2022年9月30日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その383


とある科学の正露丸さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私にはかれこれ10年以上の付き合いになる友達がいます。彼女は待ち合わせの時間を一度も守ったことがありません。私はもう慣れてしまって彼女を待つのは全く苦ではないのですが、1度でいいので彼女が時間どおりに待ち合わせ場所にくるのを見てみたいです。何かいい方法はありますか?


わかります。僕も昔からわりと時間にぴったり派です。

一方、常に遅刻する人というのは僕らが時間にきっちり合わせて来るのと同じくらい、きっちり遅れてきます。こちらからすると、たとえば毎回遅れてしまうなら、そのぶん早く行動すれば常にオンタイムになるじゃないか、と思うのだけれど、なぜかそうはなりません。ふしぎですね。

ただ僕自身は積年の経験から、時間を守る、もしくは守らないという認識をすこし改めるようになりました。具体的に言うと、僕らは決められた時間を守るべく意識的に行動しているつもりでいるけれど、じつは単に「時間を合わせることが苦にならない」だけなのではないのか、ということです。すくなくとも日ごろからそれほどの労なく時間を合わせることのできる僕らは、それをストレスに感じることはほとんどありません。

しかし時間を合わせることが苦手な人にとっては違います。自覚があろうとなかろうと、その必要があるたびにストレスが生じているはずです。

たとえば始業時間までにタイムカードを押す必要がある場合、彼らが毎日きっちり判を押したように遅刻するかと言ったら、意外とそうはなりません。そうはならないからこそ、じゃあ何で仕事以外ではいつも遅れてくるんだという話になるわけだけれど、そこはそれ、要は時間を合わせることが苦ではない人が普段まったく費やす必要のない労力を、毎朝せっせと費やしているだけのことなのです。

遅刻してもいいじゃないか、と擁護したいわけではありません。お互い同意の上で時間を決めているわけだから、僕としてもできればオンタイムであってほしい。ただここでは、「苦もなくできることをできて当たり前だと思いこみすぎてはいないか」と立ち止まってみたいのです。

もちろん僕らにとっては、待たされることがストレスになります。しかし相手が誰であろうと時間を決めるたびに無意識下でストレスが蓄積されることに比べたら、ぶっちゃけ大したことではありません。何となれば、すべての人が時間に遅れてくるわけでは全然ないからです。


とはいえ、もし本当に一度でいいというのであれば、考えられる方法がひとつあります。いくつかの手順を踏む必要はありますが、うまくいけば以前よりも友情が深まるはずです。

まず、約束の3日くらい前までに悪い王様を1人用意しましょう。適役なのは「走れメロス」で知られるディオニスですが、悪ければ誰でもかまいません。とにかく悪い王なので、暗殺する必要があります。その暗殺の役目を、友人に負わせましょう。慣れていないので、暗殺は失敗します。言うまでもなく、結果は死刑です。

しかし友人には妹がいて、彼女は結婚を控えています。もし妹がいなかったら妹になりそうな人を用意しましょう。結婚式を執り行うために、処刑を3日後まで猶予してもらう必要があります。そこでとある科学の正露丸さんの出番です。

気の毒な友人のために、結婚式を終えて帰ってくるまでの身代わりを申し出ましょう。磔になって友人の帰りを待ちます。その期限こそがたとえば映画を観に行こうと約束した日であり、約束の時間です。

おそらく友人はぶじ結婚式を終えた帰途、待ち合わせ場所にたどり着くまで散々な目に遭います。向こう岸へ渡るための橋が流されていたり山賊に襲われたりして、なんなら一瞬はあきらめもするでしょう。しかしやはり気を取り直し、最後まで駆け抜け、あわや処刑というまさにその瞬間、ボロ雑巾のような姿で待ち合わせ場所に現れます。時計を見ればぴったり約束の時間どおりです。とある科学の正露丸さんは解放され、悪い王様は改心し、処刑そのものがなくなります。絆も深まること請け合いだし、これ以上ない大団円です。あとは気兼ねなく王様と3人で約束の映画を観に行けばよろしい。

幸運を祈ります。よかったら僕も山賊役で呼んでください。


A. 友人をうまいことメロスに仕立て上げることです。




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その384につづく! 

