いちご大仏さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 今、私の職場はソーシャルディスタンスのため、休憩は一人一部屋で過ごすように決められています。おかげで以前は休憩中に落ち着いてご飯を食べれてなかった私はとても助かっています。このように、ウィズコロナが普通になった今なんだかんだ人と関わることにエネルギーを使う人間には生きやすい環境になったのではないかと思っています。大吾さんはここがこうなったら生きやすいのにな、と思うことはありますか。
パンデミック下において思いのほか過ごしやすくなった人は、たしかに多くいるはずですよね。早く元に戻ってほしいと願う人がいるのなら、当然その逆だって同じくらいあるはずなのに、「普通ならこう感じるはずだし、みんな我慢している」という空気に気づけばどっぷり満たされていて、なんとなく口にするのが憚られること自体、率直に言って忌々しい。僕自身もまたどちらかと言えば「そうではないほうの民」なので、そのお気持ちはすごくよくわかります。
ただ一方で、これは僕にとってすごく重要な日々との向き合いかたのひとつだけれど、ある状況に対してこうだったらいいのにと願うことはまずありません。
そもそも僕は何であれ便利であるということにすこぶる慎重な男です。例えばエスカレーターやエレベーターは移動を楽にしてくれる文明の利器だけれど、あって当たり前になると今度はそれを使えないことが「不便」になります。僕は基本的にエスカレーターをあまり使わずてくてく階段を上るので、あろうとなかろうと不便を感じることはありません。
つまり、「あるといい」には「ないと困る」が必ずセットでついて回るわけですね。
だから便利を避ける、という意味ではもちろんありません。言うまでもなく、僕も毎日この上なく便利なスマホを使い倒しています。単に慎重なだけで、なるべくそうあって当たり前だと思わないように努めているという感じです。なくてもいいような心構えでいる、と言い換えてもよろしい。
とは言えこうだったらいいのにという願望こそが世界をここまで便利尽くしに発展させてきたことは僕もよくわかっているつもりなので、これはあくまで僕個人で完結してどこにも影響しない心のあり方です。とかくこの世はままならないという大前提抜きに生きることなどとてもできないし、だいたいヒト以外の生き物はみんなそうじゃないかと受け止めているところがあります。
またこれはそうした考え方の結果論というか副産物ですが、いつしか「そうある」ことに対してしみじみありがたいと感じるようになりました。例えば都心は電車とバスを使えばほぼどこにでも行けてしまう上に交通系ICカードやアプリひとつで事足りるとか、温かい布団で眠れることとか、ささやかな告知ですらサクッと大勢にシェアできてしまうとか、今の僕らを取り巻くほぼすべてのことにです。なくて当たり前の心持ちでいると、本当に世界はありがたさに埋め尽くされていていちいち感動させられます。
こうなったら生きやすいのにと考えることは、そうでない現実によってより生きにくく感じることと抱き合わせです。おまけにガッチリと一体化していて、まず切り離せません。そして片方が強調されればされるほど、もう片方も同じくらい強調されることになります。それでなくとも生きにくいのに、わざわざ自分で薪をくべることもないか、というのがおっさんになった僕の辿り着いた結論です。
障壁があって当たり前で、ないときに歓喜するのと、障壁がなくて当たり前で、あるときにストレスを感じるのとなら、世界を変えるのは常に後者で間違いありません。でもどっちがより生きやすくなるかという視点になると、なかなか考えさせられる良質な二択だとおもいます。
A. なるべくそう願わないように心がけています。
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その363につづく!
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