2014年11月29日土曜日

100円玉に見る粋な職人の存在、もしくはかなしいその不在について


れっきとした仕事上の理由から、百円玉を隅から隅までじっくりと睨め回していたのです。

ヒマだったんでしょと眼光するどく指摘される方もおりましょうが、そんなことはありません。たしかに僕の場合はそれも大いにありうるし、仮にそうだったとしてとくに不都合が生じる話でもないから別にいいっちゃいいんだけれど、実際にはちがいます。なんかむらむらしたとか食べちゃいたいとかそういうフェティッシュな下心でもありません。仮にそうだったからといって憚る理由もないけれど、今回にかぎってはあくまで必要に迫られてのことです。いったい何をどうすると銀色の硬貨を睨め回すようなことになるのかというその必要についてはまた別に一席設けられそうな話でもあるから、ひとまず置いておきましょう。しかしまあ、数十年も生きているといろいろな必要に迫られるものです。

手元にあった5つの百円玉を並べたり、並べ直したり、指でつついたり、ピンと弾いたり、アンニュイなため息をつきながら眼鏡を外して至近距離でためつすがめつしていると、ふとあることに気がつきました。


僕はこれを見て「あれ?」とおもったんだけど、他のと比べたらよりはっきりしたので並べてみましょう。


ポイントはここです。



文字間が妙なことになっています。

字数が同じなのだから、ふつうに考えればそのまま文字を置き換えれば済むはずです。でもそうはなっていません。ひょっとしたらたまたま手に取った1枚だけのイレギュラーかもしれないとおもって手元の5枚を確かめてみると、昭和の年度表記はきちんと整えられています。どうやら「平成」以降の硬貨が(全部ではないにせよ)いささか安定感に欠けるようです。

まさか文字をひとつずつピンセットでつまんで配置しているわけでもないだろうけれど、それにしたって解せません。昔よりも現在のほうがきれいに整っている、というならまだわかります。システムだって50年前に比べたらおそらく一新、すくなくとも改良はされているはずです。でも実際には逆だし、言ってしまえば明らかに硬貨としての完成度が下がっています。そんなことってあるだろうか?

ここからなんとなく察せられるのは、これがピッピッと入力すれば更新される単純かつ機械的な工程ではなく、数十年前と同じく今もなお人の手で直に調整される部分であり、かつその結果は技術に大きく左右されるものらしい、ということです。いくらなんでもたったこれだけの作業に未だ機械化が及んでいないのはちょっと考えにくい気もするけれど、そうでもないと説明がつきません。

もちろん、システムが変わっただけという可能性もあります。昔も今もただ年度を機械に入力するだけなのかもしれない。ただタイプライターだってワープロだって打てばそれなりに整うのに、ぐっと高度に洗練されたはずのシステムが部分的にであれ過去に劣るのだとしたら、それは果たして改良と言えるんだろうか?

また、硬貨の鋳造において毎年更新されるのはこの「年度表記」のみです。ここを書き換えるのにそれほどの時間と労力を要するとはどうしてもおもわれません。仮に文字をピンセットでつまんでゼロから配置し直したとしても、10分あれば事足りるはずです。何もミクロン単位で厳密に調整する必要はないし、おおよその感覚でもそれなりには整います。実際、それでいいとおもう。にもかかわらず結果としてアウトプットがこれなのだから、ふーむと口をへの字にしたくなるのも無理はありますまい。

そうしてなにげなく昭和の百円玉に目を移すと、逆にハッとさせられるのです。今までずっとそれが普通で当たり前だとおもっていたけれど、昭和における硬貨の年度表記とその配置がきちんと整っているのは機械の設定だったからではなく、ひょっとしてアノニマスな職人によるささやかだけれど丁寧な仕事ぶりによるものだったんじゃないだろうか?

平成の百円玉を見るかぎり、可否があるのはおそらく読めるかどうかという視認性のみです。さすがに文字間まで事細かに示したマニュアルがあるわけではないだろうし、とすれば当然チェックもされません。にもかかわらずきちんと美しく整えられているということは、硬貨における年度表記とその配置はこれまでただただ純粋に職人もしくは職員たちが継いできた極小の美意識によってのみ、なされてきたものなのではないか?

「技術を技術たらしめないことこそ技術である」という古いラテン語の格言を思い出します。どちらかといえば意図や技術をいちいちひけらかそうとする悪癖がある僕にとって、この格言はだいじな戒めのひとつとして一応いつも胸に置いているつもりなのだけれど、それをまさか百円玉に改めて教えられようとはまったく、これを胸アツと言わずに何と言いましょう。身近すぎて誰も気に留めないような、これほどちいさな部分にたしかな矜持と美意識がこめられているのだとしたら、そりゃ誰だって居住まいを正さずにはいられないというものじゃありませんか。ヒゲもじゃでガタイのいい職人気質の親父に「これが仕事というものだ」と横っ面をはたかれたような思いです。

やだ……カッコイイ……。

ついていきたい……。


ぜんぶ妄想でしかないかもしれないですけど。

2014年11月25日火曜日

筋肉質でふてぶてしいキウイがミス・ユニバースの栄冠を勝ち取るまでの話 <後編>


【前編のあらすじ】キウイが固い。


それからさらに二日たち、三日たち、五日がたち、おいそろそろ買ってから二週間になるぞという段になってもキウイのやつらは一向に軟化する様子を見せません。相変わらず床に置いて踏みながら足ツボでも刺激するほうがよっぽど役に立ちそうな固さです。そばに置いたリンゴがすでに入れ替わっているというのに、こいつらときたら一体どういうつもりなんだ、と憤慨しかけたところで、ふと頭に豆電球がピカリと光りました。

コンポートにすればいいんじゃね?

