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2013年9月24日火曜日
そこはかとない違和感にバチンと目をつぶる話
「そうそう、ダイゴくんと言えばね」
「ん?」
「こないだ冷やかしがてらちょっと家に寄ったんですけど」
「ちょっと待て」
「なんですか?」
「と言えば、って何だ」
「いまダイゴくんの話してませんでしたか?」
「してないだろう」
「してましたよ」
「いや、してない」
「そうでしたっけ?」
「訃報以外であいつを話題にすることはない」
「そういえばそうですね」
「逝ったのか?」
「いや、逝ってはいないとおもいますけど」
「そんなら話すことはない」
「へんだな、何で話してた気になったんだろう」
「知るか。胸クソわるい」
「そりゃちょっとあんまりじゃないですか」
「見ろ。さっきまで晴れてたのに」
「きゅうに暗雲がたれこめてきましたね」
「こりゃひと雨くるな」
「何の話をしてたんでしたっけ?」
「ホノルルの海に流れ出した糖蜜の話だ」
「糖蜜って……シロップのこと?」
「サメが増えるらしいぞ」
「サメって甘党なんですか?」
「一見するとそう読めるからこのニュースは最高なんだ」
「あれ、博士。大学イモひとつ残ってますよ」
「見りゃわかる」
「食べないんですか?」
「わたしはもういらん」
「そうですか。じゃあ……あっ」
「何だ」
「このイモ見て思い出したんだった」
「何をだ」
「ダイゴくんですよ」
「思い出さんでいい」
「なんか皿にポツンとひとつ残ってるのを見たら、ふと」
「危うく手をつけるところだ」
「それがね、もぐもぐ」
「食ってから話せ」
「どうも変なんですよ」
「何がだ」
「ダイゴくんがです」
「今に始まったこっちゃないだろう」
「わかってます。それを踏まえた上で言うんです」
「ほう」
「話しかけてもまったく反応がないんですよ」
「べつにいいじゃないか」
「なんだか気味がわるいじゃないですか」
「道ばたで死んでたときもあったろう」
「そういうのとはまたちがうんです、なんていうかこう……」
「同じだよ、いつだって同じだ」
「悟りをひらいたような」
「何だと」
「ね。ちょっと不愉快でしょ」
「それは不愉快だな」
「あと、シャリッとしてるんですよね」
「舎利?ブッダの骨か?」
「いえ、もっと単純に」
「話が見えん」
「でしょう?ちょっと行ってみませんか」
「よしピス田、案内しろ」
「博士も知ってる部屋ですよ」
「その記憶だけは常に取り除くようにしてるんだ」
トントン
「うわッ」
「何だピス田」
「博士いまノックしました?」
「したよ」
「前代未聞じゃないですか」
「まあな」
「初めて見ましたよ、そんな常識的な行動を」
「だからこそだ」
「?」
「アイツはイレギュラーな事態に敏感だからな」
「ああ、なるほど」
「飛び出してくるようなら、いつも通りだ」
「そうですね、たしかに」
「いつも通りなら、部屋に火をつけて帰るだけだ」
「でも無反応ですよ」
「ふむ」
「カギは空いてるから入りましょう」
「どのみち戸締まりに意味なんぞない」
「博士にはね」
がちゃり
「ホラ、いるでしょ」
「いるな、たしかに」
「いるんですよ。でも反応がない」
「何様のつもりだ、まったく」
「坊さんぽいでしょ」
「おい、客だぞこの唐変木」
「いつもなら博士が部屋にいるだけで大騒ぎなんですけどね」
「おや」
「どうしました」
「後頭部にかじられた跡がある」
「あ、そうそう。こないだね」
「ピス田がかじったのか」
「ちょっとだけですよ」
「それで?」
「それでって…甘かったですけど」
「味の話をしとるんじゃない」
「無反応でしたよ、もちろん」
「たしかに妙だな」
「妙でしょ」
「死んでるかとおもったがそれにしちゃ顔色がいい」
「そうなんですよ」
「悟りきったようなツラがまた業腹だ」
「あれ?」
「なんだ」
「メモみたいな紙切れが」
「紙切れくらいどこにでもある」
「探さないでくださいって書いてありますよ」
