職業柄、日本語表現がとても重要視される仕事についています。そんな職場ですら、かなりの人が辞書的な意味で誤って使用している言葉に「須く」があります。これは辞書的には必ず、「当然」「必ず」的な意味で使用されますが、「すべて」的な意味で誤用されまくっています。文脈的に理解できるため、その場であえて誤用を指摘はしませんが、誤用だと気づいてモヤモヤしつつ、他方で言語のもつ意味が使う側の理解により変化していく過程を垣間見ているようで興味深いとも感じます。言葉の持つ本来の意味から、まさに今変化している、既に変化したと感じる言葉はありますか?


ふむふむ。言われてみると僕も「すべからく」には不特定多数を示す主語がつく印象が強いですね。「君はすべからく〜」よりも「人はすべからく〜」のほうが自然に感じています。この不特定多数の印象が、「みんな=すべて」につながっているのかもしれません。

興味深いのは、いただいた質問にも「とても」という、語法の転じた言葉が含まれていることです。これはもともと「どうあってもムリ」というニュアンスで否定を伴う副詞だったはずですが、今では程度が大きいことを表すためにも使われています。すくなくとも明治以降に定着したとおもわれる語法です。

そしておそらく、正しい日本語という観念が定着したのも、国語辞典が国家事業として編纂された明治以降です。万人が納得する基準としての文献がなければ、そもそも正誤もないですからね。

一方で言葉は、発音も昔とはもうびっくりするくらい違います。「い」と「ゐ」は別の音だったし、「か」と「くゎ」の違いもありました。たしか「火事」は「くゎじ」だったはずです。現在のハ行はファ行として発音されていたとも言います。そして発音はそのために記録されることがまずないので、本来のそれと異なっていても問題になりません。昔はそうだった、というだけです。

そんなこんなで今の僕は言葉の変化とその差異に頓着しなくなっているのだけれど、ひとつ挙げられそうなのは「煮詰まる」でしょうか。豆とかジャムなんかをぐつぐつ煮ているといつも思い出します。本来の意味が大詰めだとすれば、今はどちらかというと膠着といった負の意味合いで使われている印象です。

ただこれはたぶん、自動詞のせいだと僕は感じています。料理をしているときの意識としては「煮詰める」という他動詞です。料理における「煮詰まる」は人の行為ではなく鍋の状態なので、作る人が意図しない状況も含まれます。意図せず煮詰まる可能性があるなら当然、焦げる可能性もあるということです。

その上で「行き詰まる」という瓜二つの言葉がそばにあったらそりゃ混線もするだろうし、鍋も焦げるよな、とおもいます。むしろ初めから転化の可能性を孕んでいたとさえ言えるかもしれません。

それとは別にもうひとつ、言葉の変化でおもしろいと感じているのは、「延々と」を「永遠と」と認識している人が方々にぽつぽつといるらしいことです。最初に目にしたときは打ち間違いかと思っていたのだけれど、それからちょいちょい見かけるようになったので、ひょっとするとこれも変化の芽生えかもしれません。よくよく考えるといつまでも続くことが直感的に伝わる点で、ハッとするものがあります。たしかに音だけだったらほとんど区別がつかなそうだもんな〜!


A. 意味の変化なら「煮詰まる」、文字と音の変化なら「永遠と」です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その453につづく!



2025年5月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その451


天空の二郎本店全マシさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. タンスの角に小指をぶつけてしまった様な、明らかに自分が悪い時の苛立ちをどこかにぶつけていますか?また、その時に周囲に痛いと悟られないようにどう振る舞っていたりしますか?


僕もかれこれだいぶ長いこと生きている気がするけれど、そういえばタンスの角がすっかり丸くなりましたとか、ぷよぷよにやわらかくなりましたとかそういう話、ぜんぜん聞きませんね。今も昔もこれだけ多くの死傷者を出しているのだからとっくに対策が取られていてもいいはずなのに、不可解なことです。超強力な磁石で床から5センチくらい浮かすとかできないもんだろうか?

僕もちょうど、最近小指を角にぶつけなくなったな、大人になったのかな、とか鼻唄まじりで考えていた矢先にバキャッとぶつけて危うく「バルス」と滅びの呪文を唱えかけたところです。

すっかり痛みも治まってのどかにお茶を啜っている今では別に唱えてもよかったなと思わないでもないですが、あまりの怒りに世界を破壊しようとするくらいには、じぶんが悪いとはぜんぜん思いません。悪いのはどう考えてもタンスです。この広い宇宙で最もか弱い存在のひとつである足の小指に対して、配慮がなさすぎます。正面から受け止め、ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でながら、「愛してる」くらいの一言をかけたって別にバチは当たらないはずです。人も社会も時代に合わせて変わっているのに、タンスの角だけが鋭利なまま一向に変わらないのは平仄が合いません。

