2017年1月28日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その259



飛んで火に入るナスの牛さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)


Q: 生まれつきなので全く長所と思っていない肌の白さを他人から言われたとき、なんて返せばいいのかいまだに分かりません。褒められても疎まれても生まれつきだから以外言いようがないのですが、なにか上手い返しはありませんでしょうか?


おそらく太古の昔から、人はわかりきっていることをなぜか言わずにはおれない奇妙な生き物です。この時期なら「さむい」がその筆頭に挙げられましょう。似たような例としては「背が高いね」「髪が伸びたね」「人がめっちゃ並んでる」「(道が遠くて)まだ着かないのか……」などがあります。感嘆符みたいなものだから意味があるかといったらないんだけど、考えてみればわざわざ口に出して言わなくても見ればわかるようなことばかりです。でもなぜか口をついて出ます。人にはそもそもそういう習性があるということをまず心に留めておきましょう。要するに言う側はそこまで深く考えていない、ということですね。

僕もはじめてパフォーマンスをご覧になった方から、声の良さをお誉めに与ることがありますが、これも言われた本人が何ひとつそれに寄与していないという点では「肌が白い」と同じです。個人的な印象で言えば「日本は湿度が高いですね」と言われた日本列島それ自体のきもちに近いものがあります。

単なる体質のひとつであってべつに努力の成果でも何でもないから、謙遜もできません。といって、いただいた好意に「はあ、どうもそのようで」と他人事みたいなお返事をするわけにもいきません。なので好意であれば答えは自然と「ありがとうございます」一択にしぼられます。何かが目減りするでなし、もらえる好意はどうあれ素直に頂戴しておくのがいちばんです。

もちろん、ご質問にもあるように疎まれるケースもあるでしょう。望んで得たものでもないんだから正直「知るかよ」の一言でばっさり片付けてしまいたいところですが、無用な遺恨を残してもいけません。ここはひとつ、相手のチャームポイントをひとつ挙げることで相殺することにしましょう。目が大きいでもいいし、足が長いでもいいし、それこそ背が高くてうらやましいとかちっちゃくてかわいいとか何でもよろしい。お中元とかお歳暮のやりとりみたいなものです。

あるいはもっと単純に、冒頭で挙げた感嘆符のひとつにすぎない場合もあります。この場合はひとまず「そうなんですよね」と返しておきましょう。日本列島も湿度の高さを指摘されたら、たぶん同じように言うはずです。

もっとこう破壊力のある一打はないのかという向きには、もうすこしテクニカルな返し方もあります。なんと返していいのかわからないことを言われるのだから、同じようになんと返したらいいのかわからなくなるような返し方をすればいいのです。肌が白いことを言われるなら、たとえば「豆腐みたいですよね」と返すのもよいでしょう。もしかしたらふつうに肯定されたあげく殴り合いのケンカに発展するかもしれませんが、それはもうしようがないといえばしようがないので、後遺症がのこらない程度に加減してあげてください。


A: 「豆腐みたいですよね。」




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その260につづく!

2017年1月19日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その258

無断使用をします。

軟骨精神さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)世の荒波にコリコリと立ち向かう心持ちのことですね。


Q: 2ndアルバムを確か高校生時代に確かヴィレヴァン本店で聞いて以来、あれは誰だったんだろうなぁと思いながら行動に起こさずそこそこの年月が経って、今年の夏にようやく小林大吾さんであることを突き止めました。YouTubeって偉大。小林大吾さんは曲名も作者も分からないけど好きな曲ってありますか?


うれしいご報告です。辿り着いてくれてありがとう!のみならず年賀状キャンペーンのおかげでこうして双方向にやりとりができるんだから、いい時代になったものですね。僕の脳内では今、「火を絶やさずにおいてよかった」「10年前の2ndアルバムから何も変わってない」の両者が熾烈な争いを繰り広げていますが、放っておいてもそのうち「やるじゃねえか」「へへ、おまえもな」的な友情に発展するとおもうので、このまま好きにさせておきましょう。

とまあこんな具合でしみじみ感慨に耽りつつ、質問にお答えしようとキーを叩きかけてふとあることに気づいたのです。

どうやって突き止めたんだろう……?