「寝言は寝て言え!」
「探すも何も、本人ここにいますからね」
「もういい。帰るぞピス田」
「いいんですか?」
「これ以上は時間のムダだ」
「たしかにこれ以上の徒労感はないですけど」
「愉快な不幸を期待したわたしが馬鹿だった」
「無視されてるだけですからねえ」
「わざわざ来たのにこんな無礼な話もない」
「勝手に入りこむ無礼さはさておいてもね」
「この世の終わりまで永遠に悟ってりゃいいんだ」
「ちょっと心配してたんだけど、杞憂でしたかね」
「ピンピンしとるじゃないか」
「これをピンピンと称していいのかは微妙なところですけど」
「ほっときゃそのうちかじられた頭で大騒ぎするだろう」
「そうですね。じゃ帰りますか」
「土産を持たずに来たのがせめてもの幸いだ」
「王ろじのとん丼でも食って帰りましょう」
「それだ!」
「これだけのために来たとおもうのもやりきれないですからね」
「いや、初めからとん丼を食いに来たんだ」
「ダイゴくんもまあ元気そうでよかった」
「重畳だ、重畳」
パタン
2013年9月21日土曜日
君はなぜ同じCDをこんなに持ち歩いているのか
あまり知られていないことですが、このブログの主である小林大吾はどういうわけかCDをこれまでに3枚もリリースしています。1枚目は2004年の「1/8,000,000」、2枚目は2007年の「詩人の刻印」、そしていちばん新しいのがすでに3年前の話で、2010年の「オーディオビジュアル」です。いちど道玄坂でふたりの警察官に呼び止められて職務質問された際、たまたまオーディオビジュアルを10枚ほど持ち歩いていたために「なぜ同じCDをこんなに持ち歩いているのか」とひどく怪しまれ、「いえ、あの、これ僕のなんです」としぶしぶ答えたところが却って警官の気を引いてしまい、「へー。 音楽やってんだ。ジャンルは何?」「ぎくり」「わたしも昔バンドやってたんだよ。ロック?」「いえ、あの」「弾き語り?」「いえ、あの、そうですね、リーディングというか…」「え?」「ヒップホップというか…」「あ、ラップ?」「いえ、そうじゃなくて、えーと、しいて言えば似て非なる…」と、いろんな意味でたいへんな迷惑をこうむったことがありました。どんなアルバムかと問われれば、つまりそういうアルバムです。
これらのCDをほそぼそと世に送り出しているのは「FLY N' SPIN RECORDS」というレーベルです。その本拠は渋谷の「Flying Books」という古書店にあります。渋谷駅からこう行ってああ行って通りの角あたりにあるビルの2階が Flying Books です。カウンターでコーヒーも飲めるちょっと小粋なつくりになっているので、渋谷にお越しの際はぜひお立寄りいただくとして、さっきからいったい何の話をしているのかというと、いえ、もちろん音楽の話ではありません。このお店に、というかその手前の踊り場に貼ってあったポスターの話です。
そも、なぜこれをこしらえたのか、そうしていったい何に使われたのだったか、3年の月日がすぎた今ではすっかり忘れて思い出せる気もしないのだけれど、「オーディオビジュアル」のリリースに合わせて刷ったA3サイズのポスターがあって、これがずっとこの踊り場に貼られてたんですよね。
しかし貼ってあったと言われても、こしらえた当の僕でさえ「ああ、そうだったかも」とおもうくらいだから、ほとんどの人はまずご存知ありますまい。ただ、言われてみればたしかにこのポスターは3年前からずっとそこに貼ってありました。
さて、あまりにもささやかな、大半の人にとってはこれ以上ないくらいどうでもいいようなこうした背景をふまえた上で、今日起きたてほやほやの、これまたささやかな事件を単刀直入に申し上げましょう。
このポスターが盗まれたそうです。
しかも壁からぺりぺり剥がしてくるくる巻いて何食わぬ顔で持ち去ったのがどうも欧米人のカップルらしい、というのだからまたびっくりするじゃないですか?そんなものをいったいどうするつもりなんだ?
