2013年4月29日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その146、もしくはゴルゴン化粧品の拡販戦略




※ゴルゴン姉妹についてはここを参照してください。

※あと画像は本文と一切関係ありません。猫がのびのびしてるだけです。


「姉さん姉さん!」
「どうしたの」
「知ってた?」
「知らないわよ。何のこと?」
「ゴールデンウィーク!」
「ああ、そういえばそんな時期だわね」
「知ってた?」
「ゴールデンウィークでしょ」
「黄金のように光り輝く一週間なんですって!」
「そう。じゃ黄金のように光り輝く空気でも吸ってなさい」
「スーハー」
「おいしい?」
「いつもよりリッチな気がする!」
「アンタのそういうところが好きよ、あたしは」
「あっまたタバコ吸って!」
「なんだっていうの」
「けむいけむい!」
「すいませんね。せっかくリッチな空気吸ってたのに」
「体によくないって言ってるのに」
「体にいいことだけしてろってわけ?」
「それにこしたことはないでしょ」
「ファックユー」
「ひどい!」
「何なの一体?何の用?」
「え?そうそう、ゴールデンウィークがね」
「…手に持ってるの何?」
「あ、これ?
「のぼり?何でまた?」
「店先に掲げようとおもって!」
「なんか書いてある…」
「ゴールデンウィークにちなんで!」
「『ゴールゴンウィーク?』」
「すてきでしょ!」
「ちょ…」
「超?超すてき?」
「ちょっと待って。いったい何の話をしてるの」
「だからゴールゴンウィークだってば」
「…語呂おかしくない?」
「そこはご愛嬌」
「それが何なの?」
「これを店先に…」
「それはわかった」
「キャンペーンをするんです」
「たとえば?」
「試供品を配ったりするのはどう?」
「試供品て…」
「『きよ姫』とか」
一応あれ劇薬なんだけど
「ちょっとだけ!ちょっとだけ!」
「それを不特定多数の人に配るわけ?」
「この機を逃す手はないとおもうの。ひと口くらいなら良くない?」
「毒薬を?」
「イエス!」
「それ、無差別テロって言うんじゃないの?」
差別しないだけいいじゃない
「みんなが納得するならね」
「広告宣伝は必要だとおもう」
「急にまっとうなことを言わないでちょうだい」
「でも、そうでしょ」
「売ればいいってものじゃないのよ」
「何言ってるの。売ればいいってものでしょう!
「必要な人に届けばそれでいいの」
「大もうけしたい!」
「アンタは正直すぎるのが玉にキズ」
ゴールデンになりたいの!
「それはよくわからないけど…いいじゃない、ゴールゴンならそれで」
「ホントはまんざらでもないんでしょ」
「いや、あたしはゴルゴンかゴルゴーンで」
「なんでよ!せっかくゴールゴンウィークなのに!」
「黄金のように光り輝く空気でも吸ってなさい」
「スーハー」
「おいしいでしょ」
「なんかリッチになった気がする!」
「アンタのそういうところが好きよ、あたしは」




八十日間世界一蹴さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)旅になんて出てたまるか、という強い内向きの意志が伝わってきますね。


Q: このところ、朝が寒すぎて布団から出るのが臆劫でしかたがありません。気持ちよくエイヤッと起きられるコツがあればお教え願います。


そんなこんなでまたひとつ、冬が去っていきました。今や目にも派手な花々と新緑の季節です。

しかし冬はまたすぐにやってきます。何しろ去年も来たくらいです。今年もきっと来るでしょう。たまには休暇でもとって楽しんでくりゃいいのに、どうもそのへん頭が固いというか、昔気質で困ります。そのうえ春とか秋のぶんまで出しゃばろうとするから手に負えません。愛を交わす時間が長くなりすぎて、布団と僕との間にハーフが生まれたらどうしてくれるんだ?冬将軍に養育を請け負う器量はあるのか?

それにしたって夏も近づく今ごろ何だ、とおもわれるかもしれませんがそれはちがいます。季節はずれだとか手遅れだとか、そんな批判はあたらないばかりか、了見違いというものです。来たるべき日々に向けて策を講じているのだから、むしろ先取りであると語気を強めてわたしは言いたい。

まどろっこしい御託はさておき、本題に入りましょう。布団ときっぱり袂を分かつ方法ですが、これにはかつて僕自身が体を張ってためしてみたひとつの具体例があります。端的に言うと、ダウンジャケットを着て寝たのです。上着にかぎらず、頭のてっぺんからつま先まで、極地でも凍死に打ち勝つような厚着で意気揚々と就寝に臨みました。負ける気がしない、と真顔で言えたのは僕の生涯でこのときくらいです。

結果は言うまでもありません。なぜこのうえ布団をかぶらなければならないのかわからなくなり、前夜まで燃え上がっていた布団への愛は急速に冷めました。起床時のえも言われぬ倦怠感とはげしい喉の渇きについてはまだ改善の余地があるかもしれませんが、布団との関係についてのみ言えば這々の体で逃げ出したくなること請け合いです。またこのときの開放感には生への実感が伴っていたと言ってよいでしょう。きもちの良さを問われればこれも「うん、まあ、脱げばね」と認めるにやぶさかではありません。実験は成功したのです。


A: 関節が固定されるくらいの厚着をしましょう。


問題があるとすればそれっきり二度と試していないということくらいです。




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その147につづく!