2022年9月23日金曜日

「間奏者たち/interluders」の制作における、通常ではあり得ない工程のこと


僕のスタイルは昔から今に至るまで一貫して、一定量の言葉をビートに乗せて朗読する、というものですけれども、朗読にムードとしてのBGMを添えるのとは違って、かなり厳密に言葉の位置が決まっています。方法論としては単なる朗読よりもやっぱりラップに近くて、リズムのほうに言葉を寄せていくイメージです。

その事実と想定外の形で向き合うことになった、おそらく最初で最後の一編が、アグロー案内 VOL.2に収録された「間奏者たち/interluders」でした。

この一編はもともと、タケウチカズタケ、椎名純平、そしてなぜか小林大吾という風変わりな組み合わせで巡った僕にとっては尊いこと極まりないツアー ”SoloSoloSoloTOUR 2019” のために書き下ろしたものです。完全に忘れていたけれど、ブログを遡ったらそう書いてあったので間違いありません。

僕が覚えているのはこれを音源にするつもりが毛頭なかったこと、その代わりにライブを重ねるごとに言葉を少しずつ入れ替えていく、何なら時間をかけて育てるような心算であったことくらいです。ライブなんかしないくせによくもまあ抜け抜けとそんな厚かましいことを考えたものだと僕もおもいます。

音源にするつもりがなかったのは、そもそもそういう積極性に欠けるところがある性分のせいでもあるけれど、最大の理由はトラックがレコードからサンプリングした大好きなフレーズを単純にただループしただけのものだったからです。”Rapper’s Delight”の時代じゃあるまいし、そんなものを今オリジナル作品として公にリリースするわけにはいきません。



それはまあそれとして僕の手元には、サンプリングをループしただけのそのトラックに、タイトルもまだ決まっていない詩のリーディングを乗せて録音したものがありました。つまりこの録音を元に、同じBPMで、カズタケさんが新たなトラックに作り換えてくれたわけですね。

完成した至高のトラックにはもちろん、先に僕が録音したリーディングが乗っていました。しかしそこに思わぬ落とし穴があったのです。

サンプリングをループしただけのトラックは、その元が生演奏であり、さらにそれを落とし込んだメディアがレコードであるという2つの特性上、BPMが厳密には一定になり得ません。サンプリングしたひとつのフレーズにおけるリズムの揺らぎが微小で感知できなくても、ループを繰り返せば繰り返すほど正しいBPMとのズレが大きくなっていきます。

要はサンプリングから抽出したBPMでトラックを作ったにもかかわらず、そのトラックとリーディングがきちんと合致していなかったのです。

言い換えるなら、基準となるBPMが同一であるにもかかわらず、もしこのトラックに合わせてリーディングをするとしたらこの言葉はこの位置に来ないという奇妙な状況が発生してしまったわけですね。

言うまでもなくこれは、新たなトラックに合わせてリーディングを新規に録り直せばそれで済む話です。 

しかしそれ以上に、「このリーディングをちょきちょき編集して、じぶんが思う正しい位置に置き直したらどうなるだろう」という、本来ならまず生じ得ない工程への好奇心がむくむくと頭をもたげました。

最低限不可欠な部分はかっちり合わせるので全体としては当然、違和感なく収まります。とはいえ1音ずつ配置するわけにはいかないのでそれ以外の数秒における揺らぎは保持されたままになる……裏を返せばそれは真っ当にリーディングをしたら決してそうはならない形に着地するということであり、自らの意志で再現することはできない仕上がりになるのです。

(ちょきちょき)
(ペタッ)
(ちょきちょき)
(ペタッ)

そうして自ら音声の編集をし、それをカズタケさんに再度パスして完成したのが、件の「間奏者たち/interluders」です。いま述べたような理由によって、もはやライブで忠実に再現することはできない小さな揺らぎが、ここにはそのままパッケージされています。

