2015年8月18日火曜日

独創性とは勝手に生えるスネ毛みたいなものであること

いま起きている騒動とは似て非なる話だけれど、「オリジナリティ」について考えるとき、思い出す絵が1枚あります。エドゥアール・マネによる代表作のひとつにしてセンセーショナルな名画、「草上の昼食」です。


これが名画と見做される所以についてはもちろん語れる立場にないしそんなつもりもないですが、門外漢である僕らにとってはあのパブロ・ピカソがこの作品をモチーフにした油彩を30点ちかく、デッサンにいたっては150点以上描いたという事実を引き合いに出せば、その重要性もなんとなく窺えましょう。ともあれ絵画の歴史においては絶対に欠かすことのできない1枚であることだけはたしかです。いい絵だよね……。

それほど絵画に明るくない僕らのような人々にもよく知られたこの「草上の昼食」には、源泉ともいうべき他者の作品があったと言われます。マルカントニオ・ライモンディによる銅版画「パリスの審判」がそれです。16世紀だから、「草上の昼食」からちょうど300年くらい前の作品ですね。


「あれ?どこが?」とおもわれるかもしれないので、拡大してみましょう。右下の部分です。


ワーオ!とびっくりするくらいよく似ています。というか、ほぼ同じです。


ではこの絵が端緒かというと、どうやらさらに過去へ遡れるらしい。というのも物の本にはこれが、古代ローマの石棺に彫られた川の神のレリーフを元にしているかもしれない、とあるからです。

スーザン・ウッドフォード著「絵画の見方

「まあまあ大目に見ようぜ」とか「これ以上はアウト」というモラルや線引きの話でもなければ、もちろん権利と侵害の話でもありません(どのみち上の例には当てはまらない)。そうではなくて、人の手によるものは何であれ模倣と借用から始まるし、その後も多かれ少なかれずっとついて回るものだと言いたいのです。でもどういうわけだか創作物とは「ゼロから生み出されるべき」と考える人が意外なほど多い。(←異議を唱えたいのはここです)へたをすると誰の真似でもないものこそ至上という、信仰にちかいような印象さえおぼえることがあります。

僕にとってオリジナリティとは模倣を避けることではなく、むしろ「模倣からはみ出したわずかな部分のこと」、もしくは成長すれば追々勝手に生えてくるスネ毛みたいなものです。個性とか解釈の付加をそこに含めてもいいけれど、逆に言うとその程度のことでしかありません。他の何にも似ていないとすればそれはあくまでそのわずかな部分をせっせと積み重ねた結果であり、すくなくとも全体がある日いきなり突然変異みたいにポンと現れるものではないのです。したがって誰の追随でもないことに過剰な価値を置くべきではないし、先例があったからといって「なんだそこまですごいものってわけでもなかったんだな」と受け止めたり、何から何までその人のオリジナルであると頭から鵜呑みにするのはまったくもって馬鹿げていると僕はおもいます。

さすがに二次性徴が始まる前から「もう大人です」という顔をするのはどうかとおもうけど(と騒動への皮肉をむりやりねじこんでみる)、きちんと続けてさえいればスネ毛くらい、誰でも生えてきますから。

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