ハレンチクルーラーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 一日一日を大切に過ごすとはつまりどういうことでしょうか。
いい質問です。
これは言ってみれば河童の頭にある皿のように過ごすということであり、もしくはタンスの角につけ狙われる足の小指のように、表面張力ギリギリの水のように、夜のオウムのように、確認されているUAPのうち今も科学的に説明のつかないわずかな目撃例のように、婚約したばかりなので絶対に生きて帰ると照れくさそうに話す兵士のように過ごす、ということになりましょう。
向こうが透けるほど擦り切れたパンツのようにと言い換えてもいいし、映画のエンドロールのようにとか、ダイヤモンドのようにとか、まだ発見されていない新種のキノコのようにとか、ビンの底に残った高いお酒のようにとか、古い民家の襖のようにとか、1本だけひょろ長く伸びた体毛のようにとか、何なら人生の伴侶に選んだたった一人の誰かのようにと言い換えてもよろしい。わかるようでなんだかよくわからないなりに、じっさい大切なことは確かに大切だし否定もできないのでそりゃまあ大切にしないといけないよねと同意するほかありません。
とにかくホームボタンとか、待ちに待った新作とか、かつてツイッターと呼ばれたアプリとか、季節感とか、爪楊枝の端にある溝とか、幼少時から使ってて今も手放せないボロボロのタオルとか、初めて買ったときはまだ有線だったから捨てられないイヤホンとか、言わないとわからないから言わざるを得ない必殺技の名前とか、初恋とか、トイレットペーパーのミシン目とか、推定無罪とか、課金しまくった末にやっときたSSRとか、タピオカみたいに過ごすのです。うーん、それもいいけど、そうじゃなくてね、と訳知り顔の誰かに苦笑いで窘められたら顔面にストレートのグーパンをお見舞いしてやりましょう。てめえの大切を人に押しつけんじゃねえよ、と言い捨てたのち、地面にペッと唾を吐いても大丈夫です。
大切にしようとそうでなかろうと、人生はつづき、またおそらくわりと唐突に終わりを迎えます。それはヒトに限らずすべての生物が例外なくそうです。一日一日を大切に過ごした人と、別に大切に過ごさなかったカタツムリとで、生と死の意味が変わるかと言ったらもちろん変わりません。それでも一日一日を大切に過ごしたいと、ちっとも具体的ではない極めて曖昧なことを考える甲斐は果たしてあるだろうか?
ある、と個人的には考えます。実際にそう思ってもいます。ただしそれはあくまで一個人の胸に留めておくことであり、一般論として語るような話ではありません。人とシェアするようなことでもない。少なくとも、どういうことだろう?という問いに対して迷いなく答える人がいるなら、そこに耳を貸す必要はありません。大切にしたいと思うきもちは尊重できても、”And you?” と問われた時点で僕はうるせえ余計なお世話だ一緒にすんなと返します。どう考えてもパーソナルな話のはずなのにどこかで聞いたことがあるようなある種の定型句になってしまっている時点で忌々しい。
だからこそなんだか判然としないままに胸を張って堂々とこう断言するのです。それは一日一日をカカポのように過ごすことである、と。
A. 記憶にないブックマークのように過ごすことです。
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その401につづく!
なんと美しい解。じんときます。
返信削除ありがとうございます!
よかった!
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