僕としてはべつに腹を立てるような話でもないし、へーと目を丸くするほかないですが、しかしこうなったら是が非でも言っておかなくてはならないひとことがあります。意味としても、使いどころとしても今ここを置いて他にはない、絶好の機会です。いやまったく、この有名な捨て台詞を堂々と言い放てる日が来ようとは、誰に予想できたでしょう。拡声器のボリュームを最大にして、おもいきり叫びたい。
持ってけ泥棒!
イーヤッホーウ!
(してやったりの気分で飛び跳ねています)
2013年9月17日火曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その177
カルミンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 元気のでる呪文を教えてください。
ふむふむ。では僕の知っている呪文をふたつばかりお教えしましょう。
1. ピピルマピピルマプリリンパパパレホパパレホドリミンパ
アラフォーなら誰でも知ってる霊験あらたかな変身の呪文です。「ピピルマ ピピルマ プリリンパ パパレホ パパレホ ドリミンパ アダルトタッチでしあわせな奴みんな滅びろなんておくびにも出さずフワリと微笑むオーバー30の淑女になーれ!」というふうに使います。元気になれるかどうかはちょっとわからないですが、やりようによっては居酒屋での一人吞みが楽しめるくらいには腹が据わるはずです。腹が据わればだいたいのことはそれなりにいなせるようになるでしょう。どのみち世界は心をくじくトラップに満ち満ちています。回復したそばからくじかれるのではやりきれません。したがってむりに元気を出そうとせず、出せるときに目いっぱい出せばよいのです。
それはそれとして、大人になるとべつに知りたくもなかった現実がいろいろと見えてくるので、そこを踏まえた上でさて何に変身するか、というのはなかなか向き合い甲斐のある問いだと僕はおもいます。何に変身しても転職感が拭えないあたり、どうしても気乗りが薄くなりそうです。
2. ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム
「諸行無常、盛者必衰」というような意味合いの呪文です。もうすこし正確な言いかたをすると、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。といいな」という意味の呪文です。さらに正確を期すなら、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。という意味かどうかは定かではないが、そう考えるのはあなたの自由である」という意味の呪文です。僕もまったくそのとおりだとおもうので、そういう意味だと解釈することにしています。
現代に合わせてざっくり要約すると「なんかもう、しょうがなくね?」とでもなりましょうか。
「しょうがなくね?」
「うん、しょうがないね」
「だって全然ないもん、しょうが」
「しょうがじゃないよ」
「わかってるよ!」
「わかってるならいいけど」
「とにかくないんだから、全然」
「ないね、たしかに」
「すっからかんだよ」
「何が?」
「しょうが」
「しょうがじゃないよ」
「わかってるよ!」
「わかってるならいいけど」
「とにかくないの、もう、すごいないの」
「どれくらい?」
「どれくらいって、そりゃもうこんな…」
「手を広げてもよくわからないよ」
「はちきれんばかりにない」
「すごくありそうに聞こえるけど」
「ないがいっぱいあるっつーか」
「それはあるの?ないの?」
「ないね」
「ないんだね」
「ない。それははっきりしてる」
「何が?」
「何って、しょうが」
「しょうがだっけ?」
「しょうがじゃねえよ!」
「じゃ何がないの」
「しょうが」
「しょうがでしょ」
「しょうがだな…」
「でしょ」
「へんだな」
「そう?」
「だとしたら買ってくればいいだけじゃないか」
「まあ、そうだね」
「それで済む話なのか?」
「そうみたいだね」
「何で気づかなかったんだろう?」