かれこれ20年以上、音楽家として第一線で活躍してきたタケウチカズタケでさえ経験したことのない(!)、稀有な道筋で完成に至った作品です。

一聴して特に違和感のないリーディングの一体どこがどう再現不能なのか、気が向いたら詮索してみてください。

2022年9月16日金曜日

「間奏者たち/interluders」について語るはずがフィル・コリンズに終始する話


もういいかげん書けそうなことが何もないので、かくなる上は腹掻っ捌いて浮世におさらばを…と白装束に正座で短刀を腹に翳したちょうどその折、カズタケさんが「間奏者たち/interluders」のことをブログに書いてくれたので、僕からもすこし補足をいたしましょう。切腹せずに済んでよかった。


「大吾と2人でしか出来ない、2人で作るソウルミュージックをやろう」とカズタケさんのブログにはあって、それは実際そのとおりです。ただ、そこで引き合いに出されたフィル・コリンズ(Phil Collins)はわりとストレートなポップ・ミュージシャンで、ソウル、R&B、ヒップホップと言ったブラックミュージック界隈のアーティストでは全然ありません

元々はジェネシスというこれまた超有名なロックバンドに途中で加入したドラマーだったのに気づいたらバンドのキーマンになり、並行してソロとしても活動し、シンガーソングライターとしてスターダムにのし上がっていくその過程で80年代を象徴するようなサウンドを生み出したとまで言われる、今となっては伝説的なアーティストの一人です。背景をろくすっぽ知らずに聴いていた子どものころ、エリック・クラプトンの後ろでフィル・コリンズがドラムを叩いているライブ映像を見たときは頭が混乱したものでした。

ちょっとややこしいけど、要は80年代の洋楽を語る上で絶対に欠かすことのできないスーパースターのひとり、ということです。

リアルタイムで聴いてたアルバム

ではなぜ「ソウル・ミュージックをつくろう」から偉大なポップ・スターであるフィル・コリンズが連想されるのかというと、彼の幼少期から愛してやまない最も馴染みのある音楽がソウル・ミュージックだったからです。僕はその事実に、いろいろあって彼が第一線から退き、もう二度とアルバムを作ることはないだろうと思われていた2010年に突如リリースされた、古き良きソウルのカバーアルバム("Going Back")でやっと気づきました。え!?あ、そうか、言われてみればあれも、そうだあれも、うわああ考えたこともなかった…!と30代も半ばになってひっくり返るんだから、われながら遅い。

このリリース自体も本当に驚きだったけど、それ以上に僕も大大大大大好きなマーサ・アンド・ザ・ヴァンデラス(Martha & the Vandellas)の大名曲 "Heatwave" のカバーがMVで公開されたときはちょっと信じられなくてじぶんの目と耳を疑ったし、息が止まるほどうれしくて涙が止まらなくなったことを覚えています。ここに至るまでの道のりとか、ファットなヴィンテージサウンドからひしひしと伝わる偏愛とか、そもそもこの曲がエモすぎるとか、とにかくいろんな感情がないまぜになって、いま観ても滂沱の涙を流してしまう。


カズタケさんのブログにもあったように、僕がフィル・コリンズを聴くようになったのは母親の影響で、今みたいにブラックミュージック一辺倒になるずっとずっと前です。あの頃はラップと言えばヴァニラ・アイスの "Ice Ice Baby"を思い浮かべるくらい、ヒップホップとも縁がなかった。

フィル・コリンズのソロキャリア初期におけるヒットのひとつ "You Can't Hurry Love(恋はあせらず)"シュープリームスのカバーとは知らずに聴いていたし、何ならだいぶ長いこと彼のオリジナルと勘違いしていたくらいです。(実際今でもこっちに反応してしまう…)


それから僕が彼のヒット曲で特に好きなのをいくつか挙げろと言われたら絶対にピックアップする "Two Hearts" も、今にしてみたら完全にモータウン愛丸出しの曲なんですよね。映画の主題歌だったからスタジオアルバムには収録されていなくて、そのためだけにサントラを探して買ったものです。


つまり僕にとっては、子どものころから大人になるまでいろいろな音楽に触れてきた長い遍歴の果てに、ソウル・ミュージックという安住の地にたどり着いたら、そこにまさかのフィル・コリンズがいた、ということなのです。え!?なんでここにいるの!?みたいな驚きですね。アース・ウィンド&ファイア(EWF)のフィリップ・ベイリーとのデュオ曲 "Easy Lover" もある意味では自然な組み合わせだったと今ならすごくよくわかる。