ふだん買ってくるキウイはわりとすぐに熟して甘くなるので、そのままぱくぱくやるばかりでコンポートにしたことはありません。そしてコンポートはリンゴもそうですが、酸味の強い果実のほうがより味わいに深みが増すものです。今ここにあるふてぶてしいキウイどもは、酸っぱいのはもちろんのこと、実が固いから煮崩れしないでほどよい食感になりましょう。ひょっとして、いいこと尽くめなんじゃないだろうか?

そう考えてコトコト煮てみたところ



何これ……

む ち ゃ く ち ゃ 美 味 い !

たとえるならそれは、ごつごつとして愛想のない原石がカットされて宝石に様変わりしたような驚きです。森の奥でオオカミに育てられて厳しい生存競争を生き抜いてきたワイルドな少女が、ちょっと身ぎれいにしただけでミス・ユニバースの栄冠を勝ち取ったかのような、にわかには信じられない急転直下ぶりです。何なら「全米が泣いた」と付け加えてもいいでしょう。よもやこれほど劇的なシンデレラストーリーを目の当たりにすることになろうとは、さすがに想像できませなんだ。

その味わいがまた夢のようです。トゲトゲとして素っ気ない態度は見違えるほどまるくなり、見た目も食感も果実本来のみずみずしさに溢れています。ひとくち噛めばぷちぷちと極小の種が快くはじけ、とろりとしたたる甘みの奥からは洗練された酸味が色香のごとくたちのぼり、飲み下せばその余韻がチャペルの鐘よろしくいつまでものどの奥でおごそかに響きわたります。こんな女性にならみずから進んでこの身を捧げたいし、よろこんで手のひらの上で躍らされましょう。何よりあれほど手に負えなかった乱暴な酸味が、今やえも言われぬ魅力の欠くべからざるひとつとして可憐に微笑みかけているのだから、ぽかんとだらしなく口をあけて放心しないではいられません。なぜ初めからこうしておかなかったのか、一週間前にひとつふたつ無駄にぼりぼりと噛み砕いてしまったことが心の底から悔やまれます。ふたつあればそれだけ長く夢に浸ることができたのに、できることなら今すぐ時間を遡ってすっぱい顔で忌々しそうにぼりぼりやっている自分の頭を鈍器で殴りつけてやりたい。熨斗をつけて返してやると息巻いていたはずのキウイをもっと買っておけばよかったと嘆くことになるなんて、忸怩たる思いもいいところです。キウイにいったい何が起きたというのだ。

一週間前までは「まあいいや、どのみちもう買う機会もないだろうし」としぶしぶ自分を納得させていたのだけれど、こうなると俄然話が変わってきます。何となればこの蠱惑のコンポートを再び味わうためには、あのふてぶてしい筋肉質のキウイを今一度手に入れなくてはならないのです。

言うまでもなくスーパーにあるキウイでは用を成しません。どれを手に取ってもほどよく熟れているし、コンポートには繊細すぎます。

何といっても絶対に必要かつ不可欠なのはあの暴力的な酸味です。野趣にあふれてどこまでも傍若無人にふるまい、理不尽にして冷酷、かつサディスティックなあの酸味です。同じところで買えばいいじゃないかとおもわれましょうが、そうおいそれと通える距離ではありません。交通費をふくめるとかかるコストはキウイそれ自体の10倍にもふくれあがります。

いや、その価値はある。たしかにあります。しかしいつも必ずそこにあるとはかぎらない以上、賭けにも近いリスクを覚悟せねばなりません。行くだけ行ってきもちよく手ぶらで帰ることができるほど、僕の心はつよくないのです。

こうして恋にも似たやるせなさを抱えながら、また一週間が過ぎようとしています。果実には旬というものがあるし、もう一度赴くなら今を置いてないとわかっていながら、どうしてもその一歩を踏み出せない情けなさにうなだれる毎日です。会いたい。でも会えない。そのきもちが今ならよくわかります。町でうっかり西野カナの曲を耳にしたら、はらはらと涙をこぼしてしまうかもしれません。