2013年4月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その145、と似て非なるロゴ



あっ。…アレ?なんか見覚えのあるロゴだって気がしたんだけど、ちがうな…こんな名前の運送会社があるなんて知らなかったし…しかし初めて見たのにこの親近感というか懐かしさみたいな…



とおもったらこれだった。





犬がミケの一族さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)それでいくと対立するのは猫がポチの一族でしょうね、おそらく。


Q: コーヒーを淹れるため(豆を焙るための網だったり、コーヒーミルだったり、ドリップの道具など)に大吾さんが使っている道具が見たいです。九州でライブの予定はないんでしょうか?


今でこそコーヒーとの向き合い方がだいぶ大らかな僕ですが、昔はそれなりに器具を揃えていたものです。ネル(ドリッパーを兼ねた濾布ですね)、アイスコーヒー用のドリッパー(あるんです)、現代科学の粋を結集したわりにその実力がいまいちわかりづらいセラミックフィルター、小型のエスプレッソマシンスチーマーモカエキスプレス、デザイン重視でべつに美味くもないコーヒーメーカーがいくつか、パーコレーター、デザイン重視で今おもうと使いづらいドリップポットや、ちょっと珍しいところではイブリック(トルココーヒーの専用器具)やそのためのミルなんかも持ってました。持ってなかったのはサイフォンくらいです。

使うというよりとにかくいろいろ試してみたかったのですね。カフェロワイヤルに憧れてみたり、インスタントコーヒーなんか飲めるか!と息巻いたりして、通としての気取り方をわかりやすくかんちがいしていたころを懐かしく思い出します。これが数年たつと求道者から単なる横好きに格下げされて、労働の合間に屋外で飲む缶コーヒーが無上の安らぎになるんだから我ながらおめでたい頭をしているとおもう。缶だろうがインスタントだろうが今はもうコーヒーならそれでいいです。シティーハンターの冴羽獠がうる星やつらの諸星あたるになったようなものと言い換えてもよろしい。(わかりづらい)

そうして買い集めた器具も引っ越すときに処分して、今はほとんどありません。これだけあれば事足りるな、とおもうものだけが残っています。


ドリッパー。プラスチックとか繊維とか金属とか、目新しい素材が出るたび試してはみるものの、けっきょくいつもここに戻ります。これは10年くらい使ってるとおもう。そういえば取っ手がないですね。床に落としたんだな。


大きいのもあります。(左)


ドリップポット。これも代替わりしています。前はもっと変なかたちのポットでした。やかんから湯を移して使うものです。


ミル。いろいろ試してみたけど、必要な機能はもちろんすべて揃っているし、摩擦熱が発生しにくいつくりなので、家庭用としてこれ以上のミルはない…とおもいます。いちばんのポイントは構造がシンプルなので「分解できる」ということ。手入れがしやすいし、シンプルということは頑丈ということでもあるのです。と言いながら2台目なんだけど。


煎り網。15歳くらいのときに買ってから、一度も代替わりせずに未だ現役なのはこれだけです。控えめにみてもかなり酷使してるはずなのに、ちっともこわれる気配がありません。このまま使いつづけたら付喪神になるんじゃないかとおもう。


ザル。煎った豆を冷ますのに使います。たまたま手近にあったという理由で抜擢されて、気づいたら煎り網につづく古株です。これも酷使されています。


何しろ針金で補修してあるくらい。しかも2箇所。


水出しコーヒーを淹れる…これ何て呼ぶんだろう?ウチでいちばん大きな器具です。大きすぎて部屋では撮れなかったのでわざわざ屋上に運びました。もうすこし小さくてシンプルだった1台目を派手に割ってしまったので、2台目です。夏になると思い出したように引っぱり出されます。理科室に置いてありそうなたたずまいがいいですよね。あっ今気づいたけどこれ、パーツがひとつ…ちがう、ふたつ足りないじゃないか。どこへ行ったんだ?

水出しコーヒーはかつてダッチコーヒーという別名があったはずだけど(オランダ由来らしい)、今でもそう呼んでる人はいるんだろうか?