したがって、ソウル・ミュージックを作るのにフィル・コリンズをモチーフにするというアイデアは、おそらくカズタケさんが思うよりもはるかに深く、僕のアイデンティティに通じることだったと申せましょう。

とはいえ、そんな僕のバックグラウンドを知って「おれはフィル・コリンズと言ったらこれかなあ」とじぶんの引き出しから "One More Night" を取り出してくるのも、それはそれでちょっとしたことだと思うんですよね…。知り合ってもうだいぶ経っていた10年前ですらそういう話はほとんどしてなかった気がするから、今になってしみじみと縁を感じます。


そういう意味で「間奏者たち/interluders」は、長い年月をかけてゆっくりと発酵したこの関係性があったからこそ生まれた作品である、と言えるかもしれません。



本当はこの流れで、もともとあったオリジナルバージョンのために普通ならまずないような、音楽としてはちょっと変わった工程があった話をするつもりだったんだけど、もうフィル・コリンズでお腹いっぱいなので次回にいたしましょう。

どれくらいの人が興味を持ってくれるのか、ちょっとわからないですけど。
 

2022年9月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その382


アグロー案内 VOL.2の配信からぶじ2週間がすぎ、ふと、そういえば小数点花手鑑のリリース直後はどんなだったかなあとブログを遡ってみたら、CDショップ行脚であちこちに大きなPOPが設置されてたとか、ラジオでインストアライブに臨んだとか、インストアライブでフロアが埋まってえらいことになったとか、サイン会(!)をしましたとかまるでいっぱしのミュージシャンのようでひっくり返りました。

そうだったっけ……?

しかしまあ、今となっては特にそんなこともなく、これ以上お話しできそうなことも思い当たらないし、と困り果てていたところにちょうどタイミング良く質問をいただいたので、またいつもの調子に戻りましょう。アグロー案内 VOL.3も今年中にはやってくるはずなので気長にお待ちあそばせ!


ドリームズ・パス・スルーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 最近たまに見る表現で「あらためて驚嘆」という表現がありますが、この言葉が使われるであろう場面が想像できず、すごく居心地が悪いです。もし「あらためて驚嘆」を使うとすればどのような場面で使いますか?


かれこれふた月ぶりの質問箱としては、なかなか向き合い甲斐のある質問です。実際に目にしているのだからそもそも絵に描いたような例文がそこにあるわけだし、それも複数回見ている以上もはや疑問の余地などなさそうに思われるところをあえて真剣に考えてみる、これこそパンドラ的質問箱のレゾンデートルであり、面目躍如と申せましょう。

僕自身はまったく見かけた記憶がなかったのでググってみたところ、たしかにギョッとするほどの検索結果が表示されたことから、今ではある種の定型、慣用句として定着しつつあるのかもしれません。半世紀くらい前にはほとんど誰も使っていなかったかもしれないことを考えると、ちょっとワクワクさせられるものがあります。誰かが最初に用いて、使い勝手の良さから広まっていったのなら、日本における言語的ミームのひとつと言ってよさそうです。

とはいえ個人的にはそれほどの不思議はありません。おもうにこれがミームとして広まるのは、「やっぱりすごい」よりも「知っているはずなのに驚いてしまう」のほうが対象への賛辞として上位に感じられるからです。料理において本来これだけで事足りる賛辞であったはずの「うまい」「おいしい」があまりに使い古されてピンと来なくなった結果、さらに上位の表現として「箸が止まらない」とか「無限に食べられる」が生み出されたのと似たようなことですね。

となるとこれは結局のところ「すごい」とか「やばい」をそれっぽく言い換えたにすぎません。多くの人が共有しているような事柄であれば、何にでも適用できます。最終的には「だよね」とか「わかる」に着地すればいいわけだから、「カップヌードルやっぱ美味い」も「カップヌードルの美味さにあらためて驚嘆した」に置き換えられるし、そもそも既知とされる事実を刺激する分、より多くの同意を得られるはずです。

僕自身が「あらためて驚嘆」した例を挙げるなら、大人になってから全速力で走ったときですね。それまで長いことぜんぜんまともに走っていなかったから、歩くより走るほうが速いとわかっていても、その速さに本気で驚いた記憶があります。とっくに知っているつもりでいたわけだから、それこそあらためて驚嘆というほかありません。

したがってこれをそれっぽくまとめると、こうなります。


A. 「人が全力で走るときの速さにあらためて驚嘆した」




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その383につづく! 