音楽にかぎらず、検索にはキーワードが必要です。しかしタイトルも作者もわからないとなるととっかかりが何もありません。テレビで使われていればその番組なりCMから辿ることもできます。町中で耳にしたなら今はShazamなり何なりアプリで音声検索もできましょう。しかし日常生活においてKBDGの作品をたまたま耳にする機会など、放送事故レベルのアクシデントでも起きないかぎりまず皆無です。メロディをおぼえていればそれを糸口にすることもできるかもしれませんが、そもそもKBDGにはそのメロディすらありません。

あるいは「なんかラップみたいな、ごにょごにょ喋ってる感じのやつ」と言ったら選択肢はそう多くなさそうに見えますが、豈図らんや今この時代にはなんかラップみたいな、ごにょごにょ喋ってる感じのやつがそれこそ掃いて捨てるほどあります。どちらかといえば僕もたぶん、掃いて捨てられるほうです。

個人的な経験で言えば、曲名もアーティストもわからないけどとにかく歌詞が幼いというか乳くさいというか(拙い、とはちがいます)、そのしょうもない、思い出すだけで血管が切れる、シュレッダーで切り刻むくらいでは飽き足らず、燃やして灰にしてフッと吹き飛ばしてもまだぬるい、保育園あたりから出直してこい的な歌詞の一部を検索して突き止めたことはあります。そんなことするから余計に血管が切れるんだけど、要は歌詞の一部でも手がかりになるということです。しかしKBDGの異常な言葉数からして、おそらくそれも望めますまい。左とん平のヘイ・ユウ・ブルースみたいに「人生はすりこぎなんだよ!」とかそういう一度聴いたら二度と忘れられない最高のパンチラインをひとつでも残しておけたらよかったですね。



本題に戻りましょう。僕は昔から気になった曲があると即アルバムを探しにいく堪え性のない男だったので、知らずになんとなくそのままにしておいたことはほとんどありません。いきなりアルバムを買ってしまうと全体的にはそれほど好みでもないケースも往々にしてあるし、小遣いの範囲だからハズレたときのショックといったらないんだけど、そうやってすこしずつ、じぶんのなかにある音楽の裾野を広げていったようなところがあります。いやでも血肉になっていくというかね。

ただ1曲だけ、たしか中目黒の古着屋だったとおもいますが、店内に流れていたコーラスグループ系のキュンとしたモダンソウルが誰の何という曲だったのか、とにかくむちゃくちゃすてきな曲だったという印象だけが心の奥底でカビみたいに残されています。先にも延々と書き連ねましたが、この先どうにも調べようがないのです。そのときははっきりと、サビでタイトルっぽいフレーズを連呼していたので「ぜったいこれタイトルだ、あとで調べよう」と目論んでいたのに、気づいたらそのフレーズ自体を忘れてしまってまったく、手のつけようがありません。あれから何年もたっているし、ひょっとしてすでにそのレコードを持っているんじゃないかという気もします。それすら確かめようがないのです。

したがって、お答えとしてはひどく素っ気ないようですが、どうしてもこうなってしまいます。


A. あります。


しかしホントに、どうやって辿り着いたんでしょうね?




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その259につづく!

2017年1月13日金曜日

エクスクルーシブかつラグジュアリーで洗練を極めた表現のこと


ご存じないのも無理はありませんが、僕は詩人です。詩人なので、世界のあちこちで無造作に転がる言葉の数々を心のホウキとちりとりで日々せっせと掃き集めています。詩人は言葉の移り変わりにも敏感でないといけません。ら抜き言葉とかカタカナ語の氾濫とか、かくあれかし的な美しい日本語とかそういうアカデミックなことはもっとえらい人に丸投げするとして、僕がいま好んで採集しているのはたとえばマンションの広告です。


こういうやつですね。電車の中吊りとか、新聞の折り込みでときどき見かける広告ですが、とにかく単なる住まいではないこと、今までになく新しいこと、エクスクルーシブかつラグジュアリーで都会にふさわしく洗練を極めていること、したがって人生を委ねる高い価値がここにはある、といった点を過剰なまでに強調しているせいか、他所ではあまりお目にかからない単語やフレーズの実験場みたいなことになっているのです。

今までになくこれが最初であることを、今までにない言葉で表現した結果、生まれたのがたとえばこれです。




「発表」だけでも初めての新しい知らせを意味しているはずなので、これはおそらくそれよりもっと初めてでそんじょそこらの新しさではないことを指しているとおもわれます。たしかに新しいと唸るほかありません。

住まいがあくまでも実用的なものである以上、利便性が備わっているのは大前提です。したがって新しい住まいをアピールする上ではさらにプラスα、付加価値が重要なポイントになります。しかし付加価値と言っても閑静であるとか、緑豊かであるとか、景色がいいとかでは他の多くの物件に埋もれてしまいかねません。たとえ同じことであってもせめて感性に訴えるような表現で、他と差別化を図りたい。肉を売るにしても、「焼くとおいしい」と言われるよりは「肉汁したたる」と言われたほうが食欲をそそります。まったくもって無理のない、こうした表現メソッドを住環境にも適用した結果がこれです。

