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2008年6月6日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その53
気がついたらスイカ夜話ナゴヤ&オオサカまで、あと1週間です。床にこぼれた味噌汁をふいたり、区役所に行って「そこバイク止めちゃダメだよ!」と叱られたりしながらぼんやり日々をすごす僕とは正反対に、SUIKAの面々は壮絶なリハ(らしい)を毎夜のようにくりかえしながら、飽くことなき探究心を燃料に今日も未来へと進んでいるもようです。今さら走ったって追いつきゃしないのでアレですが、それでも貪欲な彼らの歩みを間近で観ることのできる幸運を、さいきんはしみじみ噛みしめています。あれ、前にもそんなこと言った気がしてきたな。
僕は、そうですね、みんなの前で声を披露するくらいしかまだ能がないのが心苦しいけれど、詩人の刻印から耳を傾けてくれた人たちに会えることをとてもたのしみにしています。と言いながら小林大吾を知ってる人なんてほとんどいなくて、きっとまた、「はじめまして」から始まるんだろうな。
この際、道ですれちがった知らない人の首根っこをつかんで連れてきてくれても全然かまいません。袖ふり合うも多生の縁です。どいつもこいつもうまいこと言いくるめてお誘い合わせの上、かろやかなステップで足をお運びくださいませ。
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テトペッテンソンさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)。佐藤雅彦+井上順という奇跡のタッグによるみんなのうたクラシックですね。
Q: 伊達めがねの存在意義とは、一体何なのでしょうか?あのフォルム、とても“ファッション”という事だけに留まっているような佇まいとはとても思えません。
僕がおもうに伊達めがねの魅力とは、変化に富んで飽きさせないカラーリングや多様なフォルムもさることながら、何より全体からそこはかとなくただよう、凛として風雅なその気品にあります。あえて語らずとも家柄がうかがえるというか、手に取るその指先から育ちの良さを感じることはありませんか?僕もコンタクトをした上で伊達めがねをかけるという本末転倒な経験があるけれど、なんというか我ながらこう、普段よりキリリとしたきもちになったものです。単なるめがねには醸し得ないあの独特の雰囲気はいったいどこからくるものなのか?
そこにはやはり、初代仙台藩主・伊達政宗の血を継ぐものとして、ぬぐうこと能わぬ矜持というものがあるのでしょう。めがねの本分がレンズによる視力の矯正である以上、レンズのない伊達めがねは「めがね」ではなく、「伊達」の名にその本分がかかるというわけです。僕らがそうした格式の重みを知らず知らずのうちに嗅ぎとっているのだとすれば、伊達めがねによって男ぶりや女ぶりが数段上がると言われるのも、当然の帰結として筋がとおります。なるほどそりゃそうか、というかんじです。シンデレラのドレスみたいなものですね。
したがって、伊達の名を継ぎ、かつその血を未来永劫絶やさないというその一点にこそ、伊達めがねの存在意義があると僕は考えます。
A: 伊達家の繁栄と存続
こうなるとめがねであるかどうかは問題でなくなるというか、まあどっちでもいいんじゃないかとおもいます。
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ちなみにテトペッテンソンさんは「1/8,000,000」を聴きながらヘッドバングしています、というびっくりするようなメッセージをくれました。日本中どこ探したってそんな人他にいないですよ!誰か別の人の別のアルバムと間違えていませんか?うれしいです。どうもありがとう。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その54 につづく!
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