2014年11月1日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その191

幸せなら手をハタ坊さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: とにかく自信が持てません。自信が持てないことで過剰に卑下してさらに自信を擦り減らしてばかりです。そもそも自信とはなんなのでしょう。自信を持てるようになるとまではいかなくても、卑下をやめるコツなどありますでしょうか。


おきもち、察するに余りあります。かくいう僕もそうポジティブ全開なほうではないのであまり大きなことは言えませんが、徘徊するノラ猫の後をぼんやり追いながら考えたことをすこしばかり書きつらねてみましょう。

経験上、一度はまってしまった卑下の沼から抜け出すのはまったく、簡単なことではありません。疑心暗鬼になるし、良くない結果でも当然な気がするし、くよくよするなと言われてもくよくよしてしまいます。というか言われてできるくらいなら初めからくよくよしたりなんかしないのです。イヤなのに変われない、変われないからなおのことイヤになる、という負の心理的スパイラルは、だから痛いほどよくわかります。そしてできればこれはあまり認めたくないことですが、人はそうすぐには変わることができません。変われないというよりはコントロールできないといったほうが近いかもしれないですね。

この厄介なスパイラルを僕個人の過去の反省にもとづいてときほぐしてみると、こうなります。

卑下とは比較によって自らをこき下ろす心の動きです。じぶんとは異なる属性を備えたべつの誰かがいて、初めてそこに卑下の余地が生まれます。世界にじぶんひとりしかいないような状況、もしくはじぶんとまったく同じ人間しか存在しないような状況で、この心理は表れません。劣っていると感じるためには、優っている対象が確実に必要です。

ではこの自らを天秤にかける比較の心理において、精神の安定が保たれるときとはいったいどんなときでしょう?

言うまでもなくじぶんと同等、あるいはじぶんより劣る相手を認めたときです。

そんなことはあり得ない、とおそらく卑下するときにはそうお考えになりましょう。しかしここで重要なのは現実にあり得るかどうかではありません。劣等のために自らをこき下ろす姿勢の延長線上には、優越のために人を見下す姿勢が同じように並んでいる、という点です。

すくなくとも僕はこれに気づいたとき絶句させられました。人を見下したりなんかしない!とおもいたいけれども、じぶんをこき下ろしておきながら他人をこき下ろす可能性がゼロだなんて、そんな都合のよい考えは通用するはずがありません。このさい思い切って言ってしまうなら、卑下をつづける以上、いつか誰かを見下す危険をつねに孕むことになるのです。もちろんそうはならないかもしれない。でもそうなるかもしれない。その可能性だけでも、二の足を踏む理由としては十分だと僕はおもいます。みずから痛みを知る人であればあるほど、このことのもつ大きな意味がよくわかるはずです。それでもまだ卑下をつづける気になるだろうか?その姿勢がいつか誰かを傷つけることになるとしても?

要は優劣どちらに転んだところで、他人と比べることには何ひとつ甲斐がない、ということです。何ひとつ。

そしてもしここでギクリとしてもらえるなら、それだけですでに信頼に足るやさしさをお持ちであることがわかります。痛みや苦しみを知るがゆえのやさしさほど、信頼に足るものはそうありません。これが「自信」にならなくて、他の何になりましょう?これくらいじゃ自信になんてならないよ、と首を横に振られるかもしれませんが、だとするとこうはっきり申し上げている僕の信頼もいっしょにポイと否定されることになります。でも幸せなら手をハタ坊さんのことです。おそらくそんなつれないことはなさりますまい。

自信とは「じぶんに対する信頼」であり、プラスではなく単なるゼロの状態である、と現在の僕は考えます。それは身につけたり、手に入れたりするものではありません。他の人にはない何かを手にすることで得られる自信もありますが、それはあくまでオプションです。他人はともかくじぶんに対しての信頼はできるできないではなく、するかしないかの二択しかありません。じぶんのことなのだから理由も根拠もいりません。するかしないかどちらかを選べと言われたら、するしかないはずです。

先にふれた幸せなら手をハタ坊さんの信頼に足るやさしさとその得難さを、ここであらためて申し上げましょう。じぶんをじぶん足らしめているところのものすべてと、今いちど誠実に向き合わなくてはなりません。目につくダークサイドだけ抜き出してションボリするのはじぶんに対してアンフェアというものです。短所ばかりを贔屓にしてよい理由など、どこにもありはしません。僕は目につかないからと言って無視され、虐げられ、なかったことにされる長所の味方です。数えきれないほどの長所がいまもこうして迫害されつづけているかとおもうと、気が遠くなります。なりませんか?

人と比べれば視線は自然と外に向きます。視線が外に向けば、宝が足もとに転がっていても気づくことはできません。幸せなら手をハタ坊さんの王国は幸せなら手をハタ坊さんの内にあります。望遠鏡を覗いたところで目に入るのは他所の王国です。生まれたときから王国に暮らす善良な長所たちを救うことができるのはその君主たるご自身の他にないという事実を、今こそ思い出してください。王国が掲げる世界でひとつの旗の下、民がみな待ちわびています。なんかもう、書いてて泣けてきましたよ僕は。王のご帰還だ!王のご帰還だ!待ってろ長所!今行くぞ! (ノД`)・゜・。


A: 虐げられた長所のために、王としての自覚と誇りを持ちましょう。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その192につづく!

3 件のコメント:

  1. 素晴らしい文章に、読んでて私も泣きそうになりました。ちなみに「自分」という漢字を使わずに、「じぶん」と平仮名で書いたのにはどんな意味があるのですか?

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  2. > チムチムチェリーさん

    次にお答えしようと用意していた質問が
    まさにこのことだったのでびっくりしました。
    といっても納得できる意味があるかといえば
    じつはそんなにないのでアレですが。

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  3. 巻きのり子2014年11月10日 2:44

    ハッとさせられました。
    ありがとです。

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