「ふしぎだよね」
「なんかあの話に似てるな…鳥が出てくるやつ」
「青い鳥?」
「そうそう…あれ?とするとつまり…」
「ふむ」
「見つけたことになるわけ?」
「そういうことになるっぽいよね」
「青い鳥を?」
「青い鳥を!」
「まじか!え、そういうもん?」
「そういうものだよ、えてして世の中」
「そうかーなんかツイてるな」
「ツイてるね」
「ないないとおもってたら、青い鳥だもんな!」
「めでたいよね」
「めでたい!超めでたい」
「じゃあ行きますか」
「え、どこに?」
「しょうが買いに」
「しょうが?何で?」
「あれ、そういう話じゃなかった?」
「いや、そうだけど…まだ必要?」
「あれ?いらない?」
「青い鳥見つかったんだからもう良くね?」
「あ、そうか…そういえばそうだ」
「もう手に入れたんだよ!」
「そうだった!」
「未来はオレらの手の中!」
「わりとコンパクト!」
「明るい日と書いて明日だ!」
「まぶしい!」
*
戯れ言はともかく、と言ってもこのブログに書かれていることはほとんどぜんぶ戯れ言なので問いつめられると弱りますが、僕が好きでよく使っているのは「Bygones!」という一言です。これはかつてNHKで放映されていたドラマ「アリー my love」に登場するキャラクター、リチャード・フィッシュの口癖で、字義どおり訳せば「過ぎたこと」になるとおもうんだけど、吹き替えでは「前向きに!」と訳されていて、これがもう何とも言えずぴったりだったんですよね。本当の意味で前向きというよりは、どちらかというとくさいものに勢いよくフタをしてそそくさと先に進むイメージです。よくよく考えると身勝手なのに、自分ごと煙に巻いてしまうというか、うっかり聞き流すとポジティブにもとれるところが痛快じゃないですか?
それに、じっさい口にするときもちいいですよ、すごく。
A. Bygones!(前向きに!)
*
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その178につづく!
2013年9月14日土曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その176
尻のなかのハリネズミさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 詩人・北園克衛はお好きですか?もし、そうでしたら、大吾さんの感じる北園克衛の魅力を教えて欲しいです。
じつはこれ、ときどき訊かれるんですよね。好きです、もちろん!
ご存知ない方のためにちょちょいと説明すると、北園克衛は明治生まれの詩人ですが、それ以上にデザイナーとしてよく知られており、したがって現在では主にその洗練されたグラフィックワークについて語られる、異端の人です。写真やタイポグラフィ、幾何学図形その他もろもろの視覚表現を詩に取り込んだ彼の、いわゆるコンクリートポエトリー作品は今なお方々でひっぱりだこの人気を誇ります。とりわけ有名なのは自身が編集した同人誌、「vou」ですね。とにかくどのイメージも洒脱でシャープ、ありていに言うとめちゃカッコよく、2000年代においてもぜんぜん時代を感じさせません。
その一方で、みんなはっきりと口に出しては言わないけど、北園克衛を支持する大半の人は読みものたる詩のほうをどこか腫れ物のように遠ざけているところがあります。キタソノのグラフィックやばいよね!とは言われても、キタソノのポエトリーやばいよね!とはまず言われません。詩として受け止められているようにはどうもおもわれない。じゃあ彼のつむぐ言葉について語ることができる人はどうかというと、今度は逆に視覚表現を肌でとらえるのがすごくむずかしいみたいで、やっぱり同じくらいの物足りなさがのこります。グラフィックが好きな人は視覚についてしか語れず、詩が好きな人は言葉についてしか語れないから、どうしても互いに見方が片手落ちになってしまうわけですね。
これは自分の