2022年9月2日金曜日

アグロー案内 VOL.2における名探偵のセリフについて


さて、アグロー案内 VOL.2です。先月末のリリース以来、各方面から尽きることがない絶賛の声を頂戴しているような錯覚を膝に抱いて猫のように撫でながら迎える9月、ご機嫌いかがですか。



今日はお問い合せがすごく多かった、というかそういうお問い合わせが1件でもあったことにして、アグロー案内のちょっとした謎についてお話ししましょう。具体的にはVOL.2、3曲目の「名探偵山本和男 THE MOVIE(予告編)/the yamamoto kazuo movie (official teaser)」についてです。

山本和男がまだ小学生だったタケウチカズタケ少年によって生み出された探偵であることは確か前回にお伝えしましたが、それはタケウチカズタケが今も自他共に、では全然ないけれども少なくとも自身はっきりそう認める、シャーロック・ホームズの熱烈な支持者だからです。さすがにホームズを実在の人物と見なして語るシャーロキアンとまでは言わないまでも、古い外国の市街地図を見て「あ、わかる、これロンドンやんね」と一目で見抜いてしまうくらいの愛好家ではあります。

たとえば彼のソロアルバム「Under the Willow -Rain-」に収録された「Barrymore」という曲は、シャーロック・ホームズシリーズのひとつである「バスカヴィル家の犬」に重要な役割を担って登場する執事、バリモアがその由来です。




名探偵山本和男 THE MOVIE(予告編)/the yamamoto kazuo movie (official teaser)」(長いな)に含まれるセリフの数々は基本的にタケウチカズタケ本人の希望によるものですが、僕もホームズシリーズは一応すべて読んでいるし、せっかくなら本家に対するオマージュになるような一言も忍ばせておきたいと提案して採用されたものもあります。そのひとつが「蕨市に行ってらしたんですね」という一言です。

シャーロック・ホームズシリーズは基本的にすべて相棒であるワトソンが記録として事件を語る体裁になっています。そのワトソンと初めて顔を合わせた際、ホームズの最初に発した一言がやあ、どうも。アフガニスタンに行ってらしたんですね(How are you? You have been in Afghanistan, I perceive)」だったのです。ワトソンがアフガン戦争に従事していた軍医であるといきなり看破することで読者にホームズの超人的な洞察力を知らしめる、シリーズにおいても重要なシーン、そして欠くべからざる一言ですね。

さすがに当時とは状況がぜんぜん違うばかりか、今このタイミングでパロディとしてかの地を持ち出すのは情勢的にちょっと憚られるものがあるし、そもそも日本から出たことなさそうな山本和男とアフガニスタンが似合わなすぎる、待てよ、そういえば日本にも多くのクルド人が暮らして称するところのワラビスタンがあったな、よし、じゃそこにしよう

ということでめでたく「蕨市に行ってらしたんですね」と相成ったのです。そう考えると名探偵である山本和男が初対面でキラリと何かを見抜いたような気がしてくるじゃないですか?何ならそう指摘された相手が戸惑いながら「蕨市?いや、行ってないですけど……」と返すところまで想像していただきたい。

もちろんあくまで「スタン」という接尾語(土地という意味のペルシャ語らしい)に特化した連想なので、他意はありません。

いずれにしても、何もなさそうで何かある、もしくは何かありそうで何もない、というのはおそらく、アグロー案内に練りこまれたスタンスのひとつです。果たして山本和男はシャーロック・ホームズと肩を並べる名探偵なのか、それともただものすごくそう見えるだけなのか、それもまた追々、明らかになっていくことでしょう。

ならなかったらすみません。