なんかちょっとイイ豆をもらったり買ったりしたときだけ声がかかるカップ。どっちかといえばティーカップのような気もするけど、ぎりぎりコーヒーもいけそうな微妙なかたち。あまり細かなことを気にしなくなった僕にも、襟を正して飲むぞというきもちになる日がときどきあるのです。


あ、サーバー撮り忘れた。


A: とまあ、これでだいたいぜんぶです。


ちなみに豆は一度に3キロ調達しています。フィルターは別にコンビニでもいいやってかんじです。

そしてお尋ねのライブについてですが、あっもう時間が




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その146につづく!

2013年4月23日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その144、またはカミカゼの国の慣用句について


問題:「清水の舞台から飛び下りるつもりでやってみるよ」と真剣な顔つきで打ち明けられました。実際のところ、清水の舞台だろうが何だろうが、高所から地面までストレートに落下すれば人体がどうなるかは考えずとも明らかです。正しいリアクションを次の2つから選びなさい。

A: がんばれ
B: 早まるな



フランソワとUFOさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: ダイゴさんの好きな詩集を教えてください。


これだけ回を重ねてきたパンドラ的質問箱で、詩のことを訊かれたのはひょっとしたらこれが初めてかもしれません。もっとあってもおかしくないのに、考えてみればふしぎなことです。そうでもないか。

真っ先に挙げられる一冊があるとすれば、新潮文庫から出ている(今もある…よね?)「北原白秋詩集」です。選り抜きのベスト盤みたいなものですね。うまれて初めて自分の意志で手に取った詩集がこれでした。僕にとってはかなり大きな意味のある一冊です。とくに「邪宗門秘曲」という一編の、目眩がするようなカッコ良さにシビれた気持ちは今もぜんぜん変わりません。ただ好きというより原点と言ったほうが近いような気もする。

好きと言われて思いつくのは井伏鱒二の「厄除け詩集」です。「サヨナラ」ダケガ人生ダ、で知られる漢詩の超意訳(←最高)がガッツリ収められていて、今もときどき読んでいます。何をどうしたら中国の古い詩が "アサガヤアタリデ大ザケノンダ"(阿佐ヶ谷は杉並区にある地名です)に訳されるのかちっともわからない。でもこのギリギリアウトな跳躍こそが詩という表現形態の真骨頂だと僕はおもいます。授業でこんな訳し方したら叱られる可能性のほうがたぶん高い。

あと、"なだれ"という詩も大好き。説明しちゃうとそれでぜんぶ終わっちゃうから言わないけど、手に取って読む価値は大いにアリです。こうありたいと願うところの詩をひとつ挙げるなら、迷わずこれを選びます。僕が好きな理由も何となくわかってもらえるとおもう。とにかくこの詩集は全編がユーモアと日向の水たまりみたいなぬるさに彩られていて、そこが好き。

せっかくだからこんなのもあるよ的な視点で言うと、ニッキ・ジョバンニの「女と男」があります。もともとは Blackalicious というヒップホップグループがカバーした「Ego Trip by Nikki Giovanni」で知ったんだけど、アレサ・フランクリンやニーナ・シモンについて書かれた詩があるという薄っぺらい理由で読むようになりました。でもまあ、きっかけは何だっていいのです。"Ego Tripping" の壮大なイメージとそこからほとばしる磁力にも似た言霊は鳥肌ものだし、これはいったい何だろうといつも首をかしげてしまう。ちなみに詩集だけでなく、リーディングのLPも数枚リリースしています。CD化されてたかな。されてたかも。


A: 井伏鱒二の「厄除け詩集」です。




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その145につづく!

2013年4月20日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その143、あるいは本題としての前置き


何ごとも前置きが必要だといつもおもうのです。商談には小粋なスモールトークが肝要だし、愛の営みには前戯が欠かせないし、ドアを開けていきなり階段では誰だって転げ落ちてしまいます。

ドア即階段の一例

しかしそうおもって階段の前に踊り場をこしらえていると、今度は広すぎて階段がどこにあったかわからなくなることもあります。これを完全に見失った結果が「エイプリルフール考」や「そこはかとない生物学講義」です。まあいいやそれはそれで別にとはおもってるんだけどしかしそんなことばかりやっていると、あ、キリがないなこれ、じゃつづきはWEBで!




