2022年2月25日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その363


ミスター端っ子さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. お楽しみ会がそんなに楽しくないときはどうしたらいいでしょうか。


そうですね、たしかにこれは決してゆるがせにできない由々しき問題のひとつです。何しろお楽しみ会には、そもそもいったい誰にとってのお楽しみなのかという根本からしてひどくぼんやりしているところがあります。

一般的には享受する側のお楽しみであるということでおおむね合意が成立している印象ですが、実際のところそんな但し書きはどこにもないし、甲による乙へのといった法的な書面を取り交わすこともなければ、お互いにどうなのと口頭で確かめることすらありません。とにかく少なくとも誰かにとってのお楽しみなのは確かだろうからそれでいいじゃないのというだけです。

しかし問題はここにあります。誰かにとっての、ということは必ずしも享受する側とはかぎらないことを意味するからです。つまり、供与する側にとっての一方的なお楽しみであるかもしれないわけですね。

この時点でもかなりぼんやりしていますが、さらにお楽しみそれ自体が何を指しているのか、これまた判然としていない点にも注意が必要です。たとえばイベントそのものがお楽しみなわけではなく、心の重石になっているような何かがイベントの開催によって免除されることをお楽しみと解釈できるケースもあります。具体的には授業とか業務ですね。この場合、イベントの内容がどうあれ、したくないことをしないでいい時間ではあるのだから、それがお楽しみ会であることに異を唱える人はまずいないはずです。ただ、授業も業務もない休日を費やしてまで断行されるお楽しみ会もあるので、もちろん一概には言えません。くそおもしろくもない上に貴重な時間まで奪われる最悪のケースですね。

こうしたもろもろを考え合わせてみるとひとつはっきりしてくるのは、享受するわれわれのお楽しみである可能性が思いのほか低いということです。僕らにとって楽しいことを事前にリサーチした上で催されるならともかく、そんなことはまずないのだからむしろ本当に楽しいほうがよほどレアケースなんじゃないだろうか?

したがって、楽しくないのがデフォルトかつ当たり前であり、何かのまちがいで万が一めちゃめちゃ楽しかったときは滅多にない僥倖として心の底からしみじみとありがたく味わいたい、というのが僕の結論です。周囲に悟られないくらいの高速で鼻毛でも抜きながら能面みたいな笑顔でやり過ごしましょう。

長所を見つけて自ら積極的に楽しもうと努めるポジティブな結論もあったのだけど、お楽しみ会ごときにそこまでしてやるほどの価値はないと思い直しました。


A. 鼻毛でも抜いてやり過ごしましょう。




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その364につづく! 

2022年2月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その362


いちご大仏さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今、私の職場はソーシャルディスタンスのため、休憩は一人一部屋で過ごすように決められています。おかげで以前は休憩中に落ち着いてご飯を食べれてなかった私はとても助かっています。このように、ウィズコロナが普通になった今なんだかんだ人と関わることにエネルギーを使う人間には生きやすい環境になったのではないかと思っています。大吾さんはここがこうなったら生きやすいのにな、と思うことはありますか。


パンデミック下において思いのほか過ごしやすくなった人は、たしかに多くいるはずですよね。早く元に戻ってほしいと願う人がいるのなら、当然その逆だって同じくらいあるはずなのに、「普通ならこう感じるはずだし、みんな我慢している」という空気に気づけばどっぷり満たされていて、なんとなく口にするのが憚られること自体、率直に言って忌々しい。僕自身もまたどちらかと言えば「そうではないほうの民」なので、そのお気持ちはすごくよくわかります。

ただ一方で、これは僕にとってすごく重要な日々との向き合いかたのひとつだけれど、ある状況に対してこうだったらいいのにと願うことはまずありません。

そもそも僕は何であれ便利であるということにすこぶる慎重な男です。例えばエスカレーターやエレベーターは移動を楽にしてくれる文明の利器だけれど、あって当たり前になると今度はそれを使えないことが「不便」になります。僕は基本的にエスカレーターをあまり使わずてくてく階段を上るので、あろうとなかろうと不便を感じることはありません。

つまり、「あるといい」には「ないと困る」が必ずセットでついて回るわけですね。

だから便利を避ける、という意味ではもちろんありません。言うまでもなく、僕も毎日この上なく便利なスマホを使い倒しています。単に慎重なだけで、なるべくそうあって当たり前だと思わないように努めているという感じです。なくてもいいような心構えでいる、と言い換えてもよろしい。
 
とは言えこうだったらいいのにという願望こそが世界をここまで便利尽くしに発展させてきたことは僕もよくわかっているつもりなので、これはあくまで僕個人で完結してどこにも影響しない心のあり方です。とかくこの世はままならないという大前提抜きに生きることなどとてもできないし、だいたいヒト以外の生き物はみんなそうじゃないかと受け止めているところがあります。

またこれはそうした考え方の結果論というか副産物ですが、いつしか「そうある」ことに対してしみじみありがたいと感じるようになりました。例えば都心は電車とバスを使えばほぼどこにでも行けてしまう上に交通系ICカードやアプリひとつで事足りるとか、温かい布団で眠れることとか、ささやかな告知ですらサクッと大勢にシェアできてしまうとか、今の僕らを取り巻くほぼすべてのことにです。なくて当たり前の心持ちでいると、本当に世界はありがたさに埋め尽くされていていちいち感動させられます。

こうなったら生きやすいのにと考えることは、そうでない現実によってより生きにくく感じることと抱き合わせです。おまけにガッチリと一体化していて、まず切り離せません。そして片方が強調されればされるほど、もう片方も同じくらい強調されることになります。それでなくとも生きにくいのに、わざわざ自分で薪をくべることもないか、というのがおっさんになった僕の辿り着いた結論です。

障壁があって当たり前で、ないときに歓喜するのと、障壁がなくて当たり前で、あるときにストレスを感じるのとなら、世界を変えるのは常に後者で間違いありません。でもどっちがより生きやすくなるかという視点になると、なかなか考えさせられる良質な二択だとおもいます。


A. なるべくそう願わないように心がけています。




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その363につづく! 