2014年11月21日金曜日

筋肉質でふてぶてしいキウイがミス・ユニバースの栄冠を勝ち取るまでの話 <前編>



山ほどあるキウイをリンゴといっしょに袋に詰めておいたのです。

リンゴにはエチレンガスをもやもやと放出する特性があります。くわしいことは僕もよく知らないし、あまり追求しすぎるとそのうちなぜエチレンガスでなくてはいけないのか、アスパラガスではダメなのか、LPガスはどうだとか、あげく人は何のために生まれて何ゆえ生きることを強いられるのかといったところまで考えさせられかねないのでうっちゃっておきますが、まあとにかくもやもやと放出することになっています。目に見えるわけではないから、もやもやはイメージです。シューシューかもしれない。ジョジョなら「ゴゴゴゴ」と描かれるでしょう。まあ、なんでもよろしい。

エチレンは植物の生長に関わるホルモンのひとつです。発芽を抑制したり、果実の熟成を促す作用があります。ストップなのかゴーなのかはっきりしない優柔不断な挙動にはひとこと言ってやりたいきもちもありますが、それはとりあえず問題ではありません。ここで大事なのは、ストップとゴーならゴーのほうです。リンゴが果実の熟成を促すガスを放出するということは、近くに置かれた別の果実も当然その影響を被ることになります。

とくにバナナは顕著です。バナナをリンゴのそばに置いておくとすぐに黒くなることについては知識よりむしろ経験則から、僕も宣誓の上「本当です」と申し上げましょう。あいつらだけは一緒にしてはいけません。何しろ人間で言ったらみるみる老化が進んであっという間にセカンドライフに突入するような話です。老いるのは別にかまわないけど、早送りされそうになったらそれはやっぱりちょっと待ってくれとおもう。

バナナほどではないにせよ、キウイも同じです。まだ熟れてない固いキウイは、リンゴと一緒にしておくとやわらかくなります。冒頭にセットで袋詰めにしたと書いたのはつまり、そういうわけです。

スーパーで見かける有名なゼスプリのキウイとは全然ちがいます。サルがうろうろするほど長閑な山で買ってきた、どちらかといえば野生に近いキウイです。サイズも小ぶりだし、育てたというよりは生ったからもいだような筋肉質のキウイです。よく言えば引きしまっているけれど、わるく言えば固い。とにかく固い。お手玉にちょうどいいばかりか、途中で床に落としても平気な顔をしています。このまま大きくしたら後頭部をかち割るための鈍器として警察に押収されそうな固さです。あらぬ疑いをかけられても困るし、とっととやわらかくなってもらわなくてはなりません。

それでまあ、リンゴといっしょにして一週間くらいたったころ、そろそろいいかしらとおもって皮を剥いてみたのです。

ところが剥いているそばから案の定「早まった」と後悔させられました。熟れていればするすると音もなく剥ける皮が、「ぞりぞりぞり」という聴いたことのない不審な音を立てるのだから、剥いているのか剥いでいるのかわかったものではありません。なぜ果物を食べるのにこんな猟奇的なきもちにさせられなければいけないのか、ちっともわからない。

背筋に冷たいものをかんじながらようやく剥き終えて、実に包丁を入れようとすればみしっと強い抵抗が伝わってきます。ここまで来てやめるわけにもいかないから腹を据えて力を入れると、あろうことか「ぼきん」と鳴るのです。これから食わんとするフルーツの出す音がそれか?ちゃんと熟れていればしずかになめらかにまっぷたつなのに、なぜよりにもよって骨か何かを折ったようなにぶい音を耳にしているのか?これは食えるのか?食うとしたら誰が食うんだ?他に誰かいないのか?なぜ誰もいないんだ?

といってそのまま捨てるのも忍びないし、据えたはずの腹をもう一度据え直してポイと口に放りこんだあとの絶望はまったく、言い表すことができません。キウイを食べてぼりぼりと噛み砕いたのは初めてです。あんな食感は他にたとえようもない気がする。

何よりすっぱい。とにかくすっぱい。何が困ると言って、僕はすっぱいものにすこぶる弱いのです。苦いものには人の10倍くらい耐性がある代わりに、すっぱいものには人の1/10くらいしか耐性がありません。キライではないし、ちょっと過敏なだけだからまあ猫舌みたいなものだけれど、ふつうの人には気にならない酸味でも、僕の場合はこうなります。↓

 ((((>×<))))

にもかかわらずこのキウイがレモンに匹敵するすっぱさなのだから、筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことです。失神してもおかしくありません。何から何までてんで話にならないじゃないか。ちょっとフルーツでも、とおもっただけなのに、こんな罰ゲームみたいな目に遭わされて卒倒しかけるなんてどう考えても釈然としない。

そういうわけでキウイはまたしばらく放置されることになりました。


<後編につづく>


次回予告:熟れるか熟れないかで言ったら結局キウイは最後まで熟れません。ところが……

2014年11月18日火曜日

冷めた家庭に火を点す四葉のクローバーとしての告知


ライブの案件が持ち上がるたび、ドッジボールで最後に残ったプレイヤーのごとく華麗に話を避けてきた、仮にミュージシャンと認定するならその風下にも置けない男による、それはそれは珍しいライブアクトのお知らせです。

