2007年9月27日木曜日

銀無垢のジッポーと損する幸運


よく考えたらきのうは僕のアルバム発売にアクビで応えるクールな母親の誕生日でありました。月見て団子食ってる場合じゃなかった。

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前ぶれもなくフラリとどこかへ消えては、忘れたころにまたフラリと帰ってくる、そんなあるかなきかの微妙な絆を描いた曲(女と紙屑/a miserable day for coelacanth)が今回のアルバムには収められているのだけれど、男女に限らずじぶんの持ち物にもこういうことってよくある。

僕の場合、ハタチくらいのときに月の生活費の1/3くらいをはたいて買った銀無垢のジッポーがそれで、何度なくしてもその都度戻ってくるから、くされ縁にも似た親しみを感じていたものでした。

今はもうないです。あるときまた姿を消したので、何度もあることだったしまた戻ってくるだろうと高をくくってあんまり気にしないでいたら、結局それきり帰ってきませんでした。なくして数ヶ月後にようやくガク然とする衝撃の遅さが、抱いていた安心感の大きさを物語っていますね。トリケラトプスみたいだ。でもこういうこともやっぱり、人生ではたぶん往々にしてある。

ジッポーは数年後にまた買いました。デザインはちがうけれど、やっぱり銀無垢です。前のよりずっと気に入ったので、大事にしようと努めていたはずが、あるときケンカで怒り心頭に発して床に叩きつけたら再起不能になりました。腹を立てるだけならともかく、その上ものを投げるというのは僕にとってとても珍しいことなので、その残骸は記念にとってあります。

しかしまあこうなると何というか、よほどのことでもないかぎり、三たびジッポーを買おうという気にはなかなかならない。ですよね?くされ縁と言いながら、むしろ縁なんか初めからなかったんじゃないかという気もしてくる。

と思っていると、外苑前の道ばたでジッポーを拾ったりするから呆れる、というのがじつは今日の本題です。しかもおそるおそるジッポーの底面をみたら、「sterling」と刻まれていて、ああ、これ銀無垢じゃないか。もらっとこう。

結局のところ、こういう思い入れのない拾いものが却っていつまでも失くならずにある、というのもまた人生ではよくありそうなことで、なんだかふくざつなきもちだ。

それはそれとして、ねえ、仮に自分にはさほど重要ではない高価(あるいは希少)なものを拾ったとき、それは幸運と呼んでいいんだろうか?アニヤ・ハインドマーチのエコバッグとかね。売りとばせばいいのかもしれないけど、それはそれで冥利がわるい。それでもそれを幸運と呼ぶのなら、運をムダに使ってしまった気になるのはなんでだ?幸運なのに損するなんてへんな話じゃないか、とかそんなことをつらつら考えながら、拾ったジッポーで煙草に火をつけて一服しているのです。

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