2013年9月14日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その176


尻のなかのハリネズミさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 詩人・北園克衛はお好きですか?もし、そうでしたら、大吾さんの感じる北園克衛の魅力を教えて欲しいです。


じつはこれ、ときどき訊かれるんですよね。好きです、もちろん!

ご存知ない方のためにちょちょいと説明すると、北園克衛は明治生まれの詩人ですが、それ以上にデザイナーとしてよく知られており、したがって現在では主にその洗練されたグラフィックワークについて語られる、異端の人です。写真やタイポグラフィ、幾何学図形その他もろもろの視覚表現を詩に取り込んだ彼の、いわゆるコンクリートポエトリー作品は今なお方々でひっぱりだこの人気を誇ります。とりわけ有名なのは自身が編集した同人誌、「vou」ですね。とにかくどのイメージも洒脱でシャープ、ありていに言うとめちゃカッコよく、2000年代においてもぜんぜん時代を感じさせません。




その一方で、みんなはっきりと口に出しては言わないけど、北園克衛を支持する大半の人は読みものたる詩のほうをどこか腫れ物のように遠ざけているところがあります。キタソノのグラフィックやばいよね!とは言われても、キタソノのポエトリーやばいよね!とはまず言われません。詩として受け止められているようにはどうもおもわれない。じゃあ彼のつむぐ言葉について語ることができる人はどうかというと、今度は逆に視覚表現を肌でとらえるのがすごくむずかしいみたいで、やっぱり同じくらいの物足りなさがのこります。グラフィックが好きな人は視覚についてしか語れず、詩が好きな人は言葉についてしか語れないから、どうしても互いに見方が片手落ちになってしまうわけですね。


これは自分の


何しろものすごく小規模だから大きな声では言えないような気もするけど、僕は昔から視覚表現をすごく大事にしています。デザイン大好き。クールなデザインには映画や音楽、絵画や写真、小説や詩を味わったときのようにびりびりとしびれます。そこに温度差はほとんどありません。

言葉にしてもデザインにしても、追い求めるところのものはぴったり同じです。アウトプットまでの回路はまったくちがうんだけど、言語で表現したいもの、視覚で表現したいものはそれぞれ別じゃなくて、むしろひとつです。

他にうまい呼びかたがおもいつかないので、僕はそれを仮に詩情と呼びます。本末転倒を承知でおもいきって断言してしまうなら、僕にとって詩とは詩情そのものです。何であれ僕のアウトプットにはこれが含まれていて、まず例外はありません。ときどきブログの冒頭にぺたっと貼付けるどうだっていいような画像さえ、この括りに入ります。裏を返せば、詩情が含まれているものはぜんぶいっしょくたに詩として捉えているのです。

詩を成す要素としての詩情、ではなくて詩情それ自体を詩として受け止めると、当然その対象は言語に縛られなくなります。視覚どころか五感すべてがその受容器になるわけです。映画や音楽、絵画や写真、ふつうならはっきりと区別される小説さえ、この見方では一編の詩になりうる。たとえば井伏鱒二の著作には詩として受け止めたほうがしっくりきそうな短編が多くあります。あくまで個人的な印象ですけれども。

塀の落書き、おっさんの歩きかた、料理の華やかな盛りつけ、ふわっと花ひらくような子どもの笑顔、古びた建物、雲のかたち、車にぶつけられて折れ曲がった標識、どれも詩です。すくなくとも僕の世界ではそうなっています。はかなさで言ったら満開の桜よりよっぽどはかないこうした情景が詩でなかったらいったい何だというのか?

詩の定義を好き放題に拡大したところで、話を戻しましょう。僕がおもう北園克衛の魅力とは、上に挙げたこの感覚がそっくりそのまま視覚表現として転写されているところにあります。詩情それ自体を詩として捉えなくては決して浮かび得ない豊かなイメージが、そこにあるのです。

できることなら存命中に直接お目にかかって、「君のは何から何まで生温くってなっちゃいない」とかなんとかこき下ろされてションボリしたかったですよね。ホントに。



A. という答えでも大丈夫?かな?




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その177につづく!


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