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2014年12月07日(日) 
仏CORESHOW外伝 @渋谷family
open 17:00 start 17:45
charge ¥1,000 ※ドリンク別途

PICK UP LIVE:
タケウチカズタケ

LIVE:
STERUSS
小林大吾
toto
なのるなもない(降神)
imaginion
DEEPSAWER

DJ:
cb-tek(LEF!!!CREW!!!)
antic
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いろいろあって1,000円です。出演の顔ぶれからするとどう考えても入力ミスみたいな破格ですが「多くの人に気軽に来てほしいから、これでよいのです」と主催のSTERUSSベラマツくんが電話の向こうで鼻息を荒くしておりました。太っ腹すぎてぐうの音も出ません。おもわず絶句して「これだけ煌々たるラインナップなら僕出なくてもよくないですか」と申し出るのを忘れたくらいです。忘れたので出ます。

タケウチカズタケとはわりとしょっちゅう連絡を取り合っているものの、共演となるとたしか数年ぶりになるはずです。共演と言っても最後のそれはDJとして好きなレコードを回しに行っただけだから、ライブとなるといったいいつ以来になるのかまったく記憶にありません。したがってタケウチカズタケとのセッションによる「処方箋/sounds like a lovesong」をお目にかける機会としてはライブよりもさらに輪をかけて希有と言えましょう。その確率の低さたるや、まるで妻ともう一度やり直すことを決意した夫が四葉のクローバーを見つけて家に帰ったら、妻も同じきもちで四葉のクローバーを持ち帰っていた……かのような……

(´;д;`)ブワッ

(珍しいことを強調しようとてきとうに持ち出した例えが思いのほかいい話で涙腺を刺激されています)

早めの時間とはいえ、クラブイベントであることにためらいを覚える方もおりましょう。ひとりではちょっと行きづらいとか、お酒がのめないとか、クラブ行ったことないし場違いだったらどうしようと心細くおもわれるかもしれません。

大丈夫です。僕もそんな思いにとらわれることはしょっちゅうあります。がしっと固い握手をして肩を抱き合うような仲間がいるわけでもないし、おまけに下戸です。場違いというなら僕ほど毎回きまりの悪さを抱えながらひとり所在なさげにぽつんと佇んでいる男もそうはおりますまい。もしそれでもそわそわして落ち着かないときは、同じようにそわそわしている僕をみつけてそのそばにいればよいのです。あとはジンジャーエールのグラスでも手にからんからんと鳴らして、フロアを満たす音楽に身を委ねていれば、極上のエンターテイナーたちがいやでも笑顔にしてくれます。心配いりません。

僕個人について言えば、2014年はもちろん、下手をすると今世紀最後となる可能性もあながち否定できない機会です。ぜひぜひ、心安くおいでませ。


心温まるベラマツくん直筆フライヤー

2014年11月15日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その194


渡る世間はウニばかりさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 紅白歌合戦を観ながら応募をしているのですが、NHKのアナウンサーでも『きゃりーぱみゅぱみゅ』は言いづらそうでした。大吾さんはいつも淀みなくポエトリーリーディングをなさっていますが、どうやったら『きゃりーぱみゅぱみゅ』をすんなりと言えるようになりますか?


まだ始まっていない紅白歌合戦がなぜここに出てくるのかはさておき、大まじめにお答えするとじつはこれ、コツがあります。かつて小一時間みゅーみゅー言いながらひとり部屋で練習してみたこの僕が言うのだから間違いありません。いやまったく、人生どこで何が役に立つかわからないものです。他にも「覚えてやがれ!」とか「このあばずれ!」みたいな生きてる間に一度は言ってみたいせりふの練習を陰でしてたりするんだけど、役に立つ日はくるだろうか?

言うまでもなくポイントとなるのは「みゅ」です。その前にある「ぱ」が音の連なりとして若干ハードルを高めていることは否めませんが、「みゅ」自体を攻略できればそれほど気になりません。人に見られたらその場で首をくくりたくなるほどハードかつナイーブかつ下手すると黒歴史になりかねない秘密の特訓を経た今しみじみとおもうのは、これが「みゃ」「みょ」でなくて本当によかった、ということです。いったん乗り越えてしまえば「みゅ」がこの2つよりもはるかに組み伏せやすい発音であることがきっとおわかりになるでしょう。

鍵は「くちびるの形」にあります。言いづらいのは、くちびるが音の求める形になっていないからです。嫌がる人にむりやりキスをせがむような格好で、くちびるを思い切り前に突き出してみましょう。その上で「みゅ」と発音してみてください。きれいな音が意外なほどつるっと出てきませんか?逆にくちびるを引っこめたままでは、ひとつの音として溶け合わずに「み」「ゆ」をむりやりくっつけたような発音になるはずです。

