2021年1月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その307



あけまして、と例によって遅ればせでのんびり始めるつもりだったのに、思いのほかめでたくありません。

何しろ史上に例を見ない二度目の緊急事態です。僕だけだったらそもそも人生が慢性的な緊急事態でむしろ便秘みたいなものだし取り立ててどうという話でもないですが、一都三県に対して首相がそう宣言したのでのっぴきなりません。ついこないだまでわいわい会食して野球の話に花を咲かせていたらしい人に言われてもピンと来ませんが、増大する数字と逼迫する医療を併せて考えればかつてない緊急事態であることはまず確かです。

と言って彼らのように大人数で会食なんかそもそもその機会すらない僕らはこれ以上何をどうしたらいいのか、とにもかくにも今、おおむね健康であるならそのことを心から感謝せずにはいられない2021年の始まりです。僕もふくめてどうかみんな、息災でありますように。


パイの不時着さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)パラグライダー中にパイロットの手から北朝鮮に落下してしまった美味しいパイの愛と葛藤を描いたドラマですね。


Q. 34歳になりましたが、10代前半の頃から定期的に見る同じ内容の夢があります。気がつくとサッカーをしており、「めっちゃ良いセンタリングきた!」と全力で走ってヘディングをするのですが、ヘディングした瞬間、ベッドのヘッドボードに思い切り頭をぶつけ、目が覚めるのです。ここ10年くらいはすでに"またこの夢か"と気づきながらも、頭をぶつけて目が覚める流れには抗えません。夢の先が知りたいです。私のシュートは、ゴールに入っているのでしょうか。


いい夢です。まったくじつにいい夢であって、その一言に尽きます。うっとりするほど見事な着地で完結しているので、ここから先どれだけ僕が言葉を継ごうと、それらすべて蛇足にしかなりません。

世の中に答えを知らずにいるべき問いがあるとすれば、知ったところで格別どうということもないというまさにその一点において、この質問こそ代表格です。できることならこのままそっとしておきたい一片の詩のような趣がここにあります。夢のつづきを、僕も知りたい。でももし知ってしまったら……それでも僕らは夢を抱いていられるだろうか?

だいたいハッと目がさめ、静まり返る暗闇のなかで喘ぎつつ「またこの夢か……」と深いため息をつくとき、見ていた夢は大抵手に汗にぎる悪夢と相場が決まっています。何かおそろしいものに追われて逃げ場を失うとか、取り返しのつかない失敗をしてしまうとか、抗えない恐怖や怒涛のような後悔にうなされたり苛まれたりした末の目覚めです。しかしこの場合における心理的ピークはむしろテンション高めの「めっちゃ良いセンタリングきた!」であり、また夢としても全体に溌剌として意気軒昂で、悲壮の欠片も見当たりません。結果的にガッカリはしているのでどちらかといえば悪いほうの夢であると言われればたしかにその通りですが、その絶望も「おれのシュートはどうなった」という、控えめに言ってそうだねえとしか返しようがない類の感慨であり、僕としても町の中華屋で染みだらけのくたびれたマンガをめくりながらチャーハンを口に運んで「そうだねえ」と生返事をしている自分の姿が目に浮かぶばかりです。

しかしシュートの行方とその結末が判然としない、その不確かさにはつよく惹きつけられるものがあります。10代前半のころからということなので、足かけ20年という年季の入った夢です。いざその結末を知ってしまったとき、僕らはどんな感慨を抱くだろう?両手を突き上げて、天を仰ぐだろうか?大地に両手をつけて、言葉にならない嗚咽と涙でぐしゃぐしゃになるだろうか?ひとつ確かなのは、その後に必ず、まず100%、得も言われぬ虚無感に襲われるだろうということです。

はっきりした結末があるなら、なぜ20年もこんな夢を見つづけていたのか?

仮にシュートを決めていたとしましょう。「入ってた!やった……!入ってた……!」とおそらく全身を震わせて、その喜びをしみじみと噛みしめるでしょう。問題はそのあとです。べつに20年もかける話ではありません。20年前に知っててもよかったじゃないですか?

仮にシュートを外していたとしましょう。「くそッ!あともう数センチ左に寄っていれば……!」とおそらく全身を震わせて、その悔しさを噛みしめるでしょう。問題はそのあとです。やはり20年もかける話ではありません。20年前に知っててもよかったじゃないですか?

一方でもし、50年後も結末がわからないままなら、おそらく寿命が尽きるまで見果てぬ夢を見つづけることになります。今際の際で虚空に手を伸ばしながら「おれの……シュート……」と絞り出すように放つ、その一言が最期の言葉になるでしょう。パイの不時着さんを看取る僕らも、力尽きたその手を握りながら歯を食いしばって目頭を押さえるでしょう。現実的に考えればたぶん僕のほうが先に墓でくたばってるはずですが、それはこの際どうでもよろしい。

知ってしまえばそれは単なる一夜の夢に成り下がります。仮にまたヘッドボードに頭をぶつけたところで、すでに人に話せる話ではなくなっています。「またあの夢を見てさあ」と言っても「でも、入ってるんでしょ?」もしくは「外れたんでしょ、惜しかったね」で終わりです。これ以降何度も繰り返し見たところで、二度と同じように受け止めてはもらえません。

こう言ってはなんですが、厳然たる夢なのに、夢がなくなるのです。一度こうして夢のあらましを聞いてしまった以上、それは僕の、というかこれを読むすべての人の夢でもあります。そのヘディングは僕ら全員のヘディングであり、そのシュートは僕ら全員のシュートです。その結末を知ることで潰えるかもしれない僕らの夢を、こんなところで明らかにしてしまっていいものだろうか?

先にも書きましたが、僕もこの夢のつづきを知りたい。その心に偽りはありません。でもそれはいつまでも夢を見ていたいという強い思いの裏返しでもあって、本当に知りたいかどうかとなるとそれはまた別の話です。この話を知る僕らすべての許可なくして、その結末を知ることは許されません。僕らはいつでも、夢のつづきを知りたいその気持ちを、できることなら終わりのときまでキープしていたいのです。

1935年に発表されたエルヴィン・シュレーディンガーの有名な思考実験によると、量子力学の世界では脳みそを開いて夢そのものを観測するまで、ヘディングシュートが入ると同時に外れるという、2つの結末が重なり合った状態で存在することが明らかになっています。

入ると同時に外れるとかそんな都合のいい話があるかばかやろうとお思いかもしれませんが、現実とは往々にして不条理なものだし、また実際、量子力学においては何ら不思議なことではないのです。これを「シュレーディンガーのでこ」と言います。

したがって、この夢のある夢の質問に対して夢を決してこわさない夢のような回答があるとすれば、それはひとつしかありません。


A. 入った状態と外れた状態が重なり合って存在しています。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その308につづく!

3 件のコメント:

  1. 私は、「道に小さいクジラが二匹落ちていて、裏返すとスリッパみたいになっているので、クジラを履いて砂浜まで歩き、波打ち際に放したらすごい勢いで泳いでいく」という夢を二回見ました。また見たいです。

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  2. > 某さん

    それは僕も見たいです。
    短編映画にしてください。
    KBDG

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    1. > KBDGさん

      とても美しい夢ですので、出来ることならご招待したいくらいです。

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