何しろものすごく小規模だから大きな声では言えないような気もするけど、僕は昔から視覚表現をすごく大事にしています。デザイン大好き。クールなデザインには映画や音楽、絵画や写真、小説や詩を味わったときのようにびりびりとしびれます。そこに温度差はほとんどありません。
言葉にしてもデザインにしても、追い求めるところのものはぴったり同じです。アウトプットまでの回路はまったくちがうんだけど、言語で表現したいもの、視覚で表現したいものはそれぞれ別じゃなくて、むしろひとつです。
他にうまい呼びかたがおもいつかないので、僕はそれを仮に詩情と呼びます。本末転倒を承知でおもいきって断言してしまうなら、僕にとって詩とは詩情そのものです。何であれ僕のアウトプットにはこれが含まれていて、まず例外はありません。ときどきブログの冒頭にぺたっと貼付けるどうだっていいような画像さえ、この括りに入ります。裏を返せば、詩情が含まれているものはぜんぶいっしょくたに詩として捉えているのです。
詩を成す要素としての詩情、ではなくて詩情それ自体を詩として受け止めると、当然その対象は言語に縛られなくなります。視覚どころか五感すべてがその受容器になるわけです。映画や音楽、絵画や写真、ふつうならはっきりと区別される小説さえ、この見方では一編の詩になりうる。たとえば井伏鱒二の著作には詩として受け止めたほうがしっくりきそうな短編が多くあります。あくまで個人的な印象ですけれども。
塀の落書き、おっさんの歩きかた、料理の華やかな盛りつけ、ふわっと花ひらくような子どもの笑顔、古びた建物、雲のかたち、車にぶつけられて折れ曲がった標識、どれも詩です。すくなくとも僕の世界ではそうなっています。はかなさで言ったら満開の桜よりよっぽどはかないこうした情景が詩でなかったらいったい何だというのか?
詩の定義を好き放題に拡大したところで、話を戻しましょう。僕がおもう北園克衛の魅力とは、上に挙げたこの感覚がそっくりそのまま視覚表現として転写されているところにあります。詩情それ自体を詩として捉えなくては決して浮かび得ない豊かなイメージが、そこにあるのです。
できることなら存命中に直接お目にかかって、「君のは何から何まで生温くってなっちゃいない」とかなんとかこき下ろされてションボリしたかったですよね。ホントに。
A. という答えでも大丈夫?かな?
*
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その177につづく!
2013年9月10日火曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その175
車のシートのことではない、と願いたい。
*
三人寄ればもんじゃを食えさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 飲み会で和気あいあいと盛り上がってる時、「あれ?その話俺だけ知らないんだけど…」ってなってしまった場合、どんな顔をしていればいいのでしょうか?
おきもち、よくわかります。僕が所属するフラインスピンレコーズにはSUIKAというレーベルの大黒柱的バンドがありまして、かつて彼らが脇目もふらずガシガシ活動していたころは、こういうことが本当によくありました。知らない話だけならまだいいのですが、呼ばれて行ってみたら知らない人がいて、紹介されないまま挨拶するタイミングを逃し、気がつくとそのまま数年たったりして、そうなるともう何度も顔を合わせているせいか今さらあらためて挨拶もしづらく、お互いなんとなく目線を交わして「ええ、あの、存じております、一応。ふふふ」と微笑み合うこともしばしばです。
これにはもちろん逆も、というのはつまり何度も紹介されているのに、なぜか次も必ず紹介されたりするケースもあります。この場合の対応もやはり同じように「ええ、あの、存じております、一応。ふふふ」と微笑み合うことになるわけですが、いずれにしても身の置き所に困ることはたしかです。僕は基本的な社交性が先天的に欠けているので飲み会についてはよくわかりませんが、認識としてはだいたいこんなところで合ってるんじゃないかとおもう。合ってますか?