 

2022年2月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その361


マリー・あんたは熱湯さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 来年に出産を予定しています。名前を考える段階になり、聞きなれないワードにぶつかりました。最近では、キラキラネームとは別にシワシワネームと言うものにも気を配らなければならないらしいです。シワシワネームとノーマルネームの境目はなんだと思いますか?また、ご自身の名前はどちらだと思いますか?


やあそれはおめでたい。世界のどこかに咲いているはずの麗しい花を探して、とにかくひたすらてくてくと歩き回る、そんな日々なわけですね。

今はシンプルに古風であるとか、具体的には日本固有の類型に則っているような名前を、シワシワネームというカテゴリで括ることがあるそうです。その頂点に君臨するのはたぶん、日本全国ありとあらゆる記入例に用いられる「太郎」と「花子」でしょう。

ただシワシワと言ってもキラキラに対する嫌気からきている側面もあるらしいので、むしろ積極的に名付けるケースも多くあることに注意してください。つまり、気を配る必要などそもそもないということです。でも、そうですね、権兵衛とか田吾作とかあんまり古いのまで含まれるかどうかはわからないけど、しいて言うなら昔から好まれてきた名前らしい名前かどうかがひとつの境目になるとおもいます。

僕も今はキラキラだろうとシワシワだろうとフワフワだろうとカチコチだろうと、それが周囲に与える印象よりも、名付けられた本人に親の思いが伝わっているかどうかのほうがはるかに重要であると考えるようになりました。仮にKFCと書いて「けんた」と読む名前があったとしましょう。かなり先鋭的だとおもうけど、名付けられたKFC君が誰に何を言われても「いいでしょ、自慢なんだ!」と胸を張れるとき、周囲がその名を非難することなどできるものだろうか?

もちろん限度はあるし、どうとでも名付けていいことにはなりません。あくまで良識(常識ではなく、良識です)の範囲内での話です。KFCを良識の範囲内と言っていいかどうかは意見が派手に分かれそうなところではありますが、それはまあ実際にKFCと名付ける段階になってから考えればよろしい。

ちなみに僕の祖母は名を「ウラ」と言いました。僕の親とその兄弟の誰も由来を知らなかったから、ハテ変わった名前だと幼心に首をかしげていたものです。ところがだいぶ大人になってから、うらは裏と同じで表には見えないことから心を意味する、と辞典か何かで知ってポンと膝を打ちました。「うらやましい」とか「占う」も同じで、「うら=心」から来ていると言います。

当人はだいぶ以前に鬼籍に入っていて、由来を知っていたかどうかも定かではないから、今となっては確かめようもありません。でも他のどんな理由よりしっくりくるし、そうおもえば急に奥行きが増してより美しくもあるから、きっとそうだったんだろうということにしています。心と書いてうらと読む、それだけでもなんだか趣がある話じゃないですか?

では「ウラ」という名前は古風だろうか?それとも耳慣れないから新鮮に聞こえるだろうか?彼女の孫たる僕は古式ゆかしい印象を持っているけれど、そうでない人もいるでしょう。

どんな名前であれ、抱く印象は人それぞれで、それがすべてです。ですよね?

あと、そうそう、僕の名前についてですが、僕自身がシワシワになりつつあるのでこうなると別にもうどっちでもいいというか、シワシワ上等ってかんじです。

どうかぶじに元気なお子さんが産まれますように!


A. むしろ僕がシワシワです。




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その362につづく! 

2022年2月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その360



ゴールデン鴨居さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. おならがくさいのはどうしてでしょう?


大人になるといつしか失われている、とても大切にしていたはずの何かがこの質問にはあって目頭が熱くなります。ハッとせずにはいられないし、かつて胸に抱き夢見ていたのは人生とか未来とか薄ぼんやりして掴みどころがないあれこれなんかより断然、尻からプーの放屁だったと認めざるを得ません。背筋が伸びる思いです。寝ても覚めても放屁だった気がしないでもない往時のきらめきがよみがえります。

旧約聖書によれば、かつて同じひとつの共通言語を話していた人類は、天に届く塔を建てるという不遜な行為によって、意思の疎通が叶わない別々の言語に分けられたと言います。世界中に散らばる多様な言語は神が人類の思い上がりを正すための、いわば罰だったわけですね。

おならがくさいのもそれと同じです。どんなに偉くとも、どんなにカッコよく、また美しくとも、そしてどれだけ賢くとも、誰であれ人はしょせん尻から意図せずプーとやらかして平等にくさいことからは逃れられない下劣な存在であり、思い上がってはならないと知らしめるために組み込まれた心理的ブレーキとしての生理現象がつまり、おならということになります。人類がみな根本からして平等であることに絶対の太鼓判を押す最低限の措置、と言い換えてもいいでしょう。

不快な臭気を伴わない尻からのプーとかスーなど指をパチンと鳴らすのと大差ありません。誰がなんと言おうとそれはくさいからこそ意味を成すのであって、問答無用でそうあるべきだし、そうでないならもはや平等ではなくなってしまう、とむしろこのさい肝に銘じましょう。人類がみな平等であるためにはおならがそれなりにくさくてちょっと困ることが絶対的に求められます。誰よりもくさくあれとは言いませんが、結局のところそれは僕らが僕らであるためにどうしても不可欠な、小さいけれども確かにくさい条件のひとつなのです。


A. 人類という人類はみな平等であって本質的な貴賎などないと示すためです。



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その361につづく!