「みゅ」それ自体がクリアできたら、次はその応用、つまり「他の音との連結」です。「ぱ」という破裂音のために口をまるく開いた状態から、強引にキスをせがむくちびるへとすばやく移行できるよう訓練を重ねましょう。ここでもうひとつちょっとしたポイントを申し添えておくなら、「ぱ」ではなく「みゅ」、というのはつまり「ここまでしてるんだから、恥かかせないでよね」的なくちびるの形を優先することです。むしろ「ぱ」はパセリのようなかるい付け合わせの意識でちょうどいいかもしれません。どうせ誰も見ていないのだからうっかり「ジュテーム」と口走ってしまうくらい熱烈な求愛モードで望むのが早道です。じっさいにこの姿勢で臨んだ僕が言うのだから間違いありません。不惑を間近に控えた大人のありようとしては間違っている可能性がなきにしもあらずですが、それについては誰もが「ぱみゅぱみゅ」と淀みなく発音できるようになったのち、またあらためて審問の機会を設けるということでここはひとつ矛をお収めいただきたい。

ここまでくれば、ゴールはもう目の前です。訓練次第では何かに驚いたようなときでも「わっ」より先に「ぱみゅ」が口を突いて出るでしょう。あきらめずにつづけさえすれば、突き出したくちびるの先で意中の相手とちゅっとなることもあり得ます。さっきからそっちの方面ばかり気にしているように見えますが、あってもなくてもいいようなモチベーションを維持するためにはなりふりかまわない捨て身のスタンスも必要です。臆せずトライしてください。


A: 発音できます、もちろん、あなたにも。


僕としてはこれをお読みくださったみなさまが列島のあちこちで人目を忍びながら、同時多発的に口をとがらせる光景を夢想するだけで、おなかいっぱいです。ひとりでも多くの人が「ぱみゅぱみゅ」とスマートに発音できますように。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その195につづく!


2014年11月11日火曜日

個人の個人によるこぢんまりとした解散について、もうすこし

【前回までのあらすじ】100%本末転倒な目的のためにお近づきとなった4人の寄せ集めはすったもんだの末「大海原サチとミラクルサッチモズ」と名付けたグループを結成、いよいよ解散に向けての第一歩を踏み出した。

※本気にしてはいけません。


独り身で解散するのはことほどさようにハードルが高いという話を前回しましたけれども、ふと前にもこんな話をしたような気がしてぺらぺらと過去のアーカイブをめくってみたところ、案の定これと寸分違わず同じことをここで滔々と述べていたのです。実を申せば本日のエントリは前回の考察に対する追記というか補足というか、もうすこし押し広げていそいそと論ずる予定だっただけに、ハリセンで鼻っ柱をスパンと引っぱたかれたような塩梅で、われながら二の句が継げません。とっくの昔に済んでたなんていったいどうなってるんだ。すっかり忘れていた。しかもわりといい具合に書いてあるじゃないか。さすがに話の筋道は書こうとしていたそれとはだいぶ違っていたけれど、それにしたって3年も前のことなのだから、何をか言わんやです。穴があったら入ってその上に墓石を立てたい。

6つに切り分けて野良犬の晩ごはんにどうぞ

さらにその半年前には絶版となった詩集が解散の意を表して僕にしこたま怒られています。

詩の一編が真夜中にうちを訪ねてきた話

これを首尾一貫していてみごとにブレがないとみるか、気の毒なほど成長していないとみるかは意見が分かれそうなところですが、すくなくともこれがその場しのぎの思いつきではなく、本当に何年も前からちまちま気にかけていた事案であることだけははっきり証明されたと言ってよいでしょう。だから何だと一刀両断されるのはもちろん覚悟の上です。僕としてもうるさいうるさい文句あるのかこのすっとこどっこいと逆ギレする用意はできています。

しかしこのぶんだと数年後にはまたぜんぶ忘れて「ひとりだと解散できないんだよね」としたり顔で言い出しかねないし、正直じぶんに動揺を隠せません。一度や二度ならまだしも、三度四度となるといささか剣呑です。僕が聴き手でも苦笑を禁じ得ないものがあります。お前まじでもっと他に考えることはないのかと首を絞めながら問いたい。だいたいこれはアレだ、言ってしまえば体のよいぼっちアピールではないのか?

まあまあ、そうつんけんしなくたっていいじゃありませんか、今さらぼっちがどうのという齢でもありますまいよ、落ち着きなさいな、おひとついかが?と特売で山のように買ってきた好物の洋梨をもぐもぐやりながらじぶんでじぶんを執り成すくらいには僕も大人になったわけですが、それにしてもこう、据わりがわるい。

あるいはここらが潮時なのかもしれません。引退の2文字が頭をよぎります。スポーツ選手が体力の限界を理由に一線を退くようなものです。似たような話ばかりドヤ顔で語る老いらくの姿をいつまでも晒しつづけてこの先どうなりましょう。象は死期を悟るとひとり静かに群れを離れ、墓場と呼ばれる代々の土地に赴いてその身をひっそり横たえると言います。真偽はさておきその高い精神性には学ぶところがありそうです。いさぎよく後進に道をゆずり、身辺の整理をそつなく済ませたのち、あとを濁さず飛ぶ鳥に倣ってついと行方を晦ますなら、それでなくともあるかなきかの晩節を汚さず保つことにもつながります。