傑作ではないらしい




















言いたいことはなんとなくわかるけれども冷静に考えたら何を言っているのかちょっとよくわからないとおもわれるかもしれませんが、大事なのは贅沢な雰囲気であって意味のあるなしは問題ではありません。なんとなくいいかんじであるからこそ受け入れられ、支持され、定着しつつあるのだし、むしろこうした若干アウトローな表現をまるっと許容する日本語の懐の広さにこそ、敬意を表するべきです。何よりここには想像の余地がたっぷりとあります。然るべき風景が誰にとって然るべきかといったらそれはもちろん住む人であって、実際のところそれがどんな風景であるかなど提供する側の知ったことではありません。羨望を纏うと言われたらそれはつまり「みんなうらやましがるよ」ということであり、多少噛み合わせがわるくともそれが大人びたムードで伝わりさえすればいいのです。潤いの最前席なんて、聞くだけでマイナスイオンを浴びているような気になるじゃないですか?

またこうしたメソッドは、ごくごく当たり前のことを唯一無二の特別な印象に甦らせてくれたりもします。たとえばこれです。



なかでも僕がとくに気に入っているのがこれです。


それは……ふつうのことではないのか……?

と言いたくなるきもちはよくわかります。一見すると建築に携わる人がするべき仕事をしただけのような気がするのはたしかです。しかしそうではありません。どこがどうそうでないのかは説明できませんが、とにかくそうでないことだけははっきりしています。そして最終的には、そうでないことだけが伝わればそれでよいのです。

正しいとか間違ってるというより、全体的に眼鏡の度が合わなくてクラクラと酔う感じに似てるんだけど、何なんだろうこれ……

2017年1月10日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その257


もつれても好きな糸さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)


Q: 外見と内面の差でがっかりされることが多いです。もう少しおしとやかだと思ってた、もっと喋らないタイプかと思ってたなど、比較的地味で薄い顔立ちのせいか、先入観でがっかりされてしまいます。恋愛においてもですが、仕事などの場面でも強く言えば引くだろうとたかをくくられることが多いです。どうすれば見た目と中身の差でがっかりされたり、軽く見られることを減らせるでしょうか?もしくは、それをプラスに転じさせることができるでしょうか?


身につまされる質問です。そのお気持ちは僕もじつによくわかります。あんまりよくわかりすぎて、「ダイゴさんもそうですよね!?」と暗に同意を求められているような気がしてしまうくらいです。僕の場合は音源の印象がつよいせいか、「おもってたイメージとちがいました」みたいなことをよく言われます。それはもうしょっちゅうです。すくなくとも「イメージどおりでした!」と言われることはまずありません。たまには「おもってたよりずっとステキでした!」とちやほやされても罰は当たらないとおもうんだけど、そういえばそれもありません。なぜでしょうね?

とかく人は先入観を持って日々を行く生き物です。そしてそれは100%、持つ側の問題であって、持たれる側の問題ではありません。「もっと喋らないタイプかと思ってた」と言われても(これは僕もよく言われる)、知るかよとおもいます。なんでこっちがあんたの勝手なイメージに付き合わなくちゃいけないんだ?ということですね。

ひょっとすると、見た目とのギャップで損をしていると感じておられるのかもしれません。が、それはちがいます。強く言えば引くと高を括る人は、どこへ行っても強く言えば引くと高を括っているはずです。

同じように、見た目とのギャップでがっかりしたり、軽く見たりする人は見た目にかぎらずありとあらゆる機会をみつけてがっかりします。仮にこちらがイメージとのギャップを埋めてみても、またべつのタイミングで抜け目なくがっかりしてくるのです。問題は「軽く見られるじぶん」にあるのではなく、「軽く見る彼ら」にある、という点に注意しましょう。恋愛においてもとありますが、どうあれ先入観から相手を軽んじるような人であることがはっきりするなら、むしろギャップの大きい今のほうがよほど有益だと僕はおもいます。

それはまた、そのギャップをひっくるめて受け入れてくれる人ならまちがいない、ということでもあります。これがプラスでなくて何でしょう。落差を減らせば、却って軽んじる人かそうでないかの判断が難しくなるにちがいありません。それでもなお、落差を軽減するだけの甲斐はあるだろうか?