「自分だけ知らない」というのは不意打ち感もあって、下手をするとたんこぶのようにしばらくひりひり痛みます。訊きゃいいじゃないの、とおもう人もあるかもしれませんが、そう言えるのはこの状況を「自分だけ知らない」ではなく「まだ聞いてない」と認識できるからです。状況が同じでも捉え方が根本から異なっているわけですね。コップの中の水を「もう半分」とみるか「まだ半分」とみるか、そのちがいがこんなところにも表れていると言えましょう。
これは純粋に思考回路の問題です。「自分だけ知らない」を「まだ聞いてない」に置き換えることができるなら、もちろんそれにこしたことはありません。ただ理屈ではわかっていてもおいそれとは置き換えられないから心細いのだし、そんな臨機応変が身についているのなら初めから苦労はしません。そういう意味では「気にすんなよ!」と明るく肩を叩いたっていいわけですが(ときにはそれが必要なこともある)、しかしこれは体毛の濃い人が薄い人に「すべすべすんなよ!」と言うようなものであり、そりゃもうどうしたってムリがあります。すくなくとも、体毛を濃くするにはそれなりの時間が必要です。言われたその場でにょきにょき生やせるものではない。
流れでなんとなく突っ込んだ話になってしまったけれど、そこまで深刻な質問ではない、ですよね本来これは?「あれ?ちょ、あれ?」くらいの戸惑いですよね?
しかし思考回路の問題であることに変わりはありません。ひょっとしたら他にも知らない人がいて、何食わぬ顔で話を聞きつつ、ボロが出ないようにうまく合わせているだけかもしれないのに、なぜ知らないのは自分「だけ」だとおもうのか?
今回のポイントはここです。果たしてその話は本当に全員が知っている話なのか?
もちろんそうなのかもしれません。しかし一方で、それがはっきりと確かめられることもありません。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。具体的に言うとつまりそこには一人、あるいはそれ以上のダウトがまぎれているかもしれない、ということです。この不確定性にはなんだか希望があるような気がしてきませんか?
気を落ち着けて、よーく周りを見渡してみましょう。人数が多ければ多いほど、じつは同じように「あれ?」とおもっている人が、他にぜったい1人はいるはずです。
あいつか…?いや、こいつか?こいつがダウトか?ちがうな、やっぱりあいつだ、ジョッキをあおるペースが急に増えた気がする、あーもう絶対そうだこれ、まちがいない、まちがいかもしれないがそもそも心理的ダメージを回避するのに正しさなんて初めからこっちの知ったことではない。
A. というかんじで心理戦にのぞむ勝負師の顔をしていればよいのです。
*
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その176につづく!
2013年9月7日土曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その174、とスキタマ文のこと
何か気の利いたことを言っているようで、そのじつ何も言っていない文章というものがあります。いえ、このブログのことではありません。たしかにどちらかといえば好んでそういう方向にもっていく傾向があるにはありますが、ここで言う意味とは別です。断じてちがいます。いや、同じなのか?こっちがひとりでそう合点しているだけか?「オレはあいつらとはちがう!」と根拠なくうそぶいているだけなのか?あるいはそうかもしれません。そうかもしれませんが、今日はその話ではないのです。しかし捨て置くことあたわぬ懸案事項であることは否めないので、その問題についてはまたの機会にじっくりと腰を据えて和やかに談笑しつつときどきおしりをさわったりひっぱたかれたりして最終的には「わたし酔っちゃったみたい……」という流れで徹底的に議論しましょう。僕は下戸なので酔いませんが、酔いつぶれた態で一夜のあやまちに身をゆだねることにはもちろんやぶさかではありません。
話を戻すと、たとえば「○○好きにはたまらない」という一文です。猫好きにはたまらないとか、小物好きにはたまらないとか、月代好きにはたまらないとか、水玉好きにはたまらないとか、ジョン・ウォーターズ好きにはたまらないとか、かゆみ止めパッチ好きにはたまらないとか、アブダクション好きにはたまらないとか、段違い平行棒好きにはたまらないとか、女性のうなじでそよそよとそよぐか細い和毛(にこげ)好きにはたまらないとか、年をとって膝を曲げるとぱきぽき鳴るあの音が好きな向きにはたまらないとか、そういうことです。
煎じ詰めるとこの言い回し、「好きな人は超好き」ってことなんですよね。当たり前じゃねえか。