問題は道をゆずる後進など影も形も見当たらないこと、引退するような表舞台になどそもそも立っていないことですが、この際それは言いっこなしです。誰もいないというのなら、僕が僕自身を後進として指名する奥の手もあります。よろしくたのむと僕が僕に言い残し、あとはまかせろと僕が僕に請け合えばよいのです。独り相撲の本領ここに極まれりと大手を振って申せましょう。

あれやこれやの思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡ります。みなさまにはこれまで長らくご愛顧いただき、まこと感謝に堪えません。今まで本当にありがとう。明日からは僕の代わりに僕が僕の役目を相務めます。僕のことだからきっと僕以上にその責務を果たしてくれることでしょう。心残りはありません。あるとすれば「結局なにが言いたかったんだっけ?」ということくらいです。しかしまあそれは今にかぎったことでもないし、うっちゃっておくといたしましょう。

未練になってもいけません。ここは心を鬼にして、すっぱりと朗らかにお別れです。

ごきげんよう、さようなら!また数日後!

2014年11月8日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その193


未確認飛行ブッダさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 毎年やろうとしてるだけで結局やらないで終わること、は何かありますか?


CDを出した人になってからこっち、ずっとやってみたいとおもっているのは「解散」です。かれこれもう10年くらい毎年のようにやろうやろうとおもいながら、気づけばはや霜月の今年も結局やらずに終わってしまいそうな気配がぷんぷんします。以前解散するための計画を人知れず立ててみたことがあるんだけれど、お察しのとおり人知れず頓挫して、それきりです。あのとき挫けずにちゃんと初志を貫徹していれば今ごろとっくに解散していたはずなのに、惜しいことをしたとおもう。

条件さえ整っていれば、それこそ今すぐにでもできるようなことです。でも僕の場合その条件ひとつひとつが大きなハードルとして目の前にいくつも立ちはだかっています。何と言ってもまず、人を探さなくてはなりません。解散にはすくなくとも2名以上の人員が必要です。必ずしも人である必要はないかもしれませんが、できれば話し合いによる苦渋の決断を演出したいし、なるべく実感を伴うかたちで惜しんでもらうためにはやはり人であるほうがよいでしょう。誰にも惜しまれない解散は解散と言うよりむしろ単なる物別れです。それでは元も子もありません。

物心ついたときから協調性の欠如をさんざん指摘されてきた僕にとってはこの時点でもすでに相当なハードルです。じっさい一人を二人にするのは、二人を三人にするよりはるかにむずかしい。また仮にクリアしたとしても当然、その次が待ち受けています。解散を解散として認めてもらうためには、それを惜しんでくれる人がそれなりにいなくてはならないのです。幅広くとまでは言わないにしても、ある程度はチームとしての足跡や実績を周囲に印象づけておく必要があります。

「どうする?」
「どうするって、何が?」
「活動」
「何の活動?」
「それを相談してるんだ」
「バンドじゃなかったの?」
「バンドいいね」
「音楽ってこと?」
「わたしギターひけるよ」
「あ、オレも」
「オレも」
「オレも」
「ギターばっかりじゃねえか」
「誰か歌えよ」
「歌はまずい」
「おれ音痴」
「みんなで歌えばいい」
「ハモれる?」
「ユニゾンでいいよ」
「全員ギター弾きながら歌うの?」
「斬新じゃん」
「曲は?」
「え?」
「誰が曲書く?」
「曲は書けないな……」
「カバーでいいじゃん」
「コピーバンドだ」
「よし、何をコピーしよう」
「Earth, Wind & Fire とかどう?」
「ギター4本で?」
「じゃおれギターやめて野菜切るよ」
「何で?」
「まな板と包丁でトントントンて」
「パーカッションてやつだな」
「野菜いるのか?」
「まな板と包丁で野菜以外に何を切るんだ」
「肉があるだろ」
「魚もあるぞ」
「じゃわたし買い出しいく」
「オレ火おこすよ」
「おれ食う」
「オレも」
「オレも」
「ずるい、わたしも!」
「何食う?」
「カレー?」
「まあ、無難なとこだな」
「肉と魚どっちも入れちゃう?」
「そんな豪勢なの食べたことない」
「魚は焼こうぜ」
「あ、ハイハイハイ!BBQしたい!」
「ビービーキュー?」
「バーベキューだろ」
「でもあんまりバンドっぽくないな」
「それオレも言おうとおもってた」
「え、わたしも」
「じつはおれも」
「ヒーローはどう?戦隊ものとか」
「ウーヤーターみたいな?」
「トッキュウジャーだろ」
「1文字も合ってない」
「ていうかバンドは?」
「ギターで戦うヒーローにしよう」
「それ採用」
「いいねいいね」
「ヒーローって具体的に何するの」
「戦うんだよ」
「誰と?」
「悪に決まってるだろ」
「どこにいるんだ」
「そりゃ探してくるしか……」
「また人を探すのか……」
「4人集めるのだって大変だったのに……」
「ヒーローって解散するっけ?」
「するだろ」
「しなくない?」
「しないな……」
「最終回はあるけど」
「別にしてもいいんじゃないの」
「何を?」
「解散」
「無責任て叩かれそう」
「炎上だな」
「正義もへったくれもない」
「正義はまあどうでもいいんだ」
「でも嫌われちゃ意味ないぜ」
「後釜を見つけてくればいい」
「もう人を探すのはイヤだって言ったろ」
「それに解散よりそっちが目立つ」
「ダメだ。それはダメだ」
「解散が目的なんだから」
「ままならねえなあ」
「解散がこんなにむずかしいとおもわなかった」
「みんなどうしてるんだろ」
「とりあえずチーム名を考えてみたら?」
「それだ!」
「ナイスアイデア」
「冴えてるな」
『大海原サチとミラクルサッチモズ』はどう?」
「なんでお前がリーダーなんだ」
「オレは別にいいけど」
「おれもそれでいいよ」
「じゃ『加古山ブリタとミラクルサッチモズ』でもいいだろ」
「冴えない」
「ダサい」
「イモっぽい」
「紅一点のほうがいい」
「わかった、わかったよ。イモとか言うな」
「愛のムチだ」
「心にミミズ腫れができた」
「決まりだな」
「通院が?」
「チーム名がだよ」
「いよいよだな」
「うん、いよいよだ」
「じゃ、どうする?」
「どうするって、何が」
「活動」
「何の活動?」
「それを相談してるんだ」