宇宙船肉球号さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: つい今しがたカフカの「変身」を読了したのですが、2013年1月1日朝起きたら何になりたいですか?ちなみに僕は「皿にポツンと残され誰にも手を付けられないヒビが入っていないピスタチオ」になりたい。


これはつまりある日とつぜん何かに変身するとしたら何がいいか、ということですよね?それとも元旦の朝にアクセントが置かれてるんだろうか?でも大晦日からぶらぶらと外に出て、除夜の鐘をききながら初詣をすませ、さらにぶらぶらしてそのまま初日の出を迎えたりすると困りますね。知らないうちに変わっているならともかく、夜が明けるにしたがってじわじわと虫に変身していくような事態(「ちょっと…なんか腕1本多くない…?」)だけは死んでも避けたい。

石ころになりたい、というのは僕が好んで思い浮かべた願望のひとつです。今はそうでもありません。こういうのって、自己評価をそのまま置き換えてしまいがちだし、20年以上も石ころになることばかり考えつづけているとさすがに飽きて変化が欲しいとおもうようになりました。同じ石ならダイヤモンドでもいいじゃないかとおもうし、ダイヤでいいなら貴金属だっていい気がしてくるし、貴金属ってことならキュートな女の子のピアスとかアンクレットなんかもアリだろうし、でもアクセサリーになるくらいだったらいっそホクロとかになっちゃったほうがよくないかな、できればこう、口元とかセクシーな印象をもたせるような位置がいいな、えー待ってそれなら目尻もよくない?「あの娘のホクロにぞっこんなんだ」とかイケメンに言われちゃったりしてキャーもう困る困るー!

というくらい、今ではどうでもよくなっています。

そこをあえて何かと問われれば、思いつくまま書いたわりにホクロもわるくないなという気にだんだんなってきたけど、そうですね、呼び鈴がいいかなとおもいます。扉の脇についていて来客がピンポンと押すアレです。そしてどんな音を鳴らすかは、アンジェリカ邸の呼び鈴システム同様、押す人や届くものによって僕がその都度チョイスします。うれしい贈り物が届けばキラキラした音、招かれざる客がきたときは「はァ…」とため息みたいな音でしぶしぶ、ピンポンダッシュには「パン!」とするどい破裂音で積極的にびびらせつつ、話のわかりそうな人だったら「ボヨン」とか「ゲップ」とかいろいろ、警官がきたら身の毛もよだつ断末魔の叫びで歓待の意を示したいところです。借金取りだったら代理で先に「スミマセン」と謝っておくのもひとつの手ですね。浮気相手だったら「なあお嬢ちゃん、わるいこと言わないから今夜はお帰り」とか訳知り顔で諭したりするのもたのしそうです。呼び鈴のくせに。

誰も手をつけずにひとつだけ皿に残されたピスタチオもちょっと可愛いかな、とおもうけど、そもそも似たような人生をふだんから送ってるような気もするんですよね…。せめて「2つ残っているうちの1つ」にしませんか?「あれ、君も?」「ええ、あなたも?」みたいなかんじで皿の上から恋が始まっちゃったりしてキャーもう困る困るー!殻むかれちゃうー!


A: 呼び鈴です。






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その144につづく!

2013年4月17日水曜日

甘鯛のポワレ教授によるそこはかとない生物学講義


ある種の鳥には托卵といういっぷう変わった習性があります。よく知られているのはカッコウです。他の鳥の巣に卵を生みつけて、じぶんの代わりにヒナを育ててもらうのですね。Aという鳥が卵を託すのは必ずBという鳥に決まっていますが、CならD、EならFという具合で他にも多くのバリエーションがあります。いずれにしても托卵をする鳥の辞書に「子育て」の項はありません。生んだら生みっぱなしです。


しかし勝手にBの巣で卵を生むといっても、その色や形がBの卵と明らかに異なれば、Bは当然それを育ててくれません。そのためAは気の遠くなる時間と数えきれない世代交代をくり返しながら、やがてじぶんの生む卵にめちゃリアルな偽装をほどこすまでになりました。ようするに色も形もBの卵そっくりの卵を生みつけるのです。「AにはB」と組み合わせが決まっているのはここに理由があります。

1968年にヴィックラーが著した生物学の古典「擬態」には、その度肝を抜く相似ぶりが載っているので引っぱり出してみましょう。種ごとに2つずつ並んでいますが、右が托卵をする側、左がされる側です。




前田敦子VSキンタロー。の比ではないことがよくわかりますね。

また托卵は、鳥に特有の習性というわけではありません。魚や昆虫、果ては閑静な住宅街に並ぶ自動販売機にも、これと同じような例をみることができます。



その一例



形といい大きさといい、みごとな擬態にぐうの音も出ません。何をしれっと一緒になって冷えてるんだこいつは?


2013年4月14日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その142


これまで数多の外国語を暮らしに取り入れながら発展してきた僕らは、今こそ心に留めておかなければならないとつよくおもうのです。日本語にはかつて「ろりろり」という表現があったことを。


「ろりろり」 → 恐怖や心配などのために落ち着かず、興奮しているさま。


21世紀の僕らが何となくイメージする「ロリロリ」とは似ても似つかない、とも言い切れない気がするのはなぜだろう?


