原子力炊飯器さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 文字を書く時に「書き順」って気にしますか?
わりと日常の、何でもないことのように思えて、考え始めるとなかなか奥の深い問題です。
完全に合理的な視点で言うと、書き順など何の意味もありません。なんとなれば文字とはあくまで伝達のための記号であり、伝わりさえすればそれで役目を果たしたことになるからです。どういう手順で書かれたかなど読む人には知りようがないし、そもそも文字は連ねてこそ意味を成します。どの文字もメッセージの一要素にすぎない以上、とにかく特定の文字であることが瞬時に判別できればそれでよろしい。
書き順で僕が昔から釈然としないのは「右」と「左」の2文字です。「右」ははらい(上から下)を先に書きますが、「左」は横棒(左から右)を先に書くことになっています。ですよね?
これには一応ちゃんとした理由、といっても合理性ではなく文字の成り立ちから来る理由があるらしくて、聞けばたしかにふむふむなるほどね、と納得はできるんだけれども、人生の折り返し地点をすぎたとおぼしき今になっても、だから何だとおもっているところがあります。
だいたい文字の成り立ちに敬意を払うならフォントだって左の横棒より右の横棒の方が長いはずだけど、フォントによっては長いどころかむしろ短くなっているくらいなのです。成り立ちがスルーされるのなら、それに基づく書き順も当然スルーされなくてはなりません。(ちなみに教科書用のフォントではちゃんと右の横棒が長くなっています)(逆に忌々しい)
大昔は文字、とりわけ表語文字は使える人が限られていて、それ自体がある種の神性を帯びていたはずだから、書き順をまちがえることでその神性が損なわれたとしても無理はないし、だから書き順が決まっているのもすごくよくわかる。でも多くの人が当たり前に使うどころか、なんなら書かずに入力で済む現代にその順で書けと言われたらやっぱり何でだよとおもう。好きに書いていいけど、いちおう昔から伝わる書き順はこうだよ、くらいに留めてほしい。
ここまで書いて読み返すと合理性一本槍の強硬な反対派にしか見えませんが、論理的に突き詰めたらそうなるよなというだけで、僕個人はそうでもありません。それはそれ、これはこれです。少なくとも「右」と「左」のように、書き順を知っているものはそのとおりに書きます。
習慣というのもあるけど、すっかりおっさんになって老いが視野に入ってきた今の僕はむしろ、合理的でないものこそ世界を豊かに美しくする、必要にして不可欠な要素だと感じているからです。
気にするほどではないけれど、そういうことになっているならそういうことにしておこう、というゆるい受け止め方はそれが思考停止でなく明確に意識的であるかぎり、取り巻く世界にちょっとした彩りを添えてくれる、と今の僕は考えます。
何しろ合理性はぐうの音も出ない明快な答えを与えてくれるぶん、それ以外は無意味という拒絶も同時に孕んでいます。腹に入れば同じだし、味が変わらなければいいと盛りつけや提供の順に意味を見出さないようなものですね。
意味と無意味のモノトーンできちんと分けられた無駄のない世界と、無限のグラデーションに満ちたカラフルで無駄の多い世界のどちらで生きるかと言われたら、僕は後者を選びます。論破の牛耳る世界ではおちおちゴロ寝もできない。
したがって、書き順があり、それを知っているなら特に不都合がないかぎりそれに従う、というのが僕のスタンスです。知らないものまでそうあるべき、とは微塵もおもわないですけども。
A. 知っていればなるべく従います。
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その350につづく!
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