A: 「解散」ですね。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その194につづく!

2014年11月5日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その192

近所の店に昔からひっそりとあってあまり気づかれていない革命的なラーメン


オパキャマラドパキャマラドパオパオパンパンパンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 大吾さんが詩を書く時、ひらがなと漢字をどうやって使い分けているのですか?


じつはこれ、質問箱にかぎらずときどき訊かれる質問です。前回のコメント欄にもありましたね。もともと次にお答えする心づもりだったので、脳内をハッキングされているかのようなタイミングにドキリとさせられつつ、サクッと軽い歯ざわりでお答えしましょう。

たしかに僕はひらがなと漢字をかなり意図的に使い分けています。詩にかぎらず、言葉を文として紡ぐときはいつもそうです。メールにしてもそうだから、癖というか習いみたいなものですね。たとえば「宜しくお願い致します」だったらまず十中八九「よろしくお願いいたします」でエンターキーを叩いています。変換後にほどくこともあれば、変換せずにそのまま確定することもある。そういえば「漢字に置き換えられるけどしない」ことを「ほどく」とか「ひらく」と呼んでいることにいま気がつきました。変換を前提にしたこの言い方からするとたぶん、ワープロ(!)を手にした25年くらい前からの習慣なのではないかしら。

ご存じない若人のために一言添えておくと、ワープロというのはテキストの編集に特化した機器のことです。今おもえばタイプライターと大差ないけど、それにしても隔世の感がハンパないな。

話を戻しましょう。「ひらく」といっても絶対ではありません。このときはこうする、という明確なルール付けがあるわけでもありません。表記としてひらがなが好きなものはひらがな、漢字でなくとも混乱なく伝わるものは変換しない、くらいの緩さです。同じ単語でもひらくときとひらかないときがあります。

どちらかといえば視覚的な問題かもしれません。ひらがなばかりだとしまりがないし、漢字が多くても窮屈です。日本語は音を表す表音文字(かな)とそれ自体が意味を成す表語文字(漢字)という、2つの異なる系統を同時に駆使する世界でも珍しい言語のひとつなので、それぞれの良さをいいとこ取りしながら、やわらかなひらがなと凛々しい漢字のほどよいブレンドを常に探っているようなところがあります。ちょうど豆大福におけるいちばん美味しい豆の比率を考えるようなものですね。

ブレンドの例をひとつ挙げるなら
A)寝癖が酷い
B)ねぐせがひどい
C)寝ぐせがひどい
という3つのパターンがあるとき、パッと見の視認性で(C)を選ぶ、ということです。

もうちょっと言うと僕はここにカタカナを加えて

D)寝グセがひどい

と表記しているような気がします。

しかしまあ、実際には「ねむい」と「眠い」だったらどっちでもいいけど「ねむい」のほうが可愛いわねとかだし、深くなんか考えてないですよ、ぜんぜん。鼻歌まじりでざっくりしたもんです。雰囲気、雰囲気。


A: おおむね雰囲気です。




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その193につづく!