「あのな、サカキ」
「なんです、先輩?」
「このオフィス、出るんだよ」
「出るって何がですか?お湯?
「お湯くらい出るよ!そうじゃない、幽霊だ」
「ギャー!」
「いや、オレのことじゃない。マジだぞ」
「やめてくださいよ!ろりろりしちゃうじゃないですか!


使ったことないからわからないけど、合ってるのか、これで?




ヘイ柔道さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 部屋が汚すぎるので、きれいに保つアイデアをいくつか教えてください!あとはやくインスト盤だしてください!


常に布をかぶせておけば物が増えても見た目が変わらないとか、ふれずに物を動かす念力の習得に全精力を注ぐとか、自分も汚れてしまえばむしろ部屋が清潔にみえるとか、汚れるよりも早く床面積を拡張していくとか、部屋ではなく自分自身を収納する物置だとおもえばいいんじゃないかとか、競走馬のブリンカーを装着して視野を狭めるとか、かつてのタカツキ邸みたいにいっそダイニングまでを玄関扱いにして部屋の概念を根底から覆してしまうとか、汚すぎると言ってもひょっとしてずる賢いとか卑怯とかそういう意味だとすると話が全然ちがってくるなとか、風呂上がりにはストレッチを欠かさないとか、茄子は揚げびたしにかぎるとか、いろいろ考えてみたんだけど、しばらくして電球が灯るようにふと気づいたことがありました。


A: 掃除をすればいいのです。



…インスト盤?




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その143につづく!

2013年4月11日木曜日

ミュンヒハウゼン男爵の手引きによるエイプリルフール考


4月1日にあった「東京都現代美術館の閉館騒ぎ」には、ユーモアとその受け止め方への教訓がふんだんに盛りこまれているとおもうのです。

引き金となった記事のことではありません。その流れ弾が当たった美術館のことでもありません。また、それを非難した人々のことでもありません。その全部です。

同じエイプリルフールでどうしてこうも違った結果を生むのか、ひとつ紐解いてみましょう。


根が正直な人、つまりホラを吹き慣れていない人は、それをウソと同じ「本当でなくてよかったと思えること」として認識しがちです。そのため、話の最終的な着地点を「ガッカリ」ではなく「安心」に持っていこうとする傾向があります。先の認識からすればわりと自然な帰結だとおもうし、おそらくここに悪意はありません。どちらかといえば善意寄りの発想です。ある種の心配りと言ってもよいでしょう。

しかしユーモアの世界ではそれが完全に裏目に出ます。最終的に「よかった…」と胸をなで下ろすためには、その発言が本当だと困るようなこと、人の不安をかき立てるものでなければならないからです。安心させたいがゆえに不安をあおる、というおそるべき本末転倒に、ホラ吹きビギナーはまず気づかなければいけません。プラスに転じるならともかく、マイナスからただゼロに戻すだけの行為のどこが愉快で、いったい誰を笑顔にするのかよく考えてみる必要があります。結果として安心はするかも知れないけれど、マイナスにされた不快な印象がそれで消えるかといったら、消えないのです。

エイプリルフールがときとしてトラブルをもたらすのはこの誤認のためです。おまけに(ここがさらに面倒な点なんだけど)その事態を引き起こした本人にはなかなかそれがわかりません。何となれば、「ウソで良かったじゃないか、何を怒ってるんだ?」というきもちでいるからです。あまつさえ「これだからユーモアのわからないやつは困る」と開き直る可能性さえあります。ユーモアとは人を困惑させるものでは絶対にない、という大前提がすっぽ抜けていることに気づいていないのです。

話の着地点を「安心」にもっていこうとしてなおかつここがすっぽ抜けたままだと、最悪の場合たとえば

「君はクビだ!」
「えっ、そんな!」
「冗談だよ、ガハハハハ」

といった不毛なやりとりが生まれることになります。どう考えても発言した当人だけがおもしろがる致命的な状況です。本人は楽しませているつもりだからなおさら気の毒なことだとおもう。

ここではっきりさせておきましょう。エイプリルフールに吹くべきホラの正しい着地点は「本当でなくてよかったと思えること」ではありません。逆です。「本当だったらよかったのにと不特定多数が思えること」です。(対象が不特定多数であればあるほど、ホラの持つインパクトが分散して受け止め方がソフトになります)

ここを取り違えている人はエイプリルフールで話をわかってもらえないと嘆く前に、まずミュンヒハウゼン男爵が名誉園長をつとめるホラ吹き保育園に入園することから始めなくてはなりません。ユーモアとは何かという基本から、「ウソ」との区別、果ては夢とうつつの理想的な配分まで、手取り足取りやさしく教えてもらえるはずです。