おまけにこれは「誰も否定できない状態で仮定と結論がセットになっている」ため、貴賎善悪大小正誤を問わず、考えうるおよそすべての集合について使える万能性を備えています。言ってみればその対象がたとえ一人しかいなかったとしてもまったく問題なく通用するのです。何がいけすかないといって、この手軽な百発百中感ほどいけすかないことはない。
誤解のなきように念のためおことわりしておくと、この「スキタマ文」を使う人がいけすかない、と言っているわけではもちろんありません。そうではなくて、このお為ごかしな定型句自体が、クリームパイを全力で投げつけてやりたいほど気に入らないのです。この世から消しゴムでごしごし消し去りたい何かがあるとすれば、僕の場合はこのスキタマ文を真っ先に挙げます。
たぶん「泳ぐ人は濡れます」って言われてるようでしゃくに障るんだとおもう。だってそんなの、「えーと、そりゃまあ、そうだろうと僕もおもうよね」と受ける以外にないじゃないか?
*
ポイするフォーチュンクッキーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 干支に追加したい13匹目の動物は何ですか??私はキリンです。
A. 鵺(ぬえ)ですかねえ。
もう1匹くらい想像上の生物がいてもよさそうにおもいます。あ、麒麟もいいですね。
現実的なところを挙げるなら…そうだなあ、じゃあ雨蛙にしようかな。雨上がりにつかまえて、指の腹にのせたときのちんまりした愛らしさと言ったら言葉になりません。あとゲムズボックなんかだとカッコよくてちょっと自慢できそうです。べつに本人がカッコいいわけではないですが。あの造形美がすき。でもゲムズボック年じゃしまらないな。やっぱり雨蛙にします。あんなに繊細な生き物はそうそうないです。
そういえば何年か前(10年…はたってないよね?)、12星座にむりやり割り込んだ13番目の星座があったような気がするんだけど、あれはどうなったんだろう?それとも僕が知らないだけで、いまはふつうに13星座として認識されてたりする?というか、そもそもどうして誕生日に星座が割り振られてるんだ?
*
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その175につづく!
2013年9月4日水曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その173
先日ちょっと怖い話を書きましたが、あれはどちらかというと僕がお化けの役回りだったので、今度は僕自身がじっさいに叫び声を上げた怖い話をいたしましょう。
ある日の夜ふけ、近所のコンビニまで井村屋のゆずあずきバー(60円)を買いにぷらぷらと出かけたのです。空は漆黒、星も明るく、肌に吸いつくような湿気があってべつに涼しくもないけれど、代わりにゆるゆると風がそよぎます。どこを切っても夏らしいような、しずかな晩です。
コンビニは住まいからすぐの路地を折れて、しばらく行ったところにあります。同じような距離に3つも4つもあるから、言ってしまえばどれでもよろしい。それでもなんとなく足の向いてしまう一軒があって、この夜はそこに向かっておりました。ぺたぺたとアスファルトをはたくビーチサンダルの規則的な響きも、虫の音にまじればそれなりに風情です。仕事帰りとおもわしき人とすれちがったくらいで、あたりは他に誰もいません。人の気配が消えた道には、それだけでかるい非日常の感があります。
てくてく歩いているうちにふと、頭になにかふれました。ふれたといってもごくかすかで、往来にはみ出た庭木の葉にかするような印象です。歩けば知らず小石を蹴飛ばしもするだろうし、もちろんふだんならいちいち気に留めません。ただあとで思い返してみればこれが先鞭だったのでしょう。
と、いきなりうなじのあたりに得体の知れない多数の刺激が襲いかかりました。得体の知れない、というのはつまり僕からは見えない位置だからで、刺激というのはちくちくするようなざわざわするような、それでいてひとときたりともじっとしていない忙しなさがあるからで、だからえーとつまり、得体の知れない多数の刺激です。そうとしか言いようがありません。小型のエイリアンみたいなイメージが電光石火で脳内のスクリーンにでかでかと映し出されます。
何しろ、うなじです。それでなくとも敏感な部位に、視認できない小さなエイリアンがいると一瞬でも考えてしまったときの恐怖を的確に表すことが果たして誰にできましょう。十中八九虫だろうとは推測できても、セミじゃない、蛾でもない、カナブンでもない、だとしたら何!?ひょっとして虫じゃない?がぶりと噛み付かれて肉片をちぎられたりしたらどうする?噛みちぎられないにしても、毒物を注入されたらどうする?あっちょっと卵とか産みつけてないでしょうね!想像だけが目まぐるしく連鎖して完全にパニックです。やだ、ちくちくする!超動いてる!ぞわぞわする!ギャー!