逆に、こうした場合の苛立ちのぶつけ方、周囲に痛みを悟られないための振る舞い、つまり自己完結型の対処法を考えるということは、むしろタンスの角に配慮している、と見ることもできるでしょう。僕としてはなぜタンスの角に配慮せねばならんのだと言いたい。苛立ちはタンスの角にぶつけたいし、痛いのはもう本当に痛いのだからさんざん喚き散らかしたい。周囲からは何をそんなに暴れ回ってるんだと訝しがられるでしょうが、理由を知れば誰だって同情せざるを得ません。釈迦だってキリストだってタンスの角に足の小指をぶつけたらぶちギレるだろうし、ぶちギレるべきだし、逆にそれくらいの人間味がないと困ります。人に対して大らかであるためには、タンスの角くらい破壊させてほしい。

ひとつ思うのは、こういうときたとえば”Fuck”に該当するような、瞬発的に罵る言葉が日本語にはないのではないか、ということです。shitと文字どおり同じ「くそッ」とか「ちくしょう」なんかはあるけれど、正直これらにはなんの効果も感じません。英語でもShitはちょっと弱い気がする。ファック、ファック、ファーーーーーーーーーーッック!!!!!!!!!!!!!!!!!というかんじで、ひたすら地団駄をドスドス踏みまくるように使える日本語があったらいいのに、ないんですよね。

そこで「バルス」です。

地団駄を踏むように使いたいと言いましたが、実際のところ日本人は感情を外に向けて全力で発することに不向きです。その点「バルス」は祈るように静かに唱えることができます。そしてその意味するところは破滅なのだから、罵倒としても十分です。日本語じゃなくてラピュタ語じゃないかと思うかもしれませんが、日本人が考えた言語なのだから堂々と胸を張ってよろしい。

うずくまって痛みに耐え、目と口を閉じながら心のうちでひたすら「バルス」と唱えるとすれば、それはなんというか実に日本人らしい、と僕はおもいます。

他者と共有する状況での冗談やスラングとしては今も一部界隈では使われていますが、その概念を文化としてもう一歩押し進めて、自分のために、何なら日本語として使っていこう、ということです。


A. 全身全霊をこめてバルスと唱えます。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その452につづく!

2025年5月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その450


はじまりはいつも亀さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もしも大吾さんが神様のミスで異世界転生したとしたら、どんな能力が欲しいですか?


これまた夢のあるトピックです。

考えてみればバトル系漫画のキャラクターが身につける「能力」はほんと、多様化しましたよね。必殺技(例外的に超能力)しかなかった時代をおもうと、しみじみ隔世の感があります。

個人的には、必ずしも戦闘に特化している能力ではないけれども使い方次第で有用になるという考え方がジョジョの第三部、さらに能力の発現に条件と制約が伴うという考え方が幽⭐︎遊⭐︎白書で加わったことで、技から能力への移行が完了した印象です。

ただこれはあくまで個別の作品世界の話です。悪魔の実を食べるなら、とか斬魄刀を持つなら、といった作品世界を前提に考えることはできても、能力全般で括ることはできません。

異能そのものを一般化したのがつまり、「異世界への転生」という革新的なフォーマットだったわけですね。このフォーマットにおいてはむしろ陳腐化した能力をどう活かすかが重要なので、作品世界にしかない独創的な能力は必要ありません。なんならファミレス化とも言えそうな気がする。


僕もかつては「肉を計ることなく手の感覚だけで100gずつ小分けにする」能力(能力名:目を閉じる肉屋デリカテッセン)を身につけていて、正直これはめちゃめちゃ有用だったんだけど、ふつうに秤を使うようになったら失われてしまいました。

転生するのが秤のない世界だったらちょっといいかなと思いつつ、秤のない世界は肉を100gずつ小分けにする機会もなさそうな気がするので、たぶん甲斐がありません。この能力で無双できる世界があるならちょっと行ってみたい。

空間移動とか時間移動みたいな、フィクションではオーソドックスな能力もそそられるけど、正直いま僕がいちばんほしい能力は視認したゴキブリを瞬時に転移する能力です。

実際のところ1匹や2匹、対処できないほどではないし、部屋で見かけたら見かけたでどうにかすることは普通にできるんだけど、21世紀の今になってもまだ一撃必殺でないことに多大なストレスを感じます。なんといってもあの素早さと、忙しなく動く触覚と異常な生命力がイヤです。せめてカブトムシくらいのんびりしてくれていればそれだけでだいぶ印象が違うのに、といつも思います。

問題は転生先の異世界でもその能力が役立つのか、というかそもそもゴキブリが存在するのか、という点ですが、1億年以上前からいるあいつらのふてぶてしさを考えればどの世界であってもたぶん普通にいるでしょう。

一方でうっかりめちゃめちゃ役立ってしまった場合、ゴキブリが出現するたびに呼び出されてしまう可能性もあります。見たくないからこそ助かる能力のはずが、場合によっては能力がなかったときよりもゴキブリと対峙する機会が増えるという、究極のジレンマです。

なので対象を特定せずにすこし条件を変えて、心の底から忌避感を抱く、半径3センチ以内の視認対象を瞬時に他所へと転移する能力にしましょう。

「半径3センチ」は制約として妥当な気がするし、しかもひょっとするとこれなら異能バトルに巻き込まれてもうまく活かすやり方があるかもしれません。

基本的にはゴキブリのためですけど。


A. 心の底から忌避感を抱く、半径3センチ以内の視認対象を瞬時に他所へと転移する能力です。


ちなみにどこへ転移されるのかは、僕もわかりません。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その451につづく!