そしてもうひとつ、ホラを受け止める側は、それが仮に眉をひそめるものであっても腹を立ててはいけません。腹を立てればそれだけ相手と同じ、ホラ吹き保育園の教室で席を並べることになります。園児のふるまいは教室の外から苦笑いで見守るのがいちばんです。この日に立てる目くじらだけは、事の可否にかかわらずやはり野暮と言わねばなりますまい。

件のニュースで言えば、望まぬところで振り回された美術館はもちろんきっぱり否定すべきではあるけれど、やっぱり腹を立ててはいけません。当館も知らずにいた当館の閉館について改めて検討した結果、やはり妥当ではないとの結論に至りました」くらいのかろやかな対応でさらりと受け流してほしいとおもう。そんな器量はないのか?なぜないんだ?

したがって、これら諸々から導かれる僕の結論としては、「どいつもこいつも片腹痛い」ということになります。ましてや応酬なんて、無益どころか論外です。取りなす価値もない。そんなことならエイプリルフールなんかとはさっぱり縁を切ったほうがよろしい。


ともあれこれで最低限、エイプリルフールとの向き合い方はわかりましたね。来年はトースターから思わぬタイミングでパンが飛び出したら、あわてず空中でバターを塗り、そのまま口でキャッチするくらいの柔軟な対応を各自心がけてください。では解散!

2013年4月8日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その141、というよりマッチラベルの話



ウチには今、マッチ棒が山ほどあるのです。マッチ箱、ではなくてそれこそ棒だけがもっさりとスーパーの袋に詰めこんである。どうしてこんなに沢山のマッチ棒だけがあるのかよくわからないけど、でもとにかくはちきれんばかりにしてもっさりとあります。仮にこの部屋が放火されて焼け落ちたとしても、まずこの大量のマッチが不審がられるとおもう。ふつうの家にそんなものはない。パッと見たかんじではピクニックのついでに摘んできた山菜のようです。

しかもその使い道と言ったらあなた、火をつけること以外にはろくろく役に立ちません。あとはパズルに使うとか1本1本貼り合わせてちいさな金閣寺を建立するくらいのものです。何もかも失ったときにはこれほど重宝するものもないのに、不要となったらとことん不要なのだから困ってしまう。だいたい、箱はどこへいったんだ?

箱と言えばいつだったか、古い(といっても昭和初期から中期くらいの)マッチラベルのデザイン原画をまとめた、一冊のノートをみたことがあります。たぶん実際にデザイナーをしていた故人のポートフォリオみたいなものが蔵書やなんかと一緒に古物として市場に流れたんだとおもうけど(そういうことはよくあるのです)、じっさい目にしたらぼんやり想像していたのとはかけ離れたものがそこにあって、度肝を抜かれました。というのもそのノートにおさめられたラベル原画はどれも、マッチ箱と同じサイズで描かれていたからです。

あ、なんかするするっと読み流したら、ピンとこないですね。もう一度言いましょう。

ラベルの原画はどれも、マッチ箱と同じサイズで描かれていたのです。

てっきり縮小したものだとばかりおもっていたマッチラベルの原画が元々あのサイズ、しかも絵筆で描かれていたことの衝撃たるや、とても言葉に尽くすことはできません。図案にしてもタイポグラフィ(たとえばお店のロゴ)にしても目を疑うような緻密さで、完全に虫眼鏡の世界です。ラベルとして印刷されたものをみたらとくに心には留めないようなデザインでも、あのサイズで手描きとなったらそりゃ話もぜんぜん違ってきます。何しろそこには「何を描くか」以前に「そもそもこの箱に描けるかどうか」という物理的な制約が含まれていたことになるのだから、それまでの見え方が180度ひっくり返るのも当たり前です。その上であらためて古いマッチを手にしてご覧なさい!それまで考えたこともなかった高度な職人的技術と完成度に打ちのめされること必至です。

映画「レイダース/失われたアーク」のラストで、聖櫃を倉庫に収めるシーンがあるんだけど



後になってこれが映像ではなく手描きの絵だったと知ったときの驚きにちょっと近い。(CGのない昔の映画ではわりとふつうのことだったそうですけども)

待てよ、これを引き合いに出すとマッチラベルの話が霞むような気もするな…

それはともかく、これほどの職人芸(マッチラベルのことですよ)がこれまでとくに顧みられることもなく、ただ失われていくがままにまかせていたなんて、あまりの文化的損失に考えるだけで気が遠くなります。これまでにいったい何枚の図案が捨てられてきたんだろう?

