2007年10月7日日曜日

美女としての栗



すっかり秋だし、前々からこれはひとつ声を大にして言っておかなければいけないとおもっていることがあるんだけれど、あのですね、あらかじめ剥いてある甘栗なんてホントに何の意味もないんだよ!

甘栗の話です。

あれは指先をまっくろにしながら爪でこつこつぱきぱきと、ときどきうまく割れないもどかしさに苛立ちつつ、コロンと完品状態で取り出すまでの長く遠い道のりとその歩みまでをふくめてようやく、「甘栗」なのです。ラップだけを取り出してヒップホップを語ることはできないのと同じだ。それはキミ、文化なのだと僕は主張するものであります。

ともかく、栗屋さんで買ってきた甘栗すべてがおいしくいただけるわけではありません。だからこそ、極上のひと粒に巡り会ったときの感動は筆舌につくしがたいものがあるのです。ここには哲学がある。教訓もある。それを「むいちゃいました(ふふふ)」の一言であっさり片づけられてしまった日には、そりゃバーのカウンターでマスターに「もうおよしなさい。飲みすぎですよ」と止められるほど酩酊しながら、えずいたり毒づいたりしたくなるっていうものです。くそったれ!

考えてもごらんなさい、目の前で寝そべる一糸まとわぬ女性に耳元で「召し上がれ」なんて甘くささやかれたところで、いやこれはこれですてきな話だけど(もぐもぐ)、でもなんていうか、そんな泡銭みたいな快楽に身を投げ出したところで、その先にいったい何があるっていうのか?もちろん僕にだって気持ちよければまあいいや、エヘヘってときがあるけれど(それはまあフツーにある)、それ以上に出会い、口説き、場合によっては土下座とかして、服を脱がすまでの苦闘がなんといっても恋における肝なのであって、その結果が吉とでようが凶とでようが、それはかくじつに経験として蓄積されていくのだし、また人はそうやって世間を知り、道理を知り、大人になってゆくのです。

栗や恋にかぎらず、ものごとと向き合うというのは、こういうことだと僕はおもう。目に見えるその奥に隠されているものを推し量りながら、ゆっくりとその距離をちぢめていくこと。小説のあらすじだけを集めた本を手に取るのと同じく、きれいに剥かれた甘栗をたんじゅんに「へー」と受け止めてしまうのは、やっぱり健全な心構えではないとおもうのです。ゆゆしき事態とまでは言わないにしても、首をかしげるくらいの思慮深さはほしい。差し出されたものを指でつまんでパクッとやるだけなら、赤ん坊とそんなに大差ないじゃないか。

考えすぎ?

みんなが考えなさすぎなんだ!

甘栗を2キロ買ってきて内職みたいにひとりもくもくと剥きつづける男の、指の黒さと哀しみを知れ!

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