2013年4月8日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その141、というよりマッチラベルの話



ウチには今、マッチ棒が山ほどあるのです。マッチ箱、ではなくてそれこそ棒だけがもっさりとスーパーの袋に詰めこんである。どうしてこんなに沢山のマッチ棒だけがあるのかよくわからないけど、でもとにかくはちきれんばかりにしてもっさりとあります。仮にこの部屋が放火されて焼け落ちたとしても、まずこの大量のマッチが不審がられるとおもう。ふつうの家にそんなものはない。パッと見たかんじではピクニックのついでに摘んできた山菜のようです。

しかもその使い道と言ったらあなた、火をつけること以外にはろくろく役に立ちません。あとはパズルに使うとか1本1本貼り合わせてちいさな金閣寺を建立するくらいのものです。何もかも失ったときにはこれほど重宝するものもないのに、不要となったらとことん不要なのだから困ってしまう。だいたい、箱はどこへいったんだ?

箱と言えばいつだったか、古い(といっても昭和初期から中期くらいの)マッチラベルのデザイン原画をまとめた、一冊のノートをみたことがあります。たぶん実際にデザイナーをしていた故人のポートフォリオみたいなものが蔵書やなんかと一緒に古物として市場に流れたんだとおもうけど(そういうことはよくあるのです)、じっさい目にしたらぼんやり想像していたのとはかけ離れたものがそこにあって、度肝を抜かれました。というのもそのノートにおさめられたラベル原画はどれも、マッチ箱と同じサイズで描かれていたからです。

あ、なんかするするっと読み流したら、ピンとこないですね。もう一度言いましょう。

ラベルの原画はどれも、マッチ箱と同じサイズで描かれていたのです。

てっきり縮小したものだとばかりおもっていたマッチラベルの原画が元々あのサイズ、しかも絵筆で描かれていたことの衝撃たるや、とても言葉に尽くすことはできません。図案にしてもタイポグラフィ(たとえばお店のロゴ)にしても目を疑うような緻密さで、完全に虫眼鏡の世界です。ラベルとして印刷されたものをみたらとくに心には留めないようなデザインでも、あのサイズで手描きとなったらそりゃ話もぜんぜん違ってきます。何しろそこには「何を描くか」以前に「そもそもこの箱に描けるかどうか」という物理的な制約が含まれていたことになるのだから、それまでの見え方が180度ひっくり返るのも当たり前です。その上であらためて古いマッチを手にしてご覧なさい!それまで考えたこともなかった高度な職人的技術と完成度に打ちのめされること必至です。

映画「レイダース/失われたアーク」のラストで、聖櫃を倉庫に収めるシーンがあるんだけど



後になってこれが映像ではなく手描きの絵だったと知ったときの驚きにちょっと近い。(CGのない昔の映画ではわりとふつうのことだったそうですけども)

待てよ、これを引き合いに出すとマッチラベルの話が霞むような気もするな…

それはともかく、これほどの職人芸(マッチラベルのことですよ)がこれまでとくに顧みられることもなく、ただ失われていくがままにまかせていたなんて、あまりの文化的損失に考えるだけで気が遠くなります。これまでにいったい何枚の図案が捨てられてきたんだろう?

ちなみに恐るべき破壊力を秘めたその原画ノートはその後、どこかのマッチラベルコレクターに買い取られたそうです。然るべき資格をもった人の所有になるのなら、やっぱりそのほうがいいだろうと僕もおもう。正直、すごい欲しかったですけど。




ちいさい秋ふみつけたさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: スパイスの入ったどろどろしたものを総じてカレーと呼ぶのにそろそろ限界を感じていますが、こんな世の中に誰がしちまったのさ?


前回も登場いただいた古川さんが、ものすごーくカレー好きなんですよね。おかげで普段はあまり外食をしない僕もあちこちでお相伴にあずかって、今ではけっこうな種類のカレーを体験させてもらっています。単純にインド風とか欧風とかで括れないほどお店ごとにはっきりとバリエーションが異なるものだから、あるとき「どんなタイプのカレーが好きですか」と尋ねたら「カレーであれば良し」というじつに大らかな、それでいていまいち要領を得ない答えが返ってきました。むしろその前にカレーの定義を訊くべきだったと反省しています。

そんな僕のささやかな経験を総合するとカレーとは概ね、スパイスの入ったどろどろしたものです。場合によってはさらさらしていたり、ペースト状だったりすることもあるけれど、少なくともスパイスが入ってどろどろしていればそれはカレーと呼んでまちがいありません。そしてこの曖昧模糊とした印象こそが、カレーにおける魅力の最たるものだと僕は考えます。スパイスにしたって「これが入ってなければそう呼べない」ようなものは特にないし(クミンさえ絶対ではない)、一料理として満たされるべき必須条件がほとんど存在しないのです。こうなると逆に何がカレーたらしめているのか判然としなくなってきます。どこまでいっても境界線がないその懐の広さといったら、まるでお釈迦様の手のひらのようです。


今日の結論:カレーとはお釈迦様の手のひらのことである。


問題はこんな世の中に誰がしちまったのかということですが、とりあえずカレーの王子さまあたりにその責を負わせておけばいいんじゃないかなとおもいます。1歳から食べられるカレーだそうだし、離乳食からカレーで育った子どもたちが大人になれば、そりゃいずれはどうしたってそんな世の中にもなろうというものです。


A: カレーの王子さま




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その142につづく!


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