ちなみに恐るべき破壊力を秘めたその原画ノートはその後、どこかのマッチラベルコレクターに買い取られたそうです。然るべき資格をもった人の所有になるのなら、やっぱりそのほうがいいだろうと僕もおもう。正直、すごい欲しかったですけど。




ちいさい秋ふみつけたさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: スパイスの入ったどろどろしたものを総じてカレーと呼ぶのにそろそろ限界を感じていますが、こんな世の中に誰がしちまったのさ?


前回も登場いただいた古川さんが、ものすごーくカレー好きなんですよね。おかげで普段はあまり外食をしない僕もあちこちでお相伴にあずかって、今ではけっこうな種類のカレーを体験させてもらっています。単純にインド風とか欧風とかで括れないほどお店ごとにはっきりとバリエーションが異なるものだから、あるとき「どんなタイプのカレーが好きですか」と尋ねたら「カレーであれば良し」というじつに大らかな、それでいていまいち要領を得ない答えが返ってきました。むしろその前にカレーの定義を訊くべきだったと反省しています。

そんな僕のささやかな経験を総合するとカレーとは概ね、スパイスの入ったどろどろしたものです。場合によってはさらさらしていたり、ペースト状だったりすることもあるけれど、少なくともスパイスが入ってどろどろしていればそれはカレーと呼んでまちがいありません。そしてこの曖昧模糊とした印象こそが、カレーにおける魅力の最たるものだと僕は考えます。スパイスにしたって「これが入ってなければそう呼べない」ようなものは特にないし(クミンさえ絶対ではない)、一料理として満たされるべき必須条件がほとんど存在しないのです。こうなると逆に何がカレーたらしめているのか判然としなくなってきます。どこまでいっても境界線がないその懐の広さといったら、まるでお釈迦様の手のひらのようです。


今日の結論:カレーとはお釈迦様の手のひらのことである。


問題はこんな世の中に誰がしちまったのかということですが、とりあえずカレーの王子さまあたりにその責を負わせておけばいいんじゃないかなとおもいます。1歳から食べられるカレーだそうだし、離乳食からカレーで育った子どもたちが大人になれば、そりゃいずれはどうしたってそんな世の中にもなろうというものです。


A: カレーの王子さま




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

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その142につづく!


2013年4月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その140、もしくはFKPDの傘


横殴りの雨と衣服をはぎとるような風に朝からくるくると踊らされたある日、旧チームオーディオビジュアルの面々でふた月ぶりのミーティングが行われたのです。ひらいた状態どころか閉じた傘までひと息にひっくり返す春風の狼藉ぶりに閉口していたら、つづいてやってきた古川さんの傘は


すでに非の打ち所のない不燃ゴミと化しておりました。

継ぎ目という継ぎ目がことごとくバラバラになっていて、折れたというより傘の内側で何かが爆発したようなありさまです。「雨はおれにまかせろ!」と勇ましく飛び出したそばから討ち死にするビニール傘二等兵。出先でこうなってしまった傘ほど始末に困るものはありません。



そんなわけで今やラジオ業界と文房具業界に広くその名を知られた古川さんの傘(僕が代筆した彼のサイン入り)を、抽選で1名の大富豪にお贈りします。我こそはという方はどうぞふるってご応募ください。アラブあたりの油田と、あと年頃の娘さんなんかをお持ちならなお良しです。

とくに「古川耕」で検索してここに辿り着いた人(やんなるほど多い)はこの機会をぜひお見逃しなく!



いつもは質問をいただいた順にテキパキと(こういうのはしれっと言い放つのがいいとおもう)お答えしているのですが、今回はその順番をちょっと繰り上げてお答えします。胸に刺さったちいさなトゲを抜くお手伝いができるといいのですが、抜けなかったらすみません。


アイズ・ワイド・ちょっとさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 友人をどうやって作っていますか?人と出会った時、その人が友人になるかならないかの基準は何ですか?

というのも実は自分は昔から友人を作るのが苦手で、色々考えているのですが友人の作り方が分からず、それで悩む時が頻繁にあります。ダイゴ君がブログで人見知り、出不精と書いているのを読みました。しかしそれでも古川さんやフラインスピン周辺の人達と素晴らしい人間関係を築いているように見えます。自分も人見知りで出不精なので、ダイゴ君のように多くはないけれど良い人間関係を築く生き方はとても理想的です。というわけで質問箱宛にメールしました。よろしくお願いします。


なるほど…いつまでたっても孤独死と餓死の不安から逃れられないような僕でも、そんなふうに見えることがあるんですね…。こう言われると僕も何だかそれなりにうまくやっているように見えてくるからふしぎです。

たしかに僕は友人が多くありません。というかまあ、えーと、はっきり言ってしまえばすごく少ないですが、それは僕が「それでいい」と受け止めているからです。友人になるかならないかの基準は単純に「僕がそうおもっているかどうか」であり、したがって相手がこっちを単なる顔見知りとしか認識していない可能性も大いにあります。と書けばなんだかしんみりもするけど、でも人間関係って往々にしてそういうものですよね、たぶん。

そして、「じぶんがそうおもっている人」を友人とするならば、相手がどう思っていようと実はあんまり関係がありません。結論を下すのはつねに自分自身なのだから、話はそこで終わりです。ですよね?