個人的なことを言えば、僕はギャップを好む男です。それも落差が大きければ大きいほど胸を射抜かれます。そこには大きな滝にも似た美しさがあると申し上げてもよいでしょう。ギアナ高地にあって世界一の高さを誇るエンジェルフォール(Angel Fall)という滝は、落差が大きすぎて水が地上まで届かず途中で霧になるそうですが、たとえるならそんな美しさです。いちいち軽んじてくるような奴らなど、そのてっぺんから「霧になれ」と尻を蹴飛ばしてやればよろしい。



とまあそんなようなことを一言でざっくりまとめると、「ほっとけ」になります。英語で言うと "Fuck 'em" です。それはじぶんの問題ではない、ということをどうかお忘れなく。


A: Fuck 'em.




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その258につづく!

2017年1月7日土曜日

何もないことをさもあるかのように語る手品かもしくは詐欺みたいな話


年末年始を溺愛する僕にとって、大晦日と元旦はそれ自体が神様であり、また一年待ちこがれた刹那の恋人でもあります。できれば新年を迎えるその晩は、右腕に大晦日、左腕に元旦を抱きながらピロートークなかんじで一晩中イチャついていたいのです。ときどき目が合って互いに微笑みながら「こいつぅ」とか言っておでこをコツンとやりたいし、くすぐったりくすぐられたりしてキャッキャとたわむれたい。念を押しておきますが、大晦日と元旦を恋人に見立てての話です。

ところがここ数年、たしか2010年あたりが境だったとおもいますが、まったくその余裕がありません。元旦どころか三が日、なんなら松の内までの正月というか蜜月が、射抜かれた矢のごとく飛び去っていきます。昔はひとりでコタツに潜りながらテレビにかぶりつき、ゆく年くる年まで静止画のように身じろぎひとつせず新年を迎えて、腹が鳴ったらモチのひとつでも焼き、気が向けば静まり返った往来でシャボン玉を吹いたりしていたのに、いったいどこで何がどうしてしまったというのだろう?今ではひと息つくのはちょうど今ごろ、それこそ松の内が明けるころです。

失われた青春は、そもそも青春なんかありゃしなかったので、もうないと言われても痛くも痒くもないけれど、失われた年末年始には今も未練を断ち切れずにいます。率直に言って、あれ、ひょっとしてこれもう人生の折り返し地点過ぎてんじゃねえの、と気づいてハッとするようなお年頃の大人がのたまうことではありません。でも言いたい。何もかもが無に等しかったあのころの大晦日と元旦が恋しい。

大晦日に早稲田で見かけたオナガ

というような話をそういえば毎年しているような気もしますが、あけましておめでとうございます。世間一般的にはここらで今年の抱負とか、控えている今後の予定とかで景気よく年頭のエントリを飾ったりするんでしょうが、ここにそんなものはありません。しいて言えば向こう一年、カレンダーが「未定」の2文字でみっちり埋められて、どこにもオフの日が見当たらないくらいです。

そういえばどうにかこうにか乗り越えた恒例の年賀状キャンペーンはありがたいことに前の年の倍近い、そして過去10年で最も多い(!)応募がありました。1年前のブログを読み返すと「トラックで次から次へとどしどし運ばれてきて、これ以上はもう部屋に入らないよ!と悲鳴を上げるくらい多数(当社比)のご応募」とあったので、その倍となるとこれはもう相当な数になります。ここだけの話、キャンペーンも10年目なので当選枚数をこっそり倍くらいに増やしていたのだけれど、結果として倍率がいつもと同じなのだからご応募くださったみなさまには面目次第もありません。どうかこれにこりず、またお付き合いくださいますように……!

というかろくに活動もしていないのになぜここにきて最多数なのか、出ないはずのアルバムが出た年より多いじゃねえか、と頭に湧き出る大量のクエスチョンマークを足で脇によけつつ、本年もまたやってんだかやってないんだかなかんじでゆるっとお付き合いいただければ幸いです。

ここまで書き散らかして思い出しましたが、1月15日(日)銀座煉瓦画廊にて、言葉を生業とする人とそうでない人がそれぞれ言葉を持ち寄ってシンプルに詠み上げる「BOOKWORM」というリーディングイベントがあります。主宰である山崎円城さんとはたしか10年以上前にフリーペーパーで対談させてもらったのが最初……だった……ような気がする……んだけれど、その後も折々にご挨拶しつつ、イベントでご一緒するのはこれが初めてです。僕もひとつふたつ、アカペラで詠みます。入場はフリーだそうなので、どいつもこいつも至近距離にいる大事な人の首根っこ引っつかんで銀座に押し寄せるといいよ!


その後の予定は未定が隙間なく目いっぱいつめこまれて大忙しです。