2014年11月1日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その191

幸せなら手をハタ坊さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: とにかく自信が持てません。自信が持てないことで過剰に卑下してさらに自信を擦り減らしてばかりです。そもそも自信とはなんなのでしょう。自信を持てるようになるとまではいかなくても、卑下をやめるコツなどありますでしょうか。


おきもち、察するに余りあります。かくいう僕もそうポジティブ全開なほうではないのであまり大きなことは言えませんが、徘徊するノラ猫の後をぼんやり追いながら考えたことをすこしばかり書きつらねてみましょう。

経験上、一度はまってしまった卑下の沼から抜け出すのはまったく、簡単なことではありません。疑心暗鬼になるし、良くない結果でも当然な気がするし、くよくよするなと言われてもくよくよしてしまいます。というか言われてできるくらいなら初めからくよくよしたりなんかしないのです。イヤなのに変われない、変われないからなおのことイヤになる、という負の心理的スパイラルは、だから痛いほどよくわかります。そしてできればこれはあまり認めたくないことですが、人はそうすぐには変わることができません。変われないというよりはコントロールできないといったほうが近いかもしれないですね。

この厄介なスパイラルを僕個人の過去の反省にもとづいてときほぐしてみると、こうなります。

卑下とは比較によって自らをこき下ろす心の動きです。じぶんとは異なる属性を備えたべつの誰かがいて、初めてそこに卑下の余地が生まれます。世界にじぶんひとりしかいないような状況、もしくはじぶんとまったく同じ人間しか存在しないような状況で、この心理は表れません。劣っていると感じるためには、優っている対象が確実に必要です。

ではこの自らを天秤にかける比較の心理において、精神の安定が保たれるときとはいったいどんなときでしょう?

言うまでもなくじぶんと同等、あるいはじぶんより劣る相手を認めたときです。

そんなことはあり得ない、とおそらく卑下するときにはそうお考えになりましょう。しかしここで重要なのは現実にあり得るかどうかではありません。劣等のために自らをこき下ろす姿勢の延長線上には、優越のために人を見下す姿勢が同じように並んでいる、という点です。

すくなくとも僕はこれに気づいたとき絶句させられました。人を見下したりなんかしない!とおもいたいけれども、じぶんをこき下ろしておきながら他人をこき下ろす可能性がゼロだなんて、そんな都合のよい考えは通用するはずがありません。このさい思い切って言ってしまうなら、卑下をつづける以上、いつか誰かを見下す危険をつねに孕むことになるのです。もちろんそうはならないかもしれない。でもそうなるかもしれない。その可能性だけでも、二の足を踏む理由としては十分だと僕はおもいます。みずから痛みを知る人であればあるほど、このことのもつ大きな意味がよくわかるはずです。それでもまだ卑下をつづける気になるだろうか?その姿勢がいつか誰かを傷つけることになるとしても?

要は優劣どちらに転んだところで、他人と比べることには何ひとつ甲斐がない、ということです。何ひとつ。

そしてもしここでギクリとしてもらえるなら、それだけですでに信頼に足るやさしさをお持ちであることがわかります。痛みや苦しみを知るがゆえのやさしさほど、信頼に足るものはそうありません。これが「自信」にならなくて、他の何になりましょう?これくらいじゃ自信になんてならないよ、と首を横に振られるかもしれませんが、だとするとこうはっきり申し上げている僕の信頼もいっしょにポイと否定されることになります。でも幸せなら手をハタ坊さんのことです。おそらくそんなつれないことはなさりますまい。

自信とは「じぶんに対する信頼」であり、プラスではなく単なるゼロの状態である、と現在の僕は考えます。それは身につけたり、手に入れたりするものではありません。他の人にはない何かを手にすることで得られる自信もありますが、それはあくまでオプションです。他人はともかくじぶんに対しての信頼はできるできないではなく、するかしないかの二択しかありません。じぶんのことなのだから理由も根拠もいりません。するかしないかどちらかを選べと言われたら、するしかないはずです。

先にふれた幸せなら手をハタ坊さんの信頼に足るやさしさとその得難さを、ここであらためて申し上げましょう。じぶんをじぶん足らしめているところのものすべてと、今いちど誠実に向き合わなくてはなりません。目につくダークサイドだけ抜き出してションボリするのはじぶんに対してアンフェアというものです。短所ばかりを贔屓にしてよい理由など、どこにもありはしません。僕は目につかないからと言って無視され、虐げられ、なかったことにされる長所の味方です。数えきれないほどの長所がいまもこうして迫害されつづけているかとおもうと、気が遠くなります。なりませんか?

人と比べれば視線は自然と外に向きます。視線が外に向けば、宝が足もとに転がっていても気づくことはできません。幸せなら手をハタ坊さんの王国は幸せなら手をハタ坊さんの内にあります。望遠鏡を覗いたところで目に入るのは他所の王国です。生まれたときから王国に暮らす善良な長所たちを救うことができるのはその君主たるご自身の他にないという事実を、今こそ思い出してください。王国が掲げる世界でひとつの旗の下、民がみな待ちわびています。なんかもう、書いてて泣けてきましたよ僕は。王のご帰還だ!王のご帰還だ!待ってろ長所!今行くぞ! (ノД`)・゜・。


A: 虐げられた長所のために、王としての自覚と誇りを持ちましょう。




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その192につづく!