にもかかわらず思い悩むことがあるとすれば、それは相手にじぶんと同等のきもちを求めているからだと僕はおもいます。「相手も同じように慕ってくれていること」を無意識に友人の条件として定めてしまっているのです。しかし立場を変えてみるとわかるように、この考え方はちょっと一方的だし、向き合う誰にとっても負担になります。また愛情がつねに等価で返されるわけではない以上、この条件から生まれるのはビジネスライクな関係しかありません。

だからこそ、「それでいい」という受け止め方が重要になってくるのです。友人が多い人もいれば、少ない人もいるし、うまくやれる人がいれば、うまくやれない人もいます。僕は少ない上にうまくやれていないほうだとおもうけど、それは意識的であれ無意識的であれ、また望もうと望むまいと結果的に僕自身が要所要所でそういう選択をしてきたからです。わりきるとかあきらめるとかではなくて、「よし、じゃあそれでいこうぜ」というかんじに近いかもしれません。

関係をどうつくるかよりも、まず自分がどうありたいか、ということですね。関係はむしろその副次的なものです。これを逆にして悩んでもなかなか答えが出ないのはむべなるかなという気がします。

それに、これはきちんとお断りしておかないといけないとおもうけど、僕もじぶんが望む関係をすべてキープできているわけではもちろんありません。先に挙げた姿勢から得た縁もあれば、そのために切れた縁もあります。その両方を合わせて、「それでいい」と受け止められるように努めているのです。


A: とりあえず煮ても焼いても食えない悩みを冷蔵庫にしまうことから始めましょうか。




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その141につづく!



2013年4月1日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その139、とミュンヒハウゼン男爵ふたたび


というわけで本日は、毎日が四月馬鹿であり、ということはべつに四月でなくてもいいわけだから四月を取っ払って単純に馬鹿でよいかとおもわれますが、馬鹿にかけては右に出る者がない、といってもだから馬鹿だと結論づけているわけではもちろんありませんが、いずれにしてもこの日については疑いなく最高の、あるいはおおむね最高水準の、でなければせいぜいそこそこの権威であるミュンヒハウゼン男爵をゲストにお招きし、ほぼ全世界的に共有される4月1日とはいったい何なのか、事業仕分け的に言い換えると2日ではいけないのか、そしてなぜ4月1日は早生まれに含まれて学年がひとつ繰り上がるのか、ひょっとしてそれこそが過去最大の成功をおさめた瓢箪から駒の、というのはつまり引き返せなくなったエイプリルフールの代表例ではないのか、長らくベールに隠されていたその大いなる謎と生態に今回はじめてカメラが迫り、詰め寄り、かぶりつくようにして間近で見物し、豆やら煎餅やらをさんざん食い散らかしたあげく「べつに大したことなかったな」と肩をすくめながら蕎麦でもたぐって帰ろうと思います。

「どうぞよろしくおねがいします」
「よろしくおねがいします」
「男爵がこれまでに吹いた最大のホラは何ですか?」
ホラなんか吹いたことない



のどぼとけトンネルさんからの質問です。(ペンネームはミス・スパンコールがてきとうにつけています)


Q: 次回作の予定などはありますか?


ご承知のように、僕にとってこれは限りなく透明に近い質問であり、日ごろから尋ねられてもそよ風だとおもって縁側のおじいちゃんみたいにとりあえずウンウンとうなずくようにしています。何しろここに辿り着いてまず最初にぶつけられる質問がこれなので、今では「はじめまして」の同義語みたいなものだな、と拡大解釈しているくらいです。(したがって普段であればこの質問への回答は常に「こちらこそよろしく!」ということになります)

しかし昨夜ふと、毎年この日だけは堂々と正面切ってお答えできる、ばかりか何を憚ることもなく声を大にして宣言できることに気がつきました。今日という日をかつてこれほど感謝したことはありません。記念日レベルのめでたさです。

世界の臍から拡声器の音量を最大にして叫びたい。


A: あります!あります!ありすぎてすこし減らさなくてはいけないほどに!


そういえばこないだは「活動再開はいつ?」と言われました。休止してたなんて知らなかったです。本人なのに。




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その140につづく!