とまでは叫ばないにしても、「うわわわわ!」とかなり大きな声をだして道ばたにしゃがみこんだのは本当です。もうちょっと理性を失っていたら無意味にごろごろ転げ回っていたかもしれません。客観的に考えても夜中に路上でとつぜん高い声を上げてしゃがみこみ、あちこち体をまさぐっている男がいればそりゃ誰がどう見たって胡乱です。通報されて当然な気もするし、僕だってそんな人をみたらさすがにおののきます。全面的に被害者なのにまた人に不安を与える役回りとはなんだか釈然としない気もしますが、それはまあ言いますまい。過呼吸寸前でうずくまり脂汗をたらしながら悪戦苦闘の末ようやく捕えたその正体は
カマキリでした。
そうわかったときの安堵感と言ったらありません。どこからか来てはっしと髪をつかみ、うなじに降りてくるまでの間、黄緑色をしたスレンダーな生き物が頭のてっぺんでかさこそ動いていたのかとおもうと、そばに誰もいなかったことが却って惜しくもおもわれます。あんがい可愛かったんじゃないかとおもう。
でもすごい怖かったの!まじで!
*
それでふと、かれこれだいぶ前のことだけれど、とある仕事で屋外の現場にいたら、同行していた市役所のクボデラさんが突然、先に書いた僕のとまったく同じ反応を示してパニックに陥ったことをおもいだしました。このときの震源地はクボデラさんの作業ズボンです。「うわわわわ!何かいる!左足のとこに何か…痛い痛い痛い!何!何なの!」とそれはもうたいへんな大立ち回りを演じておりました。
「ちょ、うわッ、あの、すみません脱いでもいいですか!」と民家の並ぶ往来でおもむろにズボンを脱ぎ出すクボデラさんを前にしながら、僕らはただ呆気にとられるばかりです。見守ることしかできません。かつてない災難が彼を襲っているらしいのに、そのシュールな光景が本来共有すべき危機感を初詣の甘酒みたいにうすめてしまいます。なんとも形容しがたい空気のなか、柄物のパンツ姿で喘ぎながら彼がズボンの裾から取り出したのは
1本の小枝でした。
そりゃちくちくしますわなあとおもうけど、いまだにあのときどういうリアクションをとるのが正解だったのかわからない。
クボデラさん、お元気ですか。何が何だかわからない刺激に襲われる恐怖、今なら僕にもすごくよくわかります。
*
ネコバスマジックリンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 好きなドライフルーツはなんですか。(わたしはキウイが好きなんです。)
A. マンゴーですかねえ。
おいおい定番中の定番かよ、つまらねえ野郎だな!と罵られないことを祈ります。キウイも好きです。おいしいのかおいしくないのか判然としなくて、食べると無表情になるのはナツメヤシです。
*
質